廃線レポート 中津川発電所工事用電気軌道 反里口〜穴藤 第7回

公開日 2024.07.27
探索日 2020.05.09
所在地 新潟県津南町

 仕切り直し、穴藤の橋脚跡を捜索開始!


2020/5/9 10:37

この地図上の「撤退地点」を引き返した私は、約1時間40分を費やし、スタート地点の対岸である穴藤集落の入口まで戻ってきた。
股の間には、久々に自転車のサドルが収っているぞ。

残念ながら反里口側から穴藤まで軌道跡を歩き通すことは出来なかったので、今度は穴藤側から軌道跡を「撤退地点」目指して逆走してみる。
とはいえ、徒渉で中津川を横断できないのは身に沁みているので、目的地は『新潟県の廃線鉄道』(郷土出版社刊/平成12年)に記載されていた【旧発電所工事専用線のピア】とされている遺構だ。ここから600mほど北上した中津川の河中に、少なくとも昭和58(1983)年当時は存在していたらしい。

探索当時、ネット上にこの遺構に関する情報はなかったはずで、果たして現存しているかどうか……。
まあ、中津川の暴れっぷりを思うと、同書が「工事用の軌道用としては素晴らしく頑丈にできていたピア、河原にビクともしないで残っていた」と褒めていたとしても、そのままではなさそうだが……、痕跡はあって欲しい!



再出発地点とした穴藤橋を見下ろす町道分岐地点の風景。
橋の向こうには、朝停めたままの私のデポ車も見えている。

橋脚があったとされる場所へは、この左の道を辿れば近づけるはず。
大雑把にいえば、この道が軌道跡の転用だと思うが、厳密にはこの交差点部分だけ少し違っていそうだという話は、この後に改めて。
それでは左の道へ、GO!



交差点を出た左の道は、最初一瞬だけググッと急坂を登る。
おそらく、この急坂部分だけは軌道跡を掘り下げていて、もとの位置ではないと思う。

写真は交差点を振り返って撮影したが、左奥に見える第一発電所から、右の切り通しの奥に見える穴藤集落まで、ほぼ平坦な町道があり、おそらくそこが軌道跡だ。
で、この交差点の所だけガクッと下り上りして、また橋脚方向へ向かうと平坦になることから、上のように推理した。
つまり、“矢印”の高さ辺りに軌道跡はあったはず。



10:38

少数の民家の脇に狭い舗装路が延びている。
とても平坦だが、その特徴を持つ道を全て軌道跡だと疑っていたら大変なことになる。けど、ここはきっと正解している。
地図上だと行き止まりの軽車道として描かれているから、ほぼ地元民以外は入ってこなそうな道である。
ただ、行き止まりにしては道沿いの電線柱が妙に立派で、かつ架けられた電線の数も多い。



10:39 《現在地》

300mほど坦々とした舗装路を進むと、突然急坂になって登って行くではないか。

だが、オブローダーの目は欺けない。
廃線跡は、登らずにこのまま真っ直ぐだ。
地理院地図などに描かれている一本道も真っ直ぐ描いているし、電信柱の列も真っ直ぐに向いていた。左の道は民家の引き込みだった。

舗装路、終わり。



10:41

未舗装になった軌道跡、しかし廃道というほど荒れてはおらず、多少の交通量はあるようだ。
道幅とかも、軌道時代のままなんだろうか。
だとしたら、思いのほか広いな。でも、平坦な感じは、いかにもとしか言い様がない。良い雰囲気である。



10:43 《現在地》

穴藤橋前の分岐から約400mで、中津川の大きな蛇行に突き当たり、道は左へ大きくカーブする。
ここまで来ると、道を塞ぐ大きな落石が放置されていたりと、少々廃道らしくなってくる。でも、MTBならへっちゃらだ。
曲がった先では、本来なら空が見えていい高さに居並ぶ、おぞましい岩面が見えてきた。「石落し」の偉容、ふたたびである。

で、同時にクリームブルー色の中津川の流れも見え始めたので、目は自然と“橋脚”を探し始めたのであるが……

……

…………




あ!



ある!!!

おぉ〜〜! 残っていたか!!!

正直、倒壊を覚悟していたのだが、どうやら、書物の伝える頑丈さは、ホンモノらしい!!
嬉しいです! やった! ほんと良く残っていた。
頑丈さはもちろんだが、普段水流がぶつかる場所を上手く外れているのかも。
これから近づいて確かめるぞ! うお〜〜!!!



うおぉぉおお〜〜!!!

めっちゃ立派な築堤も残ってるじゃね〜か!!

おいおいおい! こっちは知らんかったぞ。廃線跡に築堤くらいは珍しくないってか?
いや、この路線の古さ、利用期間の短さ、遺構の規模、諸々を加味したら、これはめっちゃレア遺構だろ。
しかもこんな綺麗に、2年前まで現役だった廃線跡みたいに残って……。
背景の総立ちとなった「石落し」との取り合わせも、バッチリだ! この手の本の表紙にしたいレベルの絶景ではないか。


ん?!



橋脚は、1本じゃなくて、2本並んでいる!!

奥にあるのが本に載っていたヤツで、手前のは初めて見た。
2本とも立派な石造橋脚であることが、ここからでも見て取れるぞ。
いや〜〜、これは早く近くで観察したいですわ!
もちろん、ちゃんと築堤を通って、真っ正面から行くぞ。



10:45

時期的にマシなんで助かったが、藪道と化した軌道跡を辿り、築堤の付け根へ。
ここまで山際をなぞっていた道は、ここで意を決したように右折して広い氾濫原へ突き進む。
その足元を支えるのが、巨大築堤。
大正時代のたった数年利用された工事用軌道とは思えない大きな遺構で、かつ原型をよく止めていた。

そんな築堤の保存に一役買ったかも知れないのが、電信柱の存在だ。
ここまで道沿いにあった電線が、築堤を足掛かりに対岸へと通じていた。
行先は分からないが現役の電線だろう。そのおかげでたまに刈払いが行われているかも知れない。



GPSで現在地を確かめると、地理院地図に描かれた軽車道の末端までは行かず、その手前を右折して築堤へ向かっていた。

しかもこの築堤、なんと等高線で表現されているではないか!

それだけの規模であるというのはもちろん凄いが、100年前の築堤が最新地図の等高線になっているなんて、秘密めいていてとても愉快。



10:46

うお〜〜! 開放感で翼が生えそう!

取り巻く「石落し」が観客席で、私が築堤が舞台上の主役!

丸い世界が、ここを中心にして回ってる。そんな気持ち。



築堤の右側には、おそらく放棄からあまり年月を経ていない田の跡が広がっていた。
ここは中津川の氾濫原であるはずだが、洪水に壊されることなく役目を全うした様子であった。
通っていたのは穴藤の住人だろうか。
彼らは軌道跡にまつわるエピソードを持っていそうだが、誰とも会えず残念だった。



10:47

今日イチの解放的気分で、穴藤側より到達しうる軌道跡の最末端へ!
電線を渡る軽業師でもなければ、ここから対岸へ行くことはできない。
しかし、私にはまだ楽しみがある。


いざ、橋脚!



 軌道最大の遺構 “中津川橋梁(仮称)”跡


2020/5/9 10:47 《現在地》

高い築堤の先端に立って中津川を臨むと、眼下の河川敷に相前後して並ぶ2本の橋脚を見渡すことが出来た。

朝からここまでの暗中模索を絵に描いたような展開とは一転し、全く隠す気の無さそうな堂々たる巨大遺構の出現だ。
これほどの存在感を持ちながら、今回の探索前の時点では、『新潟県の廃線鉄道』以外、その存在に言及した資料を見たことがなかった。
それだけ、この工事用軌道というのはマイナーな存在で、一度も地形図に描かれたことがなかったために、仮に軌道の存在は知っていても、廃線跡を辿る試みがあまり行われなかったのだと思う。これは既に述べた隧道にも通底する状況だったろう。

さっそく遺構の観察を始めるが、まず大雑把に見て、足元にある橋台と、手前の橋脚、そして奥の橋脚の3点は、等間隔に並んでいると思う。それぞれ25〜30m離れている感じ。だが、奥の橋脚から対岸までの距離だけは50mも離れているように見えるので、ここは等間隔ではなさそう。
また、もう一つ非常に重要な情報として、現存する2本の橋脚の高さは、今いる橋台(=築堤)の高さよりかなり低い。5mくらいは低いと思う。このように大きな高低差が生じる橋梁の型式としては、上路トラス橋以外なさそうだ。



先端より振り返り見る築堤。
山際から90度折れて、50mばかり突出してきた。

この路盤に敷かれていたレールは、軌間762mmのナローゲージ(林鉄と一緒)だったが、道幅には幾分の余裕が感じられ、普通の軌間1067mmの単線の鉄道といわれても、信じられそうだ。もちろん、現代の道路と比べれば狭いが。
そのうえ、対岸へ通じる現代の電信柱がここを土台にしているくらいには、よく原型を止めている。
秘かに近年も補修がされていたりするのだろうが。もしそうでないなら、なかなかの耐久力である。

今からこの築堤を下りて河原へ向かう。



10:49

築堤を下りるのもなかなかスリリングで、その高さは10m弱はあろうかと見えた。
上側3分の2ほどは普通の盛土だが、残りの下側3分の1ほどは空積みの石垣で補強されていた。
勾配は全体を通じて35度くらいだが、岩垣部分は滑りやすく上り下りには不向きである。

このように手間のかかる補強をすることで、あまり頑強な地盤では無さそうな氾濫原に高い築堤を保たせたのだろうが、工事用軌道として数年の利用のみを想定した設備にしては、過剰なほど手が込んでいるようにも思う。

河中に立つ橋脚と比べると、築堤というのは地味というか裏方の存在に見えるかも知れないが、見事な遺構だ。
特に素晴らしいと感じたのは、この橋台の突端にあたる、かつては橋台を兼ねていたであろう部分だ。
これを見てくれ。(↓)



見事な石壁!!

大正11(1922)年か遅くともその翌年には列車の運行が行われていたはずで、探索時点で完成から約100年を経過していた。
それだけに石垣の表面にはたくさんの苔、草、灌木が繁っているが、完成当時は白亜の石城というべき偉容を誇ったことだろう。

巨大な築堤の先端を、ほぼ垂直!たらしめている高い石垣にも、下から3分の1の高さに犬走りのような段差がある。
緑が濃いので構造の観察は十分ではないが、ここに橋桁が据えられていたのだろう。すなわちこれが左岸の橋台だ。
この橋台から1本目の橋脚へ至る第一径間(右岸から数えた場合は第?径間)が、ここから空を渡っていた。

桁の高さ(厚み)が、この部分では地上から橋面の高さの半分を越えており、5mを優に越えている。
前述の通り、この条件に合う桁型式はトラス以外はないだろうし、トラスは厚みを大きくするほど径間を長く出来る。もちろん限度はあるが。



氾濫原のように見える一帯の草地だが、河原よりは一段高く、よく見ると草の陰に畝の起伏が残っていた。
橋台から25〜30m離れた草地と河原の境界線上に、1本目の橋脚が残されている。(以後これを「P1」と称する)
河畔林の枝葉に少々埋れているものの、春先という時期が良く、発見は容易だった。



10:50

P1近景。

地面からの高さは2.5mくらいで、自然堤防となっている足元の盛り上がりもあって、とても低く感じられる。
小判型の断面を持つ石造り橋脚で、綺麗に成形された石ブロックを布積みの作法で丁寧に積み上げてある。
ブロックの目地にはモルタルが入っていて、水勢に抵抗し、重い橋桁と列車を支える構造物に相応しい、緻密な見た目をしている。
上面は(登れないので)観察できないが、平坦であるようだった。

チェンジ後の画像は、P1より2本目の橋脚(以後「P2」)を撮影。やはり25〜30m離れている。

いよいよ、大ボスの登場だ。




10:51

P2近景!

よくぞ残っていてくれた!!

見たところ、河芯よりはだいぶ左岸寄りに位置しているが、増水すれば当然川の中という位置だ。
建設されてから約100年、そのうえ、使われなくなってからも(おそらく)100年近くを経過している橋脚が、河中にあって倒れもせずに残っているとは、なかなか奇跡的な幸運と堅牢の両立を感じさせる。



構造としては、P1で説明したとおりシンプルなもので、特筆すべき構造上の特徴というのはなさそうだ。
むしろ、こういうシンプルなものこそ強いというのはあるだろう。あと、あまり高くないのも有利だろう。
P1よりは遙かに高いが、それでも7〜8mくらいなもので、これがこの川の増水の限度を余裕で上まわるかと問われれば心許ない気がする。
実はもっと遙かに高い橋だったが河床の堆積で低く見えるようになった、……というようなことでもないようだし。(橋脚の根元に基礎のコンクリート部分が見える)

チェンジ後の画像は、大きさの比較対象物として、私が当時背負っていた一般的な日帰りトレッキング向きサイズのリュック(25リットルだったかな)を根元に並べて撮影した。
おそらく、この比較対象物がない画像から受ける印象よりは「大きい」と感じた人が多いのではないか。



凶悪そうな中津川に負けないでいる“生き残りの力”にあやかろうと、石の表面を優しくなでなで。
凄く硬い質感の石材だったが、角はことごとく丸まっていて、激流に削られてきたのだと分かる。

で、ここから先が、

私にとっては大きな悔しさのある、冷静を失いそうな話になるんだけど、

それは何かというと……(↓)




11:00 《現在地》

この見えている対岸へ行けないこと。

距離としては50mくらい。
でも、絶対に渡れない水勢だ。
飛石伝いとか、そういう小手先の技でどうにかなるレベルじゃなかった。(それでもしつこく探したんだけどね…)

かつては対岸へ軌道が続いていたのは間違いなく、遺構だって何か(平場くらいは)はあると思う。
空中の電線は渡って行っているので、それを反対側から(国道沿いか?)辿る保線ルートはどこかにありそうだが、簡単に見つけられそうにはないし、地形も大変な高低差を持っていて、思いつきで踏み込めるものではない。
こればかりは、大人しく水量が減る時期を待って再訪するのが得策だと判断した。

そして、対岸にもあって然るべき橋台が、なぜか見当らない。
もちろん、橋脚も2本きりで他にはない。
P2から対岸へP3を置かず渡るなら、50m程度の径間が必要であり、トラスなら不可能ではないが…。

この謎は、新旧の航空写真を見較べることで解決した。(↓)



↑やっぱり中津川は恐ろしい川だったよ…。

さっきも【こんな無体】な目に遭って、止むなく撤退したばかりだが、中津川はここでも右岸を削りまくっている!

昭和52(1977)年の航空写真だと、等間隔に並ぶ左岸橋台、P1、P2の延長線上、同じ間隔を空けた場所に右岸の陸地が存在する。橋台そのものは見えないが、ここにあったと推測できるため、合計3径間の橋だったことが分かる。

だが、最新の令和4(2022)年時点では、右岸が数十メートルの単位で後退しており、川の流れ自体も変化していた。
これでは、右岸橋台が見つからない(現存しない)のも当然だ。陸地ごと消滅していたのだから。
ただ、このように河芯が右岸方向にずれたお陰で、P2はより長く存続できる環境を得たのかも知れない。

ちなみに、最古の昭和23(1948)年の航空写真も見てみた。既に橋は架かっていなさそうだった。
歴代の地形図に一度も描かれなかったことも加味すれば、工事が完了した大正13(1924)年11月以降は速やかに桁が撤去され、渡ることが出来なくなったのだと思っている。ただこれについては、明確な情報は得られていない。

また、航空写真を含めて、この橋を撮影した写真というのも見たことがない。
こんなに目立つ大きな橋なのに、現役時代の写真がまだ発見出来ていないのである。
さらに、この橋の桁の形式に言及した資料も見たことがない。
橋台や橋脚の状況から上路トラス橋であったことはほぼ確定しているが、その材質や細かな型式が分からない。

これらは、この後の机上調査で改めて追求したいが、どなたかご存知の方がいたらご教示をいただきたい。



下流側へ50m以上離れた位置から、橋の遺構の全体が1枚に収るように撮影した。

(チェンジ後の画像)その写真に、想像による桁を書き入れてみた。

等間隔の3径間上路トラス橋(30m×3=90m程度)であったと思うが、詳しい型式が分からないので、ここでは当時よく用いられた木造ハウトラスを想像して描いてみた。作画の参考にしたのは、津南町内の信濃川に大正2(1913)年に架けられた【2代目宮野原橋】だ(写真は『十日町・中魚沼 写真集ふるさとの百年』より転載)←この橋は2径間で131mもある超大型の木造上路ハウトラス橋であった。
木造トラスだったのか、鋼製トラスだったのか、これも未解明の部分となる。トラスとしてはあまり径間が長くないので、前者の可能性が高い気はしているが…。

また、橋の上に(写真が残っていて、この区間で運用されていたことが分かっている)10トンL型電気機関車が牽引する資材運搬列車のシルエットも追加してみたが、架線や架線柱は省略している。つい忘れそうになるが、ここを走っていたのは電車である。新潟最古の電気鉄道だった。
全て拙い作画で恐縮だが、ここに橋があり、電車が走っていた場面を想像する足しにはなるだろう。
そして、改めて右岸の後退の具合が恐ろしい! 現在の河芯の辺りに、右岸橋台はあったようだ。



11:05 《現在地》

上の写真と同じ位置から、今度は下流方向を撮影した。

「石落し」の大峡谷地帯へ分け入って行く部分であり、見覚えのある場所まで見通せている。
チェンジ後の画像の「赤矢印」の位置が「第2隧道」があった尾根で、「青矢印」の位置が撤退した右岸の崩壊現場である。
すなわち、撤退地点まであと600mくらいであった。(カヤックの上級者が喜びそうな川だと思った)




以上、現地では抜群の存在感を誇っているものの、現役時代の姿はほとんど謎に包まれたままである「中津川橋梁(仮称)」より報告でした。

そういえばみんな、気になる“アイツ”の行方については、考えてくれているかな?





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