廃線レポート 中津川発電所工事用電気軌道 反里口〜穴藤 第6回

公開日 2024.07.24
探索日 2020.05.09
所在地 新潟県津南町

 中津川の機嫌を伺いながら、次なる地平へ……


2020/5/9 8:07 《現在地》

第二隧道の北口から南口へ向かうには、隧道が潜っていた尾根を越える必要があった。(もちろん、隧道を通れないからそれをするのだ)
それで、文字通り尾根を攀じ登って越えることを真っ先に考えたが、見た目に切り立っていて大変そうな予感がしたので、上手くいけばあまり登らずに目的を果たせるだろう河原への迂回を指針として行動を開始した。

これらの写真は、軌道跡がある山際の一段下に広がる氾濫原の様子だ。
柔らかなシダが絨毯のように茂っていて、歩くと青い良い匂いがした。
長閑な場所に思えるが、ダンプトラックより大きな岩がポツンと置かれているのは、氾濫の爪痕に違いない。

そんなところを歩いて、いよいよ水辺へ。



8:09

ヒュー…… (吹けない口笛)。

す、凄い場所だ。

ちょっとばかり、“日本らしさ”を超越したスケールの風景が、そこにはあった。
中津川キャニオンとでも称すべき、落差300mを遙かにこえる岩壁を、悠久の時のうちに生み出した川の流れ。
その偉大なエネルギーを我が物に変え、地域の富と国家の繁栄の源に転用しようと行動を起こした先人。
今は訪れる道も絶えたこの絶景を、電気列車の車上より眺めた人々がいた事実に唖然とする。それもおおよそ100年前に!

なお、一見人跡未踏と思われる対岸の“地中”には、発電所の導水路隧道が貫通している。
あくまでも地下施設としてではあるが、おそらく工事中には無数の横穴が地表に貫通していたはずだ。
全ては、今探索している軌道を用いた一連の発電所建設工事で作られたものである。



8:11

なるほど、こういう感じね……。

ここが隧道のある尾根が川へ落ちる先端だ。
案の定、切岸は険しく辿れなかったが、広い中州のような部分も利用できれば、上手い具合に上流側へ抜けられるんじゃないかな……。
いってみよう。



8:18

残念! 無理でした。

色々足掻いてみたんだけど、やっぱり今日は水量が多すぎて思うように川の中は進めない。雪代が邪魔をしている。
ここを辿らなければ生還できないみたいな状況ならば、どうにかこうにか突破を試みるのかもしれないが、今はまだその局面ではない。
川側からの迂回は諦めて、最初も考えた隧道直上の尾根越えをやり直そう!

【これは】引き返す前に撮影した、この場所の対岸風景。
こんな地形だもの。いくら下流に砂防ダムを作り続けても、すぐに埋まっちゃうわけだよな。キリが無いだろこれ…。



8:30

仕切り直し。

ここから、チェンジ後の画像のピンク線のルートで、尾根のちょっとだけ低い所(写真中央)を越えようと思う。
距離としては僅かなのだが、30m前後の落差があり、そのうえ横から見ると「几」の字型の傾斜をしているので、なかなか大変だ。
どこもかしこも崩れやすいんだろうなと思えるような地形をしている。



8:35

案の定、だいぶ手こずっている。

高さとしてはもう8割方登り終えたが、残り数メートルがマジでネズミ返しみたいな傾斜をしていて、なかなか手に負えない。地面が土で滑りやすいのも良くない。疎らに生えた立ち木の枝や根にぶら下がるくらいのつもりで、どうにかこうにか攀じ登る!

チェンジ後の画像は、息衝きがてら、直前までいた川べりを見下ろして。
こんな感じの比高感と距離感。狭いところに険しさがコンパクトに詰まってやがる。
これは確かに隧道が欲しい地形だ。



8:37

頂上へ。
案の定、全く道の気配はない。岩の欠片がたくさん散らばる痩せ尾根だ。
これから向かう南側も、北側同様の急傾斜になっていた。

チェンジ後の画像は、半分くらい下った所から、降り立つべき次の地平を見下ろして。
水路も軌道も尾根を潜って、今度はこの平地に足跡を刻んだはずだ。
こんなところまで人が来たのはいつぶりか分からない。そんな気分がする場所だが、何かが残っていることを期待したい。

さあ、どうだ?!



8:42 《現在地》

いたーー!!!

だ! そしてその上に道がある!

穴こと“水路隧道”については、ほぼ確信していたが、それとセットで存在したと推理した軌道跡も、確かに尾根を越えていた!!
これで、軌道にも隧道があったことが、ほぼほぼ確定!!
しかも、期待を上まわる鮮明な道形の残り方をしている! 
水路隧道の上に重なって存在する路盤が、はっきりと残っている! やったぞ!


この路盤に乗って、越えてきた尾根を振り返れば、

そこには隧道がッ!!




無かった〜〜〜 …orz

南口も完全埋没〜〜涙。

跡形もないとは言わないぞ。
坑口が埋没した跡の特徴的な窪んだ地形はある。
だが、残念ながらそれだけだ。

第二隧道は、床下の水路隧道だけを残して、完全崩壊してしまっていた。



8:44

これが水路隧道の南口だ。
もの凄い数の羽虫が乱舞している。

この正面ヶ原用水の旧水路は、大正8(1919)年から昭和24〜25年まで使われていた記録がある。
一方、蓋の上を走行していた工事用電気軌道は、大正10(1921)年から4年間程度利用されたに過ぎないが、おそらくその後も水路管理や近隣住民の通路として路盤の利用は継続していたと考えられる。その時期にどのような補修や手入れが行われたかは分からないが、基本的にはレールや枕木を退かしただけの路盤をそのまま利用していたのではないだろうか。

もう結果は分かるので、そこまでしなくても良いという囁きも私の内から聞こえているが、半分くらい義務感もあって、念のため、この穴にも入って確かめることに。(またかよ〜、狭くて嫌だよ〜)



8:45

内部の断面は、北口から侵入した洞内と同じものであり、改めて同一の隧道の表裏であることを確信した。
さらに、入って数メートルのところでガクッと折れ曲がっており、これまた北口洞内でも見た特徴だ。
少し違うのは、曲がった先に余水吐きと見られる落とし戸付きの横穴が空いていたことだ。(写真はそこを振り返り撮影)
ここから出ると、余水路を通じて中津川へ突き当たるようである。

なお、この水路は南から北へ向かって流れていた。
大雨で水路から水が溢れ、周囲を破壊するようなことが起らないように、所々に余水吐きが設けられていたのであろう,

チェンジ後の画像には、地上にある路盤と地下の水路の位置関係を大まかに示した。



8:47

余水吐きからさらに15mほど真っ直ぐ進むことが出来たが、最後は予想通りに閉塞していた。
閉塞地点は、先に訪れた【北側閉塞地点】の裏側の可能性が高いと思う。
天井のコンクリート板が、上から押しつけられるように無残に破壊されており、そこから隙間なく大量の土砂があふれ出していた。

天井の“屋根裏”には、軌道隧道の空洞が存在していたはずだ。
その空洞への貫通に一縷の望みを繋いだ2度目の水路隧道探索であったが、希望は全て絶たれた。

なお、水路隧道の長さは、ここが唯一の閉塞地点だと仮定した場合、北口から25m、南口から15m、プラス閉塞の厚みを考えて50m前後といったところだ。
上にある軌道隧道はこれよりも20mほど短いだろうから、全部で30mくらいしかなかったように思う。現に尾根もそのくらいの厚みしかない。
非常に短い隧道だったが、地質には恵まれず、第一隧道のように100年も形を留めることは出来なかったようである。

これを確認後、反転して速やかに地上へ戻った。



8:49

第二隧道は残念ながら現存しなかったが、ここから穴藤の集落まで、さらに1.4kmくらい軌道が続いていたはずだ。
私も前進を継続するが、地形図によると、この200mほど先では、中津川の流れが右岸を激しく削って、非常に急峻な斜面を作り出している。
果たして、水路跡や軌道跡は、そこを無事に越えることができるのか。もちろん、私も、である。

また、仮にそこを越せたとしても、軌道跡は最終的に中津川を一度渡って穴藤集落に到達することになる。
だが、今日の水量ではおそらく、私は川を横断することが出来ない。
なので、探索としてはここから最後まで、右岸通しで歩くことを余儀なくされるだろう。

これが、本日最初に穴藤橋から増水した水量を見た時に「ヤベえ」と感じた、その最大の理由である。
ここまで来はしたものの、最後まで右岸通しが可能なのかどうか、とても不安なのである。
もし引き返すとすると、大変なんだよなぁ……。



見つけ出した路盤を南へ向かって歩き出したが、一瞬で地形と同化してしまった。
この目の前のシダが繁る平地を真っ直ぐに突っ切っていたと思われるが、築堤などは見当たらない。
ただ、水路跡については明確な窪地となって続いていた。
水路跡を道しるべに進むことにする。

チェンジ後の画像は、足元を拡大したものだが、もの凄い数のワラビの芽が生えていた。
こんな場所までワラビを摘みに来る人も居ないのだろうが、一面の原っぱが皆そんな状態だったから、本気を出せばトラックの荷台が一杯になるくらい採れそうだった。



8:51

対岸に目を向けると、稲田の跡らしき段々の地形が見えた。
今では川の蛇行に前後を削られ、辿り着く道のない孤島のようになってしまった一角だが、昔の人はこんな土地も見捨てなかったし、そうすることが当然だと考えられていたのだろう。
春の野原の風景は長閑さの象徴みたいな顔をしているが、その空気感に似合わぬ瀑音で水を差しているのが中津川だ。
流れが早すぎて白っぽく濁っているのが、もう怖い。

そしてチェンジ後の画像は前方……。
案の定、激しく川に削られた土壁っぽい川岸の崖が、見えてきてしまった……。
これは……。



歩いてきたところを振り返って。

大きな樹木がないので、かつてはこの狭い平地も耕されていたのだと思う。
奥の尾根を隧道で越えてきた。
左の白茶色に見える部分は、尾根の先端が川に削られている崖だ。
足元の右に延びている直線の窪みは、水路跡である。



8:51 《現在地》

これは……厳しい。

陸地がない……。

川の中を往くか、崖の上を往くか、どちらかだが、前者は今日は無理だ。
となると後者だが、これも非常にリスキーだ。
この瞬間も川に削られて鋭さを増し続けている右岸の崖は、地形図を見ても50mを優に超える高さがあるが、実際もそう見えた。
到底危なっかしくて斜面の途中を横断しようとは思えない斜度だし、越えるならてっぺんまで高巻きすることになるが、そこまでして向こう側へ下っても、なおも穴藤まで辿り着けるという保証はない。
ただ、ここから見える向こう側の台地に辿り着けるまでだ。

穴藤まであと1km強。
ここまで来て戻るというのも苦しいが、水量さえ少なければ徒渉で進めると分かるだけに、川の機嫌のためだけに1時間単位の時間を費やし、かつ成否も読めない危険な高巻きに挑むのは納得出来なかった。それしか手がないと思えないのでは、ちょっと頑張りきれないのだ。

苦渋の選択だが、ここで撤退を決める。

ここの地形の難しさは、さきほど小さな尾根を越えるのに思いのほか苦労したことで身に沁みていた。
これ以上のリスクは避けよう。



これは石垣で守られた水路跡の末端の状況。
地面ごと、断ち切られていた。
言葉を失う。

だが、この先端から空中へ伸ばした延長線の位置に注目して欲しい。おそらく、昔はそこまで陸地があったのだろう。
軌道跡もほぼ同じ位置を通過していたと思うが、現状は痕跡のあるなし以前の問題なので、もうこれは、古い地形図だと隧道もなく普通に通過していたようだよ、くらいしか言えることはない。

恐るべし中津川の猛威!





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