ミニレポート第280回 分遣瀬集落跡への道 後編

所在地 北海道釧路町
探索日 2023.10.25
公開日 2024.01.15

 ゾクゾク・地果てるところのめちゃアツ軌道風景!


2023/10/25 7:34 《現在地》

狭い谷底の一軒家の脇を、ぐねぐねとすり抜けたモノレールは、いよいよ最後の下りに突入する。
その先に待ち受けているものは、海しかあり得ない。
道道や、現在の分遣瀬の居住地から110m以上も低いところにある海。
モノレールと、その隣の歩道の旅も、終点を迎えようとしている。



見下ろす行く手の海岸には、極限的にまで小さな“港”が隠されていた。
地形の関係から遠望では見ることが出来ない、まるで隠されていたかのような港は、急崖と海に挟まれたごく小さな砂浜に、大量の消波ブロックと組み立て式の物揚場スロープを以て構築されていた。
スロープ上に一艘の漁船が置かれていて、漁港であったことを物語るが、その船はもう長く使われていないように見えた。

それでもこの施設が“生きている”と分かるのは、モノレールの終点がここにあり、
かつそこに一編成の列車が停車しており、
さらにはその荷台へと積荷を運び入れる人の姿があったから。



黙々と仕事を進める青いヤッケの人物を少しのあいだ見つめる私。
波音の中にいる人物が私の接近に気付くのは難しいだろう。
クマではないとアピールしながら近づかないと、驚かせてしまいそう。

それにしても、頼もしいモノレールだ。
車両が起点に見当らなかったのは、まさにいま稼働中で、終点に来ていたからだったのだ。物揚場の上のモノレール終点に、赤色の小さな運搬機(鉄道でいえば機関車の役割)が停まっていて、そこに2両の貨車が連結されている。貨車は蓋がない無蓋車で、おそらく独自設計の箱トロだ。そして肝心の積荷はといえば、もちろん昆布である。

青ヤッケの人物は、狭い浜に打ち上げられた昆布を、腰まで波に浸かりながら採取し、それを次々と荷台に積み込んでいた。ここから起点の広大な干場へ運ばれるのである。
なんともシンプルな、現地採取、即、輸送の流れがここにある。新鮮昆布、ここに極まれり。

この地でモノレールが昆布輸送に使われていることは、2013年の村影氏のレポートで知ってはいたが、実際それをしている場面に立ち会えることは期待していなかったのでとても嬉しい。もしかしたら10年の経過で運行を終了してしまったのではないかという心配もしていたが、無用だった。バッチリ健在!

これまでこうした産業用モノレールの利用シーンとしては、工事現場、ミカン畑、茶畑、そして観光施設の人員輸送というのを見たことがあったが、昆布輸送は初めてである。でも水揚げした昆布を陸上の干場へと運ぶのは、必ず高低差を伴った輸送になるわけで、理に適った利用シーンだと思う。とはいえ、これほど潮気にまみれた環境は、ハードにとってはとてもハードだろう。



海まで転げ落ちてしまいそうな、とびきり急な最後の坂。
歩道はモノレールを手摺り代わりにして下る感じだ。

そしてこの急坂の途中に、コンクリートの土台のような構造物が埋め込まれていた。
おそらくは、陸揚された漁船が高波でさらわれないよう、ロープで舫うための杭がここに固定されていたのだと思う。
表面のコンクリートには綺麗な手形が刻まれていて、建設に関わった何者かの遊び心が感じられた。いかにも家族ぐるみで建設したような類の超ローカルな土木構造物っぽい。ちなみにサイズ的には大人の手形だ(なぜか私の手とぴたり合致した→【証拠写真】)。



7:37 《現在地》

「こんにちわ〜」

の高らかな挨拶とともに、私は分遣瀬の浜辺に構築された小さな小さな港に降り立った。

青いヤッケの人物は、一見して私とは同年代の男性だった。
モノレールに興味があり、それを辿ってここまで降りてきたことを説明すると、彼が抱えた昆布を荷台に乗せ再び海へ戻るまでの数十秒ではあったが、次のような貴重なお話しを伺うことが出来た。

分遣瀬集落の住民(40台男性)の証言

  • 私はこの集落で40数年前に生まれた。自分が生まれたときに、もとの“下の家”から、新しく建てた“上の家”に一家で移った。
  • その40数年前の引っ越しの際に、初めてモノレールを敷設した。それまでは坂道を歩いて上の道に出た。
  • 波が高く危険なので、この浜からは離れない方が良い。

こうして私は、今回の訪問で一番に知りたかったモノレールの由緒を、住民による直接証言という信憑性の極めて高い形で知ることが出来た。
“彼”こそが、いまの高台にある新集落の第一世代であり、先代は彼の誕生を契機に一家の住居を移したのだそうだ。部外者が言葉にして記したら無粋になってしまうほどに、家族愛を動機とした集落移転ではないか。

その引っ越しの際に大量の資材を運び上げる必要から、初めてモノレールは敷設された。
このモノレールとはいまの“旧線”のことであり、現在使われている隣の“新線”が整備された時期や契機は聞きそびれたが、こちらは海岸まで伸びていることから、最初から昆布輸送用に作られたのだと思う。

他にも、“手形”のこととか、“自転車”のことととか、“漁船や漁港”のこととか、質問はいくつか脳裏に浮かんだのだが……、最初の質問はあまりにも家庭のプライベートな領域に踏み込むような気がして、自身の素性も満足に明かしていない私はつい遠慮してしまった。それで結局、少し撮影をさせて欲しいという言葉への肯きを見たあとは、追加の問いかけをしなかった。



狭い浜から見た東側の海岸線。
約1.2km先に老者舞(おしゃまっぷ)の集落および漁港があり、その海上に浮かぶ消波ブロックが見えている。
しかし彼我を結ぶ海岸線に道はなく、歩きうる浜辺もなかった。
反対の西側も同様の状況で、地図では約500m先に賤夫向集落の旧地の浜があるが、ここから直接行くことはできない。
もともとの計画から私はここで引き返すつもりであったが、危険なので浜からは出ない方が良いとの忠告も得た。
ここに道はないと結論づけるのには十分な現状確認だった。



モノレール終点(私は勝手に「旧分遣瀬停車場」と命名)から振り返る、起点方向の眺め。この最後の坂道が一番急だった。
なにせすぐ隣には、旧集落地を貫流した小川が滝となって岩場を流れ落ちている。高さは20mくらいもある。
このような地形だけに、外部から察知されない隠れ港の雰囲気がとても濃い。

なお、私は勝手に港と表現したが、漁港漁場整備法などが規定する漁港ではない。
もとより分遣瀬集落の生活にのみ紐付けられた個人所有に近い性格の港であったと思うが、大量の消波ブロックが投入されているので、港として機能するための最低限の整備が、公共事業として行われたのではないだろうか。
こんな辺鄙な港が、令和の現代にも住民の手によって大切に活かされているのを見るのは、嬉しかった。



ここに港とモノレールが生き続けている最大の理由は、大きな価値を有する昆布という海産物の存在だろう。
現状、この狭い浜に打ち上げられた昆布を干場へ運ぶことだけが、このモノレールの役割である。
果樹園でも、茶畑でも、工事現場でもないところに、ほとんど人目にさらされることなく、地図にも現れないまま、半世紀以上の長きにわたって、この昆布モノレールは走り続けている。



HONDAのGX200というエンジンを搭載した運搬機。見るからに年季が入っている。
農業用機械の安全鑑定に関する「生検センター安全鑑定証票」のシールが貼られている。操縦者の座席が見当らないが、荷台乗車だろうか。
しばらく待っていれば動くシーンも撮影出来たと思うが、次の探索目的地もあったので、撮影完了後はヤッケの人物に礼を述べて、直ちに来た道を撤収した。



1億分の数人の想い出に満たされた、分遣瀬の地に別れを告げる。
このモノレールが錆に覆われてしまう日まで、廃村の寂しさはお預けだ。



北の海の昆布の旨味を我々に届ける、分遣瀬“昆布”モノレール(全長約450m、高低差110m、昭和50年代敷設)よ、さらばだ!




 ミニ机上調査編 〜昆布森海岸の小さなムラ小史〜


@
昭和22(1947)年
A
昭和42(1967)年
B
昭和52(1977)年
C
令和3(2021)年

まずは歴代の航空写真を比較より、分遺瀬集落の目に見える変化を見てみよう。

@は昭和22(1947)年版、確認できる最古のものだ。
赤矢印は、家屋と判断できる部分を指している。
私のこのカウントが正しければ、家屋数は3軒に過ぎない。うち2軒は浜にあるが、現在の浜には建物を建てるスペースはほとんどない。隣の賤向夫もそうだったらしいが、海岸の侵食によって移転を余儀なくされた家もあったのだろう。

残る1軒であるが、この家はCまで唯一【健在】である。もちろん、途中で建て替えがあった可能性は否定できないが、同じ位置に建っているのは確かだ。そしてこの家こそが浜で遭遇した男性の生家であり、もしかしたら分遣瀬の草分けかもしれない。少なくとも戦前から住み続けているのは間違いなさそう。

当時の家数は少なかったが、既に広い段々畑が開かれていたことも分かる。この時代の食糧事情を考えれば当然のことだったろうが、自給自足への努力が、決して地味豊かとも思えぬ海向かいの風強き尾根に畑を拓かしめたのだろう。

Aは昭和42(1967)年版であり、建物の数はあまり変わらないが、現在の道道の位置に車道が登場している。
このことは、それまで公共交通機関が山越えで10kmも離れた鉄道しかなかった当地に、大きな利便と発展の可能性を与えたのかもしれない。と同時に、車道沿いへの集落移転が検討されるようになったのもこの時期以降だろう。

Bは昭和52(1977)年版で、歴代で最も家屋数が多い。旧集落だけで8棟前後の建物が写っている。これはちょっと意外だったが、分遺瀬集落の最盛期は案外遅くこの時期であったのかも知れない。
この時期は変化は大きく、道道沿いの高台に新集落が誕生し、かつ浜には消波ブロックによって港の体裁が与えられた。

男性の家が移転したのはこの時期であり、モノレールも移転を契機に整備されたという。おそらくこの時点では男性の一家だけが高台に移転したのであり、引き続き旧地に残った家も複数あった。しかし新集落には非常に広い昆布干場が設けられており、昆布採取が集落全体での生業だったことを伺わせる。他に漁船を利用した漁業も行われていた時期だろう。
一方、段々畑は既に放棄されているようだ。

Cは令和3年(2021)版なので、ほぼ現状を撮影している。
旧集落に現存する建物は1棟だけになり、最近(2013年の村影氏訪問時点)まで残っていた川向かいの1棟も残骸となっている。
一方、高台の新集落の家屋は倍増し、土地もさらに拡大している。
海岸部の浸食が進んだせいなのか、消波ブロックがある港全体がBより波に洗われているように見えることも変化の一つだ。


以上、@〜Cの比較により、分遺瀬集落の戦後における変遷が大まかに見て取れた。
@の時代までは、まさに海と山に隔絶された僻地の様相を濃くしているが、近くに道道が整備されたA以降は、意外と人の出入りが多くあったことが窺えた。
昆布という高い商品価値を持つ豊富な資源の存在と、整備された車道に比較的に近い立地、加えてモノレールという利便な輸送手段の獲得が組み合わさって、この地を近隣のいくつかの集落のような無人化から守ったのではないだろうか。そしてもちろん損得だけでは計り知れない、現住人のこの地への愛着もあるだろう。



@
大正11(1922)年
A
昭和30(1955)年
B
地理院地図(現在)

周辺集落を含めたもう少し広い範囲について、新旧3枚の地形図を見較べる。

@は大正11(1922)年版で、当地を描いた最古の5万図だ。
この図中の「至 昆布森」と「至 仙鳳趾」を繋ぐ道が、寛政12(1800)年以来の根室街道で、明治16〜40年は国道だった。その後は里道や村道といったローカルな道となり、再び県道へ返り咲いたのは昭和35(1960)年である。県道化以前は険しく狭い山道に過ぎなかった。

建物の記号がある場所を赤矢印で目立たせてみた。
既に「ワカチャラセ」や「セキネップ」の浜辺に少数の人家が集まっており、集落があったことが分かる。
各集落は、道よりも海岸に沿って配置されている。これは入植が道より海からの出入りで行われたことや、そもそも生活の根拠が海にあったことを伺わせる特徴だ。

Aは昭和30(1955)年版で、交通事情にはあまり変化がないが、各集落とも家数は増加している。入境学(にこまない)や老者舞(おしゃまっぷ)には学校の記号も登場し、ワカチャラセやセキネップの子供たちはこのどちらかへ山越えの道を歩いて通ったことだろう。セキネップについては既に集落の高台移転が進んでいる様子も分かる。

Bは最新の地理院地図で、賤夫向や分遣瀬は道道沿いに移転し、入境学や老者舞からは学校が消えた。スクールバスで昆布森まで通学するようになった。
護岸や港湾が整備された老者舞を除くと、海岸線からは人家が全くなくなっている。海岸線の侵食の影響があるのだろう。


もっと古い時代はどうだったのか。
安政3年(1856)年に幕府の命を受けて蝦夷地探検を行った松浦武四郎が、セキネップやワカチャラセを海上の小舟から眺めて次のように記している。引用元は、時事通信社刊『蝦夷日記(上)』で、( )は全て原書からある注記である。

懸崖絶壁にして歩行致し難き故、また小舟にて棹行に、{中略}セフヌンケブ(小岬)上る、滝有、其水壁崕の中程より涌滴り落、実奇観と云べし。(十丁十間)ヘチヤラセヘト(小岬)、此辺の土は雑木陰森、岸は岩磯にして海草・小貝多し。然れども浪荒き故、昆布取共は不入よし也。

松浦武四郎『蝦夷日記(上)』より

ここに登場する奇怪な地名、「セフヌンケブ」→セキネップ→賤夫向、「ヘチヤラセヘト」→ワカチャラセ→分遣瀬であるが、現在の集落と一致するかは分からない。というのも、武四郎の記事ではこれらの地名の周辺に人家は全く登場しない。先住者であるアイヌ人の家屋があれば「土人家一」などのように書いたし、和人の家も記している。当時これらの浜辺に定住する人家はなかったように見える。
彼の記事より受ける印象は、当時のこの海岸一帯は全くと言って良いほど開発されていなかったことだ。昆布採りの人々でさえ入らなかったというのが、それを象徴している。
そもそも、アイヌ人たちが名付けたこれらの地名からして、セキネップは「石落ちるところ」で、ワカチャラセは「飲み水が滝となっているところ」(いずれも『アイヌ語地名解 北海道地名の起源』より)のように地形の特徴を指したものらしく、集落を名付けたわけではなかった。それでも名付ける程度には親しんだ土地だったのだろうが。

それでは、和人たちがこの険しい海岸線に定住を始めたのは、いつ頃、どのような経緯であったか。
大正12(1923)年刊行の『釧路発達史 附・事業及人物』の昆布森村の章に次のようなことが書かれていた。

本村は古よりアイヌ各所に割拠し部落をなせる形跡あるもその年代など審かならず{中略}寛政11(1799)年幕府の直轄となり昆布森及び仙鳳趾に駅逓を置き通行の便を図れり、その頃より漁場請負人アイヌを使役して昆布採取に着手し、享和文化の頃よりニシン及びサケの漁労に従事し収穫多く殷賑を極めたり、明治3(1870)年漁場請負人佐野孫右衛門は奥羽及び函館地方より和人100戸370余人を募りて各部落に移住せしむ、これ和人常住の濫觴とす。

『釧路発達史 附・事業及人物』より

このようにあって、明治3(1870)年が和人常住の初めであるとしている。

その後の経過についても同書の記述を拾っていくと……、
明治10年〜18年頃はニシン、タラ、サケ豊漁で移住者増大するが、その後は流氷害で昆布不漁となって居住者減少、明治26年にニシン豊漁で再び移住者増大するも、翌27年日清戦争の影響で昆布価格暴落のため居住者激減、明治40年前後より連年ニシン豊漁で村勢回復するも、再び不漁となって村勢没落。第一次大戦に際して火薬の原料となるヨードと塩化カリウム(これらは昆布灰を原料とする)の価格冒頭するや、村内にはこれらを生産する工業が勃興し、人口激増となったが、戦後直ちに不況へ陥った。村はそれまでの度重なる村勢の浮沈と不安定を反省し、村民の採藻業偏重を改めて、沖合漁業や畜産業などの副業を推奨すべく、港湾整備や牧場の整備を始めた。
……というのが、大正末までの一帯の趨勢だ。

かつてこの地方の人々は、とても浮沈に忙しく不安定な暮らしをしていたことが分かる。
その度に村内の家の数は倍加と半減をくり返しており、当時の航空写真がもしあれば、その忙しい変化を見ることが出来ただろう。

今回の探索のきっかけとなった「村影弥太郎の集落紀行」には、分遣瀬集落の経過について、現地での聞き取りや釧路町誌の記述より、次のように記している。

隣接する賤夫向の方の話によると、分かるもので3軒、さらに前には5軒くらいが海のそばで昆布漁をして暮らしていたという(町史では7、8戸)。浜が侵蝕されたことにより宅地に危険が及び、現在地に移転したとのこと。現在も拾い昆布漁が行われ、浜で集められた昆布はモノレールで上まで運搬されている。また在住者によると移転は昭和53、4年。現在移転地にある家は2軒だが、常住のものは1軒。

「村影弥太郎の集落紀行」より

分遣瀬の移転は昭和53〜54年と明記されており、今回の男性の話(40数年前に移転)とも合致する。


最後に紹介するのは、分遣瀬ではなく隣の賤向夫が舞台の話だが、そこに居住したとある一家の経過を詳細な聞き取り調査でまとめた記事がある。
平成5(1993)年発行の『女性と経験 復刊18号』に収録された、「移住当初の住まいの比較―海岸部昆布森から内陸部尾幌へ」という記事だ。長いので詳しく知りたい方は国会図書館デジタルコレクションで原文を読んでいただきたいが、本レポートの参考になりそうな部分を箇条書きで抜き出してみる。


『女性と経験 復刊18号』より
『女性と経験 復刊18号』より抜粋

著者によると、この一家のように、明治期にニシン漁の出稼ぎ者が道内に移住したケースは多くあったとのこと。
ニシン漁や昆布採取を移住初期の生業とし、やがてヨードカリ生産で財を得て、さらに生活の安定のため畜産などの副業を持つ経過は、前述した『釧路発達史』の内容とも符合する。

出稼ぎ先の父親が必死に稼ぎ、新天地を開拓し、そこに新居を構えたところへ妻や子供たちを迎え入れて新たな“家”を持つ。
このようなフロンティアスピリッツと家族愛に突き動かされた文字通りの開拓が、雪氷吹付ける北辺の海岸で、家の数だけ繰り広げられてきた。
今回私が浜で出会った男性の両親もまた、先代より受け継ぎしスピリッツを発揮して、家族とともに高台の新天地へと移ったのか。
モノレールという、旧地との繋がりを保つ文明の利器を携えて。




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