一旦、先へ進むレポートを休め、ここまでの回の成果を振り返ってみたい。
ここでの主役は、事前情報が全くなく、その発見に大いに驚かされた、軌間610mmレールが敷設されていたと見られる複数の痕跡である。
具体的には、軌間610mm用とみられる車軸1本と、軌間610mmでレールを敷設していたとみられる枕木1本が、それぞれ路盤下の斜面と、路盤上で発見された。
どちらか一つだけだと疑わしいが、二つあるとなると、軌間610mmの軌道が存在したことは、ほぼ確定といえるだろう。
なお、これも繰返し述べていることだが、この路盤を最初に利用したのは、昭和18(1943)年に奈良田以奥へ延伸されるも、昭和20年に廃止された、早川森林軌道である。その軌間は一般的な森林鉄道と同じ762mmであり、610mmではなかった。だからこそ、その早川森林軌道の路盤で、誰が、いつ、なんのために、軌間610mmの軌道を敷設して利用したのかということが、大きな謎になっているのである。
これも本編中で何度も書いていると思うが、この軌道の正体として最も可能性が高いと思われるのは、鉱山軌道であろう。
具体的には、早川沿いからドノコヤ沢を2kmほど遡った一帯で、大正時代から昭和31年まで断続的に稼動していたとされる、芦安鉱山からの鉱石運搬軌道である。
しかし、この鉱山については、以前の回で述べたとおり、鉱石の搬出には索道を用いていたとされ、軌道による搬出の記録はない。全盛期を含む大正10年から戦前までの期間は、早川側ではなく、ドノコヤ峠を越えた芦安側へ索道で搬出しており、また昭和29年から31年まで別の鉱山会社が短期間復活稼動させた際は、今度は奈良田へ索道を敷設して搬出したとされる。
芦安鉱山の鉱石を、早川森林軌道の軌道跡を敷設して搬出したとすれば、その期間は昭和20年の林鉄廃止以降しかないだろうが、記録としては見当らない。
そもそも、芦安鉱山と軌道跡は2kmの距離と300m近い高低差で隔てられており、簡単には軌道まで鉱石を搬出できなかっただろう。
あるいは芦安鉱山ではない、もっと小規模で、ほとんど知られていない鉱山が近くにあって、その搬出用に利用された可能性も考えられる。
芦安鉱山の一帯は、戦前を通じて芦安村と西山村の所属未確定地であったようで、現在は早川町に属しているようだが、そのせいもあるのか、関係すると思われる町村史の記述が薄い。
現時点で調べられる資料には目を通したつもりだが、この軌間610mmの再生軌道については、今のところ、資料的なものは全く見つけられていない。
だから…… 「正体は、わかりません。」
「分かっていない」ことを明かすのも、机上調査の成果の一つではあると思うので、率直に開陳した次第である。
ここからはいささか“悪あがき”じみてくるが、この謎の軌道が使われていた時期や状況を知る手掛かりを、いにしえの登山者たちを手ほどきした登山ガイド本にも求めてみた。
というのも、現在ではほとんど知る人ぞ知る古道となった、ドノコヤ峠を越えて芦安と奈良田を結ぶ道は、奈良田に自動車で行けるようになる昭和30年頃まで、甲府盆地から南アルプスの高峰へ挑むための重要な入山路の一つで、奈良田は今以上に登山基地として栄えていたのである。
そのため多くの登山者がドノコヤ峠を越えている。そんな彼らは途中で芦安鉱山を目撃し、さらには早川の渓谷沿いに奈良田へ伸びる早川森林軌道の跡を目撃した者もいたのである。
右図は、昭和4(1929)年の地形図だ。
この頃まだ奈良田以奥の軌道は存在しないが、そもそも存在した期間が短すぎるので、この後の版にも一度も描かれることはなかった。
注目して欲しいのは、赤線で強調した点線の道(小径)である。
これがドノコヤ峠を越える道で、芦安鉱山を経て奈良田に至った。(オレンジの線は鉱山と芦安を結ぶ索道。また、ドノコヤ峠から「高山」を経由して奈良田へ行くルートもあった)
この道が早川沿いを通る部分で、後に敷設された軌道と交差する部分があった。
今回は、古い登山ガイドに見つけることが出来た軌道に関する記述を、いくつか紹介しよう。
右図の赤線の道をイメージしながら読んで欲しい。
(1) 昭和36(1961)年発行
『アルパインガイド 南アルプス北部』(山と渓谷社) の記述
(ドノコヤ峠を越えて)草の生い茂った道を下ると芦安鉱山の小屋場につく。小屋は荒れに荒れて不気味である。(中略)ここから道は一段と悪くなる。ドノコヤ沢は急な下りになって流れ落ち、道は沢を幾度か渡り返し、やがて谷縁を離れてうっそうたる樹林の山腹を巻いていく。野呂川(早川)の原生林が脚下にひらけてくるが、その谷沿いの道に出るまでかなり横巻きが続く。
野呂川沿いの道に出たなら奈良田に向かう。この道には昭和初年に林用軌道が敷かれ、早川入りの木材搬出に大いに役立ったものだが、今はまったく廃道となって軌道は朽ちるにまかせられている。対岸には、奈良田から荒川合流点に至る西山発電所専用道路が走っている。早川入りもずいぶん変貌したものである。やがて対岸に西山第二発電所の建物をみると、奈良田は一投足の距離に近づくのだが、桟道がところどころ決壊しているので意外に時間がかかる。対岸の自動車道路が早川を渡ってくるところ、すなわち奈良田橋を右手脚下に見たなら、道を横切って橋のたもとまで落ちているガレの上をくだって自動車道路に出る、奈良田からドノコヤ峠に向かうのであったなら、この奈良田橋のたもとから右手のガレに登ってドノコヤ峠への道に出ると良いわけだ。
ここには、これまで本編で紹介した区間の軌道跡の一部を歩いた内容が記録されている。
昭和初年に林用軌道が敷かれ――の“昭和初年”は誤りなのだが、そう思えるほど、軌道跡は既に荒廃していたのだろう。既に対岸には電源開発道路(現在の県道)が登場しており、軌道跡は登山道として風前の灯火のようになっていたようだ。それでもこの頃は、桟橋なんかも所々残っていたらしい。
偵察探索時に見た【ジュースの空き缶】は、この時代に健脚を試すように荒廃した軌道跡を歩いた登山者が残したものなのだと思う。
このガイドが調査された昭和30年代中盤に、森林軌道跡の道を利用していたのは、わずかな登山者だけだったようだ。
(2) 昭和31(1956)年発行
『峠と高原の旅』(日本交通公社関西支社) の記述
峠から早川沿いの奈良田への道は、奈良田近くの木馬道が雪のために破損することがあり、シーズン以外には高巻きの道(二ヵ所あり)を注意しなければ、思わぬガレに突き当たる。峠からすぐ尾根にとりつき、高山を経て奈良田への道もはっきりしているが、これは奈良田の人たちの利用する道といってよい。
峠からドノコヤ沢沿いに降り、つぶれかけた芦安鉱山の宿舎跡をすぎて鉱山の入口に達する。(中略)しばらくして道は左に曲がり沢に別れをつげ早川沿いになるが、この頃前方から広河内が大きく落ち込んでくる。やがて吊橋や部落がはるか下方に見える地点に出、下りが続く。
果たしてこの昭和31年のガイドに出て来る“早川沿いの木馬道”とは、いかなる道だったのだろう。
通常、木馬道には強い勾配が必要なので、軌道跡がそのまま木馬道として使えたとは思えない。別の道があったのかも知れない。そう解釈すると、このガイドには残念ながら、軌道跡についての言及はないことになる。
(3) 昭和29(1954)年発行
『マウンテンガイドブックシリーズ 南アルプス』(朋文堂) の記述
峠から白根の南嶺を眼前に仰いで寂寞とした鉱山宿舎跡を過ぎ、暗いドノコヤ沢沿いの道が続き、やがて早川林道の軌道跡に出る。早川渓谷に沿い奈良田は……(以下略)
記述はこれだけだ。
峠から鉱山跡を過ぎて沢沿いに下ると自然に早川林道の軌道跡に出て、その後も特筆するような難場はなく奈良田に辿り着けるように感じられる記述の薄さだ。
この頃はまだ廃止から日が浅く、軌道跡は十分原形を保っていたということかと思う。
しかし相変わらず、森林軌道跡を別用途で再利用していた軌道が存在した気配は、全く感じられない。
(4) 昭和17(1942)年発行
『甲斐の山々』(朋文堂) の記述
峠から奈良田へは道も明瞭になり難はない。奈良田は白根への門戸としても有名であるが、秘境としてそれ以上に著名である。(以下略)
戦前に発行された登山ガイド本の記述である。
この時期、ちょうど奈良田以奥の森林軌道工事が進められていたかと思うが、その存在はおろか、これまでのガイド本には必ず登場していた芦安鉱山の存在にも全く言及がない。戦時中の当時は必死の増産体制で昼夜兼行の稼動があったはずだ。深読みすれば、このような軍事利用と関係がある記述は意図的に省かれたと見ることが出来る。
というわけで残念ながら、在りし日の軌道の活躍ぶり(あまり活躍していなかったのが真相だが)が描かれたガイド本は未発見である。
いささか成果は乏しいが、これらが私の目に付いた歴代の登山ガイド本に登場する、ドノコヤ道の記述である。
結局この手法の調査でも、軌道跡を転用した610mm軌道の存在を窺わせるものは、見つからなかった。
辛うじて、森林軌道跡が存在していて、登山道として利用されていたことに言及したものがある程度だ。
しかし、こうしたガイド本ではなく、実際の登山者の紀行文もまた膨大に存在しているはずだ。
著名な登山作家の記録のほか戦前から登山雑誌が複数存在しており、それらにも無数の南ア登山記はあるだろう。
もし皆様のうち、そうした記録にアクセス出来る方がいたら、昭和17年から30年頃までのドノコヤ道の記録がないかを探してみて欲しい。ヨッキれんからのお願いだ。
――それではそろそろ、本編探索へ戻ろう。
たしか、いきなり厳しいところからの再スタートだったな……。