このあとの現地探索は、すぐさま自転車の回収へ来た道を戻り、それから現道の余別トンネルで草内へ進み、念仏トンネルの探索へ移行した。
短い現地探索を終えて残った大きな謎は、旧旧トンネルと旧旧旧トンネルの竣工年である。
右図の赤い部分が、謎として残った。
そのため、これらの解明を机上調査の主目標とした。
なお、旧トンネルの竣工年についても現地で知る手掛かりはなかったのだが、ごく最近まで現役だっただけに複数の資料からすぐに判明した。
具体的には、『平成16年度道路施設現況調査』や『北海道の道路トンネル第1集』などである。
これらの資料から判明した旧トンネルの主なスペックは次の通りだ。
トンネル名 | 路線名 | 竣工年 | 全長 | 全幅 | 高さ | 覆工 | 舗装 |
余別トンネル | 国道229号 | 昭和48(1973)年 | 158m | 7.5m | 4.5m | あり | あり |
そしてこのトンネルを置き換えて現在使われている余別トンネルのスペックは、次の通り。
トンネル名 | 路線名 | 竣工年 | 全長 | 全幅 | 高さ | 覆工 | 舗装 |
余別トンネル | 国道229号 | 平成23(2011)年 | 360m | 9.75m | 4.7m | あり | あり |
銘板の竣工年は平成23(2011)年になっているが、前後の取り付け道路と共に供用を開始されたのは、翌年の平成24年3月1日である。同日の『北海道新聞』に開通を伝える記事が掲載されており、そこに付け替えの理由も書かれていた。
またこの前の年の6月15日の記事「新トンネル楽しみだね*来年度開通の余別*児童が見学*」には、「現在のトンネルはカーブがきつく、衝突事故の発生が懸念されていることから、山側に並行して積丹防災事業の新トンネルを造り、「安全確保に努めることにした」(石川博之小樽道路事務所長)という。当初予算で9億8千万円の工費をつぎ込んでいる。
」とあった。
『北海道の道路トンネル 第1集』より
ここに「積丹防災事業」と出ているが、これは積丹半島を巡る国道229号のうち23.5kmの区間を改良する国土交通省の事業で、平成元年から始まっていた。
平成22年度末の進捗率は97%であり、余別トンネルはこのうち余別工区に属していた。
時期的に余別トンネルは事業全体の最後尾に位置していたと思われる。
この積丹防災事業は、事業期間中の平成8(1996)年2月10日に突如発生した豊浜トンネル岩盤崩落事故をうけて加速した経緯があり、昭和以前に作られた多くのトンネルが平成20年代までに置き換えられる結果となった。事実、事故の翌年に行われた緊急点検でも、旧余別トンネルは同じ年代に作られた近隣のトンネルと共に「対策が必要」と認定された経緯があり、付け替えに至ったものと思われる。
右の画像は『北海道の道路トンネル第1集』に掲載されていた、現役当時の旧トンネル(西口)の様子だ。
現トンネルと違い歩道がないが、廃止時点においても特別老朽化が目立つトンネルではなかったと思う。
廃止が新しいために、これを執筆している時点のグーグルストリートビューでは、現在封鎖されている東口までの仮想旅行が可能である。(ただ、トンネル内には入れないし、西口にも行けない)。平成20(2008)年の撮影となっていたが、廃止前なのになぜか坑門の銘板や化粧タイルが剥がされている。その理由は不明だ。
次は懸案となっていた旧旧トンネルの竣工年についてだ。
オブローダー御用達の『道路トンネル大鑑』巻末「トンネルリスト」には、「余別」の名を持つトンネルが2本記載されている。
このトンネルリストは、昭和42(1967)年3月31日(=昭和41年度末)時点に、全国の一般国道および都道府県道に供用中だったトンネルを網羅したもので、全体的な信憑性はかなり高い。
トンネル名 | 路線名 | 竣工年 | 全長 | 車道幅員 | 限界高 | 覆工 | 舗装 |
余別2号トンネル | 一般道道 神恵内入舸古平線 | 大正12(1923)年 | 65m | 2.3m | 2.4m | 一部あり | なし |
余別1号トンネル | 同上 | 大正12(1923)年 | 14m | 2.6m | 3.0m | なし | なし |
説明を始めよう。
まず、余別を名に冠する2本のトンネルとも、「一般道道神恵内入舸古平線」に属していることになっている。これは現存しない路線だが、その位置は右の広域地図から推測できる。
路線名に含まれる神恵内(かもえない)、入舸(いりか)、古平(ふるびら)の地名を繋ぐ線を考えて欲しい。これは明らかに、現在の国道229号の前身にあたる経路である。
国道229号が指定されたのは昭和28(1953)年だが、その当時は現在のように積丹半島を海沿いに一周するルートではなく、神恵内から内陸に入り当丸(とーまる)峠を越えて古平に出るようになっていた。当時まだ川白から沼前の間には道路自体が存在しなかった。
道道神恵内入舸古平線は、この車道未開通区間を経て、積丹岬の先端にほど近い入舸に至る道道として、昭和32(1957)年に北海道が認定した路線である。
昭和51年にこの路線は主要道道に昇格し、道道古平神恵内線となった。ほぼ同時に北海道開発局が直轄で整備する開発道路に指定され、戦前から営々と続けられてきた海岸未開通部分の整備に拍車が掛った。そして昭和57年に未開通部分を含めて国道229号へ昇格している(当丸峠は道道に降格)。実際に川白と沼前の間が開通したのは平成8(1996)年11月1日のことで、この日ようやく国道229号は全線開通となったのである。
したがって、昭和41年度末現在の余別トンネルは、道道神恵内入舸古平線に属していた。これはすぐに理解された。
次に謎となったのは、余別2号と余別1号という2本のトンネルが記載されているのに、ワリシリ岬には1本しかトンネルがなかったことだ。
私が現場で見た旧旧トンネルは明らかに長さが70m程度あるはずなので、この2本のなかでは余別2号トンネルが該当すると思われたが、1号トンネルはどこにいったのか?
結論を述べると、「トンネンルリスト」に記載されている余別1号トンネルは、右図の位置にあったが、現存しない。
ワリシリ岬にあった2号トンネルからは1.2kmほど離れた余別集落の東側で、昭和40年撮影の航空写真にはトンネルが写っているが、51年の写真では道路の拡幅と共にオープンカットされていた。
左の写真はその跡地の様子だ。写真奥に見える半島がワリシリ岬である。
全長14mの余別1号トンネルが昭和40年代までここにあったが、残念ながら跡形もない。そして現役当時の写真は未発見だ。
というわけで、消去法的に、昭和41年度末のワリシリ岬にあったのは全長65mの余別2号トンネルと判断された。
が、ここで大きな疑問が生じてくるのである。
もう一度、先ほども掲載した「トンネルリスト」のデータを見て欲しい。
トンネル名 | 路線名 | 竣工年 | 全長 | 車道幅員 | 限界高 | 覆工 | 舗装 |
余別2号トンネル | 一般道道 神恵内入舸古平線 | 大正12(1923)年 | 65m | 2.3m | 2.4m | 一部あり | なし |
幅員と高さの数字が、実際のトンネルよりも明らかに小さいと思わないか?
塞がれていて内部を見ることが出来ないが、坑門の断面サイズは、幅4m、高さ3.5mくらいあるように見えた。
長さ65mという数字はおそらく合っているため、「誤記だ」と決めつけるには弱いが…、正直、違和感を持った。
それに、旧旧トンネルがこの通りに大正12年の完成だとすると、それより古いはずの旧旧旧隧道は、いつからあるんだ? 明治隧道なのか?!
そして、ここで感じた小さな違和感を裏付ける情報が、他に発見された。
それは、旧トンネルの諸元を知るために利用した、『平成16年度道路施設現況調査』である。
この資料、その名の通り平成16(2004)年4月1日現在のデータで、全国の市町村道、都道府県道、一般国道および高速自動車国道――すなわち全ての“道路法上の道路”で供用中のトンネルのリストである。
したがって、供用廃止の手続きがされていない限り、事実上は廃道状態にあるトンネルでも記載されている。
この資料に、前述した旧トンネルと異なる“もう1本の余別トンネル”が、記載されていたのである。
トンネル名 | 路線名 | 竣工年 | 全長 | 全幅 | 高さ | 覆工 | 舗装 |
余別隧道 | 積丹町道 | 昭和20(1945)年 | 65m | 4.0m | 3.5m | なし | なし |
いかがだろう。
ここに記載されている“余別隧道”(正確には半角カタカナで「ヨベツズイドウ」と記載)は、トンネルリストと同じ65mという長さと、現地の遺構と同じ幅4m、高さ3.5mの断面サイズを持つ、まるで私の推理を正しからしめるために用意されたような、あまりにも上出来なデータを所持している。
本当にピタリと来すぎて、むしろ疑いたくなるほどだ(笑)。
そしてこの“余別隧道”は、昭和20(1945)年竣工という、これまでは出てこなかった新しいデータを纏っていた。
だが、この竣工年も、2つの意味から“上出来”なのである。
1つは外見の印象との一致だ。現存する旧旧トンネル坑門の外見から受ける印象は、いかにも昭和20年頃の建設っぽい。逆に、大正12年の隧道としては立派すぎる。
もう1つは、歴史的経緯との符号だ。
このトンネルを越えた先にある神威岬には、大戦中に海軍の監視施設があった記録や遺構がある。
この軍事施設の建設や運用のためにどのような周辺整備が行われたかについては、残念ながら調査が及んでいないが、陸上からの唯一のアクセスルートであった余別隧道が、この時期に改良されたというのは、とても納得がいく。
さて、ここで一度目線を変えて、歴代の地形図を見てみよう。
@ 地理院地図(現在) | |
---|---|
A 昭和51(1976)年 | |
B 昭和32(1957)年 | |
C 大正6(1917)年 |
めっちゃ素直に、4枚の地形図が、4世代の道を描き出してくれた! 感動した!
ご覧の通り、各世代が別ルートでワリシリ岬を攻略している。
最も新しい地理院地図は現在の余別トンネルで、昭和51(1976)年版は旧トンネルで、昭和32(1957)年版に描かれているのは、明らかに旧旧トンネル! そして、最後の大正6(1917)年版に隧道は書かれていないが、ルートは明らかに旧旧旧道そのものだ。そこに隧道が描かれていないのは、単純に旧旧旧隧道が短すぎたからか、まだなかったからなのか。その判断をこの縮尺で行うのは無理だ。
いやぁ、こんなに綺麗に歴代地形図が仕事してくれると、本当に気持ちが良いね。 完璧だ!!
あんまり気持ちよかったから、歴代の航空写真でも同じことを再現してみた。
(こういうことをしているからなかなか更新頻度が上がらない)
@ 平成28(2016)年 | |
---|---|
A 昭和51(1976)年 | |
B 昭和22(1947)年 |
ふっふふふふ。
航空写真でも、道の変遷がとても鮮明に表現されている。
旧旧旧道が現役だった時代の写真は存在しないが、旧旧道以降は各世代のものがある。
注目は、昭和22(1947)年の写真だろう。
ここにも旧旧トンネルがはっきり描かれているために、同トンネルがこれ以前の整備であることがよく分かる。
また、全体的な道路の幅も、昭和51年版以降は一気に広くなっており、昭和22年版だけがとても狭い。
当時は袋小路だった積丹半島の末端近くに位置していた当地の貧弱な交通事情が窺えるようである。
旧旧トンネルの小さな断面サイズも分相応のものだった。
それと、本題からは少し外れるが、余別漁港の成長ぶりも興味深い。
平成初期に岬の先端から伸びる大掛かりな突堤が整備されており、これに合わせて旧旧旧道の一部が再整備されたと考えられる。
これについては現地探索で考察したとおりである。
旧旧トンネルは、正式には余別隧道といい、昭和20(1945)年に建設された。
これがここまでの調査で私が得た結論である。
そして最後に残るのが旧旧旧トンネルだ。
このトンネルのデータについては次のように推測している。
『道路トンネル大鑑』の「トンネルリスト」に記載されたデータは、昭和41年度末に実際に利用されていて収録すべきだった旧旧トンネルと、既に廃止されていた旧旧旧トンネルが、混ざっているのではないか。
トンネル名 | 路線名 | 竣工年 | 全長 | 車道幅員 | 限界高 | 覆工 | 舗装 |
余別2号トンネル | 一般道道 神恵内入舸古平線 | 大正12(1923)年 | 65m | 2.3m | 2.4m | 一部あり | なし |
トンネル名 | 路線名 | 竣工年 | 全長 | 車道幅員 | 限界高 | 覆工 | 舗装 |
余別2号トンネル | 昭和20年に廃止済 | 大正12(1923)年 | 10m程度 | 2.3m | 2.4m | なし | なし |
『道路トンネル大鑑』は確かに信頼の置ける資料だが、稀に明らかに誤りと分かる表記もある。
しかし、今回のが誤記だとしたらだいぶややこしい。
複数のトンネルのデータが混ざって収録されている可能性が高いのだ。
それでも記載されているデータには根拠があると思う。
たとえば、トンネル名の「余別2号」というのは、旧旧旧トンネルの正しい名称だったと思う。なぜなら、「余別1号」が確かに存在した以上、同年代に2号がなければ不自然だ。
同じように、大正12年という竣工年や、幅や高さといった断面のサイズについても、旧旧旧トンネルの正しいデータが記載されていると思う。
さて、今回このように少しややこしく歯切れの悪い机上調査結果を述べることになったのは、旧旧トンネルや旧旧旧トンネルの整備に関して解説した文献が他に見つからなかったせいである。
『北海道道路史』や『積丹町史』などを紐解いてみたが、ワリシリ岬の道路整備に関する記述は、全くといって良いほど見られなかった。
4世代もの道路整備が行われた記念地として、特筆されていても良さそうだが、ワリシリ岬は周辺と比較して難しい障害物ではなく、もっと遙かに苦しめられた障害物が沢山あったためだと思う。
しかし、ワリシリ岬について個別の言及はないものの、積丹半島全体の道路整備史については、平成元年に北海道開発局小樽開発建設部が発行した『後志の国道』という大著に、かなりのページ数を割いて述べられていた。
そしてそこには次のような参考にすべき記述があった。
- (大正14年版の旧『北海道道路誌』の記述に触れて――)
明治時代の初頭、岩内〜泊〜神恵内〜神威岬〜積丹岬の現在の国道229号には、その原形としての山道の記載すら略されているほど、道路の規模を持っていなかったことを暗示している。しかし、現実には、そこに多くの集落が存在していた事実から道は存在していた―― - (大正時代の道路整備に触れて――)
神威岬の地、余別村(現・積丹町)に隧道が開削された。この隧道は、その後「念仏トンネル」と呼ばれるようになったが、その由来には諸説がある。その南に位置する現・積丹町沼前から現・神恵内村川白間は嶮崖が海にせまり、海岸道開削を阻んでおり、隧道開削等は、さらに次の時代を待たなければならなかった。しかし、大正期はこの区間を除き、現・国道229号は陸路の交通を可能にしたと言えよう。
右図は積丹半島の全体図だが、この半島の海岸沿いには多くの漁村が点在している。
平成時代に入るまで一周道路はできなかったが、川白〜沼前以外については、大正時代までに最初の整備が行われていたらしい。
この事実からワリシリ岬は目を背けることが出来ない。
ワリシリ岬における最初の車道であっただろう旧旧旧トンネルもまた、大正時代に誕生したと考えるのが妥当だろう。
では、大正時代のいつかなのかという話になるが、これはやはり、「トンネルリスト」という根拠を持つ大正12(1923)年開通説が濃い。
また、『北海道道路史』にも道内のトンネルリストが掲載されているが、ここでも余別2号および1号隧道は大正12年開通とされている。
なお、旧旧旧道は旧道路法時代の存在だが、当時の北海道には、内地の県道の代わりとなる、地方費道と準地方費道という道路の種別が置かれていた(「北海道道路令」による)。
大正9(1920)年に北海道は準地方費道入舸岩内線を認定しており、開通当時の旧旧旧トンネルは、この路線に属していたはずだ。
その後、昭和27年の新しい道路法の公布に合わせて、当路線は一般道道となったが、路線名は変らなかった。そして昭和32年に改めて、前述した一般道道神恵内入舸古平線に認定されている。
以上のことから、旧旧旧トンネルこと余別2号隧道は、大正12(1923)年竣功と判断した。
余談だが、上記の通りの竣工年であれば、大正7(1918)年に整備された念仏トンネルの先進性は一層際立つ。
なにせ、村の中心集落である余別と小樽方面を結ぶ余別1号トンネルさえ開通していないのに、灯台守とその家族の安全を願って、人が歩くためだけのトンネルを神威岬の近くに掘ったことになるのだ。
それから数年後、ようやく村の生活道路にもトンネルが掘られて荷車が利用できるようになった。そういう順序となる。
(↑)最後に、現地探索と机上調査の成果を、1枚の地図にまとめてみた。
現地探索は、探索すべき道路が4世代もあるのに、とてもスムースに終了した。
一方で、机上調査では少しややこしいトラップに苦しめられた。でもこれで一応解決かな。