道路レポート 塩原新道 桃の木峠越 第二次踏査 第4回

所在地 栃木県那須塩原市
探索日 2008.07.31
公開日 2024.12.03
このレポートは、『日本の廃道 2009年2月号』『3月号』に執筆した同名レポートのリライトです。
現在多忙のため執筆時間を十分に取れないので、神路駅の続きなど従来レポートを一旦休止してリライトをお送りすることをご了承下さい。

 三重殺?! “若見薙”の煩悶


2008/7/31 8:13 6.3km

出発から6.3km地点、巨大なガリーで道が寸断されていた。
これを“若見薙”と名付けつつ、横断して進むことにした。
ルートとしては、地形に沿って素直にガリーの底まで下りてから、再び対岸をよじ登ることにした。(チェンジ後の画像に示したルート)

このガリーの見えている範囲については、下に行くほど緩やかな擂り鉢のような傾斜であるから、出来るだけ下へ迂回した方が横断はしやすそうだが、あまり大きく下ると単純に迂回が長くなるし、対岸に上り直す労力も増えるから、バランスを考えてルートを採った。



これが、切れた道の先端から臨む、これから下ろうとしている谷底と、対岸の様子だ。
前の写真だと緩やかな地形に見えたかも知れないが、実際は3階建ての建物がすっぽり収まるくらいの急な落差があり、下りるだけでも一筋縄では行かない。
対岸をよじ登るのも、同じように大変そう。

願わくはこれきりにしてほしいが、九十九折りのため、このガリーの上部を再び横断しなければならない可能性があることが、気が気でない。

突入!



慎重に、岩と土が混ざり合った崩壊斜面を降りきって、水のない谷底へ。
写真は下流を見下ろして撮影したが、ずっと下まで真っ直ぐV字型の谷が続いていて、物凄い高度感だ。
典型的なガリーである。適切な治山の手を差し伸べない限り、際限なく崩れ続けることであろう。

続いて、向かって左側の同じ様な斜面をよじ登った。



8:21 6.4km

ガリーに突き当たったところから8分後、重い荷物と身体を地形に逆らって押し進め、やっと対岸の道の続きへと辿り着いた。
直前の谷が幻だったかのように平穏な広い道であった。
すぐさま前進を再開する。



再び岩場を削って横切っていく道になった。
既に出発から6km以上進んでいるが、廃道に入ってからだけでも3km以上進んで来た。
これだけ歩けば、この道に頻出する光景は、酸いも甘いも一通り見た感じがする。

条件の良いところは驚くほど良く道形が保存されているが、崩れているところには本当に全く跡形もなくなってしまっている。そんな大きなギャップが、廃止から120年の放置という、オブローダーが相手にする近代車道としての最大級の古さを持つ廃道の特徴なのだろう。
崩れにくい場所と崩れやすい場所の条件は基本的に固定されているから、時間の経過と共に状態の良し悪しの格差が広がっていくのは自明なことだ。



8:30 6.7km

巨大ガリーを横断して250mほど前進した。相変わらず道の状況が良く、いいペースで進んでいる。

そして――、

使者が来た。

遙か遠くの峠から遣わされた使者。

……なんて勿体ぶった言い方をしたが、ようは、九十九折りの上段の道が見えて来たのである。
やっぱり、この先で切り返して九十九折りになっているのか。
普通なら嬉しいところだが、切り返した先に、再びさっきのガリーが待ち受けている可能性を思うと、気が重い。



(正直意味は分からんが、リライト元からこの2枚の画像が挿入されていたので、そのまま掲載)



8:32 6.9km 《現在地》

折り返し、キタ―――!

こういう場面は、ふた月前の峠北側の探索でも沢山目にした。
九十九折りの数は北側の方が遙かに多く、南側は数えるほどしかない。
何度見ても、やっぱり明治道の切り返しの風景は、心を穏やかにしてくれる。
特に、国道級とされた道ならではのゆったりとした幅員がタマラナイ。
こんな大きな痕跡があるのに、世の中にはほとんど知られていない道だというのも楽しい。
三島のアタマの中では、関東地方と東北地方を結ぶ陸羽街道(国道4号)に並ぶ幹線道路という位置付けだったはずである。

切り返して、“中段”の道へ!



切り返した直後に、もしやと思って上手の斜面に目を向けると、30mくらい上の斜面を横断する平場が見えた。
まさしくこの道の行く先、もう一度切り返した先の“上段”と見て間違いあるまい!

この瞬間、私の中の怠惰が誘惑してきた。
これはその気になれば簡単によじ登れるだろう。そうすれば数百メートル規模の大きなショートカットに成功する。
だが、九十九折りという、この道にとって貴重な“イベント”を無視して進めば、この道を深く知るための機会を失する恐れがある。
そうでなくても、今日は午前6時台にぶつかった最初の切り返しで、焦りと荒廃に負けてショートカットしてしまっている負い目がある。
だから今回は(ペースも順調だと思うので)、出来る限り端折らないで攻略してやりたいという気持ちがあった。

……上は見なかったことにして、そのまま進む。



ああ! なんて気持ちが良い道だろう!
ショートカットを我慢した私へのご褒美だと思う。
後は、この先のガリーにぶつかる前に、上段の道が下りてきてくれたらベストだが…。



うむむむむ。
まだガリーまでは来ていないが、地形がだいぶ険しく変化した。
これは“下段”で【岩場を横断した場面】の直上なんだろう。
あまり高低の離れていないところを九十九折りで行き来しているわけだから、当然、地形も逆再生で現れがちなのである。

この岩場、とてもじゃないが、すぐに“上段”が迎えに来られる感じではないと思い知らされる。
だが、ここを過ぎてしまえば、もうそろそろ、ガリーが近いはずで……。



8:43 7.2km 《現在地》

切り返しから約300m――

非情な現実を目の当たりにする。

ガリー“若見薙”に再遭遇した!



うっわ… 無理じゃん……。

嫌な予感はしていたんだんだけど、やっぱりこうなりやがったか……。

ここからガリーの中へ下りることはできそうだが、対岸が切り立ちすぎていて、這い上がることはおそらく出来ない。


さあ、どうしよう?




いくつか方法を考えた。

一つは、さっき“上段”の道が見えたところまで戻って、やっぱりショートカットして先へ進むこと。
ただ、これをすると当然、次の切り返しのカーブ附近は踏破せずに終わることになる。

結局ここでは、先ほど一度通過している“下段”の横断地点へ迂回してガリーを渡り、改めて対岸をよじ登って“中段”へ復帰することにした。
全く以て効率度外視の動きだったが、私にとって、切り返しの場面に辿り着くことには、それをさせるだけの魅力があった。
もう簡単には再訪出来ない領域まで入り込みつつあるしね、出来るだけ禍根を残したくない。




“中段”の末端近くに立って下を見ると、20mくらい下に“下段”の道が見えた。
右に見える巨大なガリーの底を下って、まずはあの“下段”の横断地点へ向かう。

平たくいえば、30分前の通過地点へ戻りますわ!



8:50 6.4km(←起点からの進行距離が巻き戻ってます…)

悲しみ!
30分間の前進分約800mを清算し、一度通過したこの場所へ戻ってきた。
だがもちろん、無駄な行程などではなかった。私は見たではないか。あの美しい切り返しを。
再びそんな景色と出会うため。そして自分をもっと好きになるため。ここは妥協せず攻略するぞ!

さあ気張れ! 次は対岸の攀じ登り! 一気に“中段”の続きを目指す!!




8:55 7.3km(←前進距離が復帰しました!)

はぁ… はぁ…。

……これは道萌えじゃないんだからね! ただの息切れなんだからね!
ってなワケで、到達した“中段”の道の続き。
ガリーの崖を背にして前進方向を撮影している。
ここへ来てみると、“上段”がすぐ近くに来ていることに気付いた。次の切り返しは間近だろう。

前進再開!



8:57 7.4km 《現在地》

案の定、あっという間に2回目の切り返しへ到達する。
例によって緩やかな光景だ。とてもゆったりとしたヘアピンカーブ。年代的に、“簪(かんざし)”カーブって言った方が近いのか? という冗談はともかく、とても良好な保存状態だ。1000年後にも変わらずに残っていそう。
えらく到達に苦労したこともあって、絵的には地味かもしれないが、結構的な風景に見えた。

ここからは“上段”である。
もうこの上に切り返して戻ってくることはないので、ショートカットをする余地もなくなった。
とりあえず、“上段”もガリーに呑まれている公算が極大なので、そこをどうするかが至近の問題だ。



“上段”を歩き出す。
この写真に写っている太い木も、例によって、巨木である。
道幅が4mくらいあるので、そう見えないかも知れないが。

話は変わるが、この探索日は7月の最終日という真夏である。
当然気温は高い予報で、関東地方の平野部では午前9時前から30℃越えとなっていたのだが、探索中全く暑さに苦しむことはなかった。
さすがは避暑地として有名な那須の山中だったわけだ。既に標高800mを越えているし。そしてまだまだ登る。登らねばならない。



9:00 7.6km

午前9時ジャスト。クマ対策のため最大音量で鳴らし続けていた携帯ラジオから、夏休みのお楽しみ「全国こども電話相談室」が聞こえてきた。山が深いせいか、ほとんど他のチャンネルは受信できなかった。

直後、三度、若見薙と遭遇した。
約束されていた遭遇。マジで若見山を谷底から山頂まで断ち切っている勢いだ。
が、下に比べれば幅はだいぶ狭まっており、道と谷の比高も減っている。
これならなんとか正面突破で向こう岸へ渡れるのではないかと期待した。



ズサーー!!!

からの

ビリィ…



…やった。

トラバースで突破出来ると思った斜面の正体が、実は土ではなくスラブ(一枚岩)に浅く土が乗っただけのものだった。
この見誤りは、私を激しくスリップさせた。咄嗟に尻で滑る体制になることは出来たが、そのまま「ずさー」と、斜面長にして10mくらい望まぬ尻セードを演じてしまったのである。
幸い、怪我は全くなかったのだが、予期せぬ大きなスリップに動揺した。

そして、まもなく尻の感触がおかしいことに気付く。
手を回して触ってみると、泥がべったりついているのは当然として…… ん? 濡れている? いや、それよりも!
カメラを勘で尻に向けて撮影して確認すると、なんとも酷いことになっていた。 ヨッキの尻に穴が空いてしまった!!!!!!

……一応、帰りの電車の事を考えて、一本だけ替えのズボンを持ってはいたが、今ここでそれを消耗するわけにはいかないので、このままパンチラで峠を目指すことに…。

油断大敵とは、このことである。



油断したつもりもなかったんだが、経験不足だろうな……、今思えば。
不用意に斜面に突撃したことの失敗を、尻で清算した私は、望まぬガリーの底へ下ろされた。
滑落の動揺があったので、ここでの行動は安定志向になり、既に2回横断している“下段”の横断地点をもう一度横断して、先へ進むことにした。

だがこれにはさすがに辟易した。
一つのガリーに三度分断された道で、三度とも同じ地点を横断したのである。
“中段”を横断するときも“下段”へ下り、さらに“上段”を横断するときにも“下段”へ下りた。
“上段”と“下段”の高低差は40mくらいだったが、この範囲を何度も昇降したわけで、疲れたし、徒労感もキツかった。

現実に、私はここで相当に疲労してしまった感じがした。
まだ峠の半分も来ていないのに、これは良くない。
ちょっと長めに休憩しよう。


9:11 7.7km ダメージを食らいながらも“若見薙”突破…!

 洋画家・高橋由一が描いた塩原新道 【最終編】

※本ミニコーナーの【その1】から【その5】は、前作に掲載されていますのでご覧下さい。

三島の委嘱によって洋画家・高橋由一が石版画として残した約200点にも及ぶ新道・新建築風景のなかで、塩原新道を描いたものは10点ある。
その一覧を次に表示する。

通し番号図名画URL区間(推定)
11-3栃木県那須郡三島村肇耕社事務所門前の図三島村→関谷村
11-7栃木県塩谷郡塩原村新道の内同村に入る坂上より關谷村を望む図関谷村→塩原温泉
11-8栃木県塩谷郡関谷村新道の内梵天阪の図
11-9栃木県塩谷郡上塩原村新道の内字若宮の図塩原温泉→桃の木峠
11-10栃木県塩谷郡上塩原村新道の内字藤次郎沢の図
11-11栃木県塩谷郡上塩原村新道の内字馬乗沢の図
11-12栃木県塩谷郡横川村男鹿川に架する橋梁の図桃の木峠→山王峠
11-13栃木県塩谷郡横川村字茅野の図
11-14栃木県塩谷郡横川村新道より福嶋県下會津郡糸沢村山王峠切り割りを望む図
11-15栃木県塩谷郡横川村新道原上より西北新道切り割りの図

ここにある「通し番号」欄と「図名」欄の内容は、由一のスケッチ帳にある自筆のものである。
基本的にはこの「通し番号」の順序で写生旅行が行われたと考えられているが、個々の写生が行われた正確な日時や状況、場所、順序を明らかにする別資料(たとえば本人の手記など)は見当らず、撮影地を特定する手掛りとしては、本人が各図に記した「図名」が最大のものであり、加えて『三島通庸と高橋由一にみる 東北の道路今昔』(建設省東北地方建設局/平成元年)に掲載された「写生日程表」などが参考になる。

由一は明治17(1884)年8月から11月下旬まで、3ヶ月間にも及ぶ長期の写生旅行を行い、栃木、福島、山形の3県で200枚近いスケッチを行った。
塩原新道は最序盤の8月8日から11日までの期間に通行しているが、この時点では工事途中であったため、写生は(おそらく)行われず、純粋に東京から東北地方へ入るための通路となった。
そして、東北地方での写生を終えた11月11日から数日をかけて改めて三島村→山王峠→三島村と片道52kmにも及ぶ塩原新道を1往復してスケッチを行っている。(そして11月24日に汽車で東京へ帰着している)
このように、由一は塩原新道を1.5往復も通行しているために、写生の順序が通し番号と厳密に一致しているのかは正直怪しい(と私は思っている)。

塩原新道で描かれたスケッチは上図に示した10点であったが、そのうち現在健在の道路と考えられているのは、最初の3点までだ。
これらは現在の国道400号沿道の場面であり、地名からもそれが窺える。
残る7点については、塩原新道の第2期区間(塩原〜山王峠)で描いたものと考えられるが、この区間は明治18年に早々と廃止が決定されたのであった。

そしてこの7点のうち、今回探索している塩原〜桃の木峠間で描いたとみられるのは、通し番号11-9、11-10、11-11の3点であると考えられる。
そう考える根拠は、自筆の図名である。この3点はいずれも、「上塩原村」(現在の那須塩原市大字上塩原であろう)で描かれたことになっており、消去法的に、塩原〜桃の木峠の区間以外は考えにくいのである。

本コーナーでは、この3点のスケッチを元に描かれ、『三県道路完成記念帖』に収められた3点の石版画作品をご覧いただく。


栃木県塩谷郡上塩原村新道の内字若宮の図 [11-9]

この図は、通し番号が素直に南から北の順序で振られているとすれば、塩原から桃の木峠へ向かう比較的序盤ではないかと思われる。
そして図名より、上塩原村の字(あざ)若宮という地点の風景であることが分かる。

絵の内容としては、深い谷を挟んで此岸と対岸におそらく一続きであろう広い道が描かれており、対岸の路肩には石垣が多く見える。路肩に木製の転落防止柵があり、明治当時の馬車道でもささやかながら安全対策が行われていたことが分かる。そして広い路上には、由一の新道画にしばしば登場する洋装の人物のほか、向こう岸に馬を引く人物、馬と御者が乗る馬車、人力車らしきものも見える。

これが描かれたのは、前述のように明治17(1884)年11月中旬で、10月23日の開通式典から間もない時期だ。
描かれた交通量が三島への忖度でないとすれば、山中の道路としては決して少なくない交通量があったことになる。

字若宮という地点は、現在の地図上で確認できず、この写景地点の同定は出来ていない。
構図的には、善知鳥沢を挟んで対岸の道を描いた情景を連想するが、特定するほどの強い根拠はない。また、ややこじつけだが、現在も地形図にある「若見山」は「若宮」に音が近いが、関係があるだろうか。


栃木県塩谷郡上塩原村新道の内字藤次郎沢の図 [11-10]

通し番号からすると、塩原から桃の木峠へ向かう行程の中間付近であろうか。
図名より、上塩原村の字(あざ)藤治郎沢という地点の風景であることが分かる。

絵の内容としては、深い谷の片岸に延々と広い平坦な道が延びており、路肩にはやはり木製の転落防止柵がある。路上にはこれまた行き交う多くの人影があり、目の前に人力車が止まって車夫も休んでいるようだ。これは由一を乗せてきた車ではなかったろうか。
塩原新道で描かれた他の作品も同様だが、広葉樹はどれも葉を落としているから、やはり11月のスケッチらしい。また、全体的に森に木々が乏しく見えるのは、絵画的な省略というよりは、当時の山村における最大の生業であった炭焼きの影響の可能性が大きいと思う。

字藤治郎沢という地点は、現在の地図上で確認できず、この写景地点の同定は出来ていない。
構図的にも、善知鳥沢沿いの区間の大半がこのような情景であるので、特定は困難である。
地形図以上に沢名が充実していることがある林野庁の森林地図も確認してみたが、善知鳥沢の支流で名前のついているものは見られなかった。


栃木県塩谷郡上塩原村新道の内字馬乗沢の図 [11-11]

図名より、上塩原村の字(あざ)馬乗沢という地点の風景であることが分かる。

通し番号からは、塩原から桃の木峠へ向かう行程の終盤、峠に近いところを描いたものと考えたくなるが、しかし絵の内容は眼下に広い平野があるように見え、これは善知鳥沢上流部にある場面とは考えにくい。道自体は相変わらず崖のようなところを切り開いて坦々と延びている。

字馬乗沢という地点は現在の地図上で確認できず、この写景地点の同定は出来ていない。
やはり構図的には善知鳥沢沿いと思えないのだが、どこを描いたのだろうか。図名が誤りでない限り、上塩原村のどこかではあったのだろうが、どちらかというと善知鳥沢へ入る前の【箒川の段丘崖沿いの区間】のような感じがする。その場合、通し番号は峠→塩原という順序でつけられている可能性が出てくる。


総評として、3点ともに描写地点の特定は出来なかった。
その大きな原因は、いずれの図にも橋やトンネルのような分かりやすい中心となる被写体が存在しないことだ。
由一がなぜ、峠頂上の切り通しであるとか、善知鳥沢を渡る巨大な大旗高橋のような、分かりやすい新道の構造物を描かなかったかは、謎である。

だが、この疑問の答えに繋がるヒントかもしれないものが描かれていることに気付いた。
今回紹介した3点に加えて、峠の北側で描かれた11-12と11-13を含む5点には、“ある共通して描かれている存在”がある。
それは、全て左右どちらかの端に見切れて描かれている紅白の幕を垂らした四阿(あずまや)のような休憩所らしき小建築物だ。
敢えて写り込ませているようにも見える四阿の存在は、これらの設置地点を描くことを、三島が予めオーダーしていた可能性があると思う。

まあ仮にそうだとして、なぜもっと派手な場面を描かせなかったのかというのは、謎であるが…。

これまで、私が三島の新道を探り歩く旅の行く先々で、明治の新道風景と今日の風景を対比するというという、エキサイティングな時間旅行を楽しませてくれた由一の秀逸な画帳だが、塩原新道の今回探索区間については、どういうわけか被写体があまりにも虚ろで地点の特定が出来ないばかりか、何を描きたかったのかということも正直私に伝わってこないのだ。
まるでそれは、早世を運命づけられてた道を描かされた哀れな“幽霊画”のようだと、そんなイメージさえ私は持ってしまっている。

長い長い廃道のどこかに存在した、若宮、藤治郎沢、馬乗沢は、いずこにあるのか………。




2024/12/1追記

由一が塩原新道を描いた場所の一つとして地名のみが判明している、“上塩原村字馬乗沢”

この地名とよく似た地名が、現在の那須塩原市(大字)上塩原に存在していることが、農林水産省が運営・管理している「eMAFF農地ナビ」によって判明した。(このサイトには農地台帳に記載されている農地が網羅されており、各農地の所在地が詳細に(字名まで)掲載されているため、地理院地図などでは見ることが出来ない小地名を知ることが出来る。ただし農地がある周辺のみだが)

で、肝心の見つかった地名というのは、“那須塩原市上塩原字馬乗である。

由一のは「沢」で、発見されたのは「岩」である。
また、この「馬乗岩」という字がある範囲は上の地図に示したとおり狭く、かつ塩原新道の沿道とは少々言いがたいものがある。
とはいえ、「馬乗沢」で描かれたスケッチが、善知鳥沢ではなく箒川本流沿いに見える(これは私の感想だが)こととの一致はある。

果たして、この「馬乗岩」という字名と、由一の「馬乗沢」に、繋がりはあったのだろうか。残念ながら確認はとれない。
上塩原村の字切図が確認できれば、「字藤次郎沢」や「字若宮」とともに、その所在地を明確に出来ると思うのだが…。



 “岩屋”を越えて、若見沢(仮称)を目指す


2008/7/31 9:11 7.7km

現在地は起点から7.7km付近、峠までの残距離は推定9kmの位置まで来た。
直近で二度の切り返しからなる九十九折りを終え、高度は820mくらいまで登ってきた。
距離のうえでも、高度のうえでも、またルートの特徴という意味からも、峠までの区間を三つに分けたときの“中盤戦”が、この辺りから始まるものとの認識だった。

上の地図を見ていただきたいが、ここから始まる“中盤戦”の特徴は、地形図に水の線と共に描かれるような規模の大きな枝谷をいくつも横断していくことだ。地形図には、善知鳥沢沢の右岸に水線を伴う枝谷は2本だけが描かれており、これらの谷の周囲には、浸食が作り出した複雑な等高線の出入りが表現されている。
そして「位置図」によると、道はそんな等高線を丁寧になぞりながら、長い距離を使って、ゆっくりと高度を上げていくようであった。

谷は鬼門。

これまでの経験からそのように理解している私は、この中盤戦こそが、地形的な面で最も試練の多い区間になるものと想定していた。
今回の突破作戦が見事に成功するか、はたまた撤退を余儀なくされるか、その最も大きな分岐は、この区間に隠れているものと思っていた。
(このことは、距離と時間の両面から、中盤戦を越えてからの撤退は寧ろ危険度が高い選択になりそうだという想定も含んでいる)
また、直近の“若見薙”での苦労については、この中盤戦に畏れていた展開が一足早く現れたもののように現地では解釈していた。

ところで、この先で越えていくべき水線がある2本の枝谷にも、敢えて仮名をつけたいと思う。
本当なら現地に伝わっている由緒のある地名を利用したいところだが、人の出入りが少ない山域であることを物語るかのように、全く情報を得られなかったので、それぞれの沢の源頭部に聳える山名を拝借して、地図上に付したとおり「若見沢」と「白倉沢」の仮名でレポートを進めたい。
(リライト前の旧作では、これらを由一の作品に由来を持つ「藤次郎沢」と「馬乗沢」としていたのだが、実際はこのように同定する根拠が乏しいうえ、既知の地名を中途半端に宛てると誤情報を拡散する危険が高いと考え、仮称を変更した)


それでは、お尻に穴が空いたまま、9:14 前進再開!



これが、若見薙のガリーを3度横断し、どうにか辿り着いた“上段”の道の続きだ。
この穏やかな前景を見ながら、約3分休憩してからの再出発となった。
そして歩き始めから最初の数分、下に2段の道が存在する間は平穏に過ぎ去った。
その先は改めて、未知のエリアであった。



行く手に緩やかな左カーブである浅い掘り割りが見えてきた。
相変わらず平穏で、別に困難を予感するようなシーンではなかったのだが、少し奇妙な感じを受けることがあった。
それは何かというと……



掘り割りの両側にある、本来ならば地山であるはずの部分の様子が、ちょっと変わっていた。
なんというか、普通の地山じゃない。
どう、普通じゃないかというと、瓦礫の山なのだ。

それも、人間が人力で砕いたにしては妙に個々の瓦礫が大きな、瓦礫の山だった。
とはいえ、こんな風に都合良く馬車道の幅を残して両側に自然に山と積まれるような状況は、想像しがたい。
人為が加わっているのは確かだと思う。

そして、この微妙に奇妙な光景は、これきりではなかった……。



また少し歩くと、今度は一枚岩から切り出されたような道が現れた。
それなりに険しいが、緑が多く緊迫感はあまりない。岩の全体が苔とシダと落ち葉によって装飾されており、険しさが隠されている。
道に面する切り立った岩場は、120年あまりの昔に鑿(のみ)と爆薬と怒声のなかで無理矢理地上へと引きずり出されたのだろうが、今は大人しく廃墟の道を守っている。
一枚岩から削り出した道は、その岩とほぼ同等の強さを持って経年に耐えるのだから、道にとっては頼もしい。



9:25 8.0km 《現在地》

とても奇妙な景色だった。

直前にまみえた“一枚岩”に匹敵するほど巨大で、同じように苔むした大岩が、路傍に鎮座していた。
足元の平らな部分は道であるが、その傍らに転げてきそうな大きな岩がある。
そして、その上にある同じ様な巨岩も、さらにさらにその上も横も、同じようにスキマだらけの巨岩なのである。
ひとつひとつが一軒家ほどもある、岩、岩、岩。それらが積み重なることで、この地の山肌となっていた。

規模こそ違えど、これとつい先ほどの【この景色】は、同じ性質のものではないかと思った。

すなわち、



ここは大昔に発生した土砂崩れの跡地であろう。

規模的に、山体崩壊と言った方が適当かもしれない。

崩れた山の跡であるこの斜面は、とても隙間が多い地形になっており、いわゆるロックガーデンの様相を呈していた。
たくさんある隙間には地中の冷気が滞留し、結果、周辺の空気も冷されている。
明らかにこの場所の気温は周囲より低かった。風穴が生じているのだろう。

そして、たまたまではなく、三島指揮下の本道路設計者は、この高さを狙って道を通じたのだと思う。
なぜなら……



こんな場所に小さな石垣があったから!

ここに石垣があることは、道を整備した時点で、既に大岩があったことを示唆していると思う。
道はこの大岩で潰されておらず、その脇をちゃんと通過している。岩が先で、道が後なのだ。
わざわざ、この岩の右が道であると教えるために石垣を用意してあるのは、とても親切である。

またこの写真だと、立ったままで入れるほど岩の下の空間が大きいことも分かると思う。
天然の岩屋になっており、実際、ふいの悪天候に突かれたりして、ここで風雨や夜を明かした旅人もいたかも知れない。
フカフカで乾いた落葉の絨毯まで完備している。夏なら涼しくて最高だろう。



山体崩壊の末端であろう巨大岩石群は、おおよそ50mにわたって道沿いにほぼ真っ直ぐ並んでいた。
さすがに私もそれを信じるほど夢想家ではないが、道沿いに並んでいる巨石は、巨人が作った石垣のようだという想像はした。
そして、三島こそは近代道路土木の巨人であるなどと、夢想家でも抱かなそうな気持ちの悪いファン妄想さえ凝った。

興奮しはじめた私は、この不思議な場面を離れる前に、ちょっとだけ道から外れて客観の視座からこの道を見てみたいと思った。
それで、ちょっとだけ谷側へ外れて歩いて行ったところ……。



うおッ!

うおおおおッ!!

路肩が全部石垣だった!

危ないところであった。
山側の大岩に気を取られすぎて、路肩にある正真正銘の“道路構造物”を見逃すところであった!
そもそも、山体崩壊が作り出したロックガーデンの中に、こんな平坦な地形が自然に生じるはずもなかったのである。
平坦だったのは、そこが人造の築堤だったからだ。
地形的にもともとこの辺りがロックガーデンの下端ではあったのだろうが、道は石垣を築いてそこを横断していた。

この石垣は、本日ここまでで目にしたものの中で最大の道路構造物となったし、我ながら大きな成果だと感心した。



そんな嬉しい石垣ではあったが、お世辞にも丁寧な仕事には見えなかった。
たった4ヶ月ほどで30kmあまりの新道をほぼ0より作り出した突貫に、あまり丁寧な仕事を期待してはいけない。
むしろ、こんな雑に積まれた雰囲気の石垣が、120年あまりも手入れもされず、よく綺麗に残っていると感心する。
緩やかな地形のところに浸蝕と無関係な配置で造成されているお陰だろう。



道に立って、路傍の岩山を見上げている。
山体崩壊による一面の荒廃から、ここまで緑の森が復元されるまでには、どれくらいの時間がかかったのだろう。
人間のスケールを越えた神秘の風景に感激しながら、ロックガーデン地帯の通行を終えた。



少し行くと、道は地形に沿って左へ曲がっていく。
これは、善知鳥沢の本流沿いから、支流である若見沢沿いの斜面へ移った場面だと思う。

それからまもなく、道は完全に姿を消した。

……本来なら由々しき自体だが、今日の私は既にこの展開には慣れっ子だ。
どうせいつものやつだ。
いずれ同じ高さに道が再開することを信じて、水平を強く意識したトラバースを続けるより他の考えはない。

もく、もく、とゆく。




まったく道を見出せない斜面が、既に200mは続いている。
まだ救いは見出せない。それどころか、ますます斜面は尖っていく傾向があった。
墜落への恐怖を感じる傾斜である。
しばしば下を覗くと、底の見えない斜面が続いていた。渓の音はどこかに聞こえるが、遠い。

もし、こんなところで道との再開を見逃してしまえば、致命的な大きなロスになりかねない。
滑落の回避は当然に必要だが、楽な傾斜を求めてあまり大きく水平から上下へ離れることは、道との再会を遠ざけるリスクを高めてしまうというジレンマがあった。

この道が並大抵の廃道ではないと感じる大きな理由として、無人地帯に長く続く距離の大きさがあるが、もう一つの大きな理由として、このように長い距離にわたって道形が完全に喪失している部分がしばしばあって、そういう場面でも心を強く持って前進して次の道へ正しく辿り着くという、心身両面の“ロードファインディング力”を試される場面の多さを挙げたい。




9:40 8.5km

此度も耐えきった!

しばらくぶりに、明瞭に道の跡である平場が現れた!!
小さな谷の奥まったところに、百年手付かずの平場が待っていてくれた。
いつもは鬼門の谷であるが、ここでは珍しく私を助けた。



現在地はここ。
そう判断して、いつもの地形図指さし撮影。
もちろん、その場で正否を判断する術はないが、結果的には正しかったようだ。
ただ、横断した谷の数や距離など、地形図に合わないと感じた場面も決して少なくなかった。(←その大きな原因は、ここで示したとおり、“虎の巻”の「位置図」に描かれていた九十九折りの位置が実際とは異なっていたためだ)

 

小谷を出ると、鮮明な道が続いていた。
そしてそこには、溶けるように風化した炭焼き窯の跡が残っていた。
ここまでなだらかになってしまうと、いよいよ消失の一歩手前だ。100年後のオブローダーは、これを見ることが出来ないだろう。



ム!

明治のものには見えない金属製の標柱が倒れているのを発見! これは至急救助しなければ!

起こして、近くの木に立てかけてみた。
道に直接関わりのある内容ではなかったが、昭和42年当時、ここで国有林経営(新植)が行われていたことの証しだった。
現状はこんな不確かな道だが、それでも完全にあらゆる人々に忘れられていたわけではないと分かる。



少し前まで全く遠くて見えなかった谷が、もの凄い勢いで上ってきている。
若見沢であろう。
木々の隙間に見えてきた谷底は、白っぽいゴーロになっていて、微かに水の音も聞こえる。

それからまもなく梢のヴェールも取り外されて、眼前に谷が現れた。
当然のように、道は斜面へ消えて行こうとする。
もはや、橋があるかなどと言うのは愚問だと分かる。
私が成すべきことは対岸へたどり着くということ。対岸に、道の続きを見つけ出すことである。



9:52 8.8km 《現在地》

若見沢、徒渉地点、到達!

地形的に見て、ここには高さ7〜8m、長さ10m前後の木橋が架けられていたのではないかと思うが、橋台を含めて一切の痕跡はない。
また、その存在についての記録も見たことがない。
沢名すら、知らない。



この沢には清水が流れていた。

持参した唯一の水分である1リットルペットボトルの中身は既に半分ほどに減っていたので、私はこの水を汲み、粉「ポカリ」を製造しつつ、小休憩をとった。
速くも水不足が露見しているのは、朝の間抜けなミスのせいである。普段は2本のペットボトルを順繰りに使うことで、レモンウォーターとポカリの混合を避けていたのに、今日はまだ400ccくらい残っていたレモンウォーターに粉ポカリを600cc分加えて飲む羽目になった。両者のバランスがどうあれ、別々に飲んだ方が確実においしいのに。
それに、今日は最大1リットルしか飲料を持てないのである。なんの縛りプレイだ。真夏の探索でこれはキツイ。今はまだいいが、沢が遠くなる峠越え前後が心配だ。これからもっと気温も上がるだろうに…。



V字に切れた谷からよじ登って、対岸の道の続きへ復帰する。
一つめの水線ある谷を無事に超えることができた。
次は、地形図上でも特に険しく描かれている道中最大の支谷、白倉沢(仮称)へ挑戦することになる。

こうやって一つずつ障害を克服して行けば、最後には必ず峠に辿り着けるはず。
はじめ永遠にも遠く思われた17kmという峠までの距離も、気付けばその半分を終えていたのである!
出発からまもなく5時間で(峠まで)半分攻略…… これ、いけるペースだよな?!?!




 試練を越えて、再会のときが来る


2008/7/31 10:10 9.0km

若見沢を出たところで5分ほど休んでから出発し、200mばかり進むと、再び善知鳥沢本流に面した斜面に復帰した。
この区間も全体的に荒廃が進んでおり、半分くらいは道のない斜面の水平トラバースであった。
そして、ようやく東向きの道が北向きへ改まり、本流沿いに復帰したと思ったが、その矢先…。

前方が妙に明るい。

これまで最大の難所として脳裏に刻まれている“若見薙”。
眼前の明るい色に、あの苦しみを連想するのは当然であった。




ぐっ! 深い谷だ!!

若見沢の本流は間違いなく突破したが、まだその残党……若見沢へ落ち込んでいく強烈ガリーが残ってやがった!!

両手を水平に掲げて風を浴びたくなるような、そんなロマン溢れる形状をした陸の突端は、橋の名残なのだろうか。
残念ながら石垣の一つも残っていないので、確かめようがない。
それはともかく、またしてもガリーを巨大化させた薙(なぎ)と呼ぶべき規模の谷に行く手を阻まれた!
両岸ともナイフエッジに切れており、容易く横断させてくれそうにない。

だが、容易くなかろうとも、それをするよりないのだ。



上述の突端を左に仰ぐ位置に、立ち木を頼りに辛うじてガリー底へ下降可能な岩面を見出した。(写真左の岩場を下ってきた)

慎重に数分を掛けて、谷底へ。

辿り着いた底で私は、またしても名をつけねば我慢ならない印象の景色を目にする。



(勝手に)命名五羅漢ごらかん谷”

私がよろよろと下り付いた薙ぎ底を囲繞し見下ろす、峙立する五つの巨大な岩峰は、私に天然の羅漢像を彷彿とさせた。
それは、【那須記に描かれた伝説の桃の木峠】高山鉄壁を畳(たたみ)たる嶮岩なり。山の中腹より麓は森々たる喬木怪岩刃を立てたる如く人馬の通路なかりけり。を具現化したような峻嶮だった。



10:14 9.1km 《現在地》

左から順に、一の羅漢、二の羅漢、三の羅漢、四の羅漢、そして五の羅漢まで、薙ぎ谷を囲んでそそり立つ。

私が即興で付けた名前なんて誰も興味がないと承知しつつも、語らせてもらう。
私だって、もとの地名が分かるのならばそれを何より尊重したい。
だが、120年以上前にたった1年しか歴史に生きなかった道の沿線には、実に10km以上にわたって場所を特定出来る類の地名が記録されていない。
そんな地名の巨大過ぎる空閑を丸一日費やして歩ききる精神の支えに、自作の地名は役立つのである。
と同時に、前例のない踏破をしているというオブローダーを有頂天にさせる種類の高揚感が、ことあるごとに地名をつけさせた。



道がおそらく橋を架けて渡っていたであろうこの場所は、巨大なガリーの源頭といえる場所だった。
これより上に谷はなく、滑らかだが急傾斜な山肌がぐるりと周りを囲んでいる。
一方、ここよりも下はとても険しく、突兀とした岩脈が至るところにそそり立つ複雑な地形であった。
それは、出来る限り立ち入りたくないという険しさだった。

どこまで行っても、谷は廃道の鬼門なのである。



道はこの谷を、橋を架けて渡っていたと思うが、痕跡は見当らない。
そしてこの谷の横断は、本日ここまでに突破した難所のグレードを更新する、新たな最難関となった。
「一の羅漢」の脇から谷底へ下りるまでが難しかった。



そして、対岸の「五の羅漢」の下に、道の続きであろう細い平場を見出した。
尻をダメにしたところとそっくりな、湿った一枚岩に薄く土が乗った嫌な斜面だったが、今度は慎重によじ登って……



10:17 9.2km

“五羅漢谷”の難を克服した!

これで今度こそ本当に、本流沿いに戻ったぞ!



なおも険しい地形が続く!
こんな地形のところに決定的な崩落があれば前進に窮することは想像に難くないから、嫌な汗は出っぱなしだ。
かつて赤半纏の囚人含む25万人が、鑿(のみ)と鏨(たがね)と爆薬を武器に、命がけで格闘した戦場の跡は、誰にとっても気の休まる場所ではないのである。



振り返っても、追従者の気配はない。
あまりにも人里から離れている。そこにはゆうに5時間分の隔たりがある。
人けといえば、腰のラジオから子ども科学電話相談出演中の「さかなくん」のボイスが響くのみであった。



本流沿いの斜面は長く続かず、次なる枝谷、右岸最大の支流である「白倉沢」の浸食圏へ左折していく。

その左折点の附近に、たまたま、本流の谷のずっと奥を見通す梢の間の窓があった。

そしてその小さな視界に、私は見た。

広大だが、有限である山の至奥に待ち受ける地形を。

すなわち、出発より5時間24分にして――




桃の木峠を2ヶ月ぶりに再発見!

現在時刻 10:24 (出発から5時間24分)
現在標高 860m (出発から+300m、峠まで−340m)
踏破距離 9.4km (峠まで残り7.9km 横川集落まで約12km 男鹿高原駅まで約14km

先はまだまだ長いが、現状は気力・体力ともに順調だ。ダメージは尻の穴くらい。
今のところ、いける感じがしている!



桃の木峠まで あと.9km





 後 半 戦 予 告 


さらに苛烈さを増していく地形と、忍び寄る微少の危機、そして訪れる歓喜の瞬間?!

全ての終わりに待ち受けるのは、三島との感動の抱擁か、悪夢の撤退か。







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