道路レポート 塩原新道 桃の木峠越 第二次踏査 第5回

所在地 栃木県那須塩原市
探索日 2008.07.31
公開日 2024.12.07
このレポートは、『日本の廃道 2009年2月号』『3月号』に執筆した同名レポートのリライトです。
現在多忙のため執筆時間を十分に取れないので、神路駅の続きなど従来レポートを一旦休止してリライトをお送りすることをご了承下さい。

 “三又ガリー”の難所に挑む!


2008/7/31 10:24 9.4km

出発から約5時間半、廃道に入ってからだけでも4時間45分が経過したいま、塩原のスタート地点から9.4kmを踏破して、標高860mの「峠見尾根」(仮称)へ辿り着いた。
ここは若見沢と白倉沢の間の尾根で、直線距離で北方約3.8kmにある桃の木峠の頂上を、善知鳥沢本流の谷通しに、本日初めて目視できた地点である。
なお、峠の頂上までの距離は上記の通りだが、そこへ至るまでの道のりの長さは依然として約8kmを残している。(地図の青線部分が未踏破区間)
まだまだゴールは遠いが、峠までの距離の半分を踏破することには成功したらしかった。

私は、峠をこの目で見ながら、近くの立木に寄りかかって考えた。
今は午前10時24分だ。
このままのペースで進むと仮定して、峠に立てるのは早くても午後2時過ぎであろう。
峠を越えてしまえば、その先は2ヶ月前に1往復を決めている既知のエリアであるし、道も悪くはなかった。多少暗くなっても歩ける自信がある。
とにかく峠までは絶対に明るいうちに辿り着かなければならない。

そして今一番恐れている事態は、峠までのどこかで引き返さなければならなくなることだ。
正午以降にそれを決断する場合、明るいうちには下界へ戻れない畏れがかなり高くなるだろう。

……といったような諸々を考えつつ、後半戦はスタートした。



10:26

うあ…。

やばそうだ…。

後半始まっていきなりこれ。道は斜面に飲まれて原形を留めていない。
しかも、その先はもっとヤバいのかも……、なんか明るい…。



あわっ!

動画で語っているとおり、危うく斜面から滑り落ちかけた。
徐々に疲労が蓄積しているせいで、微妙に慎重さを欠いた動きをしてしまったのかも知れない。
2008年当時、私はこの日以上に長く廃道を歩き続けた経験はなかったと思う。
それが原因だったかは定かでないが、この辺りから徐々に、疲労に由来する行動の“歪み”が露見する場面が出始める……。



遠目に白く、明るく見えていた場所の正体は、砂地であった。
今日初めての、砂地の崩壊斜面である。
砂地も状況(傾斜や硬さ)次第では危険な場所になる。ここはまだ問題になる崩壊ではなかったが…。



10:33

砂地の斜面を越えてしばらく行くと、何事もなかったかのように平穏な道形が復活した。
そしてそこに、“先人の格闘の跡”があった。

道の中央に立ち尽くす古い切り株。
道の真ん中に木が生えているのだから、廃道化後に育った樹木だったろう。
その幹には、なぜか伐採を一度躊躇った(失敗した?)のような切れ込みがあった。
別に深い意味はなく、間違った位置に斧を入れてしまったのか、試し切りの痕なのかといったところだろうが、仄かな人けに少しだけ和んだ。

そしてこれを皮切りに、思いがけない出会いが続く。



今度はこんなものが現れた。
木材と針金で組み上げられた低い櫓の跡である。すぐ下にワイヤーを巻かれた太い切り株もあった。
これらは集材に利用された簡易索道の痕跡と思われる。

なお、当地で林業に従事した人々が、私のように延々と塩原新道を辿って通った訳ではないと思う。
調べてみると、昭和40年頃に善知鳥沢の谷底に林道が整備されており(最新の地形図にも描かれている)、これが利用されたと思う。
この林道に入ったことはないが、万が一途中で撤退となる場合は、最大限活用したいと思っていた。



10:35

う。

サーッと血の気が引いた。

「大崩壊→踏破不可能」 の悪寒が走る。

これは、やばそうだ。
ここまでの大きな難所といえば、“若見薙”や“五羅漢谷”が思い出されるが、それを上回る危険度を予感させる白さと明るさだった。
軽く青ざめながら、早足でその場所へ近づいた。



待ち受けていたのは、表土をすっかり失ってしまった、なめらか一枚岩スラブの崩壊斜面。

もう見るからに禍々しい。
難所、悪場、危険地帯、どう表現してもいいが、とにかく良くないことは間違いない。
もともと大雨の時だけ水が流れる谷(ガリー)らしく、谷一帯の表土がない。
今は乾いているようで、それはまだマシだったが、なおも苔色があって、滑りやすいかも知れない。

スラブの対岸20mくらい離れた所に、道の続きが明確に見えているが、正面突破はさすがに危険すぎる。
ツルンとしたスラブには手掛りが全くないし、万が一スリップしたら、死ぬかも知れない。
そして、若見薙のように下にすぐ迂回して越えることも出来ない地形であった。

残る手近な突破口は、“上”しか無いが…。




ずっと上まで崩れてる…。

このガリー、ちょうど道を寸断しているところで、3本が合わさって1本になっている。
だからここを、 “三又ガリー” と命名した。
高巻きをする場合、3本のスラブガリーを連続で越える必要があるが、各々の幅は小さい。勝機はそこにありそうだ。



私が試みた突破のためのルートは、この通り。

3本のガリーを個別に渡っていくわけだが、このとき1本目のガリーを登りに使い、2本へは水平に越え、3本目を下降に利用する。
1本目のガリーだけは万が一スリップしても下が致命的でないので、ここでガリー内部の歩行性を確かめてから、一番危険な2本目の中央ガリーに挑もうという算段である。

10:37 突破作戦開始!



まずは1本目のガリーを登る部分。
ここは滑らかな岩の上に多数散らばっている転び石によるスリップに警戒しつつ、四つ足で慎重に攻略した。
はじめの高さから5mほど登ったところで無事突破。次いで第二段階の水平移動フェイズへ。

写真は水平移動の起点から進路を撮影。
目の前にあるガリー間の斜面もかなり傾斜は強く、かつ表土も薄そうで危うげだった。
笹を掴んでガシガシ進むことになる。

最大の問題は、その先に見える中央ガリーの出口付近である(写真の○印)。
あそこがとにかく怖そうだ。
崖のため上に逃れられないし、下ももちろん無理。岩と土が混じった急斜面の横断を余儀なくされる模様……。



正念場の中央ガリーへ突入…………して越えた。

これは越えたところで振り返って撮影。
足元に集中したせいで、核心部での撮影は出来なかった。
予想通り、危うい岩場を僅かな灌木や笹の葉を手掛りに横断する、とても嫌らしい数歩であった。

その後は3本目のスラブをさっさと下り、見えていた対岸路盤へ無事辿り着くことが出来た。
この約20mの難所“三又ガリー”の横断には、約7分の時間と冷や汗ものの精神力を費やした。



10:45 9.7km 《現在地》

難所を越えるとすぐに、これまでで最大の深さを持つ掘り割りが待っていた。
尾根の突端を貫いている。両側法面のなだらかさが時間経過を表しているようだ。
これを越えると、白倉沢の谷筋である。

木漏れ日の切り通しに荷物を一旦下ろして、直前の緊張と興奮をリセットする。あと、足を休めたくなった。
長めの休憩を開始。

次の白倉沢は、若見山(1126m)と白倉山(1460m)の間を深くえぐる善知鳥沢右岸最大の支流だ。
道はこれまでのパターン通り、その源頭まで大きく回り込んでから渡る。
谷の大きさを物語るように、この尾根から徒渉地点までの距離は1kmくらいあるようで、そこが全線で最も善知鳥沢から離れ、かつ沢との高度差も大きくなる地点である。
地形図に表現されている地形も、とても険しかった。

事前の予想として、この白倉沢絡みの一連の谷越え区間約2kmが、地形面の“最大難関”と考えていた。

ここさえ無事に……残り時間を十分残して……突破出来れば、おそらく私は峠に辿り着けると予想していたのである。



この掘り割りにも、梢の間から遠見が出来る“窓”があった。
が、今度は白倉沢の対岸に立ちはだかる尾根が邪魔をして、桃の木峠は見通せなかった。
手前にある低い尾根も、奥にあるスカイラインの尾根も、どちらも白倉山から本流へ落ちる尾根である。
白倉沢を渡った後、あの中を延々に歩くことになる。それらの山肌に目に見える大崩落地がないのは救いだったが、先が長い…。




10:50 前進再開!

どうでもいい話だが、私は腕時計が苦手であり、普段から身につけないのだが、探索中は小まめに時刻を知りたい達なので、その都度携帯電話の画面を見ていた(今はスマホ「TORQUE G06」を愛用)。
だいたい、「30分経ったな」と思う度にポケットから取り出して時間を確かめるのだが、いつもそれをするから感覚が鍛えられて、どんなところを歩いたとしてもだいたい誤差2分以内で30分を計ることが出来る。
…どうでもいいね。



再び、遠望の窓が開けた。
そして、この眺めに一瞬騙されかけた。「オオッ 峠!」と思える眺めだったから。
だが、もちろんこれは桃の木峠ではない。これは白倉沢の源頭に控える無名の鞍部だ。
そして鞍部の向こうに見えるのは、善知鳥沢とは縁も縁もない山だ。

思わず越えたくなる良い形をしていると思う。
そして、越える道こそないが、越そうと思えば多分容易い。この道が最も近づく地点と鞍部は100mほどしか離れていない。
そのため、ここも撤退時のエスケープルートのひとつとして考えていた。この鞍部の反対側へ下れば、1km足らずの位置に国道400号がある。(実際通れるかは全く不明)




10:56

キタッ!

ずいぶん久々の石垣だ!

由一が描いた塩原新道には豊富にありそうだった石垣だが、現状ではかなり珍しい遺物になっている。
おそらくかつては多くあったが、崩れ果ててしまったのだと思う。
ここも現存しているのは10mくらいに過ぎないが、前後が土砂崩れで埋まっており、本当はもっと長々と小谷を囲んでいたのではないか。空積みで、お世辞にも頑丈そうではないし、これでも良く残っていた思う。

そもそも、明治17年というのは石垣の古さとして十分に古いが、それよりも廃止されてから放置されていた時間の長さこそが、他の同年代の廃道の多くと一線を画するポイントだ。
こういう分かりやすい遺物があまり残っていないのはやむを得ないことだろう。
そんな遺構の乏しさも、処女的踏破の場面にあっては決して悪いことばかりではない。お陰で、見つけたときに凄く嬉しいのだから!




 忍び寄る、新たな不安要素たち……


2008/7/31 11:00

白倉沢へ深く入り込んでいくと、地形は分かりやすく高峻なものへと変化していった。
道は延々と険しい岩場を削りながら横断している。
こういう地形の廃道は珍しくないが、道幅が3m程度とやや広く取られていることが、同年代の多くの廃道や林鉄などとは一線を画する。

ただ、無理矢理に広い幅の道を造ったからという理由だけではないはずだが、この辺りの路面はどこを見ても足の踏み場がないほど落石に埋れており、思うようにスタスタ歩いてはいけなかった。地味に体力と時間を削られるのである。



もはや法面を見上げても、崖の果てが見えないほどに高くなっている。
どこからどこまでが人為的に削られた岩壁なのか区別も付かないが、とにかく難工事であったことだけは伝わってくる。

たった4ヶ月で、このような難所を含む30km以上の山岳道路を貫通させている事実は、脅威を通り越して、異常を感じる。仕事が速いという次元でなく、絶対何かを犠牲にしているんじゃないかと勘ぐってしまう。
そしてそれはおそらく人権であり、人命もまた例外ではなかったように思う。
具体的に、この工事に関する死傷者の情報は、全く伝わっていないのであるが…。

ところで、この岩場の表面に、本日初めて目にする“発見”があった。



この中央に見える、細い円筒形のものを押しつけたような凹みは、削岩機を使って岩を削った跡だと思う。

土木工事における削岩機の利用において、三島通庸は日本におけるトップバッターだ。
というのも、彼が福島県令時代の明治9(1876)年に手がけた、有名な萬世大路の栗子山隧道を掘削するにあたって、当時世界に3台しかなかったという削岩機を米国から輸入して投入した実績があるからだ。これが記録に残る日本最古の機械式削岩機の利用である。

三島が利用の先鞭を付けた削岩機は、やがて道路や鉄道の工事のみならず、鉱山作業などにも広く普及することになるが、同じ三島が手がけた工事であっても、萬世大路以降の利用例は記録を見たことがない。これは利用されなかったから記録がないのか、あるいは利用がもはや珍しくなかったから記録がないのかを判断をしかねていたのであるが、明治17(1884)年に工事が行われ、翌年に廃止されたきりであるこの道に、削岩機を利用した痕跡があったのだ。

塩原新道の工事においては、隧道の掘削に限らず、地上の岩石工事においても削岩機を利用していたのである。
このことは、三島が萬世大路以降に手がけた工事においても、削岩機の利用が継続していたことを物語っているのではないだろうか。
なお、三島関連ではないが、同時期に国営事業として建設された清水越新道でも、これとよく似た削岩孔を見つけていることを附記したい。

時と場所が違えば、まったく珍しくも意外でもない削岩孔だが、ここにあることの意味は重いと思う。



この岩の面は、今にも崩れそうに見える。
写真では見切れている高さを含め、3階建てくらいの切り立った岩場の表面全体に、蜘蛛の巣状のひびが走っているのである。
120年を耐えた法面の最期の数年に突入している感じであるが、特に大きく広がっている亀裂の中を覗いて、ギョッとした。

大きな亀裂の中に、太い木の根が大量に入り込んでいたのである。
目の届かない地中から伸びてきた根が、亀裂の中で力こぶを作っていた。
実際に根が岩を割っているのかは分からないが、そんな風に見える状況だ。



11:02

「峠見の尾根」(第5回スタート地点)を出発して約40分、午前11時を回ったところで、白倉沢の谷底である白いゴーロが右手に見えてきた。
渡るのが苦にならなそうな穏やかな表情を見て取って、ホッとした。
前の若見沢もそうだったが、水が流れている大きな沢の方が、いざ渡る局面においては穏やかな地形になっている傾向があるようだ。



穏やかな谷底が間近に見えてきて、もうすぐと思った渡河地点であったが、実際はすぐに現れなかった。
谷底が見える高さをキープしたまま、道も一緒に上っていくのである。だからなかなか渡らない。
ここは今日歩いた中で一番勾配がキツイと思う。現代の道路と比較すればそれでも緩やかだが、三島の馬車道にしては急だ。

そんな展開に、もどかしさを感じる。
出発から遂に6時間を経過したが、長い休憩は一度もとっていない。ほぼ歩き通しといっても良いだろう。
時間に余裕がないから仕方がないのだが、だいぶ疲労も感じている。具体的な疲労の“症状”としては、両足の太腿が重だるく、特に足を大きく上げる必要がある倒木や落石の横断に面倒さを感じるようになっている。そして、明らかに息が上がりやすくなってきている。まだ足の痛みまでは来ていないが…。

今回の探索では丸一日歩かねばならないことを理解していたので、ペース杯分のようなものにはそれなりに意識を向けていて、無理をせずスローな安定ペースでやって来たつもりではあるのだが、なんというか根本的な地の体力を消耗している感じで、これは今さら気持ちや工夫でどうにかなる部分じゃなさそうだ。
今朝までの体力づくりの時点で決着のついていた部分と向き合いつつあった。



そんな私の心の声動画

身体が、自然と、休みやすそうな木立に寄りかかってしまって……、

無意識の小休憩タイム。



11:14 10.4km 《現在地》

ようやく、白倉沢を渡れるときが来た!

ただ、谷との位置関係から状況証拠的に「そうだろう」というだけで、具体的な橋の痕跡はやはり全く見当らない。

対岸にも続きの道は見当らないが、あるはずと信じて、横断のため沢底へ入った。



推定標高950m、推定位置10.4kmにある、白倉沢徒渉地点の眺め。
右に見えるのが、いままで歩いてきた道だ。続きの道が左岸にありそうなのだが、まだ見つけられていない。
ここは沢の源流であり、森から沁みだした水が集まっている穏やかな場所だ。
こんな平穏な地形でも橋台一つ残らないことに、廃止から経過し過ぎた時間を想った。

久々に手を触れる清水で喉と顔を潤した。
ただ、ここはアブがとても多く、長居には不向きだった。なんか熊が現れそうな予感もしたし。
それはともかく、これでついに善知鳥沢最大の支流である白倉沢の本谷を、越えた。



11:19

左岸にて、続きの路盤はすぐに見つかったが……、

遂に来てしまった……、

恐れていた、笹藪が。

ここまでの展開も、道の状況は相当に悪かったと思っているが、藪が浅いことだけは救いだった。
正直、藪についても、探索者の運である。探索前に有無を読めるものではない。
ただ経験として、那須周辺の山で笹藪の濃いところをよく見てきたし(塩那道路とか…)、2ヶ月前の第一次探索で最後に辿り着いた桃の木峠の頂上が一面の笹藪に覆われていたことは、当然忘れるはずのないことだった。
少なくとも、本日の探索の最終目的地が笹藪の中であることだけは、はっきりしていた。

そのうえで、峠の南側のどこから笹藪が深いのかは、今日初めて判明する事柄だった。
そして現状、白倉沢を渡った地点、峠まで推定残り7kmというところで、2ヶ月前に峠で見たのと近い濃さの笹藪に初めて遭遇した。
この藪がこれがずっと続くのか、それは分からないが、ここに来て、笹藪という新たな敵が名乗りを上げたことは、間違いなかった。



11:22

助かった〜  ……のかな?

とりあえず、腰丈以上の笹藪はほんの100mほどですっぱり終わった。
いまのはなんだったんだ?! って、素知らぬふりを決め込みたい気分だ。
またきっと現れるんだろうけど、当分現れないで欲しい。



11:33

くそ……。
心を弄ぶつもりか……。
すぐにまた笹が現れだしたぞ…。
白倉沢までは全くといっていいほど見ることの無かった笹が、あの沢を越えてから急に、ちょくちょく現れるようになった。
これはいよいよ、覚悟を決めないといけないのかも知れない。
あと7kmって普通にまだバカ長いので、濃い笹藪はカンベンして欲しいんだが……。



GPSを所有していなかった当時の探索において、命に関わる最重要アイテムであった紙の地図。
この日事前に用意した手書きでルートを書き入れた地形図4枚のうち、峠までの区間を描いた3枚中の最後の1枚に入った。
この写真の地図の一番上が、目指す峠である。
やっとここまで来たんだなと、ちょっと感慨深くなる、出発から6時間半の私であった。



11:38

小さな尾根を道が150度くらい回り込んでいた。
その先端では、三方を乱暴に削り取られて石塔のように細くなった岩尾根が露出していた。

そしてこの岩場の表面にも、削岩機が突き刺さった孔がいくつも空いていた。
削岩機で孔をあけ、そこに火薬を詰めて爆破する工法であったかと思う。
三島県令下の明治12年に着工し、明治15年に完成した、山形県と宮城県を結ぶ関山新道では、火薬の爆破事故が発生し、多数の人夫が死傷した記録がある。
そうしたことから、当時の工法が想像されるところである。



岩尾根を回り込んだ直後には、雑に削られた尾根の怒りに触れるような、怖い地形が待っていた。

この写真の位置で、既に嫌な予感はしていたんだが……



危険な斜面だ。

逃げ場のない上も下も岩崖に閉ざされた“回廊”の途中が、嫌らしく崩れていた。
先へ進むには、目の前の崩壊した斜面を10mほど横断するしかないと思うが、全体にスラブっぽい岩肌が見え隠れしており、手掛りになるような植生が全くない。
写真だと左のフレーム外に逃げ場がありそうに見えるかも知れないが、ないのである。フレーム内を横断しないといけなかった。

何が何でもここを通らねば先へ進めないかと問われれば、多分そんなことはないと思う。
いくらでも迂回できるなら、安全なルートはあると思うが……、
現実問題として、時間的に、体力的に、大きな迂回をやっている余裕は、あんまりない……。
(チェンジ後の画像は下を撮影した。迂回はたいへんそうな地形だ)

落ちない自信があるのなら、多少恐くても正面突破をしたいところで………

 

剥き身のナイフと素手でやり合う覚悟を持って、正面突破を敢行する。

摺り足で崩壊斜面内を慎重に確かめながら、スリップしない場所を選んで一歩ずつ前進。



越えた〜!!

写真は、越えた難所を振り返って撮影。
これは怖さがよく分かる写真だと思う。
ぶっちゃけ、時間に余裕があるなら迂回ルートを探した方が無難だったと思うし、今どうなっているのかなんてもはや考えたくもない。再訪するつもりも全くない。



11:46 10.8km

緊張が解けて、ドバッと疲れがあふれ出した。
再びの、予期していない休息開始。
立ち止まるだけでなく、即座に座り込んでいる辺りが、残体力の現状を示している感じ。

そして動画の中でも惜しんでいるように、ずっと私の孤独を埋め支えてくれていた「子ども科学電話相談」が終了する。寂しい。



ああ、これが噂に聞くタマゴタケか……。

座り込んだまま、土の中のキノコを弄った。

生でも食えるらしいね、このキノコ…。

あ〜……、だいぶ疲れてるな………。




 幾多の谷を越え、尾根を巻き、峠に繋がる本流を目指す


11:51 11.0km 《現在地》

前進を再開してまもなく、白倉沢に注ぐ無名のカラ沢が進路を阻んだ。
橋の跡がないことは、これまで通りだ。

今いる白倉沢左岸の山肌には、この谷をはじめとしていくつもの枝谷が葉脈状に走っており、複雑な等高線を描いている。
少しでも地図読みをしながら山歩きをしたことのある人なら、誰もが難所を想像できるエリアだと思うが、実際その通りである。
そのうえ、複雑な地形を忠実になぞるために、小縮尺の地図からは読み取れない細かな迂回が多く、地形図と見較べて「そろそろこの場所かな」と思った場所が、実際にはなかなか現れないことが頻発した。



11:55

しかし、苦しい場面の後には決まって、この写真のようなリラックスさせてくれる場面が現れるので、苦しい一辺倒で心が悲壮感に沈むことは免れていた。
そもそも、苦しいことも、疲れも、間延びした区間の退屈さえも、その諸々を含めて、この日の私は、普段以上に気持ちが滾っていた。
なぜなら、こんなにも私好みの歴史と、エキサイティングな規模を持った廃道を、誰かの踏破記録を見るまえに、自らが切り開いていく心持ちで歩けることは、本当にかけがえのない歓びだったから。

塩原新道という道は、今も昔も世間的にはそう有名なものではないが、事実、三島通庸と大久保利通のタッグが描いた明治初期の東北経営という分野のグランドデザインにおいて、現代の国道4号や国道13号に匹敵するような、首都と東北各県を連絡する重要路線の使命を与えられた道であった。
だが、三島のやり方のまずさも原因であったのだろうが、完成の直後に栃木県によって放棄され、その目的を果たすことは出来なかった。
こんな境遇の廃道で燃えられなかったら、私はいったいどこで燃えたらいいんだ。



ここに来て植林地が現れるとは!

……というこの驚きは、塩原新道などという道としては実態がないものだけを頼りに歩き進めてきた私のものであって、下界から善知鳥沢沿いに白倉沢出合へ最短距離で通じている林道を考えれば、寧ろこの辺りが林道の目指してきた山林ということになるのかも知れない。
それでも林道がある谷底との比高が250mもあるせいか、あまり管理はされていないようだ。下枝が伸び放題のしっちゃかめっちゃかになっていた。



枯れた下枝を身体で押しのけながら進むと、とげとげとした感触がうざったかった。
そんな場所を200mくらい進むと、すり鉢状に凹んだ谷が現れて、植林は終わった。
今のは何だったんだって目が丸くなるくらい、唐突に現れて、唐突に終わった、人跡だった。



12:03

この倒れ方をされると、めんどくさいんだよなぁ、倒木って。

……なんてブツブツ言いながら、モソモソと突破。

序盤に比べれば、撮影の頻度が5分の1以下に減っていると思う。
もう一周どころか十周くらい、この道に現れがちな景色を繰り返している感じで、今さら目新しい(シャッターを切ろうと思う)被写体はそうそう現れない。
そんな中でこの倒木が撮影されているのは、それだけうざったかったから(苦笑)。



12:04 11.3km 《現在地》

またも石柱のように削られた尾根の突端を回り込む。
ここで遂に時刻が正午を回り、出発から7時間が経過。

岩の表情が印象的な尾根ではあるが、ここには最新の地形図に標高998mの独立標高点(登山用語ではしばしば独標と略される)が表示されている。
これは現地測量ではなく写真測量で求められた(現地に標柱のない)標高点だが、敢えて塩原新道の通過地点上にあるのは偶然だろうか。

それはともかく、これで私もまもなく標高サウザニスタン入りだ。
目指す峠は約1200mだから、あと200mアップの辛抱ということらしい。
道のり的には、おそらくあと6kmくらいだと思う。
ゆっくりだけど、着実に詰めている。



相変わらずいろいろな障害物に遮られ、ゴールの在処を見せてはくれない道の続きへ。

さすがにここまで来れば、「これは行けそうだ」という実感が湧いている訳だが、正確に言えば、
「これで行けなければ逆にとんでもないことになる!」というのが正解だ。
時間的にも、距離的にも、体力的にも、精神的にも、ここまで来てから塩原へ撤退するのは地獄だろう。もう明るいうちに帰り着けない可能性が高いし。
逆に、これはもう何が何でも峠を越えて横川まで目指さなければならないというプレッシャーがキツくなってくる状況である。



こっ これは?!

道の真ん中に、まだそう古くは見えない焚火の跡が残っていた。
いったい何があったんだろう。
目的が全く分からないが、もし私と同じ目的の誰かによるものだとしたら、当日の下山ができないようなピンチに陥り、止むなくビバークしたような雰囲気がなきにしもあらず。
無事下山できていればいいが……、まあ近くに一切の他の遺留物が見当らなかったので、大丈夫だったんだろう。



12:15 11.5km

苔生した美しい沢が現れた。僅かながら水が流れている。
白倉沢に流れ込む枝谷の一つで、やはり無名の谷である。
例によって橋の痕跡はないものの、川に向かう築堤の先端が綺麗な台形の断面部分を晒していた。



淑やかな沢を渡ると、杉ではなく檜(ひのき)を植林してある場所があった。
鮮明な踏み跡もあるのだが、まあこれは獣道だと思う。そんなものが必要ないくらい道形自体が鮮明である。
そしてここには、本日初めて目にする種類の“人跡”も、あった。


 誰がこんな店に来るか? “MOWSON塩原新道店” の品揃え

廃道で目にする系炭酸飲料としては、あの「コカコーラ」を上回る在庫を誇る、「ファンタグレープ」の定番250ml缶。プルタブが外れる平成以前の古いタイプだ。私個人としては、オレンジが好き。


そしてこれ。やはり廃道における大定番商品、欠けた陶茶碗だ。ピクニックの道具ではなさそうだから、林業関係者の生活物資か。近くに宿泊所があったのかも知れない。


これは少し離れた所にあったのだが、「不二家コーヒーマイルド」という銘柄の缶コーヒー。現在は絶版で、平成3年頃までの生産らしい。やはりプルタブは外れるタイプだった。


最後は“店舗”全景を振り返って。

これらのゴミ商品が持ち込まれた経緯としては、やはり林業関係の可能性が高いか。
ただ、この場所は道自体が谷側に拡幅されているというか、広場のような部分が作られているので、これは“MOWSON”ではなく“妄想”になるが、塩原新道お時代にその附属施設として茶屋でも建てる計画があって用意した土地かもしれない。
近くに沢があって水の便が良いことも、そんなことを想像させた。
あるいは、由一のスケッチにしばしば登場している“紅白幕の休憩所”が、ここにもあった可能性があるのかも……。



??!流血?!?!

これだから、下枝が払われていない人工林は嫌いなんだよ!!!
尖った下枝を見落としていて、うっかり脳天を直撃してしまった。
咄嗟に熱いものを感じて患部に手をあてがうと、赤い汁が…。

もちろん大事には至らなかったが。



だが実はこの時、こんなかすり傷なんかよりも遙かに憂慮すべき事態が、意識の外で、徐々に進行していた……。

そのことに気付くのは、まもなくだった。





桃の木峠まで あと.7km





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