道路レポート 新潟県道246号西飛山能生線 飛山ダム区間 最終回

所在地 新潟県糸魚川市
探索日 2019.6.26
公開日 2019.8.08

ラスト500m、錐揉みの九十九折り


2019/6/26 17:25 《現在地》

シャルマン火打スキー場前のバリケード地点から約3km。起点までは残り500mの地点。
バリケードからここまで、多少のアップダウンはありつつも、等高線伝いの緩やかなトラバースに徹してきた県道が、この先で突然心変わりして別の目的地を目指し始めたみたいに進路を変える。
水平路から、九十九折りの昇降路へ、90度の転換である。

現在地からは、この“進路変更”の模様がよく見通せた。
夏のゲレンデを思わせる広大な緩斜面の草原に、絵に描いたような九十九折りがのたうつ姿が見えた。
これ以降、地理院地図の表記が正しければ、連続する切り返しの数は6回。6度目の曲がりの先に、行き止まりであり、県道の起点でもある、飛山ダム(地図はなぜか西飛山ダムと表記している)が待ち受けているはずだ。

なお、一連の九十九折りの最初の(一番上の)切り返しには、かつて直進方向に分岐する道があったようだ(矢印の方向)。



なぜそれが分かるかというと、少し古い地形図に、直進する道がはっきり描かれていたのである。
右図は、2万5千分の1地形図「湯川内」より、飛山ダム付近の平成2(1990)年と平成13(2001)年の比較である。

古い方にだけ、九十九折りに入らず、そのままトラバースしながら「クロ沢」上流へ進む道が描かれているのが分かるだろう。

この「クロ沢」には多くの砂防ダムが段々に描かれており、これらを建設するために開設された工事用道路か、林道の類ではないかという予想を事前に立てていた。
しかし、最近の地形図からこの道は完全に抹消されており、役目を終え放棄されたものと想像していたのだ。

せっかくなので、状況が許すならば、今回この道(地図上では約1.2kmある)もついでに終点まで往復しようかと思っていたのであるが……。

……正直、駄目な予感しかしなかったが、とりあえず間もなく現われる“分岐地点”に直面してから、判断したい。




大草原を横断する道の気合いの入った刈り払いに、改めてビビった!

この後に及んで、人が歩ければ良いという話ではないらしい。
ちゃんと、(おそらく道路台帳に記載されている)県道の全幅を露出させることに拘っている“っぽい”。

“っぽい”と書いたのは、実際の県道の位置も幅も、現状の地形からは、もう判然としないからだ。
なんというか、地形に車道が残っていない。写真でも分かると思うが、地面が小刻みに凸凹しているし、左右にも傾斜している。元の道は、地面ごと土石流で埋没したっぽい。

ここまでの状況を考えれば、絶対に車が入り込むワケがないのに、未だに車道幅の刈り払いが徹底されている状況には、なんとも言えない奇妙な気分になった。
もしかしたら、税金を無駄にするなとか、そんな声も上がるかも知れないが、私はただ奇妙な景色に目を丸くして、これをエンターテイメントとして楽しんだ。

道路全幅の刈り払いが、そういう“契約”のもとに、道路管理者から金銭を受けた第三者が行っているのなら、まだ分かる。
しかしもし、道路管理者が自らの仕事として自らのルールだけに則って、半ば盲目的に行っているなら……、「目を覚ませ!」と言いたかった(笑)。



17:22 《現在地》

県道246号の通行止め区間内にある、唯一の脇道との分岐へ到達した。……と思われる。

だが見ての通り、分岐などない。……ように見える。

そして、もし期待してくれた人がいたら申し訳ないが、

今日は「クロ沢」への直進ルートの探索は行わない。

基本的に探索の時期を間違った感がある(←今さら…)。この藪にこの夕暮れから踏み込むと、死ぬ(断言)。

今日のところは大人しくダムだけを見て帰ることにしよう。それだけでも十分(私は)楽しい。

左旋回。(ダムまでの切り返し1/6)



最初の切り返しカーブは、分岐地点だった気配を特に感じさせない、ゆったりとしたものだった。
明らかに現代車道的なカーブ線形で、徒歩道や牛馬車道にある電光形屈折ではない。

しかし、依然として路面的な構造は見当たらない。舗装路はもちろん、砂利道の気配もなかった。
ただ、車道的な幅が刈り払われているから、そこを道だと信じているだけかもしれない。
ちょうどカーブのど真ん中に、雪崩か土石流で押し流されたような歪な木が育っていた。
刈り払い実行者によって、いくらか道の位置を騙されている可能性もあったが、全体に充満する強烈な青草の香りに包まれていると、なんかもうどうでもいいというような、大らかな気持ちになった。
草の匂いが好きな人、あとは草食動物にとっては、ここは芳香のする癒しの道である。

だが、もしも刈り払いが行われていなかった場合を想像すると、周囲の草の尋常ではない高さと濃さ、そして道を目立たせなくする起伏の乏しさからして、この草の海であてどなく彷徨う羽目になった可能性は相当大きいと思う。
刈り払いは、本当にありがたかった。



最初の切り返しを終えると、道は急激に下りはじめた。

西飛山集落を出発してからスキー場までの区間にも、それなりに急な坂道があったが、ここに較べれば遙かに穏当で普通だった。
ここは路面状況の悪さを除外しても、強烈と表現すべき下り坂になっている。
なんというかもう、操縦不能になった飛行機が錐揉みで墜落するみたいな九十九折りというのが、率直な感想だ。

実際、地形図を測ると、最初の切り返しからダムまで約500mの間で5〜60mを下る。
極めて単純な計算式で、平均勾配10%オーバーと導かれる。
分かり易すぎる急勾配である。

そのうえで、こんな路面状況なのだ。
こんな道の先に、巨大なダムが待っているというのが、シュールすぎる(笑)。

なお、写真の草が生えていないところは、砂利の路面ではなく、脇から押し流されてきた泥土だった。
九十九折りが収まっているこの草原斜面全体が、巨大な土石流の跡地じゃないかという気がするんだが……、もうその程度のことでは驚いてあげないんだからねっ!



17:24 《現在地》

ここは、モトクロスバイクとかで走ったら、たぶん楽しんでもらえるんじゃないかな。
路面がとってもバンピーで、写真だと分かりづらいが、深さ1mくらいの溝が横断している場面もある。
そのうえ草刈りが完備されているなんて、走ってくれといわんばかりだ(笑)。
でも、ここまでバイクを持ち込むには、空輸しかない。どうやっても【最後の難所】だけは越せそうにない。

正面奥の高いところに見えるのは、最後の難所の直前に走った辺りだ。
九十九折りで早速これだけの高度を下げた。しかしまだ半分も下っていない。
目の前にあるのが2回目の切り返しだ。

右旋回。(ダムまでの切り返し2/6)



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17:25 

錐揉み線形で、勾配も相変わらず、グングン下る。

そして相変わらずの気合い入りまくり刈り払い&青草の香り。

谷底へ近づいて行くにつれて、ますます視界に占める緑が増えてきた。
さっきまでは爽快な遠景だった上半分も、みるみる浸食されていく。
火打を中心とする遠くの山並みサヨウナラ。
溺れるように、能生谷の底へ、緑の底へ、私は沈下していった。

左旋回。(ダムまでの切り返し3/6)



17:28 《現在地》

周囲が高木の森になり、印象が変わってきた。
路面がここだけ黒っぽく、刈り払い不要の広場になっていたが、これは土石流でどしゃーっと散らかった土砂だった。

この黒い小粒の土は、【最後の難所】を形作っていたのと同じものである。あそこから崩れた土砂が、上段の道を全て乗り越えて、ここまで散らかったのだろう。ひとつの土砂崩れで大迷惑を被っている。

それにしても、辺りは静かだ。川音が遠くに聞こえるくらいである。しかも、夜へ通じる日陰に包まれている。常に動いていないと気分が重くなってくる感じだ。
谷底に近づいているために、地形も急になってきた。この先はもっと小刻みな九十九折りでなければ入り込めないだろう。

右旋回。(ダムまでの切り返し4/6)



17:29

せせこましく小刻みな切り返しに挟まれた、短い5段目の道。
ここからは、眼下の木々の隙間に、飛山ダムの堤体を僅かに見ることが出来た。
もう150mも離れていないのだが、見通しは利かない。
このままだと、突然目の前に現われる感じになるのか。

左旋回。(ダムまでの切り返し5/6)




こうして足を踏み入れた6段目、


最後の一歩手前の段で――




幻のダム近し!


数十メートルも離れていない前段と打って変わって、眼下にダムがよく見えた!
高低差が小さく、いよいよ踏み込めるのだという熱い実感が湧いてきた。

しかし、ここに至っても本当に、「ダムしかない」という印象は変わらない。

緑に包まれたダム。ダムだけがある。こういうのはよくあるのかと思い返してみるが、やっぱり普通じゃない気がする。
大抵は、ダムの周囲にはもっといろいろな人工物があるし、付近の山にも手入れがされていたりする。人工林があったり。
それに、やっぱりダムとセットで青い水面があるのが普通だ。それもないから、本当にダムだけがあるという印象になる。
そういえば、ここには送電線さえ来ていないのではないか? 全然見えないし、ここまでの途中でも見ていない。



……電気が来ていないで、何が出来ますかね……。

もちろん、ソーラー発電とか、送電線がなくてもやりようがあるだろうが、ここにはそういう気配もなくないか?

なんか巨大な放水用のゲートとかも見えるけど、あれもぜんぶ手動なの……?




他方の頭上に目を向けると、なんとこちらも見通し良好だった。
ちょうど木々の隙間から、最後の難関だった大崩壊地が、よく見えた。
もうあんなに高いのである。横断する白いロープがあるので、どこを歩いたかすぐ分かる。

なお、さすがに地盤の堅牢さに関して太鼓判を押された場所に、ダムは造られていると思うが、
この土砂崩れの現場がもう少し南側だったら、堤体を大量の土石流が襲った可能性はあっただろう。

右旋回。(ダムまでの切り返し6/6)



17:31 《現在地》

そして、最終段である7段目へ!

本来なら、「地図が正しければ」という前提付きだが、
残された高低差や、進行方向からして、多分本当に最終段に入ったっぽい。

それに、道にも最終段らしい?有意な変化があった。 見て分かると思うが……、広々としている!
なんというか、舗装はないものの、2車線道路っぽい幅だ。はっきり言って場違い感がすごい。
そして、水を得たように2車線相当幅いっぱいいっぱいに広がった刈り払い。徹底力ぱない!(笑)



おおっ! 広い道幅は飾りじゃなかった!
ちゃんと路肩に転落防止用の駒止が設置されていた。
ここまでこの道では一度も見なかった設備であり、ダムと一体施行された気配が強い。

この7段目は、設えも上等だが、少しだけ長く、少しだけ緩やかでもあった。
そうすることで、ゴールである県道起点の登場を、今か今かと待ちわびさせる効果があり、
いざくる瞬間を、期待感という甘美な玉座へ乗せる手助けをした。これは憎らしい名演出だった。




ぞくっ…




 終(つい)の地 飛山ダム 


2019/6/26 17:16 《現在地》

刈り払われた道の行き止まりが見えてきた。そしてそこには、目指してきた道の終わりに格式を添える、立派な石碑が陣取っていた。

碑だけがポツンとあるわけでは、当然ない。
視線を左に転じれば、遂に目線の高さに並んだ巨大なコンクリートダムが谷を塞いでいた。
世界に孤立して存在する飛山ダムの勇姿が、かつてなく近くにあった。

現われた碑は、飛山ダムの銘板であり、記念碑でもある、全国津々浦々のダムにほぼ例外なく見られるもので、よく駐車場の脇に置かれていたりするのを見ると思う。
きっと盛大に催されたろう完成式典では、万歳の中に除幕の晴れを迎えたであろう。

能生海岸の国道8号上にある「終点」より、能生川を遡ること20km、3.6kmの通行止め区間の末端に、県道246号西飛山能生線の「起点」が、このような姿で待っていた。




飛山堰堤

昭和44年10月  
新潟県知事 亘 四郎

かっこいいと思った。

碑のデザインも、銘板の内容も、刈り払いという形で払われた関係者の碑に対する敬意も、全てがかっこよくて、一対一で対峙する私に重く響いてきた。

今日では「飛山ダム」と呼ばれていると思うが、銘板には「飛山堰堤」とあった。
「堰堤=ダム」で、この和洋語の関係は、「隧道=トンネル」と同じで、時代が古いほど前者が多く見られる。(例:小牧堰堤
とはいえ、この飛山ダムはそこまで古いわけではなく、銘板には「昭和44年10月」の記年がなされていた。事前に調べれば分かった情報であろうが、これが飛山ダムの竣工年である。
高度経済成長のこの時期に完成したダムは数多くあるが、銘板に古式ゆかしく「堰堤」という表現を用いたものがどれくらいあったろうか。多分、多くはなかったはず。
だからなんだという話だが、少なくとも、揮毫者のダムに対する美的センスは、ここに現われていると思う。そして、私は大いに賛同したい。

銘板には(おそらく揮毫者であろう)新潟県知事の名も刻まれていた。
亘四郎(わたりしろう)氏は、昭和41(1966)年から2期8年の間、知事を務めている。

続いて私は、やはり刈り払いが行き届いている碑の裏側へ回り込んでみた。
ダムについて、さらなる情報を得られることを期待しての行動だったが――


――奏功する。
背面にも大きな銘板が存在しており、そこに各種データが列記されていた。

なかでも、先頭に登場する「防災ダム」の4文字は、ここに至る探索中に私が勝手に育ててきた、当ダムに対する“誤った想像”を正しく書き換える、重大なものだった。

すなわち、「全く貯水がされていないダムは、異常な状態であり、廃や未成なのでは?」という私の疑惑は、すっかり誤りだった。
「防災ダム」であるならば、平時は全く貯水していない状態が正常であるからだ。

詳しい解説は省くが、「防災ダム」は洪水調節の機能に専門化したダムの種類である。治水ダムともいう。
ダムを建設する目的は多岐にわたり、大きく分けると治水・用水・発電などがある。このうち複数を兼ねるものが多目的ダムと呼ばれるが、治水専用や灌漑専用、あるいは発電専用の単機能なダムも多く建設されている。

飛山ダムは、防災ダムだった。

未成ダムでもなければ、廃ダムでもない、現役の防災ダムだった。
この事実は、恐ろしく山中に孤立しているこのダムの風景を、私に理解によく馴染ませるものだった。
廃ではないからこそ、単なる通行止めの県道であれば行われないことの多い刈り払いや崩落箇所への(最低限の)通行確保が、ちゃんと行われていたのだろう。
このわずか4文字の登場で、歪であった謎の数々が、一気に氷解して流れ去ったように、私には感じられた。

なお、碑面に刻まれた各種データも興味深いものだったが、ここで一つ一つは取り上げない。
その代わり、このあとの本編で、実際のダム風景に照らしながら、いくつかを紹介しようと思う。




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これは、“記念碑”の前で撮影した全天球画像だ。

もし刈り払いが行われていなければ、ここは一面の草の海であったろうが、
そんなぞんざいな扱いは許されない、数多の命を与る重要な防災施設だったのである。
もっとも、“刈り払いの徹底”以外の管理がぞんざいでないと証明できるかは、微妙な気もするが……。

ところで、私がいま立っている位置は、ここに至る唯一の進入路である県道のどん詰まりである。
正確な県道の範囲は、道路台帳を見ないと確定出来ないが、おそらく碑の前が県道の起点だろう。
ここに立っている私は、堤上路の入口を僅かではあるが一度(踏み込まずに)通り過ぎている。
先にダムの象徴である記念碑へ挨拶したいという気持ちがあって、こういう順序にした。
挨拶が済んだので、これから心置きなく堤上に足を踏み入れようと思う。




県道を離れて、最後の堤上探索へと進む前に、もう一つだけ寄り道。
先ほどから見えている、記念碑脇にある1本の階段についてだ。

この階段、いかにも管理用と思えるような無骨な作りであって、凄く急で狭いのに手摺りがない。
そして肝心なこととして、ここまで徹底されていた刈り払いが、この階段に対しては全く行われていなかった。
この一事からしても、これはダム管理上の現役の施設ではなさそうだった。

実際に階段を上って確かめはしなかったのだが(そのつもりはあったが、後回しにしていたら、結局忘れてしまった…)、碑前に立って階段の先を見上げたのが、右の写真である。

石碑のある地面から7〜8mほど高いコンクリートブロック擁壁上に、ジャングル化した平場が存在していて、そこにいかにも頑丈そうなコンクリート製の建物があった。
その造りは独特なものであり、通常の建物、たとえばダム管理事務所のようなものでないのは明らかだった。
ちなみに、最新の地理院地図にもこの建物と思われるものが描かれているが、ここへ来るまではダム管理施設を想像していた。

この奇妙な建造物の正体だが、私は以前も別のダムサイトで同じような形の建造物を見たことがある。ずばり、ダム築造時に使われたケーブルクレーンという工事用施設の跡(主塔の基礎)であろう。ダムの完成と共に役目を終えたと思われる。




さあ、仕上げに入ろう。


いくぜ?




17:34 いざ、堤上路へ

これまで、刈り払いがあったとはいえ、高い草むらと樹木に周囲と心理を圧迫される探索が続いていただけに、
まっすぐな堤上路で、対岸まで一挙に180m(=堤長)を見通す眺めは、まさに胸のすく思いがした。
この先、刈り払いは不要!! これより先は、自然界の間借りではない、虚空に造成された純粋な人造領域である!

なお、この先へ進んでも、対岸までは辿り着けるだろうが、それで終わりだと思われる。
ようは行き止まりで、現にここから見ても、対岸の左右どちらかへ道が通じている感じはない。



……だそうです。

しかし、トラロープはちょっとダサい。刈り払いに見られたような徹底力は感じられない。

あと、ここまでの道の方が、ダムの上よりも多分、「あぶない」です。



ダムの天端を通る道を堤上路というが、これが河川を跨ぐという点において橋梁と機能を一にする。
そのため、堤上路と橋梁の路面風景はよく似ている。

堤上路は、ダムマニアだけでなく、道路マニアもよく利用するが、このような堤上路が公道を兼ねているものも相当数存在する。
だが、このダムの場合は、そういう扱いはなっていなさそうだ。
ちょうど堤上路の入口まで県道が通じているはずだが、地理院地図などを見る限り、堤上へは入り込んでいないようである。
まあ、ここで道は行き止まりなのだから、当然と言えば当然。




先ほど、「橋の上に似る」と書いた堤上路だが、入口には橋の親柱のようなコンクリートの門柱状部材が備わっていた。
そして、親柱なら銘板を備えるべき位置には、蛍光灯が収納されていたようだった。マウントがあるだけで、照明自体はなかったが。

各地のダムで、堤上路がこのような照明に照らされているのを見る。よってこれは珍しくない構造なのであるが、このダムまで電線が来ていない! これはどういうことなのか……? 照明を設置したのに、電気がないから点灯する機会もなく無駄になったのか。それともかつては電線が来ていたのか……。
先ほど、廃ダムではないと書いたばかりだが、さっそくにして、廃墟感が半端ない……。

あと、入口左側の刈り払われた草むらに、何か看板が落ちているのを見つけた(矢印の位置)。



頑丈そうな鉄の支柱に取り付けられた看板だったが、支柱ごと完全に倒れていた。雪崩でもあったのか。

肝心の看板の内容は、特に意表を突くようなものではなくて、立ち入り禁止の告知であった。
文末の署名は、ダムの事業主体として銘板に出ていた「新潟県」ではなく、「糸魚川●●●●」と書かれていたが、●の部分は写真からは読み取れない。原寸大画像
現地ではおそらく読んだと思うが、残念ながら記憶にも残っていない。

右の写真は、堤上路側から振り返った県道末端部分。
背後の高いコンクリートブロック擁壁上に、前述したケーブルクレーンの基礎とみられる廃墟が見えている。
その裏の急斜面をまっすぐ数十メートルほど登れば、先ほど下ってきた九十九折りの序盤にぶつかるはず。ダムの周囲は大抵どこもそうだが、立体的な土地利用がなされている。

今は谷の底に近いところにいるが、このダム探索が終わり次第、すぐに来た道を登って中腹へ帰らないといけない。登って帰ることには、下って帰るよりプレッシャーを感じる。ここで日暮れを迎えるのだけは絶対に避けたい。




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開放感が気持ちいいぃ〜! けど、寂しさも凄いぃー…。

まるで橋みたいな堤上路の幅は4mくらいで、道路なら1車線分だ。
轍のないまま年を重ねたコンクリートの黒っぽい路面や、続きの見えない対岸の緑と崖は、
建設を打ち切られた未成道の末端に架かる橋のような風景だった。
未成ダムではないと結論づけられたが、風景の印象までは覆らない。
両サイドにぽつぽつと照明の取り付け部の残骸があるのも、悲しい廃墟感を醸していた。

ダムだけがあり、周囲……特に対岸の地形には、全く手が加えられたように見えなかった。
ダムも橋もたくさん見てきたが、対岸にここまでなにもないというのは、普通ではない。

太陽から見放され行く夕暮れの谷底で、強い孤立感を突きつけられた。



バサッ 「うわっ!」

突然の予期せぬ出来事に驚いた。
瞬間の認識は、向かって左側の高欄から、10cmくらいの大きさの何か“黒いもの”が飛び出して、そのまま下流側の谷底へ消えた。
半秒後に追いついた認識は、欄干に潜んでいた一羽の野鳥が飛び立ったということだった。

この造りの欄干は、普通に橋の上で見慣れているのだが、隙間に野鳥が潜んでいることは全く想定していないので、マジで驚かされた。藪山に潜むヤマバトなみに質が悪いぜ!




あら〜。

飛び立っていったところを覗いてみると、可愛らしいお卵ちゃん発見。

何ドリかは知らないけれど、こんな欄干支柱の内側に巣の適地を発見してしまったらしく、営巣しての子育て中であった。
いかに頻繁に人が訪れていないかを窺い知れる状況だ。
堅牢さや増水への防御という意味では、こんなに“無敵”に近い営巣地はないだろうな。
驚かされたのは心外だが、今回は見なかったことにてあげよう。




堤上から見る下流方向の俯瞰と遠望。
下にも建屋が見えるし、辿り着く術はあるのだろうが、とりあえず通路は見当たらないし、刈り払いされていることもない。今回見に行く時間はないだろう。

銘板の記述によると、堤高は44.6mという。
この数字は、現代のダムとしては平凡なサイズだと思うが、それでも能生川の悠久の歴史における最大の人工物であろうし、かように交通不便の山中に必要資材量が膨大な重力式コンクリートダムを完成させたのは、並大抵のことではありえない。

ちなみに、当ダムの堤体積は102300立方メートルと記録されている。今は自転車一台運び込めない道で、このダムは作られている。




河床近くの放水口から流れ出ている水の行く手は、最初の100mほどだけはガチガチに床固めされた人工河川になっているが、その先は暗い峡門に阻まれた見通せない暗がりへ轟々と流れ込んでいた。
ここから麓の集落までにどんな流れがあるのか、未だかつて誰も見届けていないのではないかとすら思えるような、鬼気迫る景色だった。

ダムだけがここにある。
何度も繰り返しているが、あらゆる部分が、この印象なのである。
外から見ても、内から見ても、変わらない。



大工事の末に完成したダムであるのは間違いないが、現代のダムとしては平凡サイズであり、完成からは時間も経っている。そのうえ、どういうわけかここへ来る唯一の道が長年通行止めになっている。
結果、飛山ダムは世間からほとんど忘れられた存在になってしまっているが、防災ダムという性格上、これはあまり思い出される機会は来ない方が幸せなのかも知れない。まさに、人の世を守る縁の下の力持ちという感じ。

……なんて綺麗なこと(下線部)を書いてみたが…… ちょっと待てよ。

素朴な疑問だが、防災ダムというのは、いざ洪水が起きそうだとなったときに、人が出向いてきて操作する必要はないものなのか?

正直、災害が差し迫った状況で、このダムまで人が来て放水ゲートを操作するみたいなことは現実的ではないと思う。ならば遠隔操作だといきたいところだが、電気も来ていない(自家発電が行われている様子もない)のでは無理だろう。
さらに言えば、なにかの操作装置が格納されていそうなダム下の建屋は、水浸しだったり、扉が開け放たれていたりと、まともに運用されている気配が皆無なのだが……。


つまりは、操作不要ということなのだろう。
例えば、砂防ダムは操作という概念がなく、そこにあるだけで効果を発揮する。
この普段全く水を蓄えていない飛山防災ダムも、同じように操作不要で機能を発揮することが期待されているのだろう。

下流の人里に洪水をもたらしかねない急激な出水がダム上流で起きると、この涸れたダム湖が満水になるまで蓄えられ続ける。完全に堰き止められているわけではなく、常に堤体下部の放水口から流れ続けるが、それでも満水になるまで時間稼ぎが出来るし、短時間の急激な出水を長時間の緩やかな出水に変えることが出来れば、十分防災の効果が期待できるということだろう。

というわけで、一見無為に見えるこの涸れた湖底が、飛山ダムの機能の生命線ということだ。
既に述べたとおり、地形図に描かれているようなダム湖は存在しない。
銘板によると、本ダムの有効貯水量は、堤体積の11倍を超える1190000立方メートル(東京ドーム約1杯分)、満水面積は10.75ha(東京ドームの2.3倍)だという。
だが、このスペックの湖面を見た人はほとんどいないと思われる、非常にレアな景色だろう。
涸れた湖底には、相当量の土砂が堆積しているので、下流側にあるような40m級の落差はない。せいぜい30mあるかどうかだろう。

なお、ダムはちょうど3本の谷の合流地点に建設されていて、一つのダムでまとめて遮ることが出来ている。谷は向かって右からクロ沢、イカズ谷、タジマ川というばらばらの名前で、能生川水系の本流はおそらくこの写真のイカズ谷だと思う。圧倒的に奥行きが大きい。
イカズ谷の奥には大雪渓を背負った大きな砂防ダムが見え、ここまで盛大な瀬音を響かせていた。
遡れば、おおよそ7kmで火打山(2462m)山頂に達するだろうが、高度差は実に2000mもあって、もはやこの先に道路を求める者の領域は存在しえない。
ここからはそれなりに広々した谷に見えるものの、奥は類い希な険谷に違いない。



こちらは、本流ではなさそうなクロ沢の眺め。

前述したとおり、以前はこの谷の奥へ延びる道路が、県道から分岐していたようである。
その目的地も定かではないが、古い地図がその終点としていた辺りには、大きな山崩れ跡のような地肌の露出した部分が見えていた。

今の地図から道は消えても、おびただしい数の砂防ダムが描かれ続けている谷である。
この山崩れを抑えるために、砂防工事が(或いはこのダムの建設も)行われた可能性がある。

また別の可能性としては、あの岩肌は崩壊地ではなく、ダム建設のために設けられた“原石山”というのも考えられる。
果たしてどちらが正解か、今回は現地調査をしない以上、帰宅後の机上調査での解明を期したいところだ。

いずれにしても、クロ沢の道は緑に溶け込んでしまったようで、ここからは全く見えなかった。



クロ沢の道は見えないが、県道の方はよく見えた。

例の大崩壊地も、よ〜く見えたし……





そこに掛かっている“だらりんロープ”も、よ〜く見えたぜぇ。



17:39 ダムの横断を始めてから、ちょうど5分が経過。

ここは、周りを景色を見るだけでもゾクゾクする興奮場ではあるが、何しろ狭い一本道であるから寄り道にも限度があり、残りはあとこれだけ、50m足らずになった。
そして、やはり対岸に道がないのは確定事項であるようだ。完膚なきまでの行き止まりが見えてきている。

もうダム上に見るべきものは何もないかと思いきや、そんなことはなかった。
ここで下流側の手摺りに近づくと、次の物を見ることが出来た。




非常時放水用(満水時用)の金属製ゲート3門が、手摺りから手の届きそうな位置に、居住まい正しく並んでいた。
これは当ダムの外観における唯一のメカメカしい部分で、そういえば【望遠】したときにも見えていた。赤い塗装が外見上の良いワンポイントになっているのだが、近くで見るとやはり錆び方が酷く、なんともいえない廃墟感を醸してしまっていた。

そもそも、このゲートはどうやって操作するものなのだろうか。
電気が来ていないので全て手動だと思うが、これだけのゲートを手動で動かすのは、とてつもなく大変そう。
また、堤上路から目の届く範囲にそうした操作部は見当たらず、そもそも現状が開いているのか閉じているのかも、よく分からなかった。

(→)よく見ると、ゲートとゲートの間にこんな金属製の梯子があって、堤上路の欄干を乗り越えて、ゲート前まで降りられるようになっていた。が、さすがに頭がおかしくなければ降りられません! 高所は苦手ではない私だが、これは怖すぎる。下は40mある。ジェームズ・ボンドじゃなきゃ無理。

やはり、このダムには操作という概念がないのかもしれない。
水位がゲートまで達すると、自然に押し開かれて排水される機構なのだろうか。
だがそうだとすると、そもそもゲートなど必要なのかという疑問も生じるが。



そんなこんなで、欄干に手を突いて、やや身を乗り出し気味にしていた私に、またしても予想外の一瞬が待ち受けていた。


なんと、欄干が……



動いた!

それも、完全に外れてしまったのかと思うほど、大きくガチャンと。

私はそれなりに体重をかけていたので、生きた心地がしなかった。

さっきの飛び出る鳥より遙かに驚いた。というか、ゾクッとした。

も〜何なのこのダムの欄干……、びっくり箱かよ〜、勘弁して〜……。




なぜ、欄干が動いたのか。

原因は、コンクリートの基礎部分に固定する大きなボルトが、ことごとく緩んでいた……!

なんという単純な整備不良。
ボルトの固定チェックは、メンテナンスの基礎中の基礎ではないのか。
廃止された施設なら何も言えないが、ここは現役の防災ダムではないのかよ。
私はここに至るまでに、三度も立ち入り禁止を突破しているわけで、欄干と一緒に転落死しても文句は言えない立場であるが……。

また、この欄干のグラつきは、相当前から管理者サイドにも認識され、対処が試みられていたようである。
グラつく欄干に、補強用とみられる薄い木の板が、何枚も取り付けられていることに気付いた。




堤上路の端から20mくらいまでの範囲にある両側の欄干に、この補強が行われていたが、さすがにこんな板では焼け石に水だ。空手家でなくても突き破れそうなほど痩せ細っていた。

欄干の故障を、こんな応急処置で済ませようとするのは、どうかと思うぜ……。刈り払いを徹底させた意識の高さは、どこへ行ってしまったの〜?

しかも、これは部外者の悪戯なんだろうけれど、どこかのアイドルのステッカーらしき物がグラつく欄干に貼られていて、これも風雨と経年のため大層見窄らしい姿になっているしさ……。
なんかカオスだぜ。人知れず、ダムの上がとてもカオスってる。




このタイミングで撮影した動画。

欄干の容赦ないグラつき方も収められているが、夕暮れ谷に孤立しているダムの寂しさや空気感を、感じてほしい。




17:41 《現在地》

遂に対岸へ到達。

行き止まり。

ダムを渡った先に何があるかということに、ルールや法則があるわけではないが、ここまで何もないというのは初めてだ。
右岸にぶつかると同時に、コンクリートの壁で終わり。周囲の山肌もただの山で、加工の気配はなし。

最低限、せめて車を転回させるスペースくらいはあると思っていたが、それさえないのだ。
したがって、この堤上路に車で入り込むと、帰路はバック運転を強制される。最長180mのバック運転である。途中にカーブや障害物がないとしても、想像するだけでノイローゼなりそう(私はバック運転が大嫌い)。



終点に何もないというのは、少しだけ言い過ぎた。

ここで私では、これから紹介する二つの物を見つけた。

一つは、これ……

終点の壁に埋め込まれた銘板だ。

左岸側にあったものを“記念碑”とすれば、こちらは本当にただの“建造銘板”であり、装飾性は皆無。「佐藤工業株式会社 着工昭和38年8月 竣工昭和44年10月」と書かれてあり、これは記念碑裏の内容と全て重複しているが、前者はダムの事業者となった新潟県が華やかに、後者は建設者となった佐藤工業株式会社がひっそりと、それぞれ飾りつけた物だと思う。
こちらは裏方という意識で、敢えて人目に触れにくい場所に銘板を付けたように思われた。



もう一つの発見は、“建造銘板”を見守るように佇む一基の石碑だ。

結構大きな石碑が、ダムの上ではなく、右岸の地面に建てられており、周囲の旺盛な緑に隠されそうになっていた。
仮に緑が旺盛でなくても、わざわざ堤上路を渡ってここへ来なければ、存在に気付くことはない。

碑前に立つための道は、予め用意されていた。欄干とコンクリートの壁の間に、人が通れるだけの隙間があって、堤の外に出られるようになっていた。
反対側(下流側)にはこのような隙間はないし、またここから外へ出ても、碑のある3m四方の平場の他にはどこへ行くこともできない。

この碑の正体は、あるものを連想させずにおかない形状と、沈痛を絵に描いたような雰囲気から、刻字を読むまでもなかった。




慰霊碑 である。

碑裏に3名の殉職者の名が、「昭和44年11月建之 佐藤工業株式会社」の文字と共に刻まれていた。

この時代のダム建設で、殉職者の存在は珍しくはなかったが、それはどこも難工事だったことの証明でしかない。

こうして、人が寄り付かない土地に取り残されている慰霊碑を目撃することがたまにあるが、いつも同じことを考える。

これを読んだ皆様の多くが思うことでもあると思う。



17:42

ダムを右岸から眺める唯一の視座である慰霊碑前から振り返る。
ここに来てからそんなに時間は経っていないが、山の夕暮れは早く、どんどん薄暗くなっている。
この場所にこれ以上いることは出来ないし、もうその必要もなくなった。

崩れた道でしか、世界のどこにも通じない恐ろしいダムだった。
だが、放棄はされてはいなかった。
ただ、防災ダムという、一般的なダムに較べれば、恐ろしく手が掛からないダムだった。

平穏が続く限りは、私たちはこのダムをどうやっても役立てることが出来ない。
だから、皆に忘れられてもいいと、それでもいいのだと、こいつはきっと笑ってくれる。
私は、こみ上げる熱い気持ちをちゃんと連れ帰るために、今度は足早にダムを渡った。



18:15 これは帰り道でのワンシーン(走行動画)。

ダム直前の荒れた区間が、探索的にはハイライトになったが、個人的にこの探索で最も印象深かったのは、
舗装されたまま無人の山河に横たわる、この長大な水平路の爽快さと、ダムと火打山を最初に見つけたときの美しさだった。
これだけでも探索の舞台としては上等で、最後に待ち受けていたダムの面白みなどは出来すぎなのである。

なお、だいぶ前にも書いたが、私は飛山ダムに一目惚れした。

だから当然、また来ることになる。




18:34 出発地点に到着、探索終了。

熱い気持ち、連れ帰ってきたぜ!