第1章. 未成線の正体を探る
探索のきっかけはA氏の情報であったが、その後、探索を行う前に「長野原町誌 上巻」を確認したところ、第1回の前説で紹介した情報を得て、未成線の路線名も、レポートの表題「干俣鉱石輸送鉄道」と判明した。
だが、探索後のさらなる机上調査の結果、この路線名は正式なものではなかった事が判明した。
本章では、机上調査によって判明した本未成線の歴史を可能な限り多く紹介したい。(まだ分からない事も多いが)
(1) 日本国有鉄道百年史 第11巻
本邦鉄道史のバイブル「日本国有鉄道百年史」(全19巻)をつぶさに見ていくと、「第11巻」に本鉄道の事が書かれているのを発見した。
該当箇所は2箇所あり、1箇所目は268pの次の記述だ。
(昭和)19年初頭アメリカ軍によるマリアナ諸島侵攻の頃から戦局はいっそう苛烈となり、国内資源線等の繰上げ施工が急がれた。すなわち伊佐線、八幡浜線、釜石線、小本線等の緊急建設である。また、鉱山・炭坑への数キロに及ぶ専用鉄道が専用側線名義または委託工事として施行された。すなわち、三井芦別坑専用鉄道、茅沼炭坑専用鉄道、淋代砂鉄専用側線、常磐炭田4専用側線、草津鉄山専用側線、若狭本郷線、佐賀関軽便線、上信鉱業専用軽便線がそれであった。 (『日本国有鉄道百年史 第11巻』より)
上記文中で太字にした二つの鉄道線が当地方と密接な関係を持っており(位置は右図)、ずばり今回探索した未成線の正式な名前は、上信鉱業専用軽便線であったようだ。
昭和19年、太平洋戦争後半の決戦期においては、我が国は海外や外地からの資源調達が難しくなり、そのため国内鉱山の緊急増産が国策となっていた。東京に近い群馬県内の鉱山は中でも有望視され、群馬鉄山(草津鉄山とも)と上信鉱山(アルミの原料を産出)は当地方の二大鉱山として特に重視された。
そして、これら有望な鉱山の存在を背景に昭和18年着工され、突貫工事の末の同20年に完成したのが国鉄長野原線であった(昭和21年までは貨物専用)。
上信鉱業専用軽便線についてのもう一つの記述はp280にあり、次の通りである。
特殊専用側線、原料開発専用鉄道、鉱業用専用軌道は前述の資源開発線の建設に伴い、国鉄が受託施工したものである。
特殊専用側線は、その延長(最高10キロメートル)からして本来は鉱山・工場の専用鉄道と称すべき性格のものであったが、緊急実施の必要から便宜、駅の専用側線として建設された。
・吾妻線 (長野原・太子間約6キロメートル、長野原線の一部として昭和20年1月開通、草津鉄山)
・(9路線列記されているが略)
原料開発専用鉄道は、(略)
また、鉱業用専用鉄道は、地形の関係上軌間762ミリメートルの軽便鉄道としたもので、日豊本線幸崎から日本鉱業佐賀関精錬所に至る約10キロメートルと、長野原線長野原から上信鉱業ケーブル線(嬬恋)に至る約11キロメートルを施工した。前者は20年6月開通したが、後者は終戦までに土工に着手したにとどまり、以後の工事は中止された。 (『日本国有鉄道百年史 第11巻』より)
長野原駅を起点とする国策的な鉱山専用鉄道が、昭和19年前後に2本同時に建設された。いずれも国鉄の受託施工であったという。
1本は群馬鉄山の索道終点である六合(くに)村太子へ達する軌間1067mmの長野原駅専用側線(全長6km)であった。これは終戦前に完成し、戦後も存続して一時は旅客営業も行った(昭和45年休止、翌年廃止)。
もう1本は上信鉱山の索道終点である嬬恋村芦生田へ達する軌間762mmの上信鉱業専用軽便線(全長11km)であった。こちらは終戦に間に合わず、そのまま建設は中止されたのであった。
なお、「国鉄の受託施行」とあるが、実際の建設に当たったのは他の多くの国鉄線と同じように下請けの建設会社や勤労奉仕の一般市民であった。
当時の工事の様子は、地元紙・上毛新聞のバックナンバーでいくつか見つける事が出来たので、次に紹介したい。
(2) 上毛新聞 昭和19年5月30日号より
これから上毛新聞の昭和19年分バックナンバーより3つの記事を紹介するが、最初に紹介するこの記事は、上信鉱業専用軽便線が計画された経緯を教えてくれる。
長野原=三原間に「吾妻支線」敷設 三原地区の地下資源開発
運通省委員である青木(中略)の三代議は去る廿五日から廿八日まで吾妻線突貫工事並に付近沿道の資源開発状況等につき詳細に亘って視察した結果 長野原―嬬恋三原間十キロに省線の支線新設を運通省に具申する事になった 即ち三原地区には○○鉱があり目下○○会社が採鉱を進めているが時局下必要な鉱石の増産や同地方の資源利用開発の為是非鉄道を敷設したいと言うのであ(ママ)
(『上毛新聞 昭和19年5月30日号』より)
新聞なのに伏せ字(○)があるのは、戦時下における機密保持のためであろうか。
ここにある三原地区とは、実際に計画された路線では終点が予定されていた芦生田地区から見て吾妻川を挟んだ対岸で、ほぼ同じ位置である。
また運通省とは運輸通信省の略で、昭和18年に鉄道省と逓信省が合体して誕生した省庁である。
なお、記事によれば建設当初の長野原線は、吾妻線と呼ばれていたようである。昭和46年に長野原線は吾妻線に改称されるが、こうした下地があったとは。
そして長野原〜三原間の支線は「吾妻支線」と仮称されており、この通り実現していたら、国鉄吾妻線吾妻支線などという、訳の分からない名称になっていたかも。
この「支線計画」はすぐに政府の容れるところとなったようで、わずか4ヶ月後の次の記事は、既に着工後である。
(3) 上毛新聞 昭和19年9月30日号より
紙面は戦争一色である。
主な見出しは、戦機へ突貫する“吾妻線” 男度胸の体当り工事
、 世紀の汽笛 山峡を縫ふ建設部隊
、 群馬鉱山へ 切り開く自動車道路
、 上信鉱山を 飛機増産に直結する
などがあるが、いずれも吾妻線(長野原線)の突貫工事や、関連する鉱山の突貫採鉱の記事である。このうち「上信鉱山〜」の記事に、建設が進む上信鉱業専用軽便線の事が書かれていた。あまりに長文なので、具体的な工事の内容に関係する部分を掻い摘んで引用する。
上信鉱山を 飛機増産に直結する
敵米の熾烈な航空侵攻(中略) 太平洋戦局愈々最終の決戦段階に入った(中略) 「一機でも多く―」の同朋勇士の血の叫びに応へる航空機増産に直結する我々の仕事(中略)
鉄道建設興業株式会社の直属として長野原駅から草津電鉄嬬恋駅まで凡そ○キロ、上信鉱山専用側線の建設に文字通りの突貫工程を急いでいる佐藤工業株式会社(本社富山市)(中略) 吾妻線完成にもこの佐藤組の力は大きく本年○月予定の区間を期限以上の快速に完了し東京地方鉄道局宮崎施設部長から名誉ある表彰状を獲得したのもむしろ当然で、殊に戦ふ資源運輸の新動脈吾妻線の咽喉を扼す渋川駅から○キロ間の処女建設だったからその自負に賭けた矜持も見逃されない、今度はそこに払はれた新鋭の技術と煮え沸る敢闘精神を(中略) 羽根尾の広大な事務所には西藤所長以下幹部全員が日日の起居を共にしている(中略) この工事==直接米英攻略だ今だ建設砲進軍――とは単に壁間に貼られたポスターの文句ではない
(『上毛新聞 昭和19年9月30日号』より)
この記事からまず分かるのは、上信鉱業専用軽便線(記事中では上信鉱山専用側線)の元請けは鉄道建設興業(株)(現:鉄建建設(株))で、下請けとして実際に工事に当たっていたのは佐藤工業(株)という富山市の会社であったということだ。
同社は長野原線(記事中では吾妻線)の一部工区の工事も担当していた(「吾妻線鉄道敷設概況」(「群馬県史資料編24」所収)によると、佐藤組は第一工区(渋川〜小野上)7.9kmを施工)とのことで、隧道工事も経験していた。
……というか、佐藤工業こそは、隧道工事のエキスパートであった。
「トンネルの佐藤」というのは、同社の業界における通り名である。
上記の記事にも、その“力”が遺憾なく発揮されているし、同社サイトの沿革欄を見れば、「昭和34年、黒部ルート冬営工事において日進25.1mのトンネル掘削の日本記録を樹立
」の栄誉が躍っている。
かような“トンネル戦士”のエキスパート集団の手をもってしても、終戦という現実は、わずか120mほどのトンネルさえ未完に終わらせた。
このことは、戦争末期の工事環境そのものが、もはや限界に達していたことを感じさせる。
なお、誌面には建設現場の写真が数枚掲載されているが、いずれも長野原線のものである。
また、この記事の中ではじめて登場した鉄道の名前がある。
草津電鉄である。
記事によれば、建設線の終点は草津電鉄嬬恋駅であったという。
草津電鉄は、廃線ファンにはそこそこ知名度が高い草軽軽便鉄道(軽井沢と草津温泉を結んだ)が改称したもので、昭和19年当時はこのように呼ばれていた。
そして同線の嬬恋駅は現在の嬬恋村芦生田にあった。
上信鉱業専用軽便線は、同じ軌間762mmの軽便鉄道だった草津電鉄と、嬬恋駅で連絡する計画を持っていたのである。
嬬恋駅は昭和35年に草津電鉄の南半分と一緒に廃止されるが、国鉄と私鉄の連絡線としての計画にもなっていたのは興味深い。
もし開業していたら草津電鉄の歴史にも影響を与えていた可能性があるだろう。
(4) 上毛新聞 昭和19年12月8日号より
私が調べた限りでは、これが上信鉱業専用軽便線について述べた最後の記事である。やはり建設中のもので、工事中止を伝える記事は未発見だ。
怒る浅間の激励 航空機増産に繋がる嬬恋乙女も
ドーン、ドーン、初冬の天心を突き破る太鼓の始業合図は午前八時全山を圧し遠く浅間高原鬼押出の山気を揺るがす―上信鉱山の鉱石(ハロイサイト)採掘の岩山に挑むたゝかひはかくして太鼓の合図で火蓋が切られる(中略) 多くの男性に交じって地元嬬恋乙女の戦列参加が甲斐々々しく頑丈な身ごしらへで横坑○○米を潜り直接炸裂するダイナマイトの危険にさらされている(中略)
一日の目標○噸は生命に賭けてと掘りだす原鉱は山元現場から○台の省営トラックで陸続草軽鉄道○○(嬬恋)駅に送り出されるこの○○(嬬恋)駅から○○○(軽井沢)駅を経て搬鉱の能力は十分と云ひ得ない怨みはあるが目下昼夜兼行の工程を急がれている○○(嬬恋)駅―長野原間○キロの私線完成によって採鉱及び搬鉱の能率は加速的に上昇するのだ、それと同時に今まで省営トラックで運ばれていた原鉱が山元現場から○○(嬬恋)駅まで直通の索道三本で送られ、そこから直ちに吾妻線終点長野原駅に直結されるのだから吾妻線全通による上信鉱山重要地下資源の開発は発動的に発揮される性格を持つ
何しろこの決戦に間に合はなければ我々が切腹しても申訳が立ちません―と最後の言葉をグッと締めた (『上毛新聞 昭和19年9月30日号』より)
地域の総力を結集してもなお足らず、もはやすべてを絞り尽くそうという死闘の様が、“嬬恋乙女”の仕事ぶりを通じて書き出されている。
こうして鉱石輸送を目的に建設が進められていた専用軽便線であったが、結局開通に漕ぎ着ける前に終戦を迎えた。その瞬間の様子は、私には分からない。
この紙面には、長野原線(渋川〜長野原の本線と、長野原〜太子の専用側線)が開通し、同駅から出鉱第一列車が運転されたことも書かれている。
第2章. 未成線のその後
上信鉱業専用軽便線の概要は判明したが、その詳細なルートや構造物、建設中止時点での完成状況など、探索する上での肝心な情報は明らかではない。
これらについて今後も机上・現地両面の調査を続けていくつもりだが、一つ大きな気掛かりなのは、本編の冒頭から書いているとおり、未成に終わった長野原〜嬬恋間には後にちゃんとした鉄道が開業している事である。
それは、昭和46年に開業となった長野原線の長野原〜大前間延伸だ。
(工事中の延伸区間は嬬恋線と呼ばれたが、開業と同時に長野原線とあわせて吾妻線へと改称された。)
本章では、未成線の「その後」を推測する助けとなることを期待して、この嬬恋線の工事について調べてみた。
(5) 「嬬恋村誌 上巻」より
長野原線の延伸を最も待望し、また実現によって最も恩恵を受けたのは、嬬恋村である。
そのため「嬬恋村誌 上巻」に多くの紙幅を割いて、このことが記録されている。
未成線と関係する部分を抜粋して紹介しよう。
国鉄嬬恋線の建設 (後に吾妻線と改称)
建設の念願成就までの経緯
鉄道敷設に対する本村の願望はつとに発生していたと言われるが、具体的に延長運動が開始されたのは、昭和二十五年頃である。
これより先、昭和二十年一月、上越線渋川駅から長野原に至る間が、群馬鉄山鉱石輸送線として開通し、貨物営業を開始したが、これと時を同じくして、長野原、嬬恋(芦生田)間に、干俣仁田沢(上信鉱山の所在地)から産出された、滑石(アルミ原鉱)輸送用の軌道敷設が計画され、路盤工事が行われたが、終戦によって中止されたという経緯がある。 (『嬬恋村誌 上巻』より)
嬬恋線の歴史は、昭和25年に嬬恋村と長野県上田市によって上信鉄道敷設期成同盟会が結成され、長野原と信越線を結ぶ国鉄上信線新設の陳情が開始されたことに始まる。
昭和28年には鉄道建設審議会が長野原〜嬬恋間の建設予定線編入を決定し、計画が具体化。昭和32年、建設調査線昇格。昭和34年、嬬恋線が建設線に編入。翌年の着工と進む。
昭和36年には、新たに嬬恋〜豊野(長野市)が新たに予定線に組み入れられ、着工区間(長野原駅〜大前駅)は嬬恋線の第一工期と位置づけられることになる。
昭和46年3月、長野原駅〜大前駅の開業と同時に吾妻線へ改称され、吾妻線は渋川駅〜大前駅間となる。その後、豊野への延伸は進んでいない。
上信鉱山 (ろうせき山)
(中略) なお鉱石の輸送は、山元から索道で仁田沢へ、それから国有鉄道(国鉄トラックの誤りか)によって芦生田、そこから草軽鉄道貨車によって軽井沢へ出されたが、その産出鉱石量は一万五千頓とあって、昭和十九年には鉱山から直接芦生田の索道による輸送を計画施工した。即ち仁田沢=門貝=三原=芦生田と国有地、民有地の区別なく強制的に立木の伐倒、支柱の建設と進捗し、芦生田には(中略)鉄道貨車への荷受け場を施設した。現国鉄吾妻線とほぼ敷地を同じくする鉄路が長野原駅から分岐する構想で大要その鉄道は羽根尾、半出来、芦生田と開さくされて、この鉄道が上信鉱石輸送ルートとなる筈であった。
これ程の大事業も昭和二十年八月の終戦と共に一切終焉を告げ、さしもの索道も、新設鉄道も上信鉱石の輸送を見ずそのまま廃棄された。
(『嬬恋村誌 上巻』より)
今回探索した長野原町内の未成隧道の他にも、路盤の土工や荷受け場などの建造が進んでいたようだ。
そして、鉄道だけではなく、索道も未成に終わっていたことが新たに分かった。
中でも、未成線と後の吾妻線はほぼ敷地を同じくした、という記述は重大である。
これら未成遺構の根源となった上信鉱山の跡地については、ネット上にもいくつかの情報があるようだ。
煉瓦の煙突が目印の、とても美しい土地だという。 私もいずれ訪れてみたい。
【補 稿】
まだ自身で確認はしていないが、「草軽電鉄の年表に、昭和23年6月上信鉱業専用線 長野原〜嬬恋間(未完成)買収というのがある」
という情報、まつ氏から戴いている。
これは大いに関係がありそうな記述で、昭和20年の建設中止後の最も早い“復活への胎動”であったかもしれない。
あるいは国鉄吾妻線としてではなく、草津電鉄として復活する未来も、ありえたのだろうか。
以上で、現時点までに私が把握している上信鉱業専用軽便線に関する情報を概ね紹介し終えた。
今後の目標としては、詳細な計画図の発見と、それを利用した遺構の調査である。
A氏の 「小さな物件かも知れませんが」 ではじまった探索は、私にまだ見ぬ遺構への大きな夢を見させてくれている。
引き続き調査を続け、
A氏と、戦い抜いた先人に報いたい。