2011年1月2日、午前9時50分、早川町新倉集落に着いた。 《現在地》
この日付は誤記ではなく、世間では正月休みの真っ最中に、私は早川筋の探索を敢行していた。
自宅から早川へ来るまでの行程で初詣渋滞に巻き込まれることを心配したが、たいしたことはなく、袋小路である早川筋に入ってからは極端に交通量が減った。
夜明け前に角瀬トンネル旧道から始まった今日の山チャリは、約3時間半で町内最大の集落である新倉に到着となった(全く寄り道せず走れば1時間くらいの行程である)。
ここに来る途中で何度か目にした神社が紅白の飾りに彩られていたり、境内に残る消えた篝火などに正月を感じはしたが、出歩いている人の姿は本当に疎らであった。
3000m級の高峰に支えられた谷の空は突き抜けるように青く澄んでいて、一日中放射冷却現象が続いているような寒い日だった。
それでもほとんど積雪していないのは、南アルプス一帯の気候のなせる業だった。
新倉集落内では川縁と新道と山裾の旧道がある(このほかにさらに集落内を通る道がある)が、初めて通る集落では出来るだけ旧道を選ぶのが私のセオリーなので、その通りにする。
早川の氾濫原と思われる川縁の狭い平地に集落は収まりきらず、その上の山腹にも家々が鱗のように並んでいるのは、天竜川筋などでよく見る光景だと思った。
具体的には遠山や水窪辺りにそっくりだと思ったが、ただ高い山脈に阻まれて直接行き来できる車道が無いというだけで、彼我は30数キロの隔たりしかないのだった。
明治初期に“その道”を切り開こうとした先人のあったことや、昭和にも中央自動車道がここを貫通せんとしたことなどを、私は思い起こした。
(そして今は中央リニア新幹線の工事が、まさにこの地で始まろうとしている)
さて、この新倉を起点とする「左岸道路(仮称)」の探索を早速開始したいところだが、「導入」で述べた通り上流側から下ってくるコースを取ると決めていたので、まずは一度素通りする。
なぜそういう計画にしたかは単純で、実際に左岸道路へ踏み込む前に、それがどのような場所を通っていて、どの辺りが難所であるのかを、並行する県道から事前に観察しておきたかったからだ。
←《現在地》 10:53
新倉集落を通過して1時間後、私は新倉からトンネルを2本潜った先にいた。
前進した距離はたった1.3km。
何をのろのろやっているのかという感じだが、その2本のトンネルに対応する旧県道と戯れていたんだから仕方ない。→ 【レポート】
で、2本目の明川トンネルを抜けたところで、私は目をみはった。
地形図にない道(右の道)が開通してる!
そして地形図にある道(左の道)は、「この先通り抜けできません」って書いてある!
初めてここへ来る私が知らなかったのも道理だが、実は平成12年から21年までの約10年の大工事により、それまで早川筋(県道)最長のトンネルとして君臨していた青崖(あおがれ)隧道が新トンネルに切り替えられていた。
新道は全長1.9kmであるが、これに対応する約2kmの区間が旧道になっていたのである。
旧道になったばかりの県道を分岐から700mほど進んでいくと、目の前に真新しいバリケードが現れた。
そしてその200mほど先には、巨大な尾根の基部に突き刺さるような黒い坑門が! 青崖隧道である。
なお、この閉鎖の名目は「電気通信工事中」とあって、工事内容は「道路情報板撤去工事」であった。
実はこんな細かなところで、私は正月に探索したことの幸運に恵まれていた可能性が高い。
この日は全くの無人であったから進入が出来たものの、平日だったらどうなっていたことか。
単に旧道探索が全うできなかったというだけでなく、左岸道路の攻略にも大きなハンデを背負うことになったかも知れない。
青崖隧道がショートカットしている尾根が青崖(あおがれ)というのかは知らないが、この全長528mの隧道が開通したのは昭和35年で、それまでの西山軌道を車道化する過程で誕生したようだ。
すなわち、ここには隧道を迂回する旧旧道(=軌道跡)が存在する。
今回の探索目標は左岸道路であるから、「ついで」で探索出来る範囲の旧県道はこれまで逃さずチェックしてきたものの、そこから離れる旧旧道の完全踏破は次の機会に譲りたい。
ここでは青崖隧道を迂回する約1kmの旧旧道のうち、左岸道路の偵察目的で進入した前半(南半)部分のみお伝えする。
大きく蛇行する早川の先端部分の対岸(左岸)に楠木(くすのき)沢という支流があるのだが、地形図ではこの楠木沢沿いに1本の徒歩道が描かれていて、それは地形図から抹消された左岸道路への唯一の中間連絡路となる期待があった。
この連絡路兼エスケープルートが使えるかどうかを事前に確認しておく必要があると思い、寄り道となることを承知の上、ここへやって来たのである。
で、今何か見えたわけですよ。その楠木沢に。
なんだあれ?
橋なのは分かる。アーチ橋だ。
あの形は… 水管橋だろうな。
地形図を見ると、確かに左岸道路の擬定地には発電用の地下水路が2本描かれていて、
よくよく見ると、そのうちの1本は楠木沢で一瞬地表に露出して橋を架けるようになっている。
東電の現役の水管橋ということで間違いなさそうだ。
…ということは、近づく術がありそうだ!
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ドキドキしながら青崖隧道に近付いていくと、旧旧道への分岐など現れぬまま洞門に吸い込まれてしまった。
そして50mほどの長さの洞門の奥の坑門は、ベニヤ板と鉄パイプを高く組んだバリケードで隙間無く閉ざされており、この時点で旧道は早くも完全踏破が出来ない状態となっていることが発覚した。
大いに残念である。
残念であるが、今はそれよりも旧旧道である。
洞門の外に注目しながら進んでいくと…。
お墓…?
い、いや…。
慰霊碑である。
どのような事故であったかは知らないが、昭和57年にここで亡くなった方がいるようで、そのための慰霊碑であった。
変わっているのは、この慰霊碑が路肩の擁壁を少し出っ張らせところに立っていることだ。
河川改修工事と一体的に慰霊碑の建立を行ったのだろうか。
11:03 《現在地》
慰霊碑を目印に洞門の脇へ外へ出てみると、旧旧道発見!(悦)
なぜか図上では太い電柱が“おじぎ”していたが、それを潜って先へ進むことに…。
ここはまだ自転車で行きます!
橋 と トンネル(?) 出現!!
しかしどちらも軌道時代のものではないようでとても小さい。
そして、廃道では無さそうだ。
やはり先ほど谷の奥に遠望した巨大な水管橋の管理歩道っぽいな。
これはナイスアシスト by 東電 だぜ!
…で、また何か見つけたと…
あちゃーー…。
やっちまったんだな…。
決して小さな廃車体ではない。
どこか上流から流れてきたようだが、どんだけ暴れるんだ…この川。
トンネルのようだが、正確には落石覆いである。
こうした人道用の落石覆いが一般の道路で使われることは滅多にないが、発電所絡みの通路ではままある施設だ。
コンクリートの風合いからしても、さほど古いものでもないだろう。
ちなみに意外な事に、ここまで旧旧道に通行止めを告知するものは無し。 電力会社の専用通路というわけではないのかもな。好都合だぞ。
狭い!!!! 高さ1.8m、幅90cmくらい。
私は成り行き上、自転車で来てしまったが、もう最期だ(笑)。
引き返す事が出来ない。(←物理的転回不能)
まるで監獄である。
覆道は途中でカーブしていて、入った時点では出口を見る事は出来ない。
そして15mほど進んだカーブのある中間部に、1箇所だけ明かり取りの窓がある。
写真がその小窓だが、当初設計にないものを無理矢理壁を破壊して作ったのか、雰囲気が如何にも怪しい。
まるで監獄の小窓である。
いや、実際にこんな小窓の監獄があれば人権問題になりそうだが、まさにそんな印象。
コンクリートの躯体に予め仕込まれていた鉄筋が、ちょうど監獄の小窓に填め殺された鉄格子みたいなのだ。
あまりに狭く、自転車から降りることも出来ない状態のまま、カーブの先に光を見つけた時は心底ホッとした。
確かにこの覆道は通行人を落石から守ってくれる味方だろうが、精神衛生上は寧ろ宜しくない。
目と耳と…五感の大きな部分を塞がれた状態で、恐ろしい落石の巣を通行しているという感覚が良くないのだ。
明かり区間ならば自らのセンスで危険(落石)の予兆を感じたり、落石を回避したりが出来るかも知れないが、ここにいて突然、この躯体の耐久力を大幅に上回る巨石が墜ちてきたらと思うと…、怖い。
目と耳を塞がれた状態で死ぬのは、同じ死ぬにしても最大限の恐怖だと思うのだ。
そういう心理的な意味で、この覆道は怖かった。
しかしもちろんそんな事故が発生することはなく、私は無事に再び明かりの世界へ再登場することが出来た。
オマケ→【復路で撮影した走行動画】
外へ戻ると、そこには県道や旧県道のいない、早川の重い瀬音が支配する渓間があった。
道は本来の道幅を取り戻し(ここまでの区間が異常に狭かったのも早川の仕業だろう)、いかにも軌道跡らしい風景となった。良い雰囲気だ。
路上に堆積した瓦礫を右に左に躱しながら、細い踏み跡にタイヤを沿わせて数分進むと、やがて私は旧旧道の中間地点…川の蛇行の頂点へ辿りついた。
そろそろ左岸道路の現状に関する、何か具体的な情報が欲しいと思った。
レポートでは触れていないが、ここへ来る途中も私は繰り返し“対岸を見上げて”いた。
しかし、ただの一度も道らしいものを見る事が出来ていない(強い逆光のせいもあった)。
現状では、本当にそんなものがあったのかと言われても、強く反論できない状態である。
11:28 《現在地》
キター!! 左岸への吊り橋発見!
しかもかなりちゃんとした吊り橋だ。こちらへ行けとばかりに矢印さえ示されている。
左岸道路へのアプローチが一箇所確保出来そうだという予感に、
先ほど覆道から出たときとはまた別の安堵が、強くこみ上げてきた。
しかし、
その春の表情が、瞬く間に凍り付いた。
遂に、 それと思しき道 を見つけた。
道があるぞー!
でも大丈夫かよ。
木も生えないような岩場に刻み付けられてる感じだ。
とりあえず、見える範囲での“断絶”はないが……。
つか、近付いてみると水管橋はずいぶんとデカイ…。
袂から見たら、きっともの凄い迫力だろう。
そして全て上手く行けば、今から数時間後には左から右に向かって、あの崖の径を歩行するはず。
その時には、水管橋はどんなふうに見えているのだろうか。 すごく、楽しみだな…。
今見た道形は、おそらく左図の部分である。
昭和20年代の地形図を最後に表記されることが無くなった道を、現在の地形図に無理矢理当てはめて描いた「擬定線」が、極めて正確な位置に私を現場へ誘ったのは幸運な事であった。
少々出来過ぎと思えるほどの正確さで、私は現代の地形図にラインを引いていたようだ。
しかしそうなると、視線を南へ移した「右の写真」の範囲にも、横断する道があって然るべきである。
ちょうど「隧道擬定地」と見込んでいる辺りが見えているはずなんだが…。
現地でしばらく目を凝らしてみたが、結局このアングルから道形は見つけられなかった。
これは見える範囲よりも上の山腹を横切っているからだろうか…。 ちょっと怖いぜ。
吊り橋も覆道同様にちゃんとしたもので、橋名など由緒に繋がる掲示物は何もなかったが、立入を塞ぐものも見あたらない。
長さ20mくらいの橋の向こうには、崖に近いような急斜面をジグザグで上っていく歩道が続いているのが見えた。
あれを行けば左奥の水管橋までは連れて行ってくれそうだ。間違いあるまい。
結論、「連絡路は存在する」と判断し、あまり時間もないことから実際に確認まではせず、ここで撤退することにした。
これは上流側の風景である。
向かって左側には旧旧道が、右側には左岸道路が、それぞれ高低差を付けて並行しているはずであるが、どちらも見えない。
なぜ見えないのか分からないが、見えない。
無いのか?
……分からない。
しかし、どちらにしても確かめるのは今ではない。
後でちゃんと現地へ行って確かめる事にしよう。一旦撤収だ。
なんかここにも不穏な残骸が河中に…。 不穏だ…何もかも…不穏……。
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