2016/3/6 8:06 《現在地》
約束通り、戻ってきたぞ、大坂隧道へ。
前回の探索から3日後の3月6日、朝8時過ぎだ。
前日までの2日間はようやく海況に恵まれ青ヶ島に渡ることができた。そこでの濃密すぎる探索のいくつかは既にレポート済である。
昨日の夕方、後ろ髪を引かれながら八丈島へ戻ってきた私だが、今日はこのあと午前9:40に島の底土港を出航する帰りの船を予約済であり、残念ながら時間はもうあまりない。
そもそも、探索5日目ともなれば身体はだいぶヘトヘトで、、今朝くらいは大人しく出航時刻まで港の周辺にいたらよかったのかも知れないが、やはり離島の興奮は最後まで私を早起きさせ、八丈島での文字通り“最後の探索”場所として、3日前に思いを残した大坂隧道へと私を引き寄せたのだった。
さっそく行動を開始する。
目指すは、明治40(1907)年に初代大坂隧道が完成するまで利用された古道の発見だ。
前回の探索では行動に踏み切れなかったが、今日は迷わず大坂隧道の直上へ入り込み、尾根を越える古道の有無を確かめたい。
まずは、この坂上側坑口脇から“矢印”のように進んでみる。
特に道形や踏跡は特に見当らないが……
道がある!
全く拍子抜けにあっさりと、幅2mはありそうな
はっきりとした道形を見つけてしまった!(写真は振り返って撮影)
都道から入る最初の部分だけは藪が濃くまったく道に見えなかったが、
気にせずに笹を掻き分けて森の日陰に入ると、こんな道形があったのである。
こんなことなら、3日前に勇気を持って踏み込めば良かったのだが、
本当に都道からは全く道が見えず、旧道があったという根拠をもなかったせいで
つい踏み込みを躊躇してしまった。今日の再訪を決断して、本当に良かった。
8:10 《現在地》
そして道はすぐに、坑口を真上から見下ろす高みに出た。
都道側から【ここを見る】と、坑門上部に小さなコンクリートの擁壁が見えるのだが、ちょうどその裏側が道になっていたのだ。
落石や山水が都道へ流れ込まないよう、後からコンクリートの壁を作ったのだと思う。さすがに都道の守りは手が込んでいる。
だが、古道そのものの整備状況にも着目したい。
ここへ来る途中だが、地面を掘り下げて道を平らにしようとした短い掘り割りがあった(写真右に見えている)。
そしてさらに道は尾根方向へと鮮明に伸びていた(チェンジ後の画像は振り返って撮影)。ここもしっかりした道幅があり、道全体が少し地面を掘り下げてあるのは、近世以前の街道を思わせる作りだ。また、路面は長年の踏み固めによるものか、しっかりとした硬さがあった。
この大坂の古道は、最後まで車道としての整備には至らなかったはずだが、その割には立派だ。
大坂が八丈島を二分する坂下と坂上を結ぶ最も重要な経路であったことは、明治後半の大坂隧道開鑿に始まったことではないのだろう。もっとずっと前から重要な道であったから、隧道以前にも、島の力を結集するような大々的な道路整備が行われていたのかも知れない。
少なくとも、平凡な山道の雰囲気ではないように思う。
ジャングル然とした常緑照葉樹の森は陰が深く、頭上の空はほとんど見えない。
稜線に近いので、強い風に吹かれる日が多いのだろう。どの木の高さも揃っていて極端な高木はない。
前方、ある高さを境に空の光が見えるが、そこが稜線のようである。
たかだか長さ160mの隧道が潜る峠への登頂は、間もなくだ。
このとき私は、稜線に待ち受ける
驚くべき光景へ
着実に近づいていた。
坂が一段とキツくなり、周囲の地形全体が、前方の稜線を見上げる傾斜となった。
道は地形の凹凸として微かに感じられるが、路面全体が植物に覆われている。
光の境目として、波打つようにうねる稜線のラインが見えるが……
ん?
その稜線よりかなり低い位置から、スリット状の光が入っている一角がある……。
まさかこれって……!
8:13 《現在地》
あわわわわわ!!!!!!
これは…!
磐戸の如き圧倒的
切通し!!!
その名も…
「大坂堀切」
島の伝説では、源為朝(1139-1170)が、島民のために切り開いたとされる。
“伝説の道”が、私を待ち構えていた。
驚愕すべき光景に出会った。
大地の裂け目のような、極度に深くて細い切通しだ。
この場所が、かつて「大坂堀切」と呼ばれていたことは、帰宅後の机上調査で知ったのであるが、以後はこの名前を採用する。
場所は都道の大坂隧道のほぼ真上の海抜180m付近であり、明治42年に最初の隧道が開鑿される以前の道がここを越えていたに違いない。現に隧道の手前からこの場所まで、幅2m程度のしっかりとした道形が(廃道状態ではあるが)残っていた。道を辿って自然に導かれた。
以下は全て目測であるが、おおよそチェンジ後の画像に表示したようなスケールを持っている。すなわち、奥行き30m内外、地表からの最大深さ20m前後、平均道幅2m程度のほぼ直線型の切通しである。
過去の探索を振り返ると、これよりも深い道路用の切通しをいくつか見たことがある。明治に開鑿された古いものに限定すると、房総半島の先端近くにある「真倉の切割」や、伊豆半島の付け根にある「口野の切通し」が思い出される。
したがって、単純な深さでは日本一でないとしても、この切通しが見る者を圧倒する迫力では、全くひけを取らない。(ちなみに、これらの3つの大規模切通しはいずれも凝灰岩を貫いているように思う)
切通しというものは、もともと地形に対する反骨に溢れているが、これほどまでに細く鋭い太刀筋をもって地形を断ち割った切通しは、見たことがない。
普通なら、もっと上向きに末広がりな、台形をひっくり返したような断面にして高い法面の安定を確保しようとすると思うが、ここはほとんど垂直に、しかも荒々しく、両側の壁が切られていて……、もはやなんというか……、
「本当に人が掘ったものなのだろうか」という疑いを持つほど、超人的な姿をしている。
この場所が、八丈島において伝説的な超人として語られている源為朝に関わる由緒を持っていること(内容は後述)も、外観の超人性を反映しているように思う。
仮に、「○○さんが作った」というようなリアルな建設のエピソードを島民の多くが知っているなら、それを差し置いて伝説で上書きする事はないように思う。リアルが知られていないからこそ、伝説が優先されている。それほど古くから、この切通しは存在していたのだろうか。
それとも……、そもそもが人の作ったものではない……?
実際のところ、この切通しは自然に形成された地形(に手を加えたもの)ではないかという疑いも捨てきれない。
もし、そうであったとしても、道路として利用されたのならば、これは立派な道路遺構であり、このような便利な地形をたまたま発見して道路として改造・利用した証拠があれば、単純な人造道路以上に特筆すべきレアケースかもしれない。
皆さまは、人造 or 天造 果たしてどちらだのものと思われただろうか。気軽にコメントをいただければと思う。
さっそく切通しの内部へ入ろうと思ったが、その前に一つ見つけたものがある。
場所は、上の写真の右下隅の草むらの中だ。
すなわち、切通しの入口の道端である。
(←)何があったかというと……、テカテカした草むらの中に、長方形の穴が開いているのを見つけた。画像の赤点線の位置だ。近づいて見たのが、チェンジ後の画像。
穴は、石積みによって作られていた。
おそらくだが、石を積み上げて作った炭焼き窯の跡だ。
内地の廃道でも炭焼き窯の跡をよく見るが、八丈島にもそれがあった。
あまり知られていない事実だが、木炭はかつて八丈島を代表する本土向け輸出品であった。
島の気候は非常に樹木の生育に適しているうえ、ツバキ、サクラ、サカキなどの高級木炭の原木が大量にあったことから、明治30年代から製炭業が盛んになり、第一次大戦頃には養蚕業とともに島の主要な産業になっていたそうだ。
おそらくこれも木炭を焼いた窯の跡だと思う。旧道沿いに窯跡は定番だよな(笑)。
凄すぎ…。
自然地形なのか、人工の地形なのか、どちらであるにしても、圧巻だ…。
切通しの道幅はほぼ一定だが、出口あたりが少し右に曲がっていることが分かる。
そして、出た先には樹木が生えていなさそうだ。明るい。
チェンジ後の画像は振り返って見た“来た道”だが、こちらは鬱蒼としたジャングルであり、対照的だ。
両側の高い垂直の壁は、黒いザラザラとした質感で、層状の模様が凄く鮮明である。
凝灰岩にしては黒いが、黒っぽい火山性堆積物に由来する凝灰岩なのだろう。
八丈島はおおよそ10万年前に海面から出現した純粋な火山島であるが、今日まで何度も何度も噴火をくり返してきただけに、マグマが固まった岩石(火成岩)だけでなく、火山灰などの火山性堆積物に由来する地層がある。
まるで溶岩のような黒い垂直の壁は、下に立つ者へ強烈な圧迫感を与える。
それが両側にあって、覆い被さらん勢いで空を圧しているのだから、もはや隧道以上の圧迫感だ。空が解放されていることが、逆に目に見える圧迫の総量を増やしている。
しかし、本来の地表から20mも掘り下げてなお火山性堆積物の層が続いているあたり、まさに噴火の近傍にいるという感じがある。
八丈島における最新の噴火は慶長10(1605)年といわれるが、現在もなお国内に111座指定されている活火山の一つであり、火山活動に対する監視が続けられている。
(→)
路上の様子。
最近人が歩いて刈払いをしたような様子は全くないが、切通しの外に比べると植物がとても貧弱だ。外光があまり入らない地形であり、土壌も痩せているせいだろう。
それはそうと、気になるものを見つけた。
向かって右側の壁面の基部に小さな凹みがいくつもあった。
概ね等間隔のようであり、明らかに人為的な工作の跡だと思う。
反対側の壁の同じ部分は草に埋れていて確認出来なかったが、これは……
例えば、この画像のような簡易な落石覆いが設けられていたと仮定して、その支柱を埋め込んだ痕という想像が出来ると思う。
隧道であれば支保工をイメージさせる痕跡だが、隧道ではない切通しでも、落石から通行人を守るために、このような構造物が設けることは考えられる。
とはいえ、これは一つ想像であり、実際の用途は不明である。
しかし、落石の痕跡も残っているこの深すぎる切通しを、少しでも安全に利用するために様々な工夫や工作が試みられた、その一端を物語っていることは確かだろう。
8:15 《現在地》
切通しの出口に迫る。
遠目には樹木が見えなかったが、そうではなかった。
しかし明らかに木の背が低い。そのように見える理由は明らかで、地形が急峻なのである。この先は急激に落ち込む傾斜になっていて、そのため遠くにある木が見えていないのだ。
前回の探索で、切通しの坂下側が険しい地形であることは予知している。(隧道南口から見上げた切通し付近の眺め)
だが実際に足を踏み入れるのはこれが初めてだ。
残念ながら、時間的に全うは出来ないことは覚悟のうえで、坂下側へ進行した。
ここから切通しを振り返った風景が、また、ヤバかった。
ヤバすぎた。
マジで。
人か、神か。
おそらく人の手は入っているが、完全な人工物とも思えない、艶めかしいほどの曲線的造形だ。
一般的に、極端に深い切通しが出来る原因は2パターンあり、
一つは、長い年月の間に切通しを何度も掘り下げた結果そうなった場合、
もう一つは、石を切り出す目的を兼ねて切通しを作った場合だ。
ここは少なくとも後者でないだろうから、
何度も何度も掘り下げた結果か、それとも、そもそもが
天然の岩の割れ目の地形を利用したものであったか……。
切通しの出口は緩やかな右カーブだったが、両側の岩山が物凄い勢いで道の高さまで下がってくると、直進は鋭く落ち込んだジャングルの斜面となり、道はほぼ直角の左折を余儀なくされた。
地形に抗わず、九十九折りで勾配を緩和しながら高度を下げていくようである。
写真は直角左折の直後の場面だが、向かって右側が明るく開けているのが分かると思う。樹木のせいで視界は開けていないが、急斜面に落ち込んでいる。
また見つけた。道端に。おそらく炭焼き窯の跡。
先ほどの窯よりは大規模だが、天井が抜けている。
樹木の生長が旺盛なので、役目を終えた人工物が緑に呑まれていくペースも速いと思う。
そんな中にあって、未だ緑に染まる気配がない切通しは、やはり異質であった。
8:17 《現在地》
道は続いている。
だが、ここで
時間切れによる撤退を宣言する。
この時点で出航まで残り80分であり、この先へ進んだらもう間に合わなくなるだろう。
切通しを抜けて、直ちに現道へ下ってくれるパターンだけが時間的に許されたのであり、
どうやらこれはそうなっていなさそうであり、藪も濃く、地形も険しく、
もはや“試し”が許される感じではない。諦めは肝心だ。
たぶん、この道のハイライトだけを先に味わってしまったのは悔しいが、
いずれ、再訪したい。
(峠の両側で、こんなにも地形が違うのが悪いのである。)
撤収。
私はほんの少ししか下らなかったから、ここから引き返して戻るのは簡単だったが、
樹間に見上げた切通しの存在感は、ここからでもなお圧倒的だった。
昔の旅人は、この眺めを前にしてようやく一息付いたことだろう。
坂上の人が港へ行くには、このような道を行き来する必要があった。
大坂隧道の完成が喜ばれたのは、この道と比べて、当然だったと思う。
一つ、おまけ。
写真を見直していて、探索中には気付かなかった、あることに気付いた。
次にご覧いただくのは、3月3日の探索中に都道の横間道路(位置)から、“大坂堀切”がある尾根を撮影した写真だが……
よく拡大してみると、そこに異常に深い切通しがあることが見えていた。
あの地形の規模からいえば、見えていてもおかしくはないと思うが、
周辺の地形と比較すると、切通しの異常な深さが強調されて、
はっきり言って不気味だ。荒唐無稽さが佐渡の【道遊の割戸】を彷彿とさせる。
それはともかくだよ……、あんなところに、
尾根を断ち割る天然の裂け目が生じるなんて現象が、あるだろうか……?
改めて地形と比較すると、純然たる人工の切通しである可能性が高まった気がする。
同じアングルの写真から、私が撤退した先の道を予測してみた。
あくまでも予想だが、おそらく現都道への合流は、麓の横間ヶ浦を経由してからだろう。
ほとんど高架橋だけの都道側に、合流を受け入れる余地がないことも事実だし(苦笑)。
この予測が正しければ、高低差的に短時間探索は無理であり、撤退はやむを得なかった。
古道が利用されていた当時の状況については、この後の机上調査に委ねたい。
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