ミニレポ第259回 国道229号余別トンネル旧道 後編

所在地 北海道積丹町
探索日 2018.04.23
公開日 2021.11.04

どんどん収束していく、旧旧旧、旧旧、旧、現道。


2018/4/23 15:52 《現在地》

ワリシリ岬の突端は広い平磯になっていて、遠い波打ち際では一人の釣り人が大竿を振っていた。
常に波に洗われているわけではない陸に近い部分は、大量の岩礫が積み重なった“賽の河原”のような地形になっていて、かつて旧旧旧道がそこにあったのだと思うが、大波に表土ごと流されたらしく全く形を失っていた。
ここへ来る途中に道の跡を見ていなければ、ここに道があったとは思わないだろう。

(写真中央に見える建物は、草内にある食堂「うしお」だ)




岬を回り込むと、その西側の海岸に視界が開けた。
奥に見える長い護岸は現国道のものであり、そこまでは250mほどしか離れていない。
この250mというのがワリシリ岬が突き出した長さである。
そして、この250mの間には、前半で見送った旧旧道および旧道との再会が待っているはずだ。
どんな風に現れるのか、今からとても楽しみである。

チェンジ後の画像は、20mほど進んだところから振り返った岬の先端部分。
旧旧旧道はここを回り込んでいたはずだが、波に洗われたようで石垣の痕跡さえなかった。しかし逆に、私が立っている場所を境として、ここから先には――




すごい勢いで集まってきている、旧旧道に旧道、そして現道が!!!

こんなに慌ただしく4世代の道が集まってくる風景は、初めて見るぞ(笑)。とても楽しい。

しかし、一つだけ予想外だったのは、足元の旧旧旧道に立派なコンクリートの護岸擁壁が現れたことだ。
岬を回り込む前に見たのは【空積みの石垣】だったので、なんか違和感がある。
同じ時代の建造物じゃないような気が……。

とはいえ、この擁壁の違和感にさえ目を瞑れば、あとは本当に用意周到で調和に満ちた、4世代の道の集まる風景だった。
トンネルも、現道と旧道のものは既に見えている。最も近くにある旧旧道のトンネルだけが、岩の陰でまだ見えない。



15:55 《現在地》

まずは、旧旧旧道と旧旧道の合流地点だが、ここには2枚の看板があった。

1枚は、さほど古くなさそうな「立入禁止」の看板なのだが、他の場所で見るものよりも少し低姿勢な「お願い」するような表現になっていた。柵もないし。
元の道路管理者である北海道開発局小樽開発建設部だけでなく、余市営林署も名を連ねていることと関係があるのだろうか。ちょっと分からない。
もう1枚の看板は倒れていたが、こちらはよく旧道の入口で見る「密漁禁止」に関するものだった。




これは旧旧トンネルの西口
上の写真の立ち位置から左を向くと、見ることが出来る。
形状は先に見た東口と全く同じで、塞がれ方も同様。ベニヤ板によって完全に塞がれていた。

残念ながら、このトンネルの内部へ入る術は現在のところない。
しかし、GPS測定によって両坑口間の直線距離を測ると、おおよそ70mであった。
塞がれた旧旧トンネルの長さは、この数字に近いものであったろう。

印象的なのは、坑口の大きさに比べて圧倒的に広い坑口前広場の存在だ。
こういう特徴を持つトンネルは、内部ですれ違いが出来ない小断面で、かつ出入口の見通しが悪い場合が多いが、本トンネルも同様だ。広場は車の待避所であったと思われる。



これは旧旧旧道と旧旧道の分岐地点を振り返って撮影したものだが、先ほどの東口ではよく分からなかった両者の分岐が、この西口ではとても鮮明だ。

……というか、鮮明すぎて、やっぱりちょっと違和感がある。
本来なら、旧旧道よりも古いはずの旧旧旧道の護岸擁壁が、そうは見えないのである。
造りが違っているが、そのことは自体は問題でないし、どちらが古いかを造りの違いから論じることも難しい。

だが……




擁壁の接合部形状が、明らかに旧旧旧道の後付けを物語っていた。
しかも、旧旧旧道の擁壁の天面に埋め込まれた金属鋲に、「開発局1993」という表示を見つけた。このことから、現存する旧旧旧道の擁壁は平成5(1993)年に建造された可能性が高まった。

旧旧旧道の廃止時期は間違いなく昭和以前であるはずだが、護岸擁壁が平成に建造されたとしたら、なぜだろう。

おそらく、先ほど見た余別漁港の【大突堤】を建造する際に、現場のワリシリ岬へ通じるこの旧旧旧道が再利用されたのだと思う。旧旧旧トンネルがある岬の東側区間ではなく、この西側区間だけが。


さあ、もうここは旧旧道。

しかしその進路は、積み上げられた土砂の山で狭められている。
そう昔からあるものには見えないので、現トンネル工事の残土かもしれない。
ちなみに路面は舗装されておらず、廃止後にわざわざ剥がしたのでなければ、旧旧道は未舗装だったことになる。

旧旧旧道と旧旧道は、それぞれいつの時代の道なのか。
現地探索中、私が一番知りたいと思ったことだが、現地で解明するには手掛かりが少なすぎた。特に旧旧道は物理的な意味で短すぎ、ほんと手掛かりらしいものがなかった。




上の写真の位置から左を見ると、早くも次の世代の“コア”がお出ましである。
旧トンネルの雄姿だ。
こいつは平成の後半まで現役だっただけに、造りは現代的で、サイズも旧旧や旧旧旧トンネルとは段違いでる。

路上に盛られた残土の山を踏み越えて、いざ面前へ! これはせっかちじゃないよ。




15:56 《現在地》

旧余別トンネル西口。

思わず、展開の早さに笑みがこぼれた。
こんなに簡単に3世代の旧道探索が済むのなら、オブローダーは本当にローリスクでハイリターンな遊びなんだがな。
たまにはこんなに楽をさせてくれても良いと思う。
旧と旧旧トンネルが塞がれていることも、残念ではあるが、行動を早送りするには便利な特徴だった。



ここは旧旧道と旧道の合流地点で、すぐ先には現道との合流地点。

もう止まらない。
加速度的に頻度を増して、次の世代の道が私の進路を更新していく。次から次へ道の世代が書き換えられていく。
それはさながら、産業革命以降の文明社会が見せた加速度的発展の縮図のようだ。
人は急速に欲望を実現する力を身につけ、代わりに我慢は下手になった。

旧旧道と同様に、旧道の路上も一部が残土留置場と化していて、残念ながら合流部分の路面は確認出来ない。
それでも、護岸の擁壁がここで大きく造りが変って、道の世代交代を現わしていた。

そしていま、私は振り返って見ることが、いつになく楽しみである。

いくぞ…




これこれ! これが楽しみだった!

見事な3世代の共演風景。

各世代とも全く奇をてらわないシンプルなルートで、それぞれの世代に相応しい造りだと思う。

それが何代も、何代も、代替わりしてきた。そのこと自体は平凡な出来事だったが、

こうして一望のもとに並んだときの楽しさは、きっと想定されていなかった。

楽しい。




とても楽しい!

ここから見る4世代の道の配列は、芸術の域に達している。

各トンネルの遠近感と実サイズの差が奇跡的に複合して、とてもバランス良く並んで見える。

そしてそれが、道路の進歩してきた歴史に重なる。

これは「道路の改良」という現象を目で見て知るのには最高の教材だ。

しかも、新たな役目を貰えなかった旧道は廃止されるという、道路界非情のリアリティも完備していた。


わずか15分でワリシリ岬の3世代旧道探索、完了!



ワナに苦しめられた 〜机上調査編〜


このあとの現地探索は、すぐさま自転車の回収へ来た道を戻り、それから現道の余別トンネルで草内へ進み、念仏トンネルの探索へ移行した。

短い現地探索を終えて残った大きな謎は、旧旧トンネルと旧旧旧トンネルの竣工年である。
右図の赤い部分が、謎として残った。
そのため、これらの解明を机上調査の主目標とした。

なお、旧トンネルの竣工年についても現地で知る手掛かりはなかったのだが、ごく最近まで現役だっただけに複数の資料からすぐに判明した。
具体的には、『平成16年度道路施設現況調査』や『北海道の道路トンネル第1集』などである。
これらの資料から判明した旧トンネルの主なスペックは次の通りだ。

旧トンネルの諸元
トンネル名路線名竣工年全長全幅高さ覆工舗装
余別トンネル国道229号昭和48(1973)年158m7.5m4.5mありあり
『平成16年度道路施設現況調査』より

そしてこのトンネルを置き換えて現在使われている余別トンネルのスペックは、次の通り。

現トンネルの諸元
トンネル名路線名竣工年全長全幅高さ覆工舗装
余別トンネル国道229号平成23(2011)年360m9.75m4.7mありあり
現地のトンネル銘板より

銘板の竣工年は平成23(2011)年になっているが、前後の取り付け道路と共に供用を開始されたのは、翌年の平成24年3月1日である。同日の『北海道新聞』に開通を伝える記事が掲載されており、そこに付け替えの理由も書かれていた。

国道229号の町内余別町〜神岬町間で工事が行われていた新余別トンネルが1日午前10時、開通する。旧余別トンネル(158m)は、出入り口前後で落石や土砂崩れが発生しやすい上、内部も見通しの悪いカーブになっており、小樽開建が2009年10月、新トンネル建設に着工した。新トンネルは旧トンネルより内陸側に造られ、全長360m。幅員は従来より2.25m広い9.75mで、新たに歩道も取り付けられた。
『北海道新聞』平成24年3月1日朝刊より

またこの前の年の6月15日の記事「新トンネル楽しみだね*来年度開通の余別*児童が見学*」には、「現在のトンネルはカーブがきつく、衝突事故の発生が懸念されていることから、山側に並行して積丹防災事業の新トンネルを造り、「安全確保に努めることにした」(石川博之小樽道路事務所長)という。当初予算で9億8千万円の工費をつぎ込んでいる。」とあった。


『北海道の道路トンネル 第1集』より

ここに「積丹防災事業」と出ているが、これは積丹半島を巡る国道229号のうち23.5kmの区間を改良する国土交通省の事業で、平成元年から始まっていた。
平成22年度末の進捗率は97%であり、余別トンネルはこのうち余別工区に属していた。
時期的に余別トンネルは事業全体の最後尾に位置していたと思われる。

この積丹防災事業は、事業期間中の平成8(1996)年2月10日に突如発生した豊浜トンネル岩盤崩落事故をうけて加速した経緯があり、昭和以前に作られた多くのトンネルが平成20年代までに置き換えられる結果となった。事実、事故の翌年に行われた緊急点検でも、旧余別トンネルは同じ年代に作られた近隣のトンネルと共に「対策が必要」と認定された経緯があり、付け替えに至ったものと思われる。

右の画像は『北海道の道路トンネル第1集』に掲載されていた、現役当時の旧トンネル(西口)の様子だ。
現トンネルと違い歩道がないが、廃止時点においても特別老朽化が目立つトンネルではなかったと思う。
廃止が新しいために、これを執筆している時点のグーグルストリートビューでは、現在封鎖されている東口までの仮想旅行が可能である。(ただ、トンネル内には入れないし、西口にも行けない)。平成20(2008)年の撮影となっていたが、廃止前なのになぜか坑門の銘板や化粧タイルが剥がされている。その理由は不明だ。



次は懸案となっていた旧旧トンネルの竣工年についてだ。
オブローダー御用達の『道路トンネル大鑑』巻末「トンネルリスト」には、「余別」の名を持つトンネルが2本記載されている。
このトンネルリストは、昭和42(1967)年3月31日(=昭和41年度末)時点に、全国の一般国道および都道府県道に供用中だったトンネルを網羅したもので、全体的な信憑性はかなり高い。

旧旧トンネルの諸元?
トンネル名路線名竣工年全長車道幅員限界高覆工舗装
余別2号トンネル一般道道
 神恵内入舸古平線
大正12(1923)年65m2.3m2.4m一部ありなし
余別1号トンネル同上大正12(1923)年14m2.6m3.0mなしなし
『道路トンネル大鑑』トンネルリストより

説明を始めよう。
まず、余別を名に冠する2本のトンネルとも、「一般道道神恵内入舸古平線」に属していることになっている。これは現存しない路線だが、その位置は右の広域地図から推測できる。
路線名に含まれる神恵内(かもえない)、入舸(いりか)、古平(ふるびら)の地名を繋ぐ線を考えて欲しい。これは明らかに、現在の国道229号の前身にあたる経路である。

国道229号が指定されたのは昭和28(1953)年だが、その当時は現在のように積丹半島を海沿いに一周するルートではなく、神恵内から内陸に入り当丸(とーまる)峠を越えて古平に出るようになっていた。当時まだ川白から沼前の間には道路自体が存在しなかった。

道道神恵内入舸古平線は、この車道未開通区間を経て、積丹岬の先端にほど近い入舸に至る道道として、昭和32(1957)年に北海道が認定した路線である。
昭和51年にこの路線は主要道道に昇格し、道道古平神恵内線となった。ほぼ同時に北海道開発局が直轄で整備する開発道路に指定され、戦前から営々と続けられてきた海岸未開通部分の整備に拍車が掛った。そして昭和57年に未開通部分を含めて国道229号へ昇格している(当丸峠は道道に降格)。実際に川白と沼前の間が開通したのは平成8(1996)年11月1日のことで、この日ようやく国道229号は全線開通となったのである。

したがって、昭和41年度末現在の余別トンネルは、道道神恵内入舸古平線に属していた。これはすぐに理解された。
次に謎となったのは、余別2号と余別1号という2本のトンネルが記載されているのに、ワリシリ岬には1本しかトンネルがなかったことだ。
私が現場で見た旧旧トンネルは明らかに長さが70m程度あるはずなので、この2本のなかでは余別2号トンネルが該当すると思われたが、1号トンネルはどこにいったのか?

結論を述べると、「トンネンルリスト」に記載されている余別1号トンネルは、右図の位置にあったが、現存しない。

ワリシリ岬にあった2号トンネルからは1.2kmほど離れた余別集落の東側で、昭和40年撮影の航空写真にはトンネルが写っているが、51年の写真では道路の拡幅と共にオープンカットされていた。

左の写真はその跡地の様子だ。写真奥に見える半島がワリシリ岬である。
全長14mの余別1号トンネルが昭和40年代までここにあったが、残念ながら跡形もない。そして現役当時の写真は未発見だ。

というわけで、消去法的に、昭和41年度末のワリシリ岬にあったのは全長65mの余別2号トンネルと判断された。
が、ここで大きな疑問が生じてくるのである。
もう一度、先ほども掲載した「トンネルリスト」のデータを見て欲しい。

旧旧トンネルの諸元?
トンネル名路線名竣工年全長車道幅員限界高覆工舗装
余別2号トンネル一般道道
 神恵内入舸古平線
大正12(1923)年65m2.3m2.4m一部ありなし
『道路トンネル大鑑』トンネルリストより

幅員と高さの数字が、実際のトンネルよりも明らかに小さいと思わないか?
塞がれていて内部を見ることが出来ないが、坑門の断面サイズは、幅4m、高さ3.5mくらいあるように見えた。
長さ65mという数字はおそらく合っているため、「誤記だ」と決めつけるには弱いが…、正直、違和感を持った。
それに、旧旧トンネルがこの通りに大正12年の完成だとすると、それより古いはずの旧旧旧隧道は、いつからあるんだ? 明治隧道なのか?!

そして、ここで感じた小さな違和感を裏付ける情報が、他に発見された。
それは、旧トンネルの諸元を知るために利用した、『平成16年度道路施設現況調査』である。
この資料、その名の通り平成16(2004)年4月1日現在のデータで、全国の市町村道、都道府県道、一般国道および高速自動車国道――すなわち全ての“道路法上の道路”で供用中のトンネルのリストである。 したがって、供用廃止の手続きがされていない限り、事実上は廃道状態にあるトンネルでも記載されている。

この資料に、前述した旧トンネルと異なる“もう1本の余別トンネル”が、記載されていたのである。

おそらく正しい旧旧トンネルの諸元
トンネル名路線名竣工年全長全幅高さ覆工舗装
余別隧道積丹町道昭和20(1945)年65m4.0m3.5mなしなし
『平成16年度道路施設現況調査』より

いかがだろう。
ここに記載されている“余別隧道”(正確には半角カタカナで「ヨベツズイドウ」と記載)は、トンネルリストと同じ65mという長さと、現地の遺構と同じ幅4m、高さ3.5mの断面サイズを持つ、まるで私の推理を正しからしめるために用意されたような、あまりにも上出来なデータを所持している。
本当にピタリと来すぎて、むしろ疑いたくなるほどだ(笑)。

そしてこの“余別隧道”は、昭和20(1945)年竣工という、これまでは出てこなかった新しいデータを纏っていた。
だが、この竣工年も、2つの意味から“上出来”なのである。
1つは外見の印象との一致だ。現存する旧旧トンネル坑門の外見から受ける印象は、いかにも昭和20年頃の建設っぽい。逆に、大正12年の隧道としては立派すぎる。
もう1つは、歴史的経緯との符号だ。
このトンネルを越えた先にある神威岬には、大戦中に海軍の監視施設があった記録や遺構がある。
この軍事施設の建設や運用のためにどのような周辺整備が行われたかについては、残念ながら調査が及んでいないが、陸上からの唯一のアクセスルートであった余別隧道が、この時期に改良されたというのは、とても納得がいく。


さて、ここで一度目線を変えて、歴代の地形図を見てみよう。

@
地理院地図(現在)
A
昭和51(1976)年
B
昭和32(1957)年
C
大正6(1917)年

めっちゃ素直に、4枚の地形図が、4世代の道を描き出してくれた! 感動した!

ご覧の通り、各世代が別ルートでワリシリ岬を攻略している。
最も新しい地理院地図は現在の余別トンネルで、昭和51(1976)年版は旧トンネルで、昭和32(1957)年版に描かれているのは、明らかに旧旧トンネル! そして、最後の大正6(1917)年版に隧道は書かれていないが、ルートは明らかに旧旧旧道そのものだ。そこに隧道が描かれていないのは、単純に旧旧旧隧道が短すぎたからか、まだなかったからなのか。その判断をこの縮尺で行うのは無理だ。

いやぁ、こんなに綺麗に歴代地形図が仕事してくれると、本当に気持ちが良いね。 完璧だ!!
あんまり気持ちよかったから、歴代の航空写真でも同じことを再現してみた。
(こういうことをしているからなかなか更新頻度が上がらない)


@
平成28(2016)年
A
昭和51(1976)年
B
昭和22(1947)年

ふっふふふふ。

航空写真でも、道の変遷がとても鮮明に表現されている。
旧旧旧道が現役だった時代の写真は存在しないが、旧旧道以降は各世代のものがある。

注目は、昭和22(1947)年の写真だろう。
ここにも旧旧トンネルがはっきり描かれているために、同トンネルがこれ以前の整備であることがよく分かる。
また、全体的な道路の幅も、昭和51年版以降は一気に広くなっており、昭和22年版だけがとても狭い。
当時は袋小路だった積丹半島の末端近くに位置していた当地の貧弱な交通事情が窺えるようである。
旧旧トンネルの小さな断面サイズも分相応のものだった。

それと、本題からは少し外れるが、余別漁港の成長ぶりも興味深い。
平成初期に岬の先端から伸びる大掛かりな突堤が整備されており、これに合わせて旧旧旧道の一部が再整備されたと考えられる。
これについては現地探索で考察したとおりである。



旧旧トンネルは、正式には余別隧道といい、昭和20(1945)年に建設された。

これがここまでの調査で私が得た結論である。
そして最後に残るのが旧旧旧トンネルだ。
このトンネルのデータについては次のように推測している。

『道路トンネル大鑑』の「トンネルリスト」に記載されたデータは、昭和41年度末に実際に利用されていて収録すべきだった旧旧トンネルと、既に廃止されていた旧旧旧トンネルが、混ざっているのではないか。

旧旧旧トンネルの諸元? (赤字は正しくないと思われる内容)
トンネル名路線名竣工年全長車道幅員限界高覆工舗装
余別2号トンネル一般道道
 神恵内入舸古平線
大正12(1923)年65m2.3m2.4m一部ありなし
『道路トンネル大鑑』トンネルリストより
おそらく正しい旧旧旧トンネルの諸元 (青字は私が修正した内容)
トンネル名路線名竣工年全長車道幅員限界高覆工舗装
余別2号トンネル昭和20年に廃止済大正12(1923)年10m程度2.3m2.4mなしなし
『道路トンネル大鑑』トンネルリストおよび私の考え

『道路トンネル大鑑』は確かに信頼の置ける資料だが、稀に明らかに誤りと分かる表記もある。
しかし、今回のが誤記だとしたらだいぶややこしい。
複数のトンネルのデータが混ざって収録されている可能性が高いのだ。

それでも記載されているデータには根拠があると思う。
たとえば、トンネル名の「余別2号」というのは、旧旧旧トンネルの正しい名称だったと思う。なぜなら、「余別1号」が確かに存在した以上、同年代に2号がなければ不自然だ。
同じように、大正12年という竣工年や、幅や高さといった断面のサイズについても、旧旧旧トンネルの正しいデータが記載されていると思う。


さて、今回このように少しややこしく歯切れの悪い机上調査結果を述べることになったのは、旧旧トンネルや旧旧旧トンネルの整備に関して解説した文献が他に見つからなかったせいである。
『北海道道路史』や『積丹町史』などを紐解いてみたが、ワリシリ岬の道路整備に関する記述は、全くといって良いほど見られなかった。
4世代もの道路整備が行われた記念地として、特筆されていても良さそうだが、ワリシリ岬は周辺と比較して難しい障害物ではなく、もっと遙かに苦しめられた障害物が沢山あったためだと思う。

しかし、ワリシリ岬について個別の言及はないものの、積丹半島全体の道路整備史については、平成元年に北海道開発局小樽開発建設部が発行した『後志の国道』という大著に、かなりのページ数を割いて述べられていた。
そしてそこには次のような参考にすべき記述があった。

  • (大正14年版の旧『北海道道路誌』の記述に触れて――)
    明治時代の初頭、岩内〜泊〜神恵内〜神威岬〜積丹岬の現在の国道229号には、その原形としての山道の記載すら略されているほど、道路の規模を持っていなかったことを暗示している。しかし、現実には、そこに多くの集落が存在していた事実から道は存在していた――
  • (大正時代の道路整備に触れて――)
    神威岬の地、余別村(現・積丹町)に隧道が開削された。この隧道は、その後「念仏トンネル」と呼ばれるようになったが、その由来には諸説がある。その南に位置する現・積丹町沼前から現・神恵内村川白間は嶮崖が海にせまり、海岸道開削を阻んでおり、隧道開削等は、さらに次の時代を待たなければならなかった。しかし、大正期はこの区間を除き、現・国道229号は陸路の交通を可能にしたと言えよう。
『後志の国道』より

右図は積丹半島の全体図だが、この半島の海岸沿いには多くの漁村が点在している。
平成時代に入るまで一周道路はできなかったが、川白〜沼前以外については、大正時代までに最初の整備が行われていたらしい。
この事実からワリシリ岬は目を背けることが出来ない。
ワリシリ岬における最初の車道であっただろう旧旧旧トンネルもまた、大正時代に誕生したと考えるのが妥当だろう。
では、大正時代のいつかなのかという話になるが、これはやはり、「トンネルリスト」という根拠を持つ大正12(1923)年開通説が濃い。
また、『北海道道路史』にも道内のトンネルリストが掲載されているが、ここでも余別2号および1号隧道は大正12年開通とされている。

なお、旧旧旧道は旧道路法時代の存在だが、当時の北海道には、内地の県道の代わりとなる、地方費道と準地方費道という道路の種別が置かれていた(「北海道道路令」による)。
大正9(1920)年に北海道は準地方費道入舸岩内線を認定しており、開通当時の旧旧旧トンネルは、この路線に属していたはずだ。
その後、昭和27年の新しい道路法の公布に合わせて、当路線は一般道道となったが、路線名は変らなかった。そして昭和32年に改めて、前述した一般道道神恵内入舸古平線に認定されている。

以上のことから、旧旧旧トンネルこと余別2号隧道は、大正12(1923)年竣功と判断した。

余談だが、上記の通りの竣工年であれば、大正7(1918)年に整備された念仏トンネルの先進性は一層際立つ。
なにせ、村の中心集落である余別と小樽方面を結ぶ余別1号トンネルさえ開通していないのに、灯台守とその家族の安全を願って、人が歩くためだけのトンネルを神威岬の近くに掘ったことになるのだ。
それから数年後、ようやく村の生活道路にもトンネルが掘られて荷車が利用できるようになった。そういう順序となる。



(↑)最後に、現地探索と机上調査の成果を、1枚の地図にまとめてみた。

現地探索は、探索すべき道路が4世代もあるのに、とてもスムースに終了した。

一方で、机上調査では少しややこしいトラップに苦しめられた。でもこれで一応解決かな。



完結。


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