廃線レポート 上信鉱業専用軽便線(未成線) 机上調査編

公開日 2015.5.11
探索日 2015.4.08
所在地 群馬県長野原町〜嬬恋村

嬬恋駅跡の現状と過去


2015/4/8 11:08 《現在地》

前の回の最後に書いたとおり、嬬恋駅跡地には案内板があるだけで、駅の具体的な痕跡は残っていない。私が現地でなぜか見つけられなかった案内板も、私が撮影した写真に写り込んでいると、読者さんから指摘があった(笑)。ちなみにその解説文は草軽電鉄についてのみで、ここで接続する予定があった上信鉱業専用軽便線については触れられていないようだ。

今回は「机上調査編」と題して、帰宅後の机上調査で判明したいくつかの事柄を記録しておこう。
(今後も判明したことがあり次第追記の予定)
中でも現地探索で実りが少なかった嬬恋駅周辺については重きを置いた。

では早速始めよう。




「草軽電気鉄道」(プレス・アイゼンバーン/1981年)より転載。

右の写真は、昭和56(1981)年にプレス・アイゼンバーンが発行した「草軽電気鉄道」という大判本に掲載されていた、昭和34(1959)年当時の嬬恋駅構内風景である。

この後にご覧頂く駅の構内図や背景の山の形などから判断して、この写真は上に掲載した現状写真と同じ方向を向いて撮影されたものである。
半世紀を経た風景の変貌にはまさしく隔世の感という表現を用いたくなるし、異様にパンタグラフの高い(ように見える)草軽電鉄の象徴的ルックスを持った電気機関車や、白黒写真であることと相俟って、写真全体からノスタルジーが醸し出されている。

だが、これが撮影された当時でさえ、私が探索した上信鉱業専用軽便線にとっては10年以上先の“未来”だったのだから、沿線に残る遺構の多さについ忘れそうになるものの、専用線は本当に“古い”時代のものであった。



「草軽電気鉄道」(プレス・アイゼンバーン/1981年)より転載。


同じ本からもう1枚。
これはキャプションによると、小代(こよ)〜嬬恋間で昭和35(1960)年に撮影された写真とのことだが、同区間内でこのように村落を背景に橋が架かっている地点は、おそらく一箇所しかない。
そしてこの写真の橋の橋台と思われるものが、嬬恋駅跡のすぐ近くに今も残っている。




これは小熊沢の畔に残っている。
おそらく現在の小熊沢の直線的な流路は河川改修の結果によるもので、以前は蛇行していたのだろう。現在は川から10m以上離れた陸上に橋台の一部が取り残されている。
上の古写真との定点撮影を全く意識していないので、撮影方向もバラバラだが、専用線のコンクリート橋台が現存する地点からは、100mくらいしか離れていないところに、ご覧のような古色蒼然たる大正時代の石造橋台が現存している。

それなのに、この壊れかけた石造橋台は有名で、まだ立派に使えそうな専用線の未成橋台は、省みられていない気がする。
なんて、別に恨み言がいいたいわけではなく、確かにこの嬬恋駅跡の周辺に二つの世代が異なる鉄道遺構が現存することをいいたい。



といったところで、話しを再び本題である専用線に戻そうと思う。
もとの文章はこちらで既に引用しているので略するが、専用線の終点が草軽電鉄の嬬恋駅に予定されていた事は、昭和19(1944)年9月30日や同年12月8日の上毛新聞などにはっきり記載されている。
もちろん、これらの記事が誤りでない保証はないのだが、現に専用線のものらしい橋台を小熊沢に見ているのだから、やはり間違いではなかったのだろう。

それでは、専用線と草軽電鉄は嬬恋駅でどのように接続する計画だったのだろうか。
共に軌間は762mmで共通するので、レールの接続は難しくないだろうが、草軽は当時既に電化されていて、一方の専用線に電化の計画があったかは、今のところ記録が無く不明である。

左図は、前出のプレス・アイゼンバーン「草軽電気鉄道」に掲載されている嬬恋駅の構内図をベースに、チェンジ後の画像に私が想像で専用線や道路を書き加えた。
残念ながら構内配線などには何の根拠も無いので消極的に描いたに過ぎないが、両方の鉄道とも駅を出てすぐに小熊沢を渡っていた(計画だった)ことは事実であろう。


このほか、戦後間もない時期の空中写真なども見てみたが、解像度が低いために駅構内の配線を調べるには厳しく、嬬恋駅で草軽と専用線がどのように繋がろうとしていたか現状不明といわざるを得ない。


また、嬬恋駅がある芦生田には、他にも専用線の関連施設が建造されていた可能性がある。
こちらでも引用した「嬬恋村誌上巻」の上信鉱山についての記述中で、特に赤字の部分に注目していただきたい。

上信鉱山  (ろうせき山)
(中略) なお鉱石の輸送は、山元から索道で仁田沢へ、それから国有鉄道(国鉄トラックのことか)によって芦生田、そこから草軽鉄道貨車によって軽井沢へ出されたが、その産出鉱石量は一万五千頓とあって、昭和十九年には鉱山から直接芦生田の索道による輸送を計画施工した。即ち仁田沢=門貝=三原=芦生田と国有地、民有地の区別なく強制的に立木の伐倒、支柱の建設と進捗し、芦生田には現安斉幸男氏宅西の斜面へ鉄道貨車への荷受け場を施設した。現国鉄吾妻線とほぼ敷地を同じくする鉄路が長野原駅から分岐する構想で大要その鉄道は羽根尾、半出来、芦生田と開さくされて、この鉄道が上信鉱石輸送ルートとなる筈であった。
これ程の大事業も昭和二十年八月の終戦と共に一切終焉を告げ、さしもの索道も、新設鉄道も上信鉱石の輸送を見ずそのまま廃棄された。
  (『嬬恋村誌 上巻』より)

この「現安斉幸男氏宅西の斜面」に設置されたという「鉄道貨車への荷受け場」は、所在地を含めて不明である。
芦生田の集落内に設置されている各戸の配置図に多くの安斉氏宅を見つけており、そのどれかと思われるが、まだ調べていない。
しかし、この記述の通りであるとすれば、草軽電鉄の嬬恋駅とは別の場所で上信鉱山の鉱石を積み込む計画であった可能性が高く、嬬恋駅での接続は必須の事柄ではなかったかもしれない。
また、索道自体は竣工していたようにも取れるが、その痕跡がいつ頃まで残っていたかも興味深い。


なお、昭和27(1952)年応急修正版の地形図で嬬恋駅周辺を見ると、嬬恋駅へと伸びる1本の索道が描かれている。
だがこの索道の行き先は上信鉱山ではなく、その北東約5km付近にあった万座鉱山(吾妻硫黄鉱山)なる硫黄鉱山であって、ろう石を採掘していた上信鉱山の索道とは異なるものだ。

とはいえ、嬬恋駅には過去に索道が接続していて、草軽電鉄がその荷受けをしていた事実がある。
おそらく上信鉱山専用線も同様の景観を現出せしめる計画であったのだろうが、その実態は想像の域を出ない。

なにもかも、あと一歩の所で手が届かない。
そんな感じがした。探索前に入手していた資料での机上調査には限界があった。
そして新たな資料を求める私の叫びに応える声があった。

“あの”上毛新聞社が、2012年に発行したばかりの新刊「群馬の再発見―地域文化とそれを支えた産業・人と思想―」という本である。
この本、1章分をまるまる割いて上信鉱山の戦時中の開発について記述していたのだから、たまんない!

さすがに全部引用するのは長すぎるので、これまでの資料になかった以下の内容を引用する。
それは、過去の上毛新聞が「嬬恋乙女」などの美称をもって勇猛に伝えていた、地元で実際の鉄道や索道の工事に駆り出された住民の証言である。

軍の直轄工事に等しく付近の住民が強制的にお伝馬に駆り出され、朝鮮からの徴用工がいくつかの飯場に収容され、線路敷付近の集落は急ににぎわった。私の父母もお伝馬に出たので、遠くからトンネルのトロッコや橋脚のセメント切りを眺めていた。すべてツルハシやスコップの手作業で、土方仕事そのものだった。(中略) 田んぼの中に高い支柱が組み立てられ、学校帰りはいつも搬器を眺めて楽しんでいた。時々、索道の従業員がサーカスのように搬器に乗って来て支柱に飛び移り、反対の搬器で帰っていくのを見てびっくりした。
鉱山鉄道の開削はほぼ終わり、レールを敷くだけになっていたが、終戦で中断、放棄され、索道は完成していたが、鉄道が未完成だったことから貯鉱場がなく、毎日試運転で空の搬器を回し、時々従業員が飛び乗りなどして遊んでいたようだ。
  (『群馬の再発見』より)

前半は戦時中の工事としてはありがちな内容だが、後段の太字にした部分は極めて重要な総括的内容である。
鉱山鉄道の路盤工事はほぼ終わりレールを敷くだけになっていた(橋については橋脚のみの建設であったことが、別のページに書かれている)ことや、索道が完成していたこと、しかし(芦生田の安斉氏方の脇に建設予定だった)貯工場が未完成であったためその索道も活用されなかったことなどが判明する。
そしてこの本には、私が現地で小躍りした“第3号隧道”東口の写真が、「通り抜けできる鉱山鉄道トンネル」というキャプションと共に掲載されていた。

上信鉱山専用軽便線が、その悲しい歴史の中で辿りついた最終地点らしきものは、だいたい判明したように思う。
未発見の遺構がまだ眠っている可能性はあるが、ひとまずの遺構調査はここまでとする。




専用線復活の一度の機会と、不運の鉄路


机上調査編の後半は、昭和20年の終戦をもって強制的に建設を打ち切られた専用線が、戦後に少なくとも一度は復活のチャンスを得ていた事について触れておきたい。
そして、その主役もまた草軽電気鉄道であったのだ。


繰り返しの引用となる「草軽電気鉄道」だが、その10pの「草軽のあらまし」に次の記述がある。

昭和23年6月、「上信礦業株式会社」が所有していた専用線(着工はしたものの未完成、一部橋脚などが完成していた)である嬬恋―長野原間を買収し、同時に長野原から新鹿沢温泉間の23.1キロの地方鉄道の免許を申請した。  (『草軽電気鉄道』より)


これまで何度も登場している草軽電鉄は、文字通り草津と軽井沢を結ぶ目的で営業された私鉄であり、大正時代より草津軽便鉄道の社名で、軽井沢側から路線を延ばしている。大正8年に終点は吾妻川沿いに嬬恋駅に達し、大正13年に電化を果たしたことで草津電気鉄道に改名した。本編に登場した吾妻川沿いの羽根尾発電所や今井発電所の資材運搬も担っている。そして嬬恋村に安定した灯りもたらした、大正15年には残る草津温泉までの区間も全通させ、全長55.5kmの本邦稀に見る高原的ローカル鉄道の完成と相成った。草軽電気鉄道への改称は昭和14年のことである。

このように嬬恋村を観光村として掬い上げた偉大な鉄道となった草軽は、一般的にはただ1本の鉄道路線を経営していたように見えるけれど、実は戦後間もない昭和23年という時期に、長野原〜嬬恋間の上信鉱業専用軽便線工事跡(線路敷)を買収し、さらにこの区間を含む長野原〜嬬恋〜新鹿沢温泉間の地方鉄道免許を政府に申請していたというのである。
新鹿沢温泉は、後に国鉄吾妻線の終点となる大前駅よりもさらに9kmほど西にある温泉地であり、もしこれらの新路線が草軽電鉄の手により実現していれば、同社は嬬恋を中心に十字の路線網を有することになっていたであろう。
今回探索した各種の遺構たちも、戦争のためではない、もっと明るい未来に生きる事が出来たのだ。たとえ、ひとときであっても。

ただし、これはあくまでも草軽の目論みに過ぎなかったようである。
実際に免許が下付されたという記述が無いので、おそらく却下されたのであろうし、嬬恋駅以西で鉄道工事が行われたこともないようだ。
とはいえ、専用線敷地の買収が一旦は実現したようであるから、その後もしばらくは草軽電鉄の手で用地管理されていたものと推察される。
このことは、戦時中の未成線でありながら、未だ多くの線路敷が開発されず残っていることの理由になるのかも知れない。
(今回の調査で、敷地内に同社の用地杭などを見ていないので、既に町や村に払い下げられているのか?)


そして何の因果か。
雄大な版図の拡張を夢見た買収劇の翌年より、草軽電鉄にとっての災難が立て続けに起きるのだった。

昭和24年9月1日、キティ台風によって、沿線各所で線路の崩壊など、多大の被害をうけてしまい、復旧には多額の費用を要したのである。昭和24年10月に開催された臨時株主総会において、営業不振のため新軽井沢―上州三原間38kmの運輸営業の廃止を決議し、同月26日に営業廃止の許可を申請したのである。
昭和25年8月4日、ヘリン台風により吾妻川が氾濫し橋梁の流出をはじめ、会社創立以来の被害をうけてしまった。このため昭和29年7月、地方鉄道整備法に基づく認定を受け、補助金の交付を受けるに至ったのである。
昭和34年8月14日、第7号台風によって三度被害を受け、吾妻川の橋梁及び橋脚を流失してしまい、ついに吾妻川の橋梁は復旧不可能となり、嬬恋―上州三原間はバスによる連絡運輸を行った。昭和34年11月13日、10年前に営業廃止の申請を行った新軽井沢―上州三原間の廃止がようやく許可されたのである。 (『草軽電気鉄道』より)

このように気の毒と思える災害の連発に疲弊した草軽は、昭和35年4月24日に至って嬬恋駅を含む上州三原駅以南の38kmにも及ぶ区間を廃止したが、既に斜陽はいかんともし難く、昭和37年1月31日に残りの区間も廃止され、同社の鉄道事業は全廃されたのである。

なお、これは裏付けのない“机上の空論”でしかないが、昭和24年以降に勃発した廃線の危機を打開する手段として、既に買収を終えていた専用線の再利用(鉄道敷設やバス専用道路としての利用)を検討したことは当然あっただろう。しかしそれは経営陣にとってさほど魅力的な方策には映らなかったのか、その方面で何らかの企てがあったという話しは今のところ見つけられない。

長野原駅から嬬恋駅を経て草津温泉に至る全長30kmほどの“長軽”電鉄としての復活は、果たして嬬恋乙女達を笑顔にする「IF」であったのか、なかったのか、もう検証する術も無いのであろうが、興味深いことである。


◆草軽電鉄による専用線買収に関しての新資料。 (2015/5/16追記)

昭和56(1981)年にプレス・アイゼンバーンが出版した「草軽電気鉄道」には、昭和23年6月に草軽電鉄は専用線を「買収した」とはっきり完了形で書かれているが、昭和62(1987)年に郷土出版社が刊行した「思いでのアルバム・草軽電鉄」の普及改訂版として平成7(1995)年に出版された「写真集・草軽電鉄の詩」には、この買収は完了していなかったと取れる記述がされているほか、微妙に事実関係の表現が異なっている。

同書によると、草軽電鉄は昭和20(1945)年に東京急行電鉄株式会社の傘下に入っており、その後廃線に至るまで同社の指揮を受けた。
廃線の直接のきっかけが、昭和24年、25年、そして34年と繰り返し受けた台風禍にあったことは変わらないが、この渦中にあって東急五島社長が中心となって進めていた「起死回生の努力」とは、次のようなものであったという。

@ 長野原―真田(現:長野県上田市真田)間の国鉄バス路線の払い下げを申請
A 長野原―芦生田(旧嬬恋駅)間の路線権利を、東急・硫黄会社・地元の三者負担によって買収する
という企画をすすめたのであるが、いずれも不調という不本意な結果に終わったのであった。

この、いずれも不調に終わったという2つの策のうち、Aが専用線の工事跡の買収のことであると思われるが、当事者は草軽電鉄単体ではなく、東急・硫黄会社・地元の三者とされている。
硫黄会社とは、それまで草軽電鉄を利用して硫黄の搬出を行っていた企業で、草軽に代わる新搬出ルートとして専用線の買収に与したのであろうし、地元がこの時点から関与していたというのも、利害の関わりから見て自然なことと思うが、肝心の買収の成否については、今のところ2つの説が併存している状況である。今後、確定させるような新資料の登場を待ちたい。




この机上調査編を書いている最中に、驚きの(残念な)ニュースが飛び込んできた。

私の現地探索は4月8日だったのだが、そのわずか32日後の5月10日に現地へ赴いた読者さまより、オツムギ川橋梁跡の左岸側築堤と橋台がすっかり撤去されていたとの情報を得たのだ。
右に匿名氏の撮影された画像を転載させていただく。
下は私が撮影したものだ。

70年も残っていたものが、私が訪れた後のたった32日間で消えるなんて!!