2015/4/8 11:08 《現在地》
前の回の最後に書いたとおり、嬬恋駅跡地には案内板があるだけで、駅の具体的な痕跡は残っていない。私が現地でなぜか見つけられなかった案内板も、私が撮影した写真に写り込んでいると、読者さんから指摘があった(笑)。ちなみにその解説文は草軽電鉄についてのみで、ここで接続する予定があった上信鉱業専用軽便線については触れられていないようだ。
今回は「机上調査編」と題して、帰宅後の机上調査で判明したいくつかの事柄を記録しておこう。
(今後も判明したことがあり次第追記の予定)
中でも現地探索で実りが少なかった嬬恋駅周辺については重きを置いた。
では早速始めよう。
「草軽電気鉄道」(プレス・アイゼンバーン/1981年)より転載。
右の写真は、昭和56(1981)年にプレス・アイゼンバーンが発行した「草軽電気鉄道」という大判本に掲載されていた、昭和34(1959)年当時の嬬恋駅構内風景である。
この後にご覧頂く駅の構内図や背景の山の形などから判断して、この写真は上に掲載した現状写真と同じ方向を向いて撮影されたものである。
半世紀を経た風景の変貌にはまさしく隔世の感という表現を用いたくなるし、異様にパンタグラフの高い(ように見える)草軽電鉄の象徴的ルックスを持った電気機関車や、白黒写真であることと相俟って、写真全体からノスタルジーが醸し出されている。
だが、これが撮影された当時でさえ、私が探索した上信鉱業専用軽便線にとっては10年以上先の“未来”だったのだから、沿線に残る遺構の多さについ忘れそうになるものの、専用線は本当に“古い”時代のものであった。
「草軽電気鉄道」(プレス・アイゼンバーン/1981年)より転載。
同じ本からもう1枚。
これはキャプションによると、小代(こよ)〜嬬恋間で昭和35(1960)年に撮影された写真とのことだが、同区間内でこのように村落を背景に橋が架かっている地点は、おそらく一箇所しかない。
そしてこの写真の橋の橋台と思われるものが、嬬恋駅跡のすぐ近くに今も残っている。
これは小熊沢の畔に残っている。
おそらく現在の小熊沢の直線的な流路は河川改修の結果によるもので、以前は蛇行していたのだろう。現在は川から10m以上離れた陸上に橋台の一部が取り残されている。
上の古写真との定点撮影を全く意識していないので、撮影方向もバラバラだが、専用線のコンクリート橋台が現存する地点からは、100mくらいしか離れていないところに、ご覧のような古色蒼然たる大正時代の石造橋台が現存している。
それなのに、この壊れかけた石造橋台は有名で、まだ立派に使えそうな専用線の未成橋台は、省みられていない気がする。
なんて、別に恨み言がいいたいわけではなく、確かにこの嬬恋駅跡の周辺に二つの世代が異なる鉄道遺構が現存することをいいたい。
といったところで、話しを再び本題である専用線に戻そうと思う。
もとの文章はこちらで既に引用しているので略するが、専用線の終点が草軽電鉄の嬬恋駅に予定されていた事は、昭和19(1944)年9月30日や同年12月8日の上毛新聞などにはっきり記載されている。
もちろん、これらの記事が誤りでない保証はないのだが、現に専用線のものらしい橋台を小熊沢に見ているのだから、やはり間違いではなかったのだろう。
それでは、専用線と草軽電鉄は嬬恋駅でどのように接続する計画だったのだろうか。
共に軌間は762mmで共通するので、レールの接続は難しくないだろうが、草軽は当時既に電化されていて、一方の専用線に電化の計画があったかは、今のところ記録が無く不明である。
左図は、前出のプレス・アイゼンバーン「草軽電気鉄道」に掲載されている嬬恋駅の構内図をベースに、チェンジ後の画像に私が想像で専用線や道路を書き加えた。
残念ながら構内配線などには何の根拠も無いので消極的に描いたに過ぎないが、両方の鉄道とも駅を出てすぐに小熊沢を渡っていた(計画だった)ことは事実であろう。
このほか、戦後間もない時期の空中写真なども見てみたが、解像度が低いために駅構内の配線を調べるには厳しく、嬬恋駅で草軽と専用線がどのように繋がろうとしていたか現状不明といわざるを得ない。
また、嬬恋駅がある芦生田には、他にも専用線の関連施設が建造されていた可能性がある。
こちらでも引用した「嬬恋村誌上巻」の上信鉱山についての記述中で、特に赤字の部分に注目していただきたい。
上信鉱山 (ろうせき山)
(中略) なお鉱石の輸送は、山元から索道で仁田沢へ、それから国有鉄道(国鉄トラックのことか)によって芦生田、そこから草軽鉄道貨車によって軽井沢へ出されたが、その産出鉱石量は一万五千頓とあって、昭和十九年には鉱山から直接芦生田の索道による輸送を計画施工した。即ち仁田沢=門貝=三原=芦生田と国有地、民有地の区別なく強制的に立木の伐倒、支柱の建設と進捗し、芦生田には現安斉幸男氏宅西の斜面へ鉄道貨車への荷受け場を施設した。現国鉄吾妻線とほぼ敷地を同じくする鉄路が長野原駅から分岐する構想で大要その鉄道は羽根尾、半出来、芦生田と開さくされて、この鉄道が上信鉱石輸送ルートとなる筈であった。
これ程の大事業も昭和二十年八月の終戦と共に一切終焉を告げ、さしもの索道も、新設鉄道も上信鉱石の輸送を見ずそのまま廃棄された。
(『嬬恋村誌 上巻』より)
この「現安斉幸男氏宅西の斜面」に設置されたという「鉄道貨車への荷受け場」は、所在地を含めて不明である。
芦生田の集落内に設置されている各戸の配置図に多くの安斉氏宅を見つけており、そのどれかと思われるが、まだ調べていない。
しかし、この記述の通りであるとすれば、草軽電鉄の嬬恋駅とは別の場所で上信鉱山の鉱石を積み込む計画であった可能性が高く、嬬恋駅での接続は必須の事柄ではなかったかもしれない。
また、索道自体は竣工していたようにも取れるが、その痕跡がいつ頃まで残っていたかも興味深い。
なお、昭和27(1952)年応急修正版の地形図で嬬恋駅周辺を見ると、嬬恋駅へと伸びる1本の索道が描かれている。
だがこの索道の行き先は上信鉱山ではなく、その北東約5km付近にあった万座鉱山(吾妻硫黄鉱山)なる硫黄鉱山であって、ろう石を採掘していた上信鉱山の索道とは異なるものだ。
とはいえ、嬬恋駅には過去に索道が接続していて、草軽電鉄がその荷受けをしていた事実がある。
おそらく上信鉱山専用線も同様の景観を現出せしめる計画であったのだろうが、その実態は想像の域を出ない。
なにもかも、あと一歩の所で手が届かない。
そんな感じがした。探索前に入手していた資料での机上調査には限界があった。
そして新たな資料を求める私の叫びに応える声があった。
“あの”上毛新聞社が、2012年に発行したばかりの新刊「群馬の再発見―地域文化とそれを支えた産業・人と思想―」という本である。
この本、1章分をまるまる割いて上信鉱山の戦時中の開発について記述していたのだから、たまんない!
さすがに全部引用するのは長すぎるので、これまでの資料になかった以下の内容を引用する。
それは、過去の上毛新聞が「嬬恋乙女」などの美称をもって勇猛に伝えていた、地元で実際の鉄道や索道の工事に駆り出された住民の証言である。
軍の直轄工事に等しく付近の住民が強制的にお伝馬に駆り出され、朝鮮からの徴用工がいくつかの飯場に収容され、線路敷付近の集落は急ににぎわった。私の父母もお伝馬に出たので、遠くからトンネルのトロッコや橋脚のセメント切りを眺めていた。すべてツルハシやスコップの手作業で、土方仕事そのものだった。(中略) 田んぼの中に高い支柱が組み立てられ、学校帰りはいつも搬器を眺めて楽しんでいた。時々、索道の従業員がサーカスのように搬器に乗って来て支柱に飛び移り、反対の搬器で帰っていくのを見てびっくりした。
鉱山鉄道の開削はほぼ終わり、レールを敷くだけになっていたが、終戦で中断、放棄され、索道は完成していたが、鉄道が未完成だったことから貯鉱場がなく、毎日試運転で空の搬器を回し、時々従業員が飛び乗りなどして遊んでいたようだ。
(『群馬の再発見』より)
前半は戦時中の工事としてはありがちな内容だが、後段の太字にした部分は極めて重要な総括的内容である。
鉱山鉄道の路盤工事はほぼ終わりレールを敷くだけになっていた(橋については橋脚のみの建設であったことが、別のページに書かれている)ことや、索道が完成していたこと、しかし(芦生田の安斉氏方の脇に建設予定だった)貯工場が未完成であったためその索道も活用されなかったことなどが判明する。
そしてこの本には、私が現地で小躍りした“第3号隧道”東口の写真が、「通り抜けできる鉱山鉄道トンネル」というキャプションと共に掲載されていた。
上信鉱山専用軽便線が、その悲しい歴史の中で辿りついた最終地点らしきものは、だいたい判明したように思う。
未発見の遺構がまだ眠っている可能性はあるが、ひとまずの遺構調査はここまでとする。