道路レポート 川根街道旧道(三ツ野古道) 最終回

公開日 2016.5.09
探索日 2015.3.10
所在地 静岡県川根本町

見棄てられた地からの生還


2015/3/10 14:26 《現在地》

大量の食器片や陶器片が散乱する鬱蒼とした杉植林地を東に抜けると、ようやくはっきりとした道の跡に出会う事が出来た。

とはいえ、杉植林地にいたときにはまるで道を見失っていた(地形が緩やかなので形跡がないようだ)わけで、ここで道を見つけたのも、すんなり一発では行っていない。少しうろうろさせられた。
だが、最終的に「緩やかな杉林」から「険しい斜面」に移動する過程を素直に受け入れれば、それは漏斗の中を通るように行動範囲が狭まることを意味しているから、やはり一番自然に足が向いたところに道形は待ち受けていたのである。

思えば、慰霊碑前を出てから初めての明確な道路跡である。これにはホッとした。




14:40 《現在地》

道を見つけてから、しばらくはとても順調に進行し、GPS画面内の現在地も着実に千頭へと近付いていた。
そんな足が十数分ぶりに止まったのは、この写真の場面だった。

これ、キテるな…。

確かにここまでも順調とは言いながら、ちょっと岩の配置や崩れ方が違っていたら、一気に難しい場面になりそうだと思う場所が数ヵ所あった気がする。
それがここに来て遂に、良くない方に転んでしまったようだ。
あと一つか二つ、具合の良い岩の出っぱりでもあったら、「これまで」と大差なく、スッと行けたはずなんだよ…。

…なんて、恨み言をいっても始まらない。
むしろ、惰性で危険地に飛び込んでしまう前に、ちゃんと違和感に気付いて足を止めたことを、評価してやろう(自分に対して何様ナンだこの表現w)。
というわけで、正面突破がムリで、高巻きも現実的でない地形となれば…。



残るは“下巻き”ということになる訳だが…

直前に歩いていた部分は、ご覧の通りの屈託なき回廊状の狭隘絶壁通路…!

眼下20mほどの所には、幸いにして横断移動ができそうな樹林帯斜面が見えているが、まずはその高さまで下りることが一仕事で、結局ここでは50m以上は来た道を戻り、小さな尾根を回り込むために通路の回廊性が薄れたピンポイントを狙って、尾根を下降。

それから眼下に見た斜面を慎重に横断して……




どうにかこうにか、正面突破を諦めた谷筋の直下に到達。

後はここから“桃色の矢印”のように谷を攀じ登り、路肩や橋台の一部だったらしき石垣が僅かに残る路盤(黄色の矢印)へ、復帰したのであった!




写真は、この谷筋を振り返って撮影したものだが、こちらから見ると徒手空拳の正面突破が無謀だったと、はっきり分かる。
ここは面倒でも迂回して正解だったろう。

ちなみに、この直線距離にしてほんの3mほどの路盤の断絶を横断するのに、10分を要した。

これが最後の難関であって欲しいと願いながら、何か思い出したように日が射し始めた路盤を再び歩き出す。



その後も、絶壁の回廊状通路がしばしば現れ、

都度、私に冷や汗をもたらしたが、

それでも、私のささやかな願い事が再び破られることはなく…。




15:04 《現在地》

地形図に描かれた送電線と交差する手前で、遂に現役でしっかりと歩かれていそうな鉄塔巡視路に出迎えられた!

慰霊碑を出発してから約1時間20分(約1.3km)。
慰霊碑までの少々無理矢理に越えてしまった“道”が、もう簡単には戻れそうになかっただけに、ここまで普段以上に気疲れの行程だった…。

が、これでもう一安心だ。
このまま程度の良い巡視路が、最後まで私の歩きたいと思っている古道と重なっている保証はないが、少なくとも生還については約束された。
精神的な余裕を持って、古道区間の残り1.0kmを楽しもうと思う。




川の屈曲を作り出した大きな尾根を回り込んで進むと、間もなく、「ああ!」と見覚えのある場所に出た。

見覚えといっても、もちろんここへ来るのは初めてのこと。
ここは第1回で大井川を渡る橋の上から遠望した“決壊地”なのである。

欠壊の規模はご覧の通り壮大で、しかも古道は完全に分断されていて、本来ならばだいぶヤバかったのだが、そこは現役の巡視路サマサマである。
ちゃんと高巻きで安全に横断する歩道が付けられていた!

(なぜかそれなのに、私は崩れかけた本来の路盤を横断したが…笑)

ここで久々に集落の姿を目にして、ますます気分もノって来た。
不安からの解放感は、やはり探索の大きな醍醐味である。


やがて集落の遠望に代わり、それが奏でる色々な音が聞こえるようになると、いよいよ古道然としているのは、自分の周囲ばかりという感じになってきた。

現在地は千頭駅裏手の辺りまで差し掛かっており、見下ろした木々の向こうに数時間前通行した路面が見えてきたときには、軽くガッツポーズまで繰り出した。(ようである。動画にそれらしい音声が入っていた…笑)




適当に斜面を下れば千頭駅近くに脱出出来るような状況になったが、これは千頭駅など無かった時代の道だけに、そこへ下ろうとはまるでしない。
聞く話によると、駅がある辺りはかつてただの大井川の川原であったというから、この道の動きは理に適っているのである。
道はあくまでも昔からの千頭集落を目指し、車道を思わせる緩やかな下り坂で斜面を横断し続ける。この集落に近い辺りは明らかに江戸時代のままの古道では無く、だいぶ近代以降の手入れがなされていると感じた。

なお、途中に古いオリエンテーリング用の標識が立っていた。




ふわー!!!

やったぜ!生還!千頭集落!

こ、こんなに苦労するとは、正直思わなかったぜ−。

今回の道…  地味に怖かった〜…。



見馴れた千頭集落の背後の山肌が、上の方からはっきりと白くなっていた。
少し遠い奥大井の山並みも同様である。季節外れの雪山の景だった。

オチイ沢の対岸に“碑”を発見した頃から、突如のように降り始めた雪が、
幻想ではない現実であったことを、強く印象づける風景だった。
だが、探索中を通じて、不思議と寒さを感じる事はなかった。



ゴールまで あと0km


15:33 《現在地》

千頭集落外れの茶畑の何気ない路地が、今回の長く険しい古道の出口であり入口であった。

今回の大井川の蛇行一つにただ付き合って歩いた約2.8kmの古道は、
予想していたよりも遙かに険しく、危険に充ちていた。明治維新まで、自由に大井川を横断し、
通りやすい岸を選んで進む事が出来なかったが故の、泣きの入るような生活道路だった。

そんな歪んだ交通政策の残滓は、ただでさえ地形条件に恵まれないこの地方の交通に
明治以降もしばし、大きな後進性という形で居座ったのであり、それは本当に気の毒な事であったと思う。




机上調査編: 忘れ去られた慰霊碑の周辺について


今回の探索で最も印象に残ったことは、やはりその序盤でオチイ沢の対岸に見た“石碑のようなもの”が、大変苦労して辿り着いてみたら本当に石碑であって、しかもそれが慰霊碑だったということだ。
その事が私の心に酷く食い込んで、最後まで離れなかった。

そんな“名無し”の慰霊碑の前後にはまともな道が無く、孤立していたが、それでいて見晴らしだけは良い場所に置かれていて、今回のような季節外れの降雪さえなければ、大井川対岸の集落が見通せる場所だったろう。いささか非科学の想像にはなるが、慰霊碑は人に忘れ去られても、そこに宿る魂は依然として人の世界を見つめている。そんな印象を与える立地だ。

さらにこの慰霊碑に続く形で、予想外の索道遺構や、かつて人が留まって飲食をしたであろう多数の形跡を発見。
これらは単純な川根街道という道の遺構ではないように見えたが、現地調査で正体を知ることは無かった。

帰宅後の机上調査における目標は、必然、これら人跡の正体探しとなった。




↑ とりあえず机上調査の前提として、歴代3枚の旧版地形図を改めて確認する。
図中の赤い円で囲んだところが、慰霊碑や索道跡などがあった一帯である。
これらを見れば分かるように、この一帯に過去描かれた事のある人工物は川根街道の道くらいであり、あとはせいぜい昭和42(1967)年版に送電線が出現したくらいである。索道や慰霊碑は(地形図にはそれぞれの表現方法があるにも拘わらず)一度も描かれたことが無い。また、集落が描かれたことも無いのである。

残念ながら、これら旧版地形図を何枚集めてみても、答えには近付けないようだ。




『本川根町史 通史編3 近現代』より転載。

そんな私が「これだ!」と思ったのは、『本川根町史 通史編3 近現代』に収録されていた左の図を見たときだった。

この手書きの地図は、同書に「大井川発電所の隧道」というキャプション付きで収録されていたもので、本来はかなり大きな図だと思われるが、収録時に縮小されたらしく、細部の文字は潰れてしまっていて読み取れない部分がある。
だが、本文と照らすことによって、図中に私が書き足したような内容が読み取れてくる。

すなわち、この図が示しているのは、大井川の奥泉地点上流に堰堤を設け、そこから合計7本の隧道をもって導いた水を、途中で支流の寸又川や横沢川から集めた水と合わせて、崎平地区に設けた発電所に落とし発電を行うという、大規模な開発計画である。

そしてこのうち最も長く描かれている4号隧道と、それに南接する5号隧道の間で、図中には河川名こそ書かれていないものの、明らかにオチイ沢の水線と交差している。
この図は、極めて規模の大きな導水隧道工事が、かつてオチイ沢の周辺で行われていたことを示している!

本文によれば、これらの工事は大井川電力株式会社が昭和11年10月22日に運用を開始した大井川発電所の運用を目的としたもので、奥泉の堰堤から崎平にある発電所まで、有効落差115m、全長約8.2kmの地下導水路を設け、落水により発電力6.2万KWを得るという計画だった。

現在ある大井川鐵道井川線のアプトいちしろ駅附近より南の区間を、工事用軌道として最初に敷設し、同所にある大井川堰堤(右写真)や、寸又川の寸又川堰堤を建造したのが、この工事である。大井川鐵道の本線についても、この大井川電力株式会社や同様に大井川流域で電力事業を進めていた富士電力株式会社などが出資して設立・敷設されたものである。また、大井川発電所自体も運用者こそ中部電力に変わっているが、現在も変わらず崎平で稼動している。

この導水路工事は昭和9(1934)年2月に全体を2工区に分けて発注が行われ、4号隧道中間以北の1工区を間組が、以南の2工区を大倉土木(現在の大成建設)が受注して、4月に工事がスタートした。間組は千頭に大井川出張所を置いた他、7箇所に詰所を設置して工事に当たり、一連の隧道工事は翌昭和10(1935)年11月には早くも貫通した。そして寸又川堰堤は翌11年の8月、大井川堰堤が10月に相次いで湛水を開始し、同時に発電がスタートした。

韓国併合後に行われたこの大規模かつ困難な工事においては、同様の条件を有する他の様々な工事でも記録があるとおり、多くの朝鮮人労働者が従事したといい、1工区を請け負った間組の百年史(『間組百年史 1889-1945』)にも、「現場では、親方、世話役、補助役までは日本人だが、それ以外の労働者はほとんど朝鮮人で、その数約3000人であった」とある。

『本川根町誌 資料編5 近現代』に、この工事に従事した朝鮮人労働者李日俊氏の証言記録が収められている。
その内容は、この工事がいかに危険で、多くの殉職者を出したかを伝えるものだ。少し長くなるが、本工事についての文章化された貴重な体験談だと思うし、あまり恣意的な引用をして誤った印象を伝えることは避けたいので、以下のように少し長く転載させてもらった。


『間組百年史 1889-1945』に掲載された、
竣工当時の大井川堰堤の写真。

村に「募集」がきて日本に行けばいい仕事があるというのでそれに応じた。(中略)
千頭でトロッコに乗りかえ、沢間村に入って飯場に着いた。仕事は大井川発電所の導水路のトンネル掘りだった。四〇〇〇人以上の人間が集められていた。私は黄さんという同郷の親方の下で仕事をした。皆朝鮮人であり、三交代での仕事だった。
辛かったよ。穴掘りは危険がいっぱいで、毎日のように二〜三人、多いときには一〇人ぐらいの死体をトロッコか車で運んだが、どこへどうしてしまうのかはわからん。だって線香ひとつたてるわけじゃないし、墓をつくるわけでもなく、里へ手紙を送ったとも聞かなかった。もっとも手紙を書ける人は少なかった。
仕事が仕事だったのでけが人や死ぬ人がでるのはあたりまえ。頭の上から突然大きな石が落ちることもあったし、水がどおっと流れ出すこともあったし、ハッパの振動でいきなり岩が崩れることだって毎日のようにあった。
真っ暗い穴のなかでカンテラの光だけ、何が起こっているのか全然わからん。
死んだ人のこととか、ケガ人のことを言ったらきりがないね。思い出すのもいやだな。
私はそこで三年くらいがんばったが、いろんな人がいた。故郷の家族が送金を待っているからと酒、たばこをやめてものも言わず働くもの、一人息子で結婚資金を貯めるために来たもの、朝鮮の北から南まで方々から来ていた。
私は五十円貯めるのがやっとだった。食費、着るもの、履くもの、その他いろいろ引かれると五円ほどになってしまう。貯めた金を家族へ送った。
私はそのとき結婚していたので子どもが二人いた。故郷の家族は皆私がたよりだった。しばらくして父、妻、子ども、弟の五人を日本へ呼んだ。そのあと二人の子どもが生まれた。生活というより生きるために死にもの狂いで働いた。あんな思いはもういやだ。
工事場近くに遊郭があった。朝鮮から連れてこられた十七〜十八歳くらいの女たちが二〇〜三〇人、三棟の家で客の相手をさせられていた。
日本の監督がたくさんいて、その下で朝鮮人の親方が下請けして、私らに仕事をさせていた。(中略)
あとの世代にこうだったんだと伝えていってほしい。

これは間組が受注した1工区の体験談だが、毎日のように2〜3人、多い時には10人くらいが(一労働者の見える範囲だけで)亡くなっていた工事現場とはいかなるものなのか。安易な表現になりはするが、想像を絶するといわざるを得ない。

さらに同書には、「大井川発電所工事の隧道崩壊事故十二人を呑む」という、昭和10年8月26日付『静岡民友新聞』の記事も掲載されている。

千頭奥の発電所工事 隧道崩壊十二名を呑む 五名は救助され一名死亡す 地中から救ひを求む微かな声

二十五日午前九時十分頃、榛原郡上川根村千頭西一里一粁大倉組請負大井川電力工事□坑道において酸素瓦斯を用いて鉄筋切断作業中工事監督狩野和一郎氏ほか十一名の工夫が坑道内部約三十米が昨日来の豪雨で地盤が緩み俄然崩壊した為十二名が生埋めとなった大惨事が勃発した。(中略)
急報により大倉組工事事務所から人夫百余名を連れて急ぎ双方の口から発掘救助作業に従事し、午前十一時に至り狩野和一郎氏並に加納某を発掘したが間もなく死亡し、引続き午後二時に至り工夫池川幸一、岡田儀一、青木□吉、吉蔵才吉の四名を発掘したが、何れも半死半生の状態で生命危篤である。残る工夫土□森次、又平正雄、山下金太郎、金沢春吉、斎藤太郎、成田誠市の六名は引続き発掘作業中であるが、生死の程不明で全部の発掘を終るまでには二十六日正午頃までかかる模様である。(以下略)

この隧道落盤事故が発生した場所について、「千頭西一里一粁大倉組請負大井川電力工事□坑道」の「一里一粁(キロ)」という表現は意味が不明だが、これが千頭から西へ1kmの単純な誤記であったとすれば、大倉組請負工区(すなわち4号隧道中間以南)での事故であったことと合わせて、オチイ沢に近い4号ないし5号隧道が、現場であった可能性は高いのではないか。
そして、記事には工事事務所からすぐに救助隊が出たと書かれているが、事故の発生から最初の犠牲者が発掘されるまで2時間も掛かっていない事実を踏まえると、この工事事務所は千頭の集落内ではなく、今回の探索で多くの食器類が発見された辺りに存在した事を予感させる。

そして何より重大な可能性として、慰霊碑は、この落盤事故の犠牲者を悼むために建てられたものではないだろうかということが疑われる。

慰霊碑には関係者の名前が全く記されていないので、この予想も確信には至らないが、碑面に「昭和十一年十一月建」とある(これは大井川発電所が発電を開始した翌月)ことから考えても、一連の導水路施設にまつわる慰霊碑である事は、間違いないと思う。


『本川根町誌 資料編5 近現代』より転載。

こうして机上調査を進めた結果、ようやく現地で見た慰霊碑や索道跡、さらに生活痕跡地などの正体について、大まかながらも推論を立てることが出来るようになった。
ちなみに、大井川発電所工事に関する慰霊碑は、同発電所敷地にも存在しているとのことである。
ここまで二度引用した『本川根町誌 資料編5 近現代』に、右の写真と共に碑文が全て掲載されている。

大井川発電所建設工事殉職者
 大井川電力株式会社
   狩野和一郎 長田貞利 小林清
 株式会社 間組
   (20名の氏名が列記)
 大倉土木株式会社
   (22名の氏名が列記)
    合計 四十五名   昭和十一年十一月建

碑文の末尾にある記年は、今回発見の慰霊碑と一字一句まで共通している。
違いは、この碑には殉職者の氏名が所属した会社毎に列記されていることで、先ほどの記事の落盤事故で工事監督人として亡くなったことが出ていた狩野和一郎氏の名前もある。
だが、一緒に死亡が確認されたとされる「加納」氏の名前は、この45人にはなぜか含まれていないのである。
というか、本当に殉職者は45人であっただろうか。
ちなみに同書は、氏名が書かれている45人について、「十二名が朝鮮人労働者である」としている。

同じ工事に関わる慰霊碑が、同時に2箇所に建立された理由だが、おそらく私が見た碑は大倉組(かその関係者)が単独で建立したもので、大井川発電所にあるものは大井川電力が(或いは関係三社合同で)建立したのでは無かったろうか。
となると、間組の工区内には間組が建之した慰霊碑があるかもしれない。




また、今回は非常な地形の険悪と事前情報不足のため、オチイ沢を跨いで(或いは潜って?)建設されたであろう導水路がいかなるものであるのかについては、未確認の謎として残った。

大井川発電所の現在の運用者である中部電力が当時の導水路を移設せず現在も使っていると仮定した場合、それがオチイ沢と交差する地点は、この写真の小さな橋を渡った地点から1kmも上流である。
このことは、最新の地理院地図に導水路が描かれているから分かるのだが、正直私では無事に辿り着ける気がしないので、腕に覚えのある“沢屋さん”に他力本願したいところ…。




レポートの第1回を振り返れば、朗らかな晴天の下で始めたはずの今回の探索だったが、思いのほかに険しいオチイ沢に近付くにつれて一天俄にかき曇ったと思えば、取り残された慰霊塔を前にした頃には、もう山野を霞ませるほどの雪に降り籠められたのであった。この天候の変化が、印象に残った。
それでも結果、今回も私は無事に生還し、踏破も達成した。
全ては心の持ちようで、間違いなく心霊現象など体験した事が無いと断言する私だが、この探索ほどに道中もの淋しい気分を覚えたことは、あんまりない。

我々が通う全ての道に、その礎となって汗を流した人の姿が必ずあるように、より目に見えづらい電気にも、場合によっては道路よりもさらに多くの汗や血を流した人がいた。
机上調査により、そんなことに思いが至った探索となった。
目に見える電気に色は無くても、空気のような無垢の無色ではないはず。