原町森林鉄道 新田川支線  最終回

公開日 2006.06.01


山行が初・鍾乳洞体験! 


 人跡稀な軌道跡からトラロープを頼りに急な斜面を下ってたどり着いた場所は、数時間ぶりの川べりであった。
そして、そこにはこれまで山行がが取り扱わなかった種類の穴が、口を開けている。
鍾乳洞窟である。

 人はこの穴を、蛇穴鍾乳洞と呼ぶ。
観光ガイドには決して載らない、密やかな穴である。
我々は、岩盤の亀裂のような大きな口からその内部へと第一歩を踏み出す。
ひんやりとした空気と、反響する水滴の弾ける音。
茶色く乾いた周囲の岩盤には、どことなく波紋のような凹凸が見て取れる。
人間の寿命に換算して数千代分という、人類の歴史と同じ物差しで比べること自体がナンセンスだと思われる、鍾乳洞のタイムスケール。
その営みの遙か遙か大昔には、これらの岩肌もまた、現在の観光鍾乳洞で見られるような、白亜の美しい鍾乳石だったに違いない。


 入口を潜ると、そこはこじんまりとしたホールになっている。
こじんまりと言っても、普通の隧道では決してあり得ない規模の地中の空洞であり、奥行きと幅は10m、天井の高さはさらに高いという感じだ。
ただし、一般的な鍾乳洞のイメージにあるような氷柱状のもの(鍾乳石)は見当たらず、波状の小さな凹凸が付いた壁面が観察される。
しかし、これもフローストーンと呼ばれる立派な鍾乳石の一種で、壁を伝う水が膜のようにして形成する。

 このホールで、私は思いがけないものを見つけた。
地面に置かれた、40cm四方程度の板碑である。
表面には大きく「○神」と彫られているが(「○」は読み取れず、梵字のようにも見える)、片隅には小さく「文久三年」とも刻まれており、江戸時代末期(文久三年は西暦1863年)に安置されたものと思われる。
鍾乳洞のタイムスケールから見れば江戸時代も今さっきの事に過ぎなかろうが、このような辺鄙で険峻なる洞穴にまで及んだ当時の人々の信心深さには頭が下がる思いだ。



 そして、洞穴はこのホールだけではなかった。
ホールの一番奥には鉄のハシゴが設置されており、その上を照らすと、まだ奥に続く通路がありそうだった。 
しかし、ここは観光洞窟ではなく、このハシゴにしてもいつ誰が設置したのか分からない。
それを裏付けるように、ハシゴは岩場に固定さえされておらず、ただホームセンターに行けば売っているようなハシゴをめい一杯のばして立て掛けてあるだけだ。

 強度的に、かなり不安を感じる。



 で、一人ずつ昇ってはみたのだが……。

 やはり、このハシゴはヤバイ感じがする。
昇っていく途中にだんだんと撓りと、それに伴って揺れが激しくなり、揺れの波長と足運びのテンポをずらすという、共振させないための配慮を私にさせるほどだった。
後続のくじ氏もかなりハラハラしながら昇ってきた。



   ハシゴの上の空洞から見下ろす入口ホール。
転がっている板碑も写っている。

 鍾乳洞とは、石灰岩が雨水や地下水によって浸食されて出来る洞窟である。
石灰岩は他の岩石よりも水に溶けやすく、岩盤の中に石灰石が含まれていると、その部分が優先的に浸食されることがある。
そうして出来た空洞にやがて地下水脈が生じ、さらに周囲に石灰岩を削っていくことになる。
また、水に一度溶けた石灰分が再度固まると、白っぽい結晶となる。
これが、お馴染みの鍾乳石である。
代表的なつらら状の鍾乳石は、3cm成長するのに200年を要すると言われており、その形成には大変な時間を要する。
まったく人間を介さずに作り出された地底の鍾乳洞は、それ自体が古代博物館のようなもので、化石などが発見されることも少なくない。



 ハシゴの先にも、やはり洞窟は続いていた。
しかし、それは鍾乳洞というよりも、巨大な岩盤の亀裂であり、ゴツゴツとした素堀隧道のような有様だ。
鍾乳洞に詳しくないので断言は出来ないが、この通路には水流の痕跡も無いので、当初からあった地底の亀裂と鍾乳洞が繋がったような構造なのかもしれない。

 もし、この先に進もうとするならば、ここが隧道ではないのだと言うことを思い知らされることになる。



 亀裂……。
どう見ても、これは地球の割れ目だ。
ここを人が通ることなど、誰一人想定していない、ただ、たまたまそこに穴が空き、たまたま人が紛れ込んだと言うだけ。

 人間の身体能力を無視しているとしか思えない、斜め基調の亀裂を見て、そのことを思い知らされた。
この空間と、我々人間の社会とで共通している事項は、「空気」と「重力」の存在くらいしかないのではないか。
そんなことを思う。

 亀裂の中で、人が身を潜らせられそうなスペースを見つけながら、進んでいく。
大した距離ではないが、気持的には大冒険である。



 「ヨッキさーん


 目の前の空洞の有り様に全神経を注ぎながら先へ進む私の耳に、背後からなんとも心細そうな声が届いてきた。
すぐ後にいたはずのくじ氏の声だ。
何事かと振り返ってみれば、彼は、いま私が何とか身を潜らせた隙間にずっぽりと嵌っていた。
そして、何やらモゾモゾしている。

 え? まさか、つっかかってるの?!


  「ちょっと照らしてもらえるスか

 明かり無しで穴に入った彼は、私が後を照らさなかったために、壁にめり込んで前後不覚となっていたのだった。
そして、この期に及んでやっと、かれはポッケから小さなマグライトを取り出して点灯させたのである。

 持ってたなら、最初から使えよ。


 湿った土の堆積した隙間を体をくねらせて通過すると、大きな空洞が再び現れた。
ここには外の明かりは全然届いておらず、SF501一本の明かりだけでは、その広がりを即座に把握することが出来なかったほど、それは大きなホールだった。
ご飯粒のような形をした縦長のホールには、平坦な地面というものが殆ど無い。
その周囲を取り囲む切り立った岩盤をライトで照らしながら、その全体像を掴もうとする。

 ライトに浮かび上がる内壁には、肌色の艶やかな鍾乳石が無数に見られる。
つらら状の物はここにもないが、カボチャのような形をしたものや、簀の子のような形をしたものなど、明らかに鍾乳洞の様相を呈している。
これには、軽く感激。
いままで、鍾乳洞と言えば金を払って参観する物というイメージがあったけど、“天然物”は初めて。
決して規模は大きくないが、自分で見つけた感が堪らない。
癖になりそうな感じもしないでもない。



   そして、このホールにもまだ、先が、あった。

 だが、これ以上は素人には無理。
今度はハシゴでさえなく、一本の糸のようなロープだけ。
ロープが、ライトで照らしてもよく見えない天井の亀裂のさらに奥からぶら下がっている。
ここから先は、その道のプロ、ケイバー達の領域だろう。
一抹の寂しさを感じはしたが、我々の目的はこの奥ではないだろうし、ここは大人しく、引き下がる。

 この地点、水面そばの入口から約50mほど入った場所。
洞穴は、縦穴の拡大したらしいホール同士を亀裂が繋ぐようにして存在していた。



 この穴に蛇の姿は見なかったが、代わりにコウモリ達がかなりたくさん生息している。
特に、奥のホールでは天井の一部が見えないほどに密着して休んでいた。
我々の出現で、ややパニックになり始めたようなので、早々に退散。

 ちなみに、ここに来るまでの横穴で壁や床一面に積もっていた土は、こいつらの糞である。
まあ、それほど臭いはないので、よほど敏感な人でなければ問題はないだろう。


 【午前10時50分 鍾乳洞探索を終了す。】


 ラストスパート 新田川林鉄! 


 ひー ひー。

  ひー ひー。


 大袈裟でなく、鍾乳洞から軌道跡へと復帰する為の登りは、心臓に堪えた。
健脚を誇るくじ氏でさえ、この直後から「何か疲れたすな」と弱気の発言をするほど。
まあ、彼もしばらくぶりの山歩きだったというのもあるが、私に関しては単に衰えなのだろう。



 残りは車止めまで2kmほど。
なのだが、この辺りまで来てもなお、景色は林鉄跡の醍醐味を次々に体現してくれる。
出発から既に6km以上も歩いているのだが、飽きると言うことがない。
小さな橋や石垣、そして切り立った切り通しがカーブの度に現れるばかりでなく、それらの集合体としての軌道跡は、どの場面を一つ切り取ってみても絵になるほど素晴らしい景観である。

 この路線、本当に東北きってのお宝路線かもしれない。



 本当にこんな素晴らしい景色が立て続けに現れるのだからたまらない。
チャリで走ってもきっと面白いだろう(隧道までだが)。

 写真では、いよいよ新田川の堅固なV字谷が解放される、その最後の山並が写っている。
あの山を越えればそこに断崖と海が広がっていそうな感じさえする。
それはリアス式海岸のイメージだが、考えてみればリアスはこのような山と川の地形が沈降によって海中に没して出来たものなので、景色が似ていることに不思議はないのだ。
もし天変地異で海面が50mほど上がったら、ここは典型的なリアス海岸になるだろう。



 残り1km。
なお新田川林鉄はその持ちネタを尽きさせない。
ここにあるのは、殆どアーチダムのような築堤の道。
中央に小さな橋が架かっており、この橋自体は後補だが、周囲によく溶け込んでいる。
 その辺に今も棄てられたままで残っているだろう廃レールを持ち寄って来て、このカーブに枕木とそれらを敷き直したら、山から夢幻のトロッコ列車が下ってきそうだ。



 そろそろ、長かった新田川との蜜月の日々(…拒絶と格闘の日々か?)も終わりを迎える。

 名残惜しさと安堵感がないまぜの気持で振り返ると、そこには今まさにV字を完成させたらしい谷の姿が。
ここは穂高かアルプスか。
とても標高100m、海岸線から10kmの低山とは思えない景色。
ましてや、この新田川の上流には田畑もあれば、人が住む街もある。
見た目だけで現地の素性を測れない好例と言える景色だ。

 ともかく、この景色の中に、数え切れないほどの橋があり、幾多の切り通しが潜み、隧道が隠れていた。
鉄路は、確かに一昔前まで、この谷を征していたのだ。
その証しは、今なおこの谷に息づいていた。



 残り300m地点。
遂にゴールの気配。
そこにあったのは水力発電所に関係ありそうなコンクリートの水路遺構。
現在も使っているのかは不明だが、すぐ傍に現役の鉄管水路がある。

 軌道跡は斜面を上から下まで縦断するコンクリートの壁を、暗渠で跨いでいる。
軌道時代からこの施設はあったのだろう。



 そして、最後の切り通しだ。

 丁寧に一つずつ数えながら歩いた先達(TUKA氏)は、彼の一つ目の遭遇となったこの切り通しから心のお祭りが始まっただろう。
それが、同じ志を有するものとして、手に取るように分かる。
歩き出してすぐこの景色と来ればそりゃもう、彼の「キター キター チター」の叫びが幾度も幾度も、幾度も幾度もこだましたに違いないのだ。

 うん、まちがいない。
実際、この切り通しの規模と、崩壊した様子から来る“廃イズム”は、全切り通しの中でも最大インパクトがあるかもしれない。
最後に見た私でさえ、喉の奥までキタが来た。



 で、我らの探索に最後を告げる青フェンスが見えはじめた。

 正味7.5kmほどの、本当に濃密な軌道跡だった。

 険しいだけが、面白みではないのだと、そう二人に教えてくれた、道だった。



 フェンスが守っているものは、この発電水路鉄管。

 谷底の石神発電所に通じている。
この鉄管は軌道敷きに対し干渉しており、廃止後に設置されたものと考えられる。
ノイズのような、水が高速で流れ落ちる摩擦の音が管から聞こえていた。



 見上げれば既に天頂近くまで昇った日に輝く……





 猿の毛並み。その勇姿。 →



 そして、そのときは来た。


 【午前11時26分 車止め到着 踏破計画完了。】



 約4時間にも及ぶ探索であった。

 我々の新田川はこうして大興奮のうちに無事終わったが、この林鉄はさらに下流にも、そして上流にも続いている。
それらのレポートも、繰り返しの紹介となって恐縮ではあるが『 街道WEB』や、近々『DTM』さんでも開始されるようなので、ぜひご覧頂きたい。





豊かな南東北の森の奥、谷の縁。

使命帯び、駆け抜けた森の鉄道。

かの道を刻んだ男達も、優秀な機関士達も、木こり達も。

みな、この山を離れてしまった。

だが、全てが消えたわけではない。


忘却の彼方へ続く、深き切り通し道。

その威容、未だ衰えず。