元有料林道でありながら長期間の封鎖により荒廃の度合いを強めている林道鹿曲川線は、もしかしたらこのまま復旧されず、道としての使命を終えようとしているのかもしれない。
ここ10年以上は工事の手が入っている気配がなく、新たな崩壊も多く発生している現状を見る限り、私はそのような危惧を持っている。
だからというわけではないが、ここで一度この道の歴史についてまとめておきたい。
もちろん林道だけでなく、大規模別荘地としておそらく日本一の高所に存在する仙境都市や、風光明媚な大河原峠の開発史と絡めた話となる。
なお、この机上調査には「望月町誌 第五巻近現代編」が役に立った。
まずは林道鹿曲川線が誕生した時代背景を、町誌から引用しよう。
1960年代の後半になると、高度経済成長によって経済的にゆとりができた都会の人々が、自然を求めて長野県に流入してきた。この現象を受けて県は、観光を兼ねた総合開発に本格的に乗り出した。例えば県企業局では、小渋ダムや菅平ダムなどのダム開発によって県営発電事業を推進すると同時に、蓼科有料道路、戸隠有料道路、菅平有料道路などの有料道路を次々に建設し、奥深い豊かな自然を自動車、バスで簡単に楽しめる観光開発をおこなった。こうした動きは望月町の行政や観光事業、さらには財産区の事業にもすぐに影響を与えた。そのひとつが大河原山荘の建設であり、もうひとつが町内各地でおこなわれた大規模な別荘造成であった。
図は昭和57(1982)年に発行された道路地図の一部である。
左下の諏訪盆地と右上の佐久平を隔てる山岳地帯は、八ヶ岳連峰から美ヶ原へと連なる長大な2000m級の山陵を横たえている。そこは昭和39(1964)年に八ヶ岳中信高原国定公園の指定を受けた風光に恵まれた土地であり、交通の便も比較的に悪くないため、マイカーブームの勃興を契機として、観光立県を謳い「日本のスイス」を標榜した長野県が主体となって大々的な観光開発が進められた。
その結果が、図中にひしめくように描かれた青色の線、すなわち大量の有料道路であった(現在は全て無料化済だ)。
当時は有料林道だった「鹿曲川林道」(林道鹿曲川線)は、図中の赤い○で囲ったところにある。
観光の根幹ルートである「ビーナスライン」(蓼科有料道路および霧ヶ峰有料道路)からは少し離れているが、同じく有料林道だった「夢の平林道」(林道夢の平線)を介して繋がっていた。
蓼科山北麓の古い宿場町である旧望月町(平成17(2005)年に佐久市と合併)にとって、林道鹿曲川線の開発は、八ヶ岳中信高原国定公園の観光ブームに乗り遅れることなく、その一翼となって確固たる発展をとげるための重要なミッションを帯びていた。
図は望月町の周辺を拡大したものである。
昭和34(1959)年に本牧町や春日村など4町村が合併し誕生した同町にとって、町の南端の標高2000mを越える大河原峠からの眺望や、その登山基地としての有用性は、将来の重要な観光資源と期待されていたが、当初は車道が通じておらず、十分に活用が出来なかった。
今回の私の探索でも、春日温泉付近をスタートした直後から真っ正面に大河原峠の明瞭な鞍部が見えていて、度肝を抜かれたから、町の人々がこのとても高い峠に親しみを覚えていたことは想像に難くない。
大河原峠開発の契機となったのは、県による蓼科有料道路の建設であった。
県企業局が建設した蓼科有料道路は、一九六五年には白樺湖まで開通した。白樺湖まで来たマイカーや観光バスを春日温泉や素晴らしい景観を持つ大河原峠まで誘導することは県の観光事業からも、町や財産区や商工会にとっても大いに望むところであった。そして、林道唐沢線は一九六二(昭和三十七)年に開通していたし、春日湯沢経由大河原峠行きの林道鹿曲川線は一九六二(昭和三十七)年からの突貫工事で一九六六(昭和四十一)には完成をみた。
今回の探索では(偶然にも)林道鹿曲川線で大河原峠へ登り、林道唐沢線で下ったが、この2本の林道は同時期に建設されたものだったのだ。
どちらも望月町内と大河原峠を結ぶ路線であり、周遊が考えられていたようだ。
また、望月町誌には何も書かれていないが、同じ時期に隣の立科町内に林道夢の平線が建設され、これにより大河原峠は蓼科有料道路と結ばれた。
これらの林道を整備したのは県だが、望月町も一定の負担をしたものと考えられる。
なお、鹿曲川線や夢の平線が開通当初から有料であったかについては、記録が無く不明である。が、遅くとも昭和57年の道路地図には有料道路として描かれている。
当時はまだ、仙境都市から佐久市野沢に下る蓼科スカイライン(地図中の破線)は存在しなかった。この道が開通したのは平成初年以降である。
また、こちらも開設年度が不明だが、仙境都市の一角にはかつてスキー場が存在していた(国設蓼科スキー場)。
現在は蓼科スカイラインが冬季も除雪されており、仙境都市まで行くことが出来るが、当時は鹿曲川線が仙境都市やスキー場への冬季唯一のアクセスルートとして除雪が行われていたはずである。あの狭く険しい区間が多い林道を冬に通るのは、かなり怖ろしい体験だったろう。
ここで少し話が逸れるが、大河原峠についても書いておきたい。
標高2093mの大河原峠は、八ヶ岳連峰の主稜線上にあり、佐久市と茅野市を分けている。だが、現在ここを通っている蓼科スカイラインは峠を越えるようになっておらず、佐久市側だけで完結している。 最新の地理院地図も茅野市側には歩道さえ描いていない。
しかし、大正元(1912)年の地形図を見ると、ちゃんと峠を越える「里道」が描かれている。この里道は、南佐久郡臼田町(現佐久市)と諏訪郡永明村(現茅野市)を結んだもので、「角川日本地名辞典」によると、峠付近で弥生土器が出土するなど古代から通じた峠であり、戦国時代に武田信玄が佐久に侵攻するときにも使われたという。
明治以降はどの程度利用されていたか不明だが、車両交通時代に入って一旦は忘れ去られた山奥の峠が、昭和40年代のマイカーブームの中で観光地として甦ったのが現在の姿なのだろう。
「望月町誌」より転載。
こうして、ビーナスラインという長野県の最も成功した観光ルートの中に組み込まれた大河原峠を最大限活用すべく、望月町は昭和41(1966)年に1億5千万円をかけて峠の近くにレストハウス「大河原山荘」を建設している(右写真、現在は解体済み)。
そして次に1970年代から町内で本格化したのは、大手資本の参入による大規模な別荘地の開発だった。
一九七〇年代に入ると望月町内の各地で別荘造成がはじまった。生活にゆとりの生じた都会の人々が失われた自然を求めて長野県の高原、山野にセカンドハウスとして別荘を作るブームが起こった。各界名士の別荘地として名高い軽井沢やその周辺は手の出ない階層に、蓼科山麓が注目され始め、それに応ずるカタチで別荘造成が始まった。
その最初のケースは大河原山荘に近い富貴の平で、ここに東京富士コンサル株式会社が春日財産区から五〇f借り、貸別荘を作ったのは一九七〇(昭和四十五)年で、その貸付け収入は一九六九(昭和四十四)年に三〇〇万円入っている。
ここに書かれているのが、「蓼科仙境都市」こと、富士コンサル(株)の富貴の平別荘地である。
標高や名称などに特筆すべき要素を持ったこの別荘地について、町誌は上記の引用文以外何も記していない。
富士コンサル(株)のサイトにも特にこの件についての記述は無く、仙境都市利用者の会員制倶楽部である蓼科ソサエティ倶楽部のサイトにも、賑わいに溢れた「エリアマップ」などに興味はあるが、歴史的な経緯についての記述は見られなかった。
平成13(2001)年と昭和51(1976)年の航空写真を比較してみたが、昭和51年には既に現在と同じほぼ範囲が別荘地として開発されていた事が分かる。
平成13年の図で新たに増えているのは、蓼科スカイラインや蓼科国際スキー場、それにスキー場周辺の大きな建造物(私が現地で見た高層マンション群)等である。
近年まで旺盛に開発が進められていたようだが、スキー場はその後に廃業した。
大まかではあるが、以上が林道鹿曲川線や仙境都市の開発の経緯である。
ひとことで言えば、県と町と民間資本が手を組んで行った面的な大規模開発だった。
特別に奇抜といえる内容は無く、日本中で当時繰り広げられた我も我もの開発ブームの中においては、比較的穏便に成功した部類であろうと思う。
確かに現状では鹿曲川林道が廃道化の一途を辿っており、仙境都市も無人化が進んでいる様子はあるものの、前者については、より高規格な蓼科スカイラインの開通によって発展的解消したようにも見えるし、後者も別荘地としての最低限の機能はおそらく保たれており、別荘ブームの終焉によって規模を縮小している過程なのだろう。
その後に林道鹿曲川線が無料化された経緯や、その時期も興味ある所だが、情報が不足しており、はっきりしていない。
時期については左図のように昭和63(1988)年までは有料道路であったことが分かっている。無料化は平成初年代だろうか。
ここは、皆さまからの情報によって絞り込めそうなので、ぜひ通行の体験談をお寄せいただければと思う。
最後になったが、仙境都市の立地条件について、私などより遙かに客観性があると思われる“声”を紹介しておこう。抜粋しても少し長いが、なかなか厳しい見解が述べられている。
●国会議事録(昭和55(1980)年2月20日衆議院農林水産委員会)
中川利三郎委員の発言より一部抜粋
それでは、具体的に蓼科高原についてお聞きします。
これは最大の問題になった事案でありますが、約四十五万坪、七億五千万、四十五年十月取得と書いていますね。(中略)
蓼科高原土地調査の概要というものをちょっと私拝見したのですね(中略)、私ちょっと読み上げさせていただきます。まず、そこは海抜千五百七十メートルから二千七十メートルの範囲内にあるというのですね。開発されない理由はそういう高所にあることが第一の条件だというのですね。それから、国定公園法による開発規制、都市計画法、森林法等による開発規制のすべてを満たしたとしてもなお次のような問題があるということで、いろいろなことを挙げてあるんですね。どういうことかと言いますと、たとえば唯一の平たん部が千七百メートルから千八百メートルのところに少しあるということが書いてあるのですね。その千七百メートルから上は見上げるような断崖絶壁というか、急斜面だ。千七百メートルから下は何十メートルもの深い谷がのぞく。傾斜も二十度から三十度だ。それでも強いて建設するとするならば谷底になるということか書いてある。そして、開発規制の重要な一つとして、見えないように道路から二十メートル離さなければなりませんが、そうすると、目隠しのために植生をしてもそこはとうてい根づかないところだ、こう書いてあるんですね。それから、そこから千八百五十メートルのシシ岩というところに行くためには、けもの道をたどって行くには行けるが、若者かかなり頑健な体力の持ち主でなければ非常に苦しい、こう書いてある。人間の生活というものは千六百メートルまで耐えることかできるが、それ以上になると、頑健な人でも体調を崩すというわけですね。調査委員会の結果こう書いてある。そうかと思えば、飲料水確保不可能と書いてある。飲料水を確保することはできない。雨水排水対策等について、付近の開発業者と協議調うことは、不可能、こう調査委員会報告は報告しているわけですね。(中略)
理事会調査結果というものですが、これにも非常に遠慮しがちにこう書いてあるんですね。「将来の開発見通しについては、地形・環境等からみて、別荘用地としての開発には制約が多く、また保養施設としても上下水道等多くの規制から見て開発が困難な土地である。近隣業者としては、法規制・立地条件等を勘案すれば、観光開発のための土地としては手におえるものではなく、最近の時価も取得価額よりもかなり低いものであり、現在の時点では評価額の認定は困難であるとの意見もあった。」こう書いてある。こう書いてあることに間違いありませんか。
これは仙境都市について議論されている、その一部である。
最終的には決着があり、現状あるように仙境都市は存続もしているのであるが、開発の途上では国会で議論されるほどの「特異な立地」と考えられていた事が、お分かり頂けるだろう。
な〜んだ、やっぱり凄いと思っていたのは、私だけじゃ無かったんだなー。 ホッとした。