@ 昭和22(1947)年 | |
---|---|
A 昭和42(1967)年 | |
B 昭和52(1977)年 | |
C 令和3(2021)年 |
まずは歴代の航空写真を比較より、分遺瀬集落の目に見える変化を見てみよう。
@は昭和22(1947)年版、確認できる最古のものだ。
赤矢印は、家屋と判断できる部分を指している。
私のこのカウントが正しければ、家屋数は3軒に過ぎない。うち2軒は浜にあるが、現在の浜には建物を建てるスペースはほとんどない。隣の賤向夫もそうだったらしいが、海岸の侵食によって移転を余儀なくされた家もあったのだろう。
残る1軒であるが、この家はCまで唯一【健在】である。もちろん、途中で建て替えがあった可能性は否定できないが、同じ位置に建っているのは確かだ。そしてこの家こそが浜で遭遇した男性の生家であり、もしかしたら分遣瀬の草分けかもしれない。少なくとも戦前から住み続けているのは間違いなさそう。
当時の家数は少なかったが、既に広い段々畑が開かれていたことも分かる。この時代の食糧事情を考えれば当然のことだったろうが、自給自足への努力が、決して地味豊かとも思えぬ海向かいの風強き尾根に畑を拓かしめたのだろう。
Aは昭和42(1967)年版であり、建物の数はあまり変わらないが、現在の道道の位置に車道が登場している。
このことは、それまで公共交通機関が山越えで10kmも離れた鉄道しかなかった当地に、大きな利便と発展の可能性を与えたのかもしれない。と同時に、車道沿いへの集落移転が検討されるようになったのもこの時期以降だろう。
Bは昭和52(1977)年版で、歴代で最も家屋数が多い。旧集落だけで8棟前後の建物が写っている。これはちょっと意外だったが、分遺瀬集落の最盛期は案外遅くこの時期であったのかも知れない。
この時期は変化は大きく、道道沿いの高台に新集落が誕生し、かつ浜には消波ブロックによって港の体裁が与えられた。
男性の家が移転したのはこの時期であり、モノレールも移転を契機に整備されたという。おそらくこの時点では男性の一家だけが高台に移転したのであり、引き続き旧地に残った家も複数あった。しかし新集落には非常に広い昆布干場が設けられており、昆布採取が集落全体での生業だったことを伺わせる。他に漁船を利用した漁業も行われていた時期だろう。
一方、段々畑は既に放棄されているようだ。
Cは令和3年(2021)版なので、ほぼ現状を撮影している。
旧集落に現存する建物は1棟だけになり、最近(2013年の村影氏訪問時点)まで残っていた川向かいの1棟も残骸となっている。
一方、高台の新集落の家屋は倍増し、土地もさらに拡大している。
海岸部の浸食が進んだせいなのか、消波ブロックがある港全体がBより波に洗われているように見えることも変化の一つだ。
以上、@〜Cの比較により、分遺瀬集落の戦後における変遷が大まかに見て取れた。
@の時代までは、まさに海と山に隔絶された僻地の様相を濃くしているが、近くに道道が整備されたA以降は、意外と人の出入りが多くあったことが窺えた。
昆布という高い商品価値を持つ豊富な資源の存在と、整備された車道に比較的に近い立地、加えてモノレールという利便な輸送手段の獲得が組み合わさって、この地を近隣のいくつかの集落のような無人化から守ったのではないだろうか。そしてもちろん損得だけでは計り知れない、現住人のこの地への愛着もあるだろう。
@ 大正11(1922)年 | |
---|---|
A 昭和30(1955)年 | |
B 地理院地図(現在) |
周辺集落を含めたもう少し広い範囲について、新旧3枚の地形図を見較べる。
@は大正11(1922)年版で、当地を描いた最古の5万図だ。
この図中の「至 昆布森」と「至 仙鳳趾」を繋ぐ道が、寛政12(1800)年以来の根室街道で、明治16〜40年は国道だった。その後は里道や村道といったローカルな道となり、再び県道へ返り咲いたのは昭和35(1960)年である。県道化以前は険しく狭い山道に過ぎなかった。
建物の記号がある場所を赤矢印で目立たせてみた。
既に「ワカチャラセ」や「セキネップ」の浜辺に少数の人家が集まっており、集落があったことが分かる。
各集落は、道よりも海岸に沿って配置されている。これは入植が道より海からの出入りで行われたことや、そもそも生活の根拠が海にあったことを伺わせる特徴だ。
Aは昭和30(1955)年版で、交通事情にはあまり変化がないが、各集落とも家数は増加している。入境学(にこまない)や老者舞(おしゃまっぷ)には学校の記号も登場し、ワカチャラセやセキネップの子供たちはこのどちらかへ山越えの道を歩いて通ったことだろう。セキネップについては既に集落の高台移転が進んでいる様子も分かる。
Bは最新の地理院地図で、賤夫向や分遣瀬は道道沿いに移転し、入境学や老者舞からは学校が消えた。スクールバスで昆布森まで通学するようになった。
護岸や港湾が整備された老者舞を除くと、海岸線からは人家が全くなくなっている。海岸線の侵食の影響があるのだろう。
もっと古い時代はどうだったのか。
安政3年(1856)年に幕府の命を受けて蝦夷地探検を行った松浦武四郎が、セキネップやワカチャラセを海上の小舟から眺めて次のように記している。引用元は、時事通信社刊『蝦夷日記(上)』で、( )は全て原書からある注記である。
懸崖絶壁にして歩行致し難き故、また小舟にて棹行に、{中略}セフヌンケブ(小岬)上る、滝有、其水壁崕の中程より涌滴り落、実奇観と云べし。(十丁十間)ヘチヤラセヘト(小岬)、此辺の土は雑木陰森、岸は岩磯にして海草・小貝多し。然れども浪荒き故、昆布取共は不入よし也。
ここに登場する奇怪な地名、「セフヌンケブ」→セキネップ→賤夫向、「ヘチヤラセヘト」→ワカチャラセ→分遣瀬であるが、現在の集落と一致するかは分からない。というのも、武四郎の記事ではこれらの地名の周辺に人家は全く登場しない。先住者であるアイヌ人の家屋があれば「土人家一」などのように書いたし、和人の家も記している。当時これらの浜辺に定住する人家はなかったように見える。
彼の記事より受ける印象は、当時のこの海岸一帯は全くと言って良いほど開発されていなかったことだ。昆布採りの人々でさえ入らなかったというのが、それを象徴している。
そもそも、アイヌ人たちが名付けたこれらの地名からして、セキネップは「石落ちるところ」で、ワカチャラセは「飲み水が滝となっているところ」(いずれも『アイヌ語地名解 北海道地名の起源』より)のように地形の特徴を指したものらしく、集落を名付けたわけではなかった。それでも名付ける程度には親しんだ土地だったのだろうが。
それでは、和人たちがこの険しい海岸線に定住を始めたのは、いつ頃、どのような経緯であったか。
大正12(1923)年刊行の『釧路発達史 附・事業及人物』の昆布森村の章に次のようなことが書かれていた。
本村は古よりアイヌ各所に割拠し部落をなせる形跡あるもその年代など審かならず{中略}寛政11(1799)年幕府の直轄となり昆布森及び仙鳳趾に駅逓を置き通行の便を図れり、その頃より漁場請負人アイヌを使役して昆布採取に着手し、享和文化の頃よりニシン及びサケの漁労に従事し収穫多く殷賑を極めたり、明治3(1870)年漁場請負人佐野孫右衛門は奥羽及び函館地方より和人100戸370余人を募りて各部落に移住せしむ、これ和人常住の濫觴とす。
このようにあって、明治3(1870)年が和人常住の初めであるとしている。
その後の経過についても同書の記述を拾っていくと……、
明治10年〜18年頃はニシン、タラ、サケ豊漁で移住者増大するが、その後は流氷害で昆布不漁となって居住者減少、明治26年にニシン豊漁で再び移住者増大するも、翌27年日清戦争の影響で昆布価格暴落のため居住者激減、明治40年前後より連年ニシン豊漁で村勢回復するも、再び不漁となって村勢没落。第一次大戦に際して火薬の原料となるヨードと塩化カリウム(これらは昆布灰を原料とする)の価格冒頭するや、村内にはこれらを生産する工業が勃興し、人口激増となったが、戦後直ちに不況へ陥った。村はそれまでの度重なる村勢の浮沈と不安定を反省し、村民の採藻業偏重を改めて、沖合漁業や畜産業などの副業を推奨すべく、港湾整備や牧場の整備を始めた。
……というのが、大正末までの一帯の趨勢だ。
かつてこの地方の人々は、とても浮沈に忙しく不安定な暮らしをしていたことが分かる。
その度に村内の家の数は倍加と半減をくり返しており、当時の航空写真がもしあれば、その忙しい変化を見ることが出来ただろう。
今回の探索のきっかけとなった「村影弥太郎の集落紀行」には、分遣瀬集落の経過について、現地での聞き取りや釧路町誌の記述より、次のように記している。
隣接する賤夫向の方の話によると、分かるもので3軒、さらに前には5軒くらいが海のそばで昆布漁をして暮らしていたという(町史では7、8戸)。浜が侵蝕されたことにより宅地に危険が及び、現在地に移転したとのこと。現在も拾い昆布漁が行われ、浜で集められた昆布はモノレールで上まで運搬されている。また在住者によると移転は昭和53、4年。現在移転地にある家は2軒だが、常住のものは1軒。
分遣瀬の移転は昭和53〜54年と明記されており、今回の男性の話(40数年前に移転)とも合致する。
最後に紹介するのは、分遣瀬ではなく隣の賤向夫が舞台の話だが、そこに居住したとある一家の経過を詳細な聞き取り調査でまとめた記事がある。
平成5(1993)年発行の『女性と経験 復刊18号』に収録された、「移住当初の住まいの比較―海岸部昆布森から内陸部尾幌へ」という記事だ。長いので詳しく知りたい方は国会図書館デジタルコレクションで原文を読んでいただきたいが、本レポートの参考になりそうな部分を箇条書きで抜き出してみる。
『女性と経験 復刊18号』より
- 話者(移住3代目)は、昭和2(1927)年釧路村昆布森賤夫向に生まれ、幼少時代から13歳の頃まで賤夫向の海岸地域で過ごし、その後、昭和15年から両親(移住2代目)とともに内陸部厚岸町尾幌オタクパウシ地域の開拓に入った。
- 大正2(1913)年に初代が昆布森へ移住した当時は昆布が豊漁であり、日露戦争後で、火薬の原料となる昆布灰を利用してのヨードカリ製造が最盛期を迎え、話者の両親は漁業とともにヨード工場を営んでいた。
- 初代は青森県生まれで、明治20年代はニシン漁の出稼ぎをして函館と青森を行き来した。その後、ニシン漁の不漁とともに釧路へ移り、昆布採りに雇われた。春は昆布採りをして賤夫向で過ごし、秋には函館に帰るという生活を続けたが、やがて夫人を函館から呼び寄せて賤夫向での定住を始めた。その後、大正2年に賤夫向に新居を建てて、翌年に子供たち(2代目やその兄弟)を迎えて住んだ。
著者によると、この一家のように、明治期にニシン漁の出稼ぎ者が道内に移住したケースは多くあったとのこと。
ニシン漁や昆布採取を移住初期の生業とし、やがてヨードカリ生産で財を得て、さらに生活の安定のため畜産などの副業を持つ経過は、前述した『釧路発達史』の内容とも符合する。
出稼ぎ先の父親が必死に稼ぎ、新天地を開拓し、そこに新居を構えたところへ妻や子供たちを迎え入れて新たな“家”を持つ。
このようなフロンティアスピリッツと家族愛に突き動かされた文字通りの開拓が、雪氷吹付ける北辺の海岸で、家の数だけ繰り広げられてきた。
今回私が浜で出会った男性の両親もまた、先代より受け継ぎしスピリッツを発揮して、家族とともに高台の新天地へと移ったのか。
モノレールという、旧地との繋がりを保つ文明の利器を携えて。