廃線レポート 久渡沢の軌道跡隧道 捜索作戦 机上調査編

公開日 2024.09.07
探索日 2019.01.29
所在地 山梨県山梨市


導入では、主に国会図書館デジタルコレクションの(最近実装された)全文検索によって、昭和30年代の複数の山岳ガイドに登場する、雁坂峠と広瀬を結ぶ久渡沢沿いの登山ルート上に存在した木馬道のことを取り上げた。
だが、この木馬道が、情報提供のあった軌道跡と同一のものであるという文献的な根拠は見つかっていなかった。

その状態でレポートの執筆をはじめたのだが、広く皆さまからの情報提供を求めた甲斐あって、本編を最終回まで書き進めるうちに、まだ私の把握していなかった色々な情報が広大な国会図書館デジタルコレクションの“海”からサルベージされた。(皆さまありがとうございます)
この机上調査編ではそれらを紹介すると共に、追加で私が手元の文献から見つけ出した記述なども紹介していきたい。

合言葉は……

“久渡沢軌道(仮)の正体に迫る!”




奥秩父一帯を取り上げた古典的山岳書の決定版とも評される原全教『奥秩父』(朋文堂)は、埼玉県側を取り上げる昭和8(1933)年発行の『奥秩父』と、山梨県側の昭和10年発行『奥秩父 続篇』の2冊からなる。
この『奥秩父 続篇』に、雁坂峠から久渡沢沿いに広瀬へと下る行程(探索とは逆方向)が3ページにわたって詳述されていることが分かった。

これにより、今回探索した区間の当時の状況をだいぶ詳しく知ることが出来たので、少し長くなるが、クツキリ沢から広瀬までの記述を抜粋して引用しよう。引用文中の太字の範囲が、特に“軌道跡”として探索した範囲(=現在も自動車道化されていない部分)である。また文中に適宜、対応する現場の写真を挿入した。
一緒に掲載した地図も、同書附属のものである。


『奥秩父 続篇』(昭和10年)より

……左から美しい沢がくる。クツキリ沢であろう。地図では古礼山からくる沢である。……まもなく伐採の終わった狼藉極まる跡へ出る。……ここには水辺に古い木製の軌道がある。左岸には古い製板小屋跡が多い。……それからすぐ流れの右へ渡る。

一丁くらいで右から【ナメラ沢が合流】する。「広瀬ヨリ四千六百米」とした杭がある。すぐ左岸から【深い沢】が合流してくる。本流は俄然水量を増し滝となっている。【右岸から来る小滝の橋】を渡る。この橋もやがて朽ちてしまう運命だ。それから間もなく【人工の粗削りな石門】が、峡谷に風致を添えている。【天井から破片】が落ちるから、通行に注意しなければならぬ。これを抜けると左から沢が一つくる。石門の前後にも【際どい桟橋】があり、流れへは、殆ど目も眩むような断崖となっている。本流は極度に迫って大きな滝となっている。

ナメラ沢から約20分で軌道が左岸へ渡るのである。【50間くらいの吊橋】となっている。板は殆ど腐朽してしまい、大きな梁が4本並行して渡っているだけである。水流は約10間下に薄暗い底に白い渦紋を描き気味悪く覗かれる。危な気に伝う大きな梁の間に、水の動きを俯瞰するのは気味がわるい。

これを無事に渡り了えると、左の方が崩壊していくらか窪みになった所に、短い橋が架かっている。これは細い梁1本でそれも傾き、無気味で一寸手におえない。左へ高廻りすると藪を抜けるようになる。右(引用者注:おそらく左の誤り)から来る【タナ沢】にも約30間の恐ろしい吊橋が架かっている、本流の大吊橋から15分くらいかかる。また小さな桟橋がある。これも丸太伝いである。なお一つ朽ちた桟道があり、……さきの大きな橋から15分くらいで左からやや大きな沢がくる。この橋は全く腐朽して形骸も留めない。その下流の丸太を渡るのである。……谷が急に開け、左に【山の神】が祀られてある。間もなく【赤志】の人家、そして高原の一端へ入る。後は広瀬へそのまま進めばよい。

『奥秩父 続篇』(昭和10年)より抜粋

一連の引用文中に「軌道」という表現は2度出ている。
一度目は、クツキリ沢からナメラ沢出合(今回探索区間外)へ下る冒頭附近の描写で、「古い木製の軌道がある」とある。
これはどんなものを指しているのか、今となっては残念ながら分からないが、文字通り、木製レールの簡易軌道だろうか。昭和4年の地形図に描かれていた軌道の終点より上流だが、峠沢沿いにも作業軌道のようなものが敷設されたことがあったようだ。

そして、太字としたナメラ沢出合から先が、現在も軌道跡らしき廃道が残る今回探索した区間である。
描写方向は私の探索と逆だが、出現する光景はだいたい一致している。件の隧道も、「人工の粗削りな石門」という表現ではっきりと描写されているし、現地には橋の痕跡が全く残っていない久渡沢本流の架橋地点には、「50間(=90m)くらいの吊橋」があったと書いてある。


“大吊橋”の跡地とみられる現場。
いったいどんな橋が架かっていたのだろう…?

現地では実在性まで疑いつつあった軌道であるが、同書の記述に触れたことで、現在は亀田林業の車道となっていて軌道跡らしい道が見当らない区間も含め、久渡沢に沿ってナメラ沢の出合から広瀬へ通じる一連の軌道が存在したことは事実らしいと理解した。ただそれと同時に、少なくとも赤志よりも上流については、当時既に荒廃した廃線跡だったことも読み取れたのである。

一緒に掲載されている地図でも、赤志より下流側だけに軌道の表現を行っており、それより先は軌道として描いていない。やはり昭和10年の時点で既に、久渡沢沿いの軌道の大部分以上は、廃絶されていたのだろう。地形図においては、昭和4年版にはじめて描かれた後、昭和28年修正版にも引続き描かれ、昭和42年版で削除されるまで長らく“最新地形図”に残り続けた軌道であるが、実際は相当早くに廃止されていたものらしい。

それにしても、現存しない“大吊橋”の描写……「50間くらいの吊橋となっている。板は殆ど腐朽してしまい、大きな梁が4本並行して渡っているだけである」……にはたいへん興味を惹かれる。
というのも、「50間くらいの吊橋」と、「大きな梁が4本並行して架かっている」という二つの描写が共存できる橋梁の型式というのが、ちょっと思い当たらないからだ。
前者は普通の(長い)吊橋だが、4本の大きな梁を持つという後者は、まるで桁橋の描写である。
大きな4本の木の梁をケーブルで吊り下げた吊橋というのが、ちょっと想像出来ないのである。

またこの橋については、同書の地図上の位置が、実際に探索した“軌道跡”の渡河地点より、だいぶ上流に描かれているという謎もある。
しかし、現地を探索した後だとなおさら、今回辿ったルートの対岸に(正しい)別の軌道跡があったとは思えないのが正直なところだ。

ちなみに、秋田県には昔から森林軌道用の吊橋が多く作設された記録があり、唯一現存している橋として、有名な抱返渓谷の神の岩橋(生保内森林軌道、大正15年完成、全長80m)というのがある。同橋は一般的な形状の吊橋であるが、主塔はコンクリートで、桁も木造補剛トラスとなっている。大きな梁を有するような型式ではない。

久渡沢を渡っていた橋については、初めて具体的な描写に触れたことで、ますます謎が深まってしまった感がある…。
しかし、いったんこのことは措いて、次の文献の紹介に移りたい。




原全教の『奥秩父』全2巻は好評のため、昭和17年に改めて『奥秩父』というタイトルで1冊にまとめられ、同じく朋文堂より発行されている。
今度は広瀬から雁坂峠という順路で前書と同じコースが紹介されているが、広瀬を出た辺りの描写を紹介する。

峠道は軌道となって、峠からくるクドノ沢に沿い、白いザレ地の横手をしだいに高く回って行く。赤志には家が2戸ある、いぶせき山住居ではあるが、昔からあったもので、峠と栄枯をともにしたものであろう。低い尾根を回ると……棚沢の枝を渡る。本路の橋は腐れて、少し下手の丸太を渡る。赤志あたりからしみじみと古道の面影を偲ぶのである。朽ちた桟から見下ろす右の流れは広く明るい。また小さい桟の丸太伝いがある。右から来る棚沢に30間ぐらいの恐ろしい吊橋が架かっている。

『奥秩父』(昭和17年)より抜粋

このように、ここでも「軌道」という表現が使われているが、それが現役の施設であったかは描写がないので分からない。そして、赤志から先については、やはり軌道廃止後と分かる表現がされているが、描写は前書の内容を踏襲しており、単に登降の順序を入れ替えただけでである。新しい情報はみられないので、棚沢以北の引用は省略した。附属の地図も全く同じ(複写)である。

この本が刊行された太平洋戦争前半こそ比較的多く登山書が出版されたが、敗戦間際から戦後しばらくは刊行がほとんどなく、昭和30年代に再び隆盛となる。その時代の書中の描写は導入で紹介したとおりで、かつて軌道であったところが“いやな木馬道”として再び利用されていたようである。
今回探索中に遭遇した遺物が豊富に残る【終点間際の飯場跡】は、『奥秩父 続篇』では「右岸から来る小滝の橋を渡る」という場面にあたるが、当時は建物などがあった感じはしない。おそらくこの場所に施設が作られたのは、戦後の木馬道時代なのだろう。

あの印象的な“人工の粗削りな石門(隧道)”や“大吊橋”も、木馬道時代に再生したのだろうか。
隧道については、【支保工】の状態などから、おそらくそうであろうと思えるが、もしかしたら大吊橋は再生されず、代わりに索道で搬出したのかもしれない。探索序盤の久渡沢谷底で【索道ケーブル】らしいものが谷沿いに落ちているのを見ている。僅かに遺構が残る【無名の沢の吊橋】などは、比較的後年になってから登山道として再生されたものかも知れない。

……とまあ、木馬道となってから今日に至るまでの変化にも、国道140号との関係性を含めて謎は多いのであるが、新たな文献を発見するには至っておらず、かつ軌道の歴史という意味では既に終わっていたことが明らかだから、本稿ではこれ以上追求せず、軌道が生きていた時代の描写を求めて、『奥秩父 続篇』よりも古い文献に焦点を当てたい。





『奥秩父』(昭和8年)より

次に紹介したいのは、前出『奥秩父 続篇』の前編にあたる昭和8(1933)年発行の『奥秩父』だ。
前述した通り、同書は埼玉県側の内容に寄っており、雁坂峠の記述についても、山梨県側の広瀬へ下るコースの描写はただ一行、「広瀬へは道標の如く2時間で達するが、この小径は非常に悪く殆ど手が入れてない」とあるのみだ。
この時期の登山者の雁坂峠へのアクセスは主に埼玉側から行われていたようで、交易などの目的で峠を越す旅人も皆無に近かったのだろう。

だが、同書の地図にはこの広瀬側への道が少し描かれており(右図)、ナメラ沢出合より少しだけ峠沢へ入った右岸(赤矢印の位置)まで登ってくる軌道が描かれている。
昭和10年の『続篇』で廃止されていた軌道が、昭和8年の時点では現役だったのだろうか。
それは分からないが、かつて存在した軌道の終点の位置を知る上でも貴重な資料といえそうだ。

また、峠沢をさらに遡って「屈切沢」(クツキリ沢)を過ぎたところ(青矢印の位置)には、「製板小屋跡」の表記がある。
『続篇』の地図には書かれていない施設だが、クツキリ沢付近に描写されていた「古い木製の軌道」は、ここへ通じるものだった可能性がある。

チェンジ後の画像は、現在の地理院地図上に、軌道の“真の終点”だったかもしれない位置をプロットした。
私はナメラ沢と峠沢の【出合】までしか行かなかったが、あと少しだけ峠沢を遡れば“真の終点”に辿り着いたのかも知れない。

原全教『奥秩父』シリーズからの情報収集は以上である。




『日本案内記』は、昭和初期に鉄道省が出版した全7冊からなる旅行ガイドで、各地の鉄道駅を起点とした当時の主な旅行先が網羅されている。このうち昭和5年に刊行された『関東篇』の「秩父連峰」のページに、塩山駅から雁坂峠へ至るコースが次のように紹介されていることが分かった。『奥秩父』より少しだけ早い時期の記述として紹介したい。

塩山口は塩山駅から雁坂峠まで約32粁、塩山から約7粁窪平までは自動車の便がある。まあ塩山から笛吹川の谷沿いの道は広瀬まで約20粁、広瀬はこの谷奥の寒村で製材所などあり登山案内人が居る。
広瀬から赤志を経て約7粁の間、森林軌道があり、この間笛吹川の渓流が美しい。軌道の終点から急に道は細くなって往時の秩父往還の面影はなく廃道の如くである。終点から約2粁で峠の登りとなり、そこに杣小屋がある。ここから約3粁、すすき、小笹の見事な急傾斜を幾回となくジッグザッグを切って登ると雁坂峠である。

『日本案内記 関東篇』(昭和5年)より

このように、広瀬から赤志を経て雁坂峠方向へ約7kmの森林軌道があったことが明記されている。ただ、この7kmという距離は、現地の行程に対して長すぎるように見える。実際は5kmほどであろう。(『奥秩父 続篇』も、ナメラ沢出合から広瀬までを4.6kmとしている)
昭和5年頃は、軌道は全線が稼働していたのだろうか。後の方に登場する「杣小屋」というのは、先ほどの「製板小屋跡」の現役当時を言っていそうだ。

一つ一つの資料から読み取れる情報は断片的だが、時代が微妙に異なるものを重ね合わせることで、だんだん輪郭と沿革が明確になってくる。
次は、いよいよ大正時代に遡る。
情報提供者によれば、久渡沢の軌道は大正初期に開設されたものであるという。その時代の文献だ。




山岳随筆の達人であった登山家田部重治の初期作で、これまで繰り返し復刻されている名著『日本アルプスと秩父巡礼』(大正8年/北星堂)の「笛吹川より荒川へ」の中に、彼が大正5(1916)年5月に笛吹川から東沢渓谷へ向かう道すがら広瀬を通った時の印象が次のように書かれている。

最後の広瀬村についたのは11時前頃であった。雁坂峠から軌道が出来て、材木が運搬され、村には宿屋が出来て、寒村の面影が聊か融和されて居る。

『日本アルプスと秩父巡礼』(大正8年)より

記述はこれだけだが、雁坂峠から広瀬まで軌道が出来て、広瀬が活気づいていたという。やはりこの時期に軌道が開設された可能性が高いようだ。




そして次に紹介するのが、今のところ久渡沢流域の軌道について言及を認められる最古の資料である。
それは、日本山岳会の雑誌『山岳 9(3)』(大正4年3月号)に掲載された「甲信武国境縦断」(筆者:小佐野迢々)という記事だ。

甲斐の北国境上、即ち甲斐武蔵信濃の三国界に連立する山岳に、登山した人が、殆んどなく、到底連嶺を縦断するは不可能と多くの人が思い、山岳に趣味を有する者でさえ、そう思いつつ居たのである、山麓の三富村でも、そう信じていて、自分等が登山の途に就く際になってさえ、尚縦断の覚束なきを云為した者があった。

『山岳 9(3)』(大正4年)「甲信武国境縦断」より

現在でこそ、甲武信岳を中核とするこの三国界である山域は登山者から人気も高く、縦走路についても比較的よく整備されているようだが、それはこの山域を広く世に紹介した田部による前出著作などの功績が大きく、大正初頭にはまだ多くが知られざる山々であったらしい。
そんな冒険の虜となった一行3名による表題の大縦走登山旅行は、大正3年7月29日に、中央線日下部駅(現山梨市駅)より始まった。この日は川浦温泉に泊り、翌30日の朝のうちに広瀬に着く。これより雁坂峠への登高を開始するという場面から引用を再開しよう。

上広瀬から爪先上りで、ここになると、もう高原地という感がする、やがて赤ツバ尾根となった、この尾根の上より雁坂峠、破不山、鶏冠(とさか)の大岩の諸山が北北西に峙つのが見えた、これから登らんとする山である、赤ツバ尾根より少し下りになると、赤志という部落で、家が二軒あった、服を着た人を見慣れないか、飼犬が頻りに吠えた、歩を進むれば、落葉松尾根である……落葉松尾根を行けば、峠の沢の渓谷に、路は入るのである、この渓谷に秋田県の横谷という人が、木材を以て、遠くより水道を作って、水車をかけて製材をして居るが、中々事業が大きいようである、レールを敷いて運輸の便を計りなどして居る、製材した板は、自分の県から連れて来て居る牛に負わせて、三富村湯の平迄運んで居る、工場の外に建築物が三四あった、峠の沢より登りになって井戸の沢という渓流に休憩した。

『山岳 9(3)』(大正4年)「甲信武国境縦断」より

秋田県の横谷という人が、レールを敷いて運輸の便を計り!!!

これが久渡沢流域で営まれた記録のある最古の軌道運材とみられるが、そのまま今回探索した軌道の由緒と言えるかは微妙である。

というのも、この時点で赤志や広瀬まで軌道が通じていた気配がない。だからこそ一行は(右に掲載した明治43年地形図に太く描かれている)秩父往還を経由して峠沢に入っている。そして峠沢に入って初めて、この横谷某による盛大な製材事業の現場を目撃しているのである。

これまで見てきた他の資料の記述も総合すると、この峠沢での製材事業(以後「横谷製材(仮称)」とする)が生み出した緒施設の残骸が、昭和10年の『奥秩父 続篇』に登場した「水辺に古い木製の軌道」の正体であり、かつ昭和8年の『奥秩父』の地図に描かれた「製板小屋跡」なのだと思う。

「横谷製材軌道」(仮称)は、峠沢に沿うように沓切沢と井戸沢の間に敷設されていたのかもしれない。そしてそれは極めて原始的な木製レールの軌道だった可能性がある。現地の製材工場で製材した製品は、険しい秩父往還の山道を牛に背負わせて広瀬方面へ出荷していたようだ。もし峠沢以下に久渡沢沿いの軌道が存在していたら、搬出に用いたと思われるが、まだなかったから使わなかったのではないか。

横谷製材(仮称)の事業については、今のところ情報がこれしかなく、久渡沢の軌道との関係性もはっきりしないが、私は上記のように推測する。
しかしその場合、久渡沢軌道を開設したのは何者なのかという謎が残る。
だが、この謎の答えは、大正5年7月に発生した日本山岳史上に残る大きな遭難事件にまつわる記録によって、計らずも、示されたのである。




大正5(1916)年7月、東京帝国大学の学生ら5人のパーティが奥秩父山塊の縦走登山中、道迷いと大雨のため遭難し、うち4人が低体温症で死亡する事故(奥秩父集団遭難事故)があった。上記リンク先で事故のあらましを把握できると思うが、遭難中にパーティをはぐれ結果的に唯一の生存者となった中村孝三氏が、8日もの間ほぼ飲み水だけで山中を彷徨った末に辿り着いて遂に救助された場所が、広瀬と雁坂峠の中間にあった製材所だった。そして、広瀬からこの製材所へ通じる軌道が存在することが、当時のいくつかの記録に示されている。

『山岳 11(1)』(大正5年10月号)の記事「雑報 秩父の惨事」は、当時の新聞記事や関係者からの聞き取りによって事故のあらましをまとめたものだ。
この記事中、中村氏が製材所に現れる場面は次にように書かれている。

甲武信の重畳せる山嶽中で行衛不明となった帝国大学生一行中の中村孝三氏が山梨県東山梨郡三富村字広瀬の山中2里奥(日下部駅から12里)の森林中にある三富木材株式会社俗に云う丸善第三製板所に辿り着たのは6日の正午前後であった襤褸々々になった破れ洋服を着し殆んど乞食同様の姿で顔色を土の如くにした氏は1本の杖を頼りに地を這うようにして事務室へ転がり込んだのである……全く瀕死の状態で……氏は其儘昏睡状態に陥って了った

『山岳 11(1)』(大正5年)「雑報 秩父の惨事」より

パーティが広瀬から破不山(現在の破風山)へ入山したのは7月26日のことだが、28日に遭難状態となり、中村氏は29日にパーティをはぐれ、8日後の8月6日に「広瀬の山中2里奥の森林中にある三富木材株式会社俗に云う丸善第三製板所」に辿り着いて救助された。ここまでの文献調査で把握しなかった会社名と、その俗称とされる製板所の名が出ている。

なお、警察や関係者有志、山林作業員らによる大捜索が5日よりはじめられていたが、関係山域が広大だったために難航し、中村氏の発見によって捜索範囲が絞られた結果、7日に他の4名の亡骸が発見された(31日頃死亡と推測された)。8日午後3時に遭難者の父兄親戚ら関係者が広瀬に集まると、現地火葬のため遺体発見地を目指すべく、案内人に連れられて夕闇迫る久渡沢へ向かう。次に紹介するのは、これに同行した記者による広瀬から丸善第三製板所へ至る経路の描写だ。


『山の犠牲 附・山岳登攀心得』(大正5年)より

山間の日は早くも暮れかかりて見上げれば山の此方彼方に雲舞い下り笛吹川の流れ滔々の音を立て物凄く進めば進む程道は極りて急がんとすれど足進まず或は製板運搬用のトロッコ橋を渡りて底も分からぬ流れに肝を冷し或は熊径鳥路に分け入りて前なる人を見失い思わず救いを求むるなど想像もつかぬ苦しみも死したる子等の苦悩には是も及ばじと絶えず自ら鼓舞しつつ纔(わずか)に丸善製板所に辿り着きぬ……

『山岳 11(1)』(大正5年)「雑報 秩父の惨事」より

「製板運搬用のトロッコ橋」を渡って丸善製板所へ辿り着いている。

事故の関係者が作成した追悼集『山の犠牲 附・山岳登攀心得』(大正5年)には、さらに詳しい軌道の描写(後述)と共に、手書きの「遭難附近地図」(右図)が附属していた。
この図に軌道は描かれていないが、「丸善第三工場」が峠沢出合から僅かにナメラ沢へ入った地点の左岸に記されていた。

『山の犠牲』には久渡沢の軌道が2度登場する。
いずれも遭難者の一人である小山秀三氏の兄、小山博氏(同書出版者でもある)が記した「破不山方面捜索記」の中の描写だ。
その1度目は、8月6日の午後、捜索隊の一員として中村氏発見の報に川浦温泉付近で接した氏が、残る4人の生存を信じながら大急ぎでそこから3里離れた丸善製板所へと向かう途上、次のように登場する。

数人の人夫と共に丸善製板所を指して進むに路は愈々狭く所々頽(くず)れて崖をなしている、之を同行の人夫に問えば一昨日迄数日間引続き雨が降って崩れたのだと云う、種々な流木そのまま横わり就中(なかんずく)橋梁は下岸に流れ止まれるがある、如何に強雨であったかを想像することが出来る。
掛本部長と共に道を造りながら進んで、且つ時々大声を発して人夫を呼べば、下方より「上の路は困難だから下道へ来い」という、此の下の道は丸善より広瀬へ通ずるトロの軌道で此の細い道はトロが通れば避くる所がない極めて危険の道であった、今日は全員仕事を休み捜索に掛かって居るため安全であると云う、さればこの道をいかんと掛本部長と叢(くさむら)を下り漸くにしてその軌道に達した、更に渓流に掛る危うき橋、石山を繰り抜ける隧道などを通りて三里余ある製板所付近に来れば、此所には早や職工、樵夫が三々五々、寄々に打ち合せをなして居て、捜索に尽力して呉れる……

『山の犠牲』(大正5年)「破不山方面捜索記」より

まさにこれが、昭和10年『奥秩父 続篇』では“崩れかけた吊橋や石門”と成り果てていた久渡沢沿いの軌道、私が探索したそれの、在りし日の姿であった。

軌道を「下の路」と人夫は呼んでいたようだが、対する「上の路」は、全体的に高所を通る秩父往還を指していたのだろう。
この軌道が登場するもう一つの場面は、翌8月7日の捜索にて、哀れ4人の遺体と対面した後、同日夜に同じ道を広瀬の市川林業事務所まで下山するときだ。
市川林業についても後述するが、当時久渡沢沿いの山林の大半が同社の持山であった。

掛本部長と池田君と予も昨日駆け付けたこの道を勇気なくとぼとぼと行くのであった。……渓流の近い響が折々二人の話しを途切ったが、尽きぬ故人の名残を繰り返して同時に足も遅く同じ道を繰り返した。時々話しに実が入って一行から後れてその影を見失ったが、軌道という安全な羅針盤が有るので少しも驚かず、但し道が次第に暗くなり枕木を見分けるのに困りだした。往きには走ったせいか馬鹿に近かった路が、非常に遠く感じた。まだかまだかと思う程遠い。日は全く暮れて人家の光を認めて一歩一歩其れに近づいていく。丸く見えた火が四角な形に見え、そしてこれに障子の桟の蔭がよく数えられる頃、漸く林務事務所に着いた。

『山の犠牲』(大正5年)「破不山方面捜索記」より

この事故の約2ヶ月後、追悼、検証、遺留品回収などを目的に、第一高等学校の学生ら4人が遭難現場を訪れ、その体験をまとめた「遭難の跡をたづねて」が、後年に発行された『一高旅行部五十年』に掲載されていた。 ここにも当然、軌道が登場しているほか、丸善による施設の配置が一層明らかになった。

中村君が九死に一生を得たあの製板所へ(ナメラ沢を)下る。新しい木の切株が点々として居る急な斜面を下ると林木を送り出す跡が橋の様に嶮しい崖の端に危く架してある。恐る恐る渡り尽すと深いナメラ沢の谷に切り落す崖、殆んど一直線に何十丈と下の水際まで切立てた様。
……
漸く揃ってナレイ沢(ナメラ沢か)の奔流に添って架せられた木馬の通う道を辿って午後三時半丸善第三工場につく。
……
四時、工場を辞して又同じ様な路をでる、左手から来る峠沢について又少し上ると大きな製材所が見える、これが第二工場……(引き返して)広瀬に向かった。峠沢の激流を遙か足下に瞰下して怪しいトロの路を辿り辿って夕暮頃広瀬の部落に着いた。

『一高旅行部五十年』「遭難の跡をたづねて」より

ナメラ沢に第三製板所があったということは、当然第二もあったわけで、その位置は、峠沢へ少し入った辺りであったようだ。(第一は不明)
また、ナメラ沢の上流には木馬道があったほか、おそらく修羅や箱樋のような構造物を指しているのだと思うが、「林木を送り出す跡が橋の様に嶮しい崖の端に危く架してある」とあって、険しい地形を克服しながら盛大な事業が行われていたことを窺わせる。


以上が、奥秩父集団遭難事故関連の記録から特に判明した、久渡沢沿いの軌道が現役であった当時の描写だ。
まとめると、大正5年8月当時、三富木材株式会社(俗称が丸善製板所?)が、広瀬地区とナメラ沢出合附近を結ぶ久渡沢沿いの軌道を使用して盛んに製品の搬出を行っていたということになる。
開設年は明記されていないが、大正5年からそう遡ることはないだろう。
廃止時期もはっきりはしないが、遅くとも昭和10年頃には廃止されており、軌道はかなり荒廃していた。

続いては、この机上調査も最終フェーズとなるが、手に入れた会社名を新たなキーワードとした調査をしてみる。




農商務省山林局が刊行していた『山林広報』に、民設製材工場一覧がある。そのうち大正5年12月末日現在の一覧表に次の表記があった。

道府県工場名所在地設立年月動力馬力機械種類台数従業者数
山梨三富木材株式会社製材工場東山梨郡三富村大正元年九月水力二五丸鋸二〇

確かに大正5年当時、三富村に三富木材株式会社が運用する製材工場が存在し、そこで20人が働いていたようだ。設立時期は大正元(1912)年9月とあるから、軌道もこれ以降に設置された可能性が極めて高い。(なお、秋田県?の横谷某による製材工場というものは、同資料には見つけられなかった)

続いて、大正5年に刊行された『東山梨郡誌』の「三富村」の項目中、生産及び産物として、次の解説があった。

本村は農蠶業(のうさんぎょう=養蚕業のこと)に従事する者多しと雖も、造林、木材業盛んなるが故に、寧ろ山によるて生く、と称するを適評とすべし。
然れども造林思想は未だ幼穉(ようち)にして、而かも猶往年山火事の為めに焼き払われたる、天然林の荒廃幾千町歩なりやを識らず。今此広大なる地域の一部分に合理的造林を為す者は、県及農林学校の経営せるもの及び市川文造の経営に係る市川林業所あるのみ。市川林業所は広瀬区に在り、明治34年より、同43年に亘りて地域を買収し実測反別実に2800余町歩、明治36年より毎一ヶ年24〜5町歩の植栽を行えり。よって広瀬区の30余戸は過半その余慶にて生活すと云うも過言ならざるなり。丸善製材所もまた個人的事業の大なるものにして、水力による製板場3ヶ所、半径42吋(インチ)の円鋸にて、日々製材をなし、雁坂峠麓2700余町歩の針葉樹、凡そ30萬尺〆を10ヶ年間に搬出する計画なり、而して製材所より円川区に至る里余の間、軌道の敷設を竣(おわ)り、円川塩山駅間は空中索條を以て搬出の予定にあり。

『東山梨郡誌』(大正5年)より

丸善キター!!!

興奮してしまった。
ここに丸善製材所(丸善製所ではなく製所となっているが、同じ会社だろう。三富木材株式会社とも同一と思われる)の壮大な事業計画の全容がまとめられていたのである。

雁坂峠麓の2700町歩(約27㎢)あまりの針葉樹を10年間で搬出する計画で、既に製材所から「円川」まで軌道の設置を完了。円川〜塩山駅を空中索道に中継して搬出する予定であるというのだ。

右図の通り、円川は広瀬からさらに4kmほど国道140号を下ったところの集落だ。これまで同社の軌道は製板所〜広瀬間だと思っていたが、さらに下流の円川まで「軌道の敷設を竣」っていたのか?! そして、そこから塩山駅までの索道は開設されたのだろうか?

……残念ながら、この計画の顛末を記した文献は、まだ見つかっていない。
しかし、広瀬から塩山の区間といえば、昭和6(1931)年に言わずと知れた三塩軌道が山梨県営林用軌道として開設される区間に他ならない。
丸善による軌道と索道の計画は、果たして実現したのだろうか。であるならば、後の三塩軌道へ繋がる存在となったのか。
それとも、壮大な計画は実現せず、昭和4年の地形図にある区間の軌道だけを数年間運用して終息したのだろうか。
個人的には、後者である気がするが……。
(ちなみに、完成した三塩軌道は秩父往還が通る左岸ではなく、右岸に開設されたので、円川は対岸を通過している)


ずっと後の文献として、三富村が平成8(1996)年に刊行した『三富村 下巻』にも、丸善に関する記述を見つけた。この本は探索前にも読んでいたのだが、久渡沢の軌道との関係という意味では特に注目しなかった部分だった。

広瀬集落の人達は、殆んどの人が何等かの形で山林作業に従事した。
戦前大正時代から昭和初期にかけて、“○善”(○の中に“善”)銘の市川林業が中心となり、山林作業が行われた。
大まかな言い方になるが、雁坂峠へ上る東側が市川林業の所有地で、最初に伐採され、同じく左側が県有地で次に伐採され、その後奥へ入った所の県有地が逐次伐採された。

明治30年ごろには、山林ブームに着目した市川文蔵は、川浦村の44名からなる共有地であった広瀬山林2550町歩を買い上げ、市川林業所を広瀬に設立する。大規模な木材搬出を企て、植林を盛んに行った。広瀬の賑わいは、この頃が絶頂であったといわれる。その後、広瀬の山林事業の象徴であった市川林業所は、昭和7年に北海道小樽の亀田林業に売却され、亀田林業の手で事業が押し進められていった。

昭和4〜5年ごろまでは、土場の近くに3ヶ所の製材所があり、山で製材が行われたが、この頃、三塩軌道の工事が始まり、昭和6年に塩山―広瀬間の軌道の完成をみたので、軌道を使って素材は塩山まで運ばれることになり、山の製材所は塩山に移転することになった。

『三富村誌 下巻』(平成8年)より

『山梨県恩賜県有財産沿革誌』(昭和11年)より

丸善もまた市川林業と無関係ではなく、むしろ密接な関わりを有していたようだが、前出の大正元年設立三富木材株式会社との関係性を含めて、はっきりしたことは分からない。
分からないが、広瀬周辺での大規模で組織的な山林経営の始まりは、市川林業が明治期に手に入れた久渡沢沿いの山林で、大正時代に行われたとのことだ。
これが、丸善製板所による軌道運材を包含するものだったのだろう。

だが、伐採すれば山の木は減る。
久渡沢沿いでの事業の終息と呼応するように、西沢渓谷周辺など西側の県有林(恩賜県有財産林)での開発が本格化した。
右図は『山梨県恩賜県有財産沿革誌』に掲載された「恩賜県有財産林位置図」の一部で、緑色の部分が県有林、外は私有林だ。雁坂峠を越えるオレンジの線(秩父往還)や、これに沿う久渡沢の両岸が私有林であったことが分かる。

開発は次第に奥地化し、昭和後半には西沢や東沢の奥地、県境付近にまで及んだ。
それを支えたのが、昭和6年に広瀬と塩山の間が全通した三塩軌道であった。

かつて栄華を誇った市川林業の山林も、昭和7年に現在の所有者である亀田林業の手に渡り、塩山駅前赤尾貯木場に拠点を置く同社が開発を引き継いだ。
戦後に久渡沢の軌道跡に木馬道を再興したのは、おそらく同社であったろう。


全てをまとめると、久渡沢沿いには確かに軌道が存在した。

市川林業が所有する久渡沢沿いの山林で生産された製板の輸送のために、大正5年ごろにナメラ沢出合〜広瀬間約5km間に開設されて活躍したが、三塩軌道が開設された昭和6年頃にはこの事業は終息し、本軌道の利用も自然と行われなくなったようである。

路線名についても、明確にこれという文献上の記述はみられなかったが、地名を含む「久渡沢軌道」というのが、やはり分かりやすいと思う。

以上!! やっぱり、古い民間軌道は一筋縄では行かないぜぇ……。 でも、た〜〜のし〜〜かった。
ただ、結局最後まで、情報提供者が手にした資料が何であったかは分からなかったな。今回触れたものに含まれていただろうか。もし10年越しにご覧になられたら、教えていただきたい。







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