2008/4/2 12:31
約2kmにたっぷり2時間をかけ、保台ダムに注ぐ無名の沢をいっぱいまで遡行。
5分ほど前には、とうとうチャリを手放してしまった。
道の続きも見失ってしまい、収穫無しでの撤収という酷い結末も覚悟したが、すんでの所で救いの糸に気がついた。
黄色い指導標がツタに取り付けられているのを発見。
そのツタの指し示す先、谷の左上方を詰めたところ、そこには明らかに道路跡と思われる大きな堀割があった。
とりあえず期待していた隧道ではなかったが、堀割は深く、隧道にも匹敵する大規模な土木工事を連想させた。
これこそが、昭和6年の地形図に初めて現れ、40年代のものまで描かれていた清澄稜線まで達する軽車道に間違いなかろう。
探索は、いよいよ「本番」となる。
カーブになった堀割を通り抜けると、その先は右山左谷の緩斜路となっていた。
左の谷は、チャリを捨てた地点で二股に分かれた谷の片割れである。
堀割と現在位置、そしてチャリを捨てた地点との関係は上図のようになっている。
堀割と谷底とでは15mほどの高低差があるのだが、この両者を結びつける部分が判明すれば、チャリを連れて先へ進むことが出来るかも知れない。
チャリをこれ以上奥へ持ち込むことについては、私の中でも慎重であるべきだという抑止が大分働いた。
しかし、また2時間かけて同じ谷を延々と戻るのか。
その後の探索も当初の計画を大幅に変更せざるを得なくなるだろう。
堀割から先の道は意外にまともに見えた。これまでの沢筋道よりも保存状況が良好である可能性もある。
リスクはさらに増すことになるが、チャリ同伴でのさらなる前進=清澄稜線への登攀を目指すことに決めた。
一旦チャリまで戻る。
12:38
だらしなく沢水の上に置きっぱなしになっていたチャリの元へ戻った。
そして、行く手の二股谷を改めて眺める。
さっきまで寄る辺ない諦めの景色と映っていた険しい谷が、見えはしないが確かにそこにある堀割を想定することで、私の前に正しい進路を語り始めた。
ずっと右岸(今さらだが、川は上流から見て右が右岸。即ち向かって左の岸が右岸だ。)を辿ってきたが、どうもこの辺では一旦左岸に道は移っていたようなのだ。
右岸に隧道が口を開けているのではないかという印象が強すぎて、対岸への注意が散漫になっていたのかも知れない。
苔を纏った玉石が散乱する左岸の緩斜面を、改めてチャリと共に前進再開。
一度は諦めた谷だが、すこし無理をすれば進めない場所じゃない。
河床と斜面を往復しながら50mほど進んでいくと、左へカーブして谷に断ち切られる石垣に遭遇。
もう間違いない。
ここで進路を反転させて右岸に移っていたのだ。
橋は全く形を失っていたが、いよいよ堀割と従前の道とが一本に結ばれた。
旧地形図は縮尺の都合上このような微妙な線形を全て端折っていたが、この調子では「隧道連続地帯」についても誤算が生じてくるかも知れない。
12:45
今度はチャリと共に堀割へ。
堀割は、隧道であったとしても不思議ではないくらい深いが、開削されてしまったのだろうか。
しかし地形図を見れば、進行方向上にはこの先も多くの山襞が立ちはだかるだろうことが想像できる。
4本の隧道が、この後で現れることを期待したい。
堀割は、幅2m程度。
森林鉄道にしてはやや狭く、昭和初期開通という時代背景を勘案すれば牛馬道規格と思われる。
私はチャリを持ち込んだせいもあって、ここまで来るだけで相当に苦労をしたが、同じようにこの場所を見つけて感動のあまり岩さえ削らねばならなかった先人がいたらしい。
左側の壁に「清水」と読める文字が(他にも判読できない文字が多少)刻まれていた。
とりあえず、「清水堀割」とでもしておこうか。
堀割に最初到達してから、チャリの回収で15分を費やした。
ここからは、改めて前進再開となる。
前途への期待が5割、撤退への不安も5割。
背負った距離と時間の分だけ重い、緊張の再出発であった。
登りつつ、小さな谷をまた越えて、
我が道は左の山腹へと這っている。
長く供とした谷筋から、道は急速に離脱しつつあった。
景色が転換していく。
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12:49
水のない沢をひとつ巻くと、またも右山左谷の道。
最終目的地である稜線までは、高低差が100m近くあってまだ遠い。
当分こんな感じの道が続くと思われた。
そのなかで、倒木や藪があまり深くならないこと。
そして隧道があるならば、それらがひとつとして閉塞していないこと。
もう一つ、道が崖に消えているような崩壊箇所の無いこと。
それらを祈りながら、進むことになる。
上の写真の先に見えているカーブを巡ると、また同じような道が続いていた。
このカーブは、曲線に切り取られた一枚岩の法面が美しかった。
そして、続く景色に違和感を持った。
向かって左の対岸にも道が続いていて良いはずだが、そこには青々と照葉樹の茂る崖がちな山肌しか見えなかった。
ヤツの出現を、静かに予感した。
キタ──!!
ヨッシゃー GET!!
ここまで思いのほかに時間がかかったが、地図から消えた隧道は現存してくれていた。
しかも、歪ではあるが出口の光も通っている。
良かったー!
喜びと落胆が同時に訪れる展開は、カンベンだぜ。
12:53 1号隧道に到達。
想像していたよりも幾分長そうだ。
冷たい風がユルユルと流れてくる。
意外に思ったのは、古い素堀隧道にはありがちな「隧道の長さを出来る限り短くしようとするような無理な堀割やカーブ」で据え付けられてはいない点だ。
むしろ近代的な道路線形に近い、無理のない位置に口を開けている。
ぽっかりと。
将棋の駒の形をした坑口が。
特に坑門には意匠と呼ぶべきものはないようだ。
名称も分からないので、この後隧道が複数現れることを期待して「1号」と仮称することにした。
SF501を点灯させ、チャリを押しながら湿った土の洞床に一歩を記す。
中に入ると、間もなく暗さに目も慣れて全容が把握できた。
全長はおおよそ50m。幅員2.5m、高さ3m前後である。
なんと言っても特徴的なのが、この5角形(将棋型)の断面形である。
房総半島にはこの形の隧道が多いと聞いてはいたが、実際に目にするのは2度目。房総以外を含めても3度目(静岡県柏隧道)である。房総以外では稀な形状で、房総隧道の地域的特色ともいえそうだ。
またこの1号隧道には、将棋型断面の掘り方に関わるかも知れない遺構が残っていた。
左の写真の辺りから徐々に天井が“一本角”のように深くなり始め、20mほど先でそれが最大に達して(右写真)終わった。
これは、隧道工事の初期に導坑として切削した部分ではないだろうか。
つまり五角形断面は、日本式と呼ばれたりもする古くからの「頂設導坑方式」によって掘り進められたものと思われるのだ。
また、五角形そのものの意味だが、やはり日本に古くから伝わる「観音掘り」という断面形がある。
それは円やアーチ型ではなく、頂点を残す形状であるという。そもそもアーチ型というのはアーチ構造で覆坑されることを前提とした、明治以降に外国からもたらされた技術であり、より古い技術として素堀の観音掘りが伝わっていたようだ。
明治以前からの隧道堀り技術が、房総に多く見られる五角形断面の正体とも思われるがいかがであろうか。
また、将棋型の断面を持つ隧道には、その地質にも特色があるようだ。
それらは、泥岩や砂岩のいかにも化石がとれそうな内壁を見せている。
一方、房総でも良く見られるザラザラの凝灰岩や、房総以外での素堀隧道の印象となっているゴツゴツした岩盤では将棋型断面を見ることはない。
中央部には外から見た洞内のシルエットを歪にしていた崩壊箇所があったが、歩行通行に差し支えるほどではない。
後半部分は泥の流入があり路盤が埋まってしまっているが、これもさほど深いわけではなかった。
1号隧道をつつがなく通過。
あともう3本はありそうだし、楽しくなってきた。
1号隧道の奥側坑口。
漏斗の口のように窄まったところに口を開けている。
周りの土砂は坑口が崩れて堆積したものだろう。
ゆっくりと確実に滅びへ向かっている様子が伺える。
しかし、まだ当分は健在であってくれそうだ。
この場所に、1リットルのコカコーラの瓶ボトルが埋まっていた。
この沢筋に新しいゴミは全然見あたらないが、この瓶ボトルが売られていた昭和50年代には良く踏まれていたのだろうか。
坑口から20mほどは緩い堀割の中を真っ直ぐ進むが、その先で陽の当たる斜面にぶつかり右折させられる。
カーブに立つと、隧道一本でここまで景色が変わるものかと驚かされた。まして、50m程の小隧道である。
道は沢から完全に離脱して、南房総の山々と肩を並べる開放的な山腹に移っていたのだ。
これによって、沢筋によって道が切断される心配からはほぼ解放されたが、 同時に…
…崩壊地形による路盤の不明瞭&草藪という、新たな敵を相手することとなった。
う〜〜〜む…。
地形図が見せるこの複雑怪奇な等高線。
なかなか容易に稜線(右上の点線道)まで届かせてはくれなさそうである。
ハードコア・オブローディング(HCO)だ…。
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