2014/1/31 12:36 《現在地》
さあ、皆さんお待ちかねの“古老タ〜イム”(聞き取り調査)。
梶賀集落に眠る2世代の未成国道にまつわる謎を、まるで私の訪問を待ちかねていたかのようなベストの位置とタイミングで出会った、ひなたぼっこ中(干し魚の番?)の古老にぶつけてみた。
以下、生まれも育ちも梶賀であるという古老の貴重な口述情報であるが、少し多いので、関係項目ごとにまとめて再構成した。
古老一人だけから得た情報としては、十分過ぎるほどの情報量と詳細さがあった。
私はこれに満足してしまい、これ以上の聞き取り(検証)をしなかったのであるが、小学生の頃からずっと梶賀に住まい続けてきたという古老だけに、ハマチ養殖業の補償問題によって海上橋の建設が挫折し、そのため梶賀第1〜第3トンネルを含む当時の国道計画が実現不可能となったという話しは、信憑性が高いと思う。
試みに、海上橋の建設問題が登場してくる少し前と思われる昭和51年撮影の空中写真を確認したところ、ちょうど橋の予定地の真下辺りに養殖筏らしきものがたくさん浮かんでいるのを確認出来た。
部外者である私が、今さら養殖業者と県のどちらの言い分に大義名分があったかを判断する事は差し控えたいし、そもそも判断材料が少なすぎるのであるが、結果的として梶賀集落が致命的災害によって命脈を絶たれる前に比較的安全と見られる現国道が開通した事実があり、最終的には県と住民と業者が手を取り合って成果の共有を得たものと考えたい。
また、私の現地での聞き取りでは、海上橋の問題だけが明らかとなったが、その後、梶賀に所縁のある読者さまの情報提供により、海上橋の南につながる予定だった「第2トンネル」(仮称)についても、確かに計画があったことが裏付けられた。以下、寄せられた情報を転載する。
私の父がちょうどこのあたりの山林を所有しており、以前「山の真下にトンネルを掘る計画があったんだが、廃止になった。」という話しを聞いたことがあります。私が子どもの頃なので、30年以上前なのは確実だと思います。それ以上の話しは、その何年か後かに「別のところにトンネルを掘るらしい」ぐらいしか聞いたことがないのですが。
将来的には相続する可能性もある土地ですので、トンネルはもう通ることはありませんが、今後の続報を楽しみにしております。
以前山林の管理に父と現地に出向いたことがありますが、旧国道は本当に酷道で、このあたりの集落の人は昔は船で往来してたと言ってました。
分け入った山の中には自然石を並べた峠越えの道があり、昔の熊野古道はこんな感じだったのだろうと思う状況でしたよ。
“酷道”終着の地、梶賀との別れ。
しかし、集落を訪れる前に予感していたものとは正反対の明るい気持ちが、私を満たしていた。
集落には、長らく終着地として取り残されていた過去への恨み節のようものは感じられず、
古老の証言は、何時来るか分からない津波を恐れながらも、その対策には余念がない、
明日への活力を感じさせるものだった。 おこがましい発言かもしれないが、良い集落だと思った。
実はこの数日前に、同じ紀伊半島の別の港町で、そこの複数の古老から聞き取りをしたときには、
皆口々に「津波が来たら老人から死ぬように避難所は作られている」とか「津波が来たら集落は必ず全滅する」というような、
少々滅入るような発言ばかりされたのを聞いていたので、梶賀はそこより遙かに小さい集落だけど明るく見えたのだった。
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13:00 《現在地》
梶賀第1トンネル南口近くの分岐地点まで戻って来た。
ここからはオマケだが、トンネル開通によって国道としての役割を終えた旧道を紹介する。
もっとも梶賀第1トンネル自体が既に旧国道なので、旧旧国道ということである。
約450mの旧国道に対し(このうち390mがトンネル)、旧旧道は延々と等高線に沿って岬を回り込むため、1.5kmもの長さがある。トンネルによる距離と時間の短縮効果は絶大だったのである。
この梶賀集落に辿りついた最初の車道である旧旧道がいつ開通したかについてだが、「角川日本地名大辞典三重県」には昭和34年1月に曽根〜梶賀間の新設道路が開通したとあり、同年に三重交通のバス路線も開設されたとのことだから、これは国道311号として指定される14年も前の開通である。また、旧南輪内村が尾鷲市と合併した2年後だ。
旧旧道の入口には赤色のバリケードが閉ざされていて、施錠もなされていた。
そして旁らの案内板が、この旧旧道が林道として余生を送っていることを教えてくれた。
曰わく、この道は尾鷲市農林課が管理する林道(市営林道?)で、名を小杉線という。
岬の突端に「コスギ灯台」というのがあると地図に書かれているので、この岬が小杉岬とでも言うのだろうか。
林道を正規の方法で利用しようとすると、管理者である尾鷲市農林課のほかに、尾鷲市南輪内出張所、曽根区長、梶賀区長の全ての許可を得る必要があるようで、ハードルは相当高い。
もとは国道だった“情け”に期待するわけではないが、ここはさり気ない“わるにゃん”の出番である。
ところで、往路では特に触れずに来たが、旧国道の梶賀第1トンネル前にあるヘアピンカーブの石垣が面白い形をしている。
しかも、ここだけ妙に新しい施工のように見えた。
古老が話していた、数年前の大雨で崩れたという場所はここであろうか。
何ともいえない手の込んだ、そして美しい施工に思わず見とれてしまった。
旧旧国道、探索開始!
入口だけは妙に綺麗だったが、少しも行かないうちに本来の路盤。
“数十年もの”の草臥れきった路盤が、現れてくれた。
こうでなくっちゃな。
完全に旧道の風景じゃねーか!!笑
尾鷲市め、整備の手を抜いたなっ。
(よくやった尾鷲市! ニヤリ)
出入り口が両方とも塞がれているので当然と言えば当然だが、交通量は極めて少ないらしく、
法的には現役の林道であるとしても、見た目は廃道となった旧道のようにしか見えなかった。
道は緩やかな上り坂。岬の先端へ向けて走っていく。
入口から300mほど進んだ所で、振り返る。
この次のカーブをまわったら、もう梶賀集落は見えなくなると思ったので、見納めをする。
こうして改めて見ると、確かに海の向こう側の山腹にはどんな道も通じている様子がなく、
国道が次の集落で行き止まりになっていたという、重い事実が実感された。
この緩やかな坂道の先に、帰るべき故郷を見た人々も、過去には大勢いたのだろう。
そんな情景を重ねて見るまでもなく、温もりのある良い景色だと思った。
旧道なだけじゃなく、
これ廃道じゃねーか?!
大きな石がゴーロゴーロ。
でも、微妙に自転車で通れるくらいの幅が、落石と落石の間にあって、降りないままに通りぬけられる優しさ。
ありがたいね。
路肩から下を見れば、こんなあんばい。
非常に険しい場所を切り開いていたことがよく分かるのである。
だが、その一方で、道幅は案外にゆったりとしていて、センターラインこそ見えないものの、ぎりぎり2車線ありそうだった。
険しい場所にギリギリの道を作るとすぐにダメになるからと、少し余裕を見て作られていたように感じられた。
国道でなくなったのは昭和60年と比較的最近のことであるが、その当時としては殊更“酷道”と言われるような道ではなかったように想像する。
600mほどで、小半島の先端付近に到着。
地図にはコスギ灯台というのが書かれているが、道からは見えないし、そこへ行く脇道も見あたらなかった。
そしてこの辺りは、路肩から山海を眺める特等席であった。
海も山も透き通るように静かだし、それを独り占めだし、本当良い旧道。
そして、旧旧道の中間地点である写真のカーブから先は、今までとは反対の半島北側の山腹に沿うのだが、日向から日影へ、上りから下りへと移り変わるだけでなく、周囲の風景がまるっきり変わってしまって驚いた。
突如道は鬱蒼とした樹林帯へ突入。
これが太平洋の外洋に面する側と、内湾に面する側の違いなのだろうか。
太陽が燦々と照りつけていた朗らかな旧道も、ここに至って突如幽遠な雰囲気を醸し出し始めたのである。
もっとも、道の状況は落石なども無く安定しており、また下りであることも重なって、この車窓は冷たい風となり勢いよく流れ去った。
後半で自転車を止めたのは、右の写真の1箇所だけだった。
そこにあったのは、仲良く並ぶカーブミラー…の支柱だけになったやつ。
どちらにも「三重県」のステッカーが貼ってあるから、明らかに国道時代の遺物であり、林道となった後にはメンテナンスされなかったらしい。
面白いのは、2本の支柱がそれぞれ時代を反映したようなデザインであることで、言うまでもなく新しいのは右のオレンジ色の支柱だろう。
左の踏切遮断棒みたいなカラーリングは、最近ではめっきり見る事も少なくなった古いタイプであった。
13:12 《現在地》
表と裏を感じさせた旧旧国道を1.5kmほど楽しむと、終わりが見えてきた。
反対側にあったのと同じ赤いバリケードと、林道の案内板もある。
ここでも、すごすごとわるにゃんをすれば……
見覚えのある風景へ脱出。
これにて、一件落着……?
否。 まだ終わらぬ。 まだ、知られざる未成道があった…。
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