ミニレポ第222回 錦秋湖の湖底に残された碑

所在地 岩手県西和賀町
探索日 2014.9.14
公開日 2016.8.19

大荒沢駅跡の探索後に訪れた場所


今回は、「廃線レポ57 横黒線(北上線)旧線 大荒沢駅跡には、まだ続きがあった!
…というお話し。

湯田ダムが和賀川を堰き止めて生み出した錦秋湖の湖底には、国鉄横黒線(現JR北上線)の旧線が沈んでいる。
2014年の9月14日に、10年ぶりのダム点検に伴う特別な低水位となった湖底に出現した大荒沢駅跡を探索し、そこで木製改札柵の現存を確認したのがこれまでのレポートであった。帰宅後の机上調査と合わせ、駅跡の探索は完結した。

だが、私とミリンダ細田氏による現地での湖底探索は、終わっていなかった。
次に我々が目指した場所は、大荒沢ダム跡である。


大荒沢ダムは戦前の発電用ダムで、巨大な堰堤がそのまま湖に沈んでいる。
大荒沢駅とともに湖底のシンボル的な遺構だが、残念ながらこちらは完全には浮上しておらず、堤上路こそ水面上に現れていたものの、細田氏が期待するようにそこを歩いて対岸へ行くことは出来なかった。(10年前はさらに低水位だったので、私はそれを実行している→レポ

大荒沢ダムを確認し終えた我々は、再び駅跡付近(上の地図の「現在地」の位置)へ戻った。
次の写真は、その時に湖底の上流方向、すなわち駅とその西側を撮影したものだ。




駅跡の探索は既に終わっているが、何度見ても素晴らしい眺めだ。
これを見て心を躍らせぬ“遺構好き”は、まずいないとさえ思える。
普段は湖水という不可視のヴェールに覆い隠された存在が、永い時を空けて忽然と姿を現している。
地上にあれば絶対に免れない草木の繁茂や沢水の流入などによる風化も、湖底の10年は非常に緩やかにしか進行させない。
そのことは、湖底の生命乏しい静謐の世界を想像させるに十分だ。魚類くらいはいるのだろうが、そんな息吹も今は感じられない。

おそらくまた10年後の2024年には再浮上するであろうが、その時を逃せばまた10年。人にはかなり限られた回数しか見る事が出来ぬ眺めといえる。
はっきり言ってしまえば、どんな観光名所なんかよりも見るべき貴重な存在と思うが、過大に宣伝されることも無いから、ほとんど足跡も付けられぬまま再び暗い水の底へ帰っていく。それがまた堪らなく愛おしいのである。


昭和37(1962)年に新線に切り換えられて廃止された横黒線の旧線は全部15.4kmもあり、そこにあった和賀仙人、大荒沢、陸中大石の3駅が移転もしくは廃止を余儀なくされた(廃止は大荒沢のみ)。
旧線の7割くらいが完成した湯田ダムの満水位以下にあるが、ダムの平常時の水位よりは上の区間もかなりあり、さらに渇水期ともなれば相当の区間が地上に現れる。

この写真は大荒沢駅付近から西側の横手方面を撮影したものだが、左に見えるトンネルは現在の北上線のものである。そしてそこからだいぶ下がった湖底すれすれの微妙な位置に半分くらい口を空けているのが、旧線の大荒沢ロックシェッドとなる。この大荒沢駅と次の陸中大石駅の間は、約3.5km離れていた。

そして、この大荒沢ロックシェッド辺りから先が、今回のような10年ごとのダム点検に伴う特別な低水位ではない普段の低水位時にも露出する、ぎりぎりの限界である。
現に私も平成15(2003)年8月にそのような水位を選んで探索しており、ロックシェッドより上流の廃線跡をレポートしている。
現在線と旧線のこの辺りの高低差は、30mくらいだろうか。



我々の次なる目的は、自身にとって11年ぶり、細田氏は初めて訪れるという大荒沢ロックシェッドより先の旧線跡を、
久々に探索してみようということになったのであるが、このレポートがお伝えするのは、そこではない。
いずれそのレポートも書くかも知れないが、旧線跡の再訪へ向かう途中で、我々は思いつきで“寄り道”を行った。

その“寄り道”の内容を今回のミニレポでは取り上げたい。


我々が湖底でした “寄り道” とは…
↓↓↓


………これは、関係ないです。

細田氏渾身の定番ネタ“漂着遺体“(靴が脱げかけているのが拘りらしい)は、スルーしまして……

↓↓↓


細田氏の向こうに広がる、大荒沢集落や田畑がかつて存在していた広大な湖底の平地。
そのだいぶ遠い一角に、和賀川を跨いでいた尼瀬橋の跡が見える。(参考:2004年の写真)
この橋については、以前にこのミニレポの第170回でも取り上げた事があるが、
全線が湖に沈んだことで廃止された“幻の県道”こと、大荒沢停車場線の遺構と考えている。

橋の辺りをさらにズーム!

↓↓↓

そんな尼瀬橋跡の近くに、いくつもの石碑や墓石の台座らしきものが集まっている一角を見つけた。
その場所が何であったかについての正確な情報は持っていないが、おそらくは、墓場跡だろう。

そしてこれこそが、次に私がこの湖底で行ってみたいと思った場所である。

墓場は一般に神聖な場所であり、本来は部外者に暴かれるべきではない存在だ。だが、
神社仏閣やその他の祭祀の場と同じくダムによる水没は免れ得ず、各地のダムに没してきた。
知識としてその事は知っているが、実際に水没した後の墓場を訪れたことは、今までになかった。
私は単純な興味から、その場所がどんなふうであって、私がどんな感想を抱くのかを知りたくなったのだ。
あまり美しい動機では無いと思うが、常に自分本位で探索しているという自覚だけはある。



行ってみたいとは思ったが、問題は、行けるかどうかだった。

湖岸に近い「現在地」から、湖心付近の「目的地」は、直線距離で200mくらいは離れている。
湖底の見晴らしはすこぶる良好で、視線を遮るようなものは何も無い。
一般的な感覚からすれば「障害物は何も無い」と言うのかも知れないが、実際には障害だらけである。
まずは、水が溜まっている領域。
見た目には浅く見えても、経験上、ああいう場所に近付くとマジで危ない。足が濡れるとかそういう程度の被害では済まない可能性が高いのである。だから、正面から近付く事は無理だった。
それではと、先ほどまで居た大荒沢駅跡から、県道大荒沢停車場線の跡を辿って行くことも考えたが、大荒沢駅前がやはり沼地であるため、それも難しい。

となると、残る可能性のあるルートは――




駅とは反対側の上流側に、おそらくかつて道路だったと思われる、少しだけ周囲よりも盛り上がった場所があった。

これを辿って――


このように大きく回り込んで、

“石碑群”を目指す!



2014/9/14 9:03 《現在地》

というわけで、我々は新たな目的地へ向けて、行動を開始。
まずはこの“踏切”があったと思われる地点で旧線跡を渡って、再び危険な泥濘が随所に待ち受ける湖底の大地へと舞い戻る。

ここに立って湖底を望むと、自分たちの前にだけ一筋の道のようなものが見える。
それはここにあったかつての村道が、大地という画面に焼き付いた影のような存在であり、道を必要としなくなった無人の土地に、泥沼を避けうる唯一のルートを与えてくれていた。

ここで湖底を臨む私が背にした瓦礫と草に覆われた広大な湖岸も、往時は青々とした木々が茂る森であった。
おそらくこの踏切道は、山の仕事へ向かう村の大人達や、山遊びに向かう子供達が日々通行する、そんな里と山の境界的な場所であったことだろう。



踏切上から見る、旧線の長い長い築堤。
左は横手方、右は北上方だ。

旧線跡だけが少しだけ周囲よりも高いという状況であるから、水位の極めて微妙な変動によっては、水面上に旧線跡や駅跡だけが浮上しているという極めて幻想的な風景も生じうるはずである。 (映画「千と千尋の神隠し」のワンシーンみたいな…。)
どなたか撮影はしてはいないだろうか。見たい。



踏切を渡り終え、ヌタヌタとした嫌な感触の世界が始まった。
一応ここは道の跡であり、周囲より高いのだが、それでも地面はかなりの湿り気を帯びている。
こうした泥の地面は駅跡へ行く時にも横断しているが、今度の方がさらに湖心の近くまで進むので、難度はより高い。




出来るだけ泥に嵌まらず歩くポイントとしては、地面にひび割れが多く見える場所を選ぶことだ。泥のひび割れは水分の蒸発によって生じたものなので、それが多いほど、残った水分が少ないことになる。つまり、固い可能性が高い。

…だというのに、せっかちな細田氏は目的地へ向けてショートカットしようとしたらしく、私から離れて歩き勝手に嵌まりかけていた。これにはだいぶ肝を冷やしたらしく、グロッキーな顔をしながら私の足跡へ戻って来た。相変わらずお茶目だなぁ(笑)。
(嵌まっている彼の周囲の泥に注目して欲しい。周囲よりひび割れが少ないのが分かるだろう。)



さて、だいぶ湖の中心へ近付いてきた。
間近に残存した湖面が迫っており、自分たちの立ち位置を教えてくれる。
昭和戦前に建造された大荒沢ダムが生み出した先代の錦秋湖とでも言うべき湖は、これよりも少し低いくらいが満水位であったと思われる。逆に言えば、大荒沢集落の人々が日々目にしていたのに近い水面を私は見ているのだ。
実際に昭和26(1951)年の地形図(画像)を見ると、尼瀬橋のすぐ上流側に丸く膨らんだ湖面が描かれているが、目の前の湖面がその形をしている。
もちろん、さらに昔にはダムなどない普通の和賀川の渓谷があった。

また、ここまで湖心に近付いてくると、湖畔に近いところを通っている旧線の大荒沢ロックシェッドが、その横っ腹を見せるようになった。
前後の路盤は砂利に埋もれてただの斜面になってしまっているが、ロックシェッドだけはいつまでも形を変えずに残っている。

この巨大な遺構は、対岸の国道からもよく見える旧線のシンボル的な存在であるが、満水位では完全に沈水し(湖岸の森と草地の境が満水位)、低水位時には上半分が露出する(湖岸の草地と瓦礫地の境が低水位)。それらと比較して今回の特別水位がどれだけ低いのかが、よく分かると思う。



なんと驚いたことに、更に進むと突如、湖から一筋の足跡が現れた。
良く見ると行きと帰りの分の足跡が重なっているようだが、我々に先んじてこの湖底に足を踏み入れた人物は、船を使って乗り付けたという事が判明した。まさか、河童が陸から上がってきたワケではあるまい。

だがそれも納得である。
一見すると平坦に見える大荒沢周辺の湖底だが、よくよく観察すると微妙な高低があり、今いるかつての和賀川沿いに微妙な高地がある。
湖岸とこの微高地と間は微低地で、そこを旧線の築堤が横断しているのである。
故に我々がここへ来る際にはその低地を横断する必要があり、水溜まりや泥濘に苦しめられたのだ。

今回の特別低水位期間内では今日より前に今日より水位が低い日はなかったはずであり、この微高地も最初は島のようになっていたはずだ。
我々に先んじて微高地に辿り着くには、湖面を横断して上陸するしかなかったのだろう。



湖面から出現した足跡という、未知なる同伴者に勇気を貰った私だが、一方で既知の同伴者である細田氏は、ここに至る前に敢えなくリタイアしていた。
泥に体が沈み込む感覚を何度も味わわされ、転倒もし靴も脱がされ、もはや精根尽き果てたようである。

もっとも、常に私よりも一歩前で踏みとどまってくれる彼の臆病さが、同行する私の命を救うことも経験済みだ。
尊重したい。

いよいよ目指す場所(墓場跡?)が近付いてきた。
ポツポツと色々なものが建っているのが見える。
そして、例の足跡もそこをまっすぐ目指していた。同業者か、それとも移転した住人の関係者か。

さあ到着した! 何がある?



9:13 《現在地》

湖岸を離れて約10分、岸より200mほど湖心に離れた「目的地」に辿り着いた。
ここは現在の地形図では完全に水色の中も中、湖の中央だ。
我々が出発した右岸も和賀川の対岸である左岸も、ここからだと同じかむしろ対岸の方が近くに見えた。
今まで色々な湖底探索をしたが、これほど満水位から見て深い位置まで到達したのは初めてだと思う。

頬にあたる風が思いのほか強く、そして涼しい。通常ならばこうした谷底の土地ではあり得ないほどに周囲に遮るもの(樹木など)が少ないせいだろうか。
まさに渺茫とか茫漠といった言葉を連想させる、無人の荒野を行くが如しの湖底世界は、私を常に昂ぶらせた。

そうして辿り着いた「目的地」には、遠目に見えていたものたちが、確かに存在していた。すなわち、立ったままであるいくつかの石碑や、シルエットでは石碑との区別が付きづらかった木の幹たち。 一角の中央には特に太い“ご神木”らしきものがあるが、全ての木は地上から1mほどのところで伐採されていた。この状況は大荒沢駅前で見たサクラ(らしき木)と同様である。



この目的地一角に場所に立ち入って最初に目についたのが、文字が刻まれた写真の石たちだった。
この二つだけでなく、もっと沢山あるようだが、ひっくり返っているものや、半ば泥に埋もれているものもあるから、数は把握出来ない。
これらは遠目にも見えていた「立ったまま」の碑ではなく、近付いて初めて見つけたものだ。
そのうちの一つに刻まれていた文字を書き出してみよう。

嘉永元戌六月廿六日
 一顕妙圓信女
 妙紫禅定尼
天保十三寅六月廿三日
            ●吉(人名)

見ての通り墓石である。しかも江戸時代後期のものだ。この地に古くから人の暮らしがあったことの証明だ。

特に信心深い訳では無い私であるが、湖底にいくつもの墓石が沈んでいたという事実を目の当たりにして、若干だが血の気が引いた。
が、改めて冷静になってみれば、ここが湖だから特別だと考えるのはおかしいのだろう。日本中の山中に参る人の途絶えた墓地などいくらでもあるからだ。
おそらくこの場合は集落の移転にあわせて合同慰霊祭などが行われて、墓所はどこかへと移転したのだろう。
膨大な墓石そのものを全て移動させるのは困難であり、まして墓石は故人そのものでもないのである。
だからこれも見馴れぬ景色では確かにあるが、単に見る機会が少なすぎると言うだけで、きっと日本中の湖底にこうした場所がある。



この場所は単なる墓場跡ではないのかもしれない。墓石ではない大きめの石碑の台石と思われるものも、いくつか存在していた。
台石だけを湖底に残し、石碑自体はどこかへと移転したのであろう。
何の碑であったかも分かると良いのだが、残念ながら手掛かりが無い。大荒沢集落の住民がまとまって特定の地区に移転したという記録も無いので、捜索は難しそうだ。

ところでこの台石だが、私にとって思いがけない事実がここにはあった。
皆さまも、知ったらたぶん驚かれると思う。
そして、こうした湖底ではない皆さまの周りに普通に存在する台石についても、見る目が変わるかもしれない。
子供時代には、よくよくこうした台石に乗っかって遊んだりもしていたと思うが、その台石が実は――

古い墓石の集まりだったという事実。

台石としての完全を保っていれば決して見えることのない部分に刻まれていた、すぐ近くに散乱している墓石と同じように刻まれた円相や戒名の文字。

このように露出していた台石のうちの複数に、墓石の転用が確認された。
昔ある場所で古い墓石を階段にしているのを見た覚えがあるが、こうした転用が現代も行われているかはわからない。
だが、今ほど石のような重量物の輸送手段に恵まれていなかった時代には、墓石を整理し別の用途に用いる事が、普通に行われていたのかもしれない。
考えてもみれば、確かに現代の日本に残っている墓石の総数は、庶民まで墓石を使って弔うことを始めた江戸時代以降に亡くなったであろう人の総数に較べて、圧倒的に少ないとは思う。
単純に整理されたり、災害で消失したり、あるいは山中に忘れ去られてしまったばかりでなく、このような形で今も我々の近くで“活用”されているものが、かなりの数あるのかも知れない。

このことは湖底云々とは無関係に、私がこの地で得た最大の気づきであった。
このような転用について調査された資料をご存知の方がいたら、教えていただきたい。



墓石を撮影して回ったり、その画像を公開するのは、あまり行儀の良い行いとは自分でも思わないが、既にこの土地は墓場ではなく、あくまでも湖底のある一角でしかないことをご承知いただきたい。

そして結論から言うと、この場所にいくつも残されていた石碑は、確認出来た全てが墓石であった。
台石に埋もれていたものを除けば、その数は10程度である。
台石だけ残っている碑がいくつかあったが、その上に乗っていたのが墓石なのか、それ以外の石碑なのかも手掛かりが無く不明。
湖底に半世紀近くあったことによる攪乱がどの程度であり、湖底に沈んだ初日からどのくらい状況が変化しているのかも不明である。

また、墓石に刻まれた年号は江戸時代後期のものから大正時代のものが多く、最も新しいものでも昭和2(1927)年であった。
このことが、それよりも新しい墓石が移転したせいなのか、単純にこの地に墓石が安置されたのがこの頃までであったのかも、分からない。



できるだけ多くの残存物が1枚の写真に収まるように撮影しようとすると、遠目にも目立っていた巨大な切り株がいつも中央に写った。
つまりこの巨木を中心とした、円形か四角形の領域にこれらの多くの墓石が集まっていた。
切り株の幹周りは2m以上あると思える巨木で、大荒沢集落の御神木とされるような存在であったかも知れない。見る人が見れば樹種を特定出来るだろうが、とりあえず広葉樹だろうということくらいしか私には分からない。

目を瞑れば、一面の水田に囲まれた小高い一角にある、巨木の緑陰に護られた墓地の風景が、浮かび上がるようである。




残されていた碑の中では、この碑が最も大きかったし、台石とセットで完全な形で残っていた。
そして、湖面から現れた先駆者の足跡もここを限りに引き返していた。

大正四年六月二十八日 南妙法蓮華経 妙禅院安祥日喜善男子

…などの文字が刻まれていた。年号は様々だが、全体的に六月の日付が刻まれたものばかりが目立つのは、どういうことなのだろう。



大正五年六月八日 自在良光信士 陸中産 高橋熊吉 二十一才

この地が水没する事が決まった後、故人の縁者が墓石を外に持ち出したのかも知れない。
明らかに台座しか見当たらない墓石が多く見られることから、そのように想像する。
残っている墓石が大正以前の古いものが多いことも、その考えを補強するように思う。
そうであるなら、ここにある墓石は、水没当時に縁者が既に不明であったか、あるいは持ち出さない決断をしたか。

もしも私が故人なら、残留と移転のどちらを選んで欲しいだろうか…。
湖心近くの湖底は本当に静かな環境だ。永遠の眠りの地としては、これ以上相応しい場所はないかもしれない。ただし孤独だ。
石に願いなどあろうはずもないと分かってはいても色々と考えずにはいられない、湖底の墓場。



墓場跡の東の外れに立って東を臨むと、大荒沢駅と大荒沢ダムという当地の二大遺構を一望に収めることができた。
そればかりか、駅を起点に大荒沢集落を貫いて伸びてきていた県道大荒沢停車場線の道形も、くっきりと泥の大地に見えていた。
駅前で初めて足を踏み入れた“幻の県道”との、少しだけ遠い再会である。
こうしてわずかではあるが途中の区間も痕跡が残っていることを確認出来たのは、収穫だった。

写真からも分かるとおり、墓場跡の一角は周囲よりも少しだけい。対して県道がある辺りは低く、そのため足を踏み入れるにはまだ危険な水気を帯びていた。
細田氏とも離れている状況で先駆者の足跡もない。これ以上単独で先へ進むことは危険と判断し、引き返す事にした。




墓場跡の北側には県道の尼瀬橋跡である吊橋アンカーロックがあり、距離は50mほどとしか離れていないが、こちらの方面も泥がまだ軟らかく、立ち入りは自重した。

橋の対岸はすぐに県道の終点である旧国道の合流地点だったはずだが、旧国道は湖岸の斜面に完全に埋没しており、目視では全く確認出来ない。
上方の緑の中を横切っているのは、現在の国道である。



最後に石碑群があった一角の全景写真である。東の端から西向きに撮影している。

残っているのは、墓石と台石と切り株だけ。

この地の正体は、未だ明らかでない。






「湯田町史」より転載

道の駅錦秋湖に展示されていた古写真の転載。【元画像】

上の2枚の写真は、いずれも水没前に撮影された大荒沢の空撮写真である。
右の写真では、石碑群の周辺が水田(写真では雪原)の中にポツンとある木の生えた一角として区別ができるが、「何があったか」は分からない。
とりあえず建物は無かったようだが…。やはりここは野辺の墓地だったろうか。小学校の真っ正面というのも、少し違和感はあるが。


地形図でも、「荒」の文字の下になってしまっていて、この場所に何があったのかは不明であるが、逆に考えれば特に地図記号で表すべきようなものが無かったからこそ、文字がこの位置に配置されたとも考えられる。小さな墓地などはありふれすぎていて、描かれなかったとしてもなんら不思議では無い。

こうして駅やダムといった大規模な施設が辛うじて痕跡を留めるのみで、小学校さえ跡形もなくなった湖底にあって、墓石などの碑(いしぶみ)は、こんなに小さくとも喪われずに残っていた。我々が何が何でも後世に伝え残したいことがあるとしたら、どんなハイテクよりも、碑が最強の手段なのではないかと思える。

2016/8/21追記

さる筋からの情報により、この場所が墓地であったことが確認出来た。大荒沢集落の昭和30年代の絵図が実在しており、それには尼瀬橋袂のこの場所に「墓地」と記されている。なお、さらに川寄り(橋寄り)の地点には火葬場もあったようだ。



完結。


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