道路レポート 静岡県道19号伊東大仁線 宇佐美〜亀石峠 歴史編

公開日 2013.09.06
探索日 2007.07.26
所在地 静岡県伊東市〜伊豆の国市


いかがだっただろうか。

全編を通じて一度も廃道や旧道を探索する事がなかったので、つまらなかった人もいるかも知れないが、私の好きなものを伝えたかった。後悔はない。

それにしても、探索から執筆まで既に6年も経過してしまったが、改めて見てもこの道の「山岳ハイウェイ」ぶりは色褪せていない。
反曲するバンク・カーブが小刻みに連絡する風景や、無理矢理感の漂う上下線分離、そして下り側のエンブレ看板乱舞など、これほど“揃った”道はなかなか無い。
この近くでは、例えば急勾配という意味では「熱海新道」はもっと凄いし、高規格ぶりやエンブレ看板乱舞については、近頃無料化されたばかりの「箱根新道」が比肩しうるが、波打つようなバンクカーブだけは、この亀石峠の圧倒的個性と思う。


 亀石峠には、どんな過去があったのだろう。


最後に亀石峠の道路改良史を振り返ることで、このレポートを終えたい。




右の地形図は、昭和34年版の5万図「熱海」の一部である。

今日の亀石峠の交通量の多さからは想像し難いが、亀石峠は昭和30年代に入ってもしばらく自動車が通りぬけられるような道路はなかった。
旅人が歩くことを専らとしていた時代には距離の短い亀石峠は東西交通の要路であったが、東側の谷が極めて深く険しいために車道化は容易でなく、その実現には莫大な投資を要すると考えられた。
当時、北の熱海峠と南の冷川峠に自動車の通れる道路が通じていたが、その間は約30kmも離れており、中間にあたる亀石峠の開発は伊豆全体の開発にも重要な意味があった。

開発の遅れた亀石峠に大きな転機が訪れたのは、空前のマイカーブームと観光ブームの出現を行政によって予感され、それを故意に誘発することで国民生活の一層の向上を図ろうとした昭和30年代であった(実際のブームは昭和40年代に起きる)。
そういう意味で左の地図は、開発直前の平穏な最後の時代を示しているのであり、それから僅か半世紀で地図をこれほどまでに変化させた(右図にカーソルオン)のは、まさしくブームのなせる業であった。




右図は、伊豆箱根地方に昭和から平成の現代までに出現した、全ての有料道路を表示したものだ。(緑のハイライトが付いている道は、現在も有料道路として存続している)

ある程度この辺りの地理に明るい人でも、「あの道が有料道路だったのか」と驚く道が、一つや二つあるのではないだろうか。
中には昭和30年代の末に早々と有料道路の看板を下げている道もあるので、そう思うのも無理はないのである。
しかし土地勘のあり無しと関係なく、この地域における有料道路として誕生した道の多さには、単純に驚いていただけるだろう。

これら全ての道が同時に料金を徴収したことは無いが、例えば私が生まれた昭和52年に小田原から下田までマイカードライブを企てたとする。
この時、素直に最短距離の東海岸(国道135号)で行こうとすると、真鶴道路(県)、熱海ビーチライン(民間)、東伊豆道路(公団)という、三つの異なる事業者の有料道路を通ったであろう。(もちろん、旧道などの迂回手段はあったが当時の旧道はハードな場所も多かった)また、「せっかくだから」と箱根巡りを兼ねたりすれば、容易く両手で数え切れないくらいの通行券を手にすることになった。(確かに昔のアルバムには大量の通行券が綴じられているのが定番だった)

そして、ここからが本題。

この図を見れば一目瞭然であるが、今回紹介した亀石峠の県道も、最初は有料道路だった。

一般道路とは一風変わった風景に、なるほどな、やっぱりな、そんな風に感じた人もいるだろうが、現在もせっせと料金徴収が続けられている交差道路の「伊豆スカイライン」と較べ、この亀石峠越えの有料道路…その名も「宇佐美大仁道路」の料金徴収期間は、圧倒的に短かった。

さらにこの両者は路線名の雰囲気からして全然違うが、その風景も純然たる観光道路と、産業バイパスという正反対の趣きがある。
しかし、これらの道は同時期に開通し、しかも同一の事業者によって料金の徴収が行なわれた、いわば兄弟か姉妹のような関係だったのである。
伊豆箱根をゆく全てのドライバーからお金を毟ろうと言うかの如く、二匹目のドジョウ狙いで張り巡らされた有料道路網のなかでも、この二本の道は古参であった。



交通路としての歴史は、おそらく伊豆スカイラインのような峰伝いの南北路より、峠越えの宇佐美大仁道路の方が遙かに古かったであろうし、主流であったろう。
だが、昭和時代における車道化の契機としては、観光に特化していた前者の方が時流を得たようで、後者の車道化を先導する役割を果した。

則ち、最初にあったのは昭和25年に静岡県が計画した、箱根と伊豆を峰伝いに結ぶ「伊豆スカイライン・パークウェイ」計画であった。
全体計画120kmのうち、当初の開通区間とされた第一期区間でさえ40km以上あり、しかもその建設予定地の大半が国立公園の予定区域という(富士箱根国立公園に伊豆区域が加わり、現在の富士箱根伊豆国立公園となったのは昭和30年)、現代ならばおおよそ実現不可能な計画だったが、当時はむしろ国立公園を認定する厚生省サイドが「公園認定のためには利用の促進に資する道路が必要だ」と条件を付けていたほどであったから、国立公園の認定後も計画はとんとん拍子で進んだ。

わが国の有料道路制度は当時まだ駆けだしで、昭和31年にようやく日本道路公団が設立されたような状態であったが、静岡県はこれに範をとった静岡県道路公社を全国に先駆け設立し、伊豆スカイラインを道路法ではなく道路運送法による一般自動車道として建設・経営することとした。
そして昭和35年10月に起点である熱海峠で起工式を行っている。


『静岡県道路公社七年の歩み』より転載。
伊豆スカイライン建設中の模様。

当時最先端の工法を駆使した山上の道路工事は急ピッチに進み、第一期区間の北側半分にあたる21kmを先行開通(部分開業)させる運びとなった。
そうして昭和37年9月30日に初開業したのが、伊豆スカイラインの熱海峠〜巣雲山間であったのだ。

そしてこの同じ日、静岡県が県道宇佐美大仁線の一般有料道路として改築を進めていた「宇佐美大仁道路」の東側半分(宇佐美区間8.8km)も開通し、これらの合同開通祝賀式が伊東高校で行なわれた。

この経緯を細かに記している『静岡県道路公社七年の歩み』は、「伊豆スカイラインの連絡道として県の有料道路宇佐美線も同時開通した」と書いており、実態もその通りであったろう。
なにせ当初の終点である巣雲山は行き止まりで、亀石峠が一般道路との最南端の接点であったから、当時の伊豆スカイラインを有効に活用するには連絡道としての宇佐美大仁道路が必須だったのだ。
宇佐美大仁道路の料金徴収業務は開通当初から無料化されるまで、一貫して静岡県の代わりに道路公社が行なっていたが、それもこうした事情と関連があるのだろう。

とはいえ、これは明らかに異例なことであった。
なにせ、一種の私道である伊豆スカイラインは、道路としての公益性を満たすほかに利潤の追求も正当な目的として認められた道路運送法の一般自動車道であるのに対し、県道である宇佐美大仁道路は、早急な公益実現のため特別に通行料金を徴収し建設費を償還することを認められた、道路法(およびその利用法である道路整備特別措置法)による一般有料道路であったのだ。
これは、アフィリエイトによる利潤を目的としたサイト運営と、運営費捻出のためにアフィリエイトを利用するサイトくらいの違いがある。
当時の静岡県としては、あらゆる制度を総動員してでも全国に先駆けた観光道路網を伊豆に切り開きたかったのだろうが、お陰でもの凄い有料道路網が出来ることになったのだった。


『静岡県道路公社七年の歩み』より転載。
昭和39年9月30日の開通式の模様。

その後も伊豆スカイラインと宇佐美大仁道路の残工事は順調に進み、最初の開通から1年半経った昭和39年5月15日に前者の巣雲山〜冷川間が開通、さらに同年9月30日には残る冷川〜富士見台が開通して(第一期区間が)全通したのだった。そしてその直後の昭和39年10月20日に宇佐美大仁道路の大仁区間(大仁〜亀石峠11km)が開通し、これにより初めて亀石峠を自動車で越えて東西を行き来することが出来るようになった。

二種類の全く異なる法律に基づく道路でありながら、二つの道はお互いに欠点を支え合い、手を取り合うようにして誕生した。
伊豆スカイラインが無ければ亀石峠の車道開通はもう少し遅れたであろうし、亀石峠が無ければ伊豆スカイラインは今よりも遙かに不便だったに違いない。
(そしてこの成功を見ていた伊豆スカイラインを仰ぎ見る東西山麓の人々は、挙って自らも連絡道路を設けようとした。その結果が昭和41年に相次ぎ開通した熱海新道と日通富士見パークウェイ(いずれも現在は無料化)という2本の私道(一般自動車道)であった。)

だが二つの道は、制度的にはあくまで別個の存在でしかなかった。定められし別れの時は案外早く訪れた。
宇佐美大仁道路は、一般有料道路として計画当初に予め認められていた通行料金徴収期間(償還期間)を経過した昭和58年8月1日に無料化した。
赤字であったかは知らないが、そうしたことからは超越した公道の宿命であり、理想の姿でもあった。
これは箱根や伊豆の有料道路の中では早い無料化であり、ますます利用が増大するきっかけとなったに違いないし、それを歓迎しなかった人は少なかったろうと思う。





『月間土木技術1962年12月号』より転載。

伊豆スカイラインの写真は、建設中、開通直後とも沢山残っているようだが、右はようやく1枚だけ見つけた宇佐美大仁道路の開通直後を撮した写真である。

ここから下の方を撮影した画像で間違いあるまい。

現在は上下線が分離している区間だが、やはり当初はシンプルに2車線の対面通行だったようで、左奥の辺りは現在でこそバンクがガンガン掛かっている3車線区間だが、当時はどこにでもありそうな山岳道路である。
同記事によると、「延長8.8km、全幅6.5m、最小半径15m、最急勾配10%」で、あげく路面は「簡易鋪装道(一部砂利道)」というから、現状とは似ても似つかない。

この写真や、現地で見た「亀石橋」の竣工年、歴代の地形図、航空写真などの内容を総合したところ、昭和53年まではこうした「普通」の道路状況だったようだ。
当初の伊豆スカイラインとの連絡道路的性格から、時間の経過と供に峠越えの産業バイパスとしての性格が強まっていったことで、交通量や大型車両の購入率が高まり、登坂車線的な車線増が必要となったものと想像する。

当たり前だが、道は利用のされ方によって千変万化の変貌を遂げる。
宇佐美大仁道路の場合は、石畳の道が2車線の簡易舗装路へと変化した僅か十数年後に、3車線上下分離の“ハイウェイ”まで進化を遂げたのだった。
開通しても敢えなく廃道になる道がある一方で、こうした成功した沢山の道に我々は支えられている。




『月間土木技術1965年1月号』より転載。

左の画像は開通直後の冷川料金所の写真らしい。
亀石峠ではないので、宇佐美大仁道路とは無関係だが、この場所に写っている古い標識が、現在の亀石峠に現存している事に気付いて少し興奮した。

今回(といっても6年前の探索時)に撮影された下の画像を、見返して貰いたい。




お分かりいただけただろうか? →

昭和37〜39年の伊豆スカイライン開通当時からの標識とすれば、案内標識の“白看”が全盛だった時代のものである。
そんな物が残っているのも驚きだし、「自動車道」の和訳が「MOTOR ROAD」となっているのも時代を感じさせるし、何より格好いい!
今度現地へいったらスリスリ確定だな。
(え? 微妙に文字のサイズとか違うんじゃないかって?…  いーの!笑)

ちなみに、宇佐美大仁道路の宇佐美区間の料金所は、伊豆スカイラインの陸橋下【写真】にあったそうだ。
道理で航空写真をいくら見ても分からなかったわけだ。 (参考サイト:西伊豆工芸のWeb Siteさま)





『月間土木技術1962年11月号』より転載。

最後に、これまた時代を感じさせる、開通当時(昭和37年10月)の伊豆スカイラインおよび宇佐美大仁道路の「使用料金表」をご覧頂こう。

当時の料金体系は、現在よりも少しばかり分かりにくい。
現在の料金表とぜひ比較して貰いたい。
まずは乗用自動車と貨物自動車とで二分され、さらに車重と空車であるか実車であるかによっても料金が違っていた。
単純な額面はもちろん現在よりも遙かに安く、普通乗用車(1.5トン未満)が熱海峠〜亀石峠を走って250円。現在は同じ条件で410円である。
宇佐美有料道路(宇佐美大仁道路のこと)は70円とか100円程度ともっと安いが、伊豆スカイラインと同様に現在まで存続していたら、120〜150円くらいになっていたろうか?
昭和58年の無料化当時の料金は、残念ながら判明しなかった。



以上の机上調査により、現地では判明しなかった亀石峠の県道誕生の経緯を知る事が出来た。
だが、バンクが付きまくった理由ははっきりしない(笑)。
古い線形のまま、無理矢理拡幅して高速化させたからなのか。
事情を知っている人がいたら、こっそり教えてくれないだろうか? 本稿はさらなる加筆を待っているぞ!

以上、長々と現道のレポートにお付き合いいただき、ありがとうございました。 m(_ _)m