今回の探索で最も印象に残ったことは、やはりその序盤でオチイ沢の対岸に見た“石碑のようなもの”が、大変苦労して辿り着いてみたら本当に石碑であって、しかもそれが慰霊碑だったということだ。
その事が私の心に酷く食い込んで、最後まで離れなかった。
そんな“名無し”の慰霊碑の前後にはまともな道が無く、孤立していたが、それでいて見晴らしだけは良い場所に置かれていて、今回のような季節外れの降雪さえなければ、大井川対岸の集落が見通せる場所だったろう。いささか非科学の想像にはなるが、慰霊碑は人に忘れ去られても、そこに宿る魂は依然として人の世界を見つめている。そんな印象を与える立地だ。
さらにこの慰霊碑に続く形で、予想外の索道遺構や、かつて人が留まって飲食をしたであろう多数の形跡を発見。
これらは単純な川根街道という道の遺構ではないように見えたが、現地調査で正体を知ることは無かった。
帰宅後の机上調査における目標は、必然、これら人跡の正体探しとなった。
↑ とりあえず机上調査の前提として、歴代3枚の旧版地形図を改めて確認する。
図中の赤い円で囲んだところが、慰霊碑や索道跡などがあった一帯である。
これらを見れば分かるように、この一帯に過去描かれた事のある人工物は川根街道の道くらいであり、あとはせいぜい昭和42(1967)年版に送電線が出現したくらいである。索道や慰霊碑は(地形図にはそれぞれの表現方法があるにも拘わらず)一度も描かれたことが無い。また、集落が描かれたことも無いのである。
残念ながら、これら旧版地形図を何枚集めてみても、答えには近付けないようだ。
『本川根町史 通史編3 近現代』より転載。
そんな私が「これだ!」と思ったのは、『本川根町史 通史編3 近現代』に収録されていた左の図を見たときだった。
この手書きの地図は、同書に「大井川発電所の隧道」というキャプション付きで収録されていたもので、本来はかなり大きな図だと思われるが、収録時に縮小されたらしく、細部の文字は潰れてしまっていて読み取れない部分がある。
だが、本文と照らすことによって、図中に私が書き足したような内容が読み取れてくる。
すなわち、この図が示しているのは、大井川の奥泉地点上流に堰堤を設け、そこから合計7本の隧道をもって導いた水を、途中で支流の寸又川や横沢川から集めた水と合わせて、崎平地区に設けた発電所に落とし発電を行うという、大規模な開発計画である。
そしてこのうち最も長く描かれている4号隧道と、それに南接する5号隧道の間で、図中には河川名こそ書かれていないものの、明らかにオチイ沢の水線と交差している。
この図は、極めて規模の大きな導水隧道工事が、かつてオチイ沢の周辺で行われていたことを示している!
本文によれば、これらの工事は大井川電力株式会社が昭和11年10月22日に運用を開始した大井川発電所の運用を目的としたもので、奥泉の堰堤から崎平にある発電所まで、有効落差115m、全長約8.2kmの地下導水路を設け、落水により発電力6.2万KWを得るという計画だった。
現在ある大井川鐵道井川線のアプトいちしろ駅附近より南の区間を、工事用軌道として最初に敷設し、同所にある大井川堰堤(右写真)や、寸又川の寸又川堰堤を建造したのが、この工事である。大井川鐵道の本線についても、この大井川電力株式会社や同様に大井川流域で電力事業を進めていた富士電力株式会社などが出資して設立・敷設されたものである。また、大井川発電所自体も運用者こそ中部電力に変わっているが、現在も変わらず崎平で稼動している。
この導水路工事は昭和9(1934)年2月に全体を2工区に分けて発注が行われ、4号隧道中間以北の1工区を間組が、以南の2工区を大倉土木(現在の大成建設)が受注して、4月に工事がスタートした。間組は千頭に大井川出張所を置いた他、7箇所に詰所を設置して工事に当たり、一連の隧道工事は翌昭和10(1935)年11月には早くも貫通した。そして寸又川堰堤は翌11年の8月、大井川堰堤が10月に相次いで湛水を開始し、同時に発電がスタートした。
韓国併合後に行われたこの大規模かつ困難な工事においては、同様の条件を有する他の様々な工事でも記録があるとおり、多くの朝鮮人労働者が従事したといい、1工区を請け負った間組の百年史(『間組百年史 1889-1945』)にも、「現場では、親方、世話役、補助役までは日本人だが、それ以外の労働者はほとんど朝鮮人で、その数約3000人であった
」とある。
『本川根町誌 資料編5 近現代』に、この工事に従事した朝鮮人労働者李日俊氏の証言記録が収められている。
その内容は、この工事がいかに危険で、多くの殉職者を出したかを伝えるものだ。少し長くなるが、本工事についての文章化された貴重な体験談だと思うし、あまり恣意的な引用をして誤った印象を伝えることは避けたいので、以下のように少し長く転載させてもらった。
『間組百年史 1889-1945』に掲載された、
竣工当時の大井川堰堤の写真。
村に「募集」がきて日本に行けばいい仕事があるというのでそれに応じた。(中略)
千頭でトロッコに乗りかえ、沢間村に入って飯場に着いた。仕事は大井川発電所の導水路のトンネル掘りだった。四〇〇〇人以上の人間が集められていた。私は黄さんという同郷の親方の下で仕事をした。皆朝鮮人であり、三交代での仕事だった。
辛かったよ。穴掘りは危険がいっぱいで、毎日のように二〜三人、多いときには一〇人ぐらいの死体をトロッコか車で運んだが、どこへどうしてしまうのかはわからん。だって線香ひとつたてるわけじゃないし、墓をつくるわけでもなく、里へ手紙を送ったとも聞かなかった。もっとも手紙を書ける人は少なかった。
仕事が仕事だったのでけが人や死ぬ人がでるのはあたりまえ。頭の上から突然大きな石が落ちることもあったし、水がどおっと流れ出すこともあったし、ハッパの振動でいきなり岩が崩れることだって毎日のようにあった。
真っ暗い穴のなかでカンテラの光だけ、何が起こっているのか全然わからん。
死んだ人のこととか、ケガ人のことを言ったらきりがないね。思い出すのもいやだな。
私はそこで三年くらいがんばったが、いろんな人がいた。故郷の家族が送金を待っているからと酒、たばこをやめてものも言わず働くもの、一人息子で結婚資金を貯めるために来たもの、朝鮮の北から南まで方々から来ていた。
私は五十円貯めるのがやっとだった。食費、着るもの、履くもの、その他いろいろ引かれると五円ほどになってしまう。貯めた金を家族へ送った。
私はそのとき結婚していたので子どもが二人いた。故郷の家族は皆私がたよりだった。しばらくして父、妻、子ども、弟の五人を日本へ呼んだ。そのあと二人の子どもが生まれた。生活というより生きるために死にもの狂いで働いた。あんな思いはもういやだ。
工事場近くに遊郭があった。朝鮮から連れてこられた十七〜十八歳くらいの女たちが二〇〜三〇人、三棟の家で客の相手をさせられていた。
日本の監督がたくさんいて、その下で朝鮮人の親方が下請けして、私らに仕事をさせていた。(中略)
あとの世代にこうだったんだと伝えていってほしい。
これは間組が受注した1工区の体験談だが、毎日のように2〜3人、多い時には10人くらいが(一労働者の見える範囲だけで)亡くなっていた工事現場とはいかなるものなのか。安易な表現になりはするが、想像を絶するといわざるを得ない。
さらに同書には、「大井川発電所工事の隧道崩壊事故十二人を呑む」という、昭和10年8月26日付『静岡民友新聞』の記事も掲載されている。
千頭奥の発電所工事 隧道崩壊十二名を呑む 五名は救助され一名死亡す 地中から救ひを求む微かな声
二十五日午前九時十分頃、榛原郡上川根村千頭西一里一粁大倉組請負大井川電力工事□坑道において酸素瓦斯を用いて鉄筋切断作業中工事監督狩野和一郎氏ほか十一名の工夫が坑道内部約三十米が昨日来の豪雨で地盤が緩み俄然崩壊した為十二名が生埋めとなった大惨事が勃発した。(中略)
急報により大倉組工事事務所から人夫百余名を連れて急ぎ双方の口から発掘救助作業に従事し、午前十一時に至り狩野和一郎氏並に加納某を発掘したが間もなく死亡し、引続き午後二時に至り工夫池川幸一、岡田儀一、青木□吉、吉蔵才吉の四名を発掘したが、何れも半死半生の状態で生命危篤である。残る工夫土□森次、又平正雄、山下金太郎、金沢春吉、斎藤太郎、成田誠市の六名は引続き発掘作業中であるが、生死の程不明で全部の発掘を終るまでには二十六日正午頃までかかる模様である。(以下略)
この隧道落盤事故が発生した場所について、「千頭西一里一粁大倉組請負大井川電力工事□坑道」の「一里一粁(キロ)」という表現は意味が不明だが、これが千頭から西へ1kmの単純な誤記であったとすれば、大倉組請負工区(すなわち4号隧道中間以南)での事故であったことと合わせて、オチイ沢に近い4号ないし5号隧道が、現場であった可能性は高いのではないか。
そして、記事には工事事務所からすぐに救助隊が出たと書かれているが、事故の発生から最初の犠牲者が発掘されるまで2時間も掛かっていない事実を踏まえると、この工事事務所は千頭の集落内ではなく、今回の探索で多くの食器類が発見された辺りに存在した事を予感させる。
そして何より重大な可能性として、慰霊碑は、この落盤事故の犠牲者を悼むために建てられたものではないだろうかということが疑われる。
慰霊碑には関係者の名前が全く記されていないので、この予想も確信には至らないが、碑面に「昭和十一年十一月建」とある(これは大井川発電所が発電を開始した翌月)ことから考えても、一連の導水路施設にまつわる慰霊碑である事は、間違いないと思う。
『本川根町誌 資料編5 近現代』より転載。
こうして机上調査を進めた結果、ようやく現地で見た慰霊碑や索道跡、さらに生活痕跡地などの正体について、大まかながらも推論を立てることが出来るようになった。
ちなみに、大井川発電所工事に関する慰霊碑は、同発電所敷地にも存在しているとのことである。
ここまで二度引用した『本川根町誌 資料編5 近現代』に、右の写真と共に碑文が全て掲載されている。
大井川発電所建設工事殉職者
大井川電力株式会社
狩野和一郎 長田貞利 小林清
株式会社 間組
(20名の氏名が列記)
大倉土木株式会社
(22名の氏名が列記)
合計 四十五名 昭和十一年十一月建
碑文の末尾にある記年は、今回発見の慰霊碑と一字一句まで共通している。
違いは、この碑には殉職者の氏名が所属した会社毎に列記されていることで、先ほどの記事の落盤事故で工事監督人として亡くなったことが出ていた狩野和一郎氏の名前もある。
だが、一緒に死亡が確認されたとされる「加納」氏の名前は、この45人にはなぜか含まれていないのである。
というか、本当に殉職者は45人であっただろうか。
ちなみに同書は、氏名が書かれている45人について、「十二名が朝鮮人労働者である
」としている。
同じ工事に関わる慰霊碑が、同時に2箇所に建立された理由だが、おそらく私が見た碑は大倉組(かその関係者)が単独で建立したもので、大井川発電所にあるものは大井川電力が(或いは関係三社合同で)建立したのでは無かったろうか。
となると、間組の工区内には間組が建之した慰霊碑があるかもしれない。
また、今回は非常な地形の険悪と事前情報不足のため、オチイ沢を跨いで(或いは潜って?)建設されたであろう導水路がいかなるものであるのかについては、未確認の謎として残った。
大井川発電所の現在の運用者である中部電力が当時の導水路を移設せず現在も使っていると仮定した場合、それがオチイ沢と交差する地点は、この写真の小さな橋を渡った地点から1kmも上流である。
このことは、最新の地理院地図に導水路が描かれているから分かるのだが、正直私では無事に辿り着ける気がしないので、腕に覚えのある“沢屋さん”に他力本願したいところ…。
レポートの第1回を振り返れば、朗らかな晴天の下で始めたはずの今回の探索だったが、思いのほかに険しいオチイ沢に近付くにつれて一天俄にかき曇ったと思えば、取り残された慰霊塔を前にした頃には、もう山野を霞ませるほどの雪に降り籠められたのであった。この天候の変化が、印象に残った。
それでも結果、今回も私は無事に生還し、踏破も達成した。
全ては心の持ちようで、間違いなく心霊現象など体験した事が無いと断言する私だが、この探索ほどに道中もの淋しい気分を覚えたことは、あんまりない。
我々が通う全ての道に、その礎となって汗を流した人の姿が必ずあるように、より目に見えづらい電気にも、場合によっては道路よりもさらに多くの汗や血を流した人がいた。
机上調査により、そんなことに思いが至った探索となった。
目に見える電気に色は無くても、空気のような無垢の無色ではないはず。