道路レポート 三重県道745号片野飯高線 粥見不通区 最終回

所在地 三重県松阪市
探索日 2014.02.01
公開日 2020.05.27

もっこりした県道


2014/2/1 13:29 《現在地》

3号隧道の縦穴から途中退場で、おおよそ140m移動したが、西口に残してきた自転車を取りに戻る必要がある。
なので、今度はリュックを縦穴の脇に残したまま、県道745号経由で西口を目指す。




この堤防道路が、県道745号だ。
前方に道を半分塞ぐようにして背の低い笹藪があり、足元のコンクリート路面には転回を試みたタイヤ痕が残っている。
また、20分くらい前に、1台の軽トラがここに停まっているのを遠望している。どんな用事でここを訪れていたのかは見当が付かない。

ここで注目すべき遠望があった。四角い枠の辺りの眺めだ。



注目すべきは、1号隧道と2号隧道の間の護岸の様子である。
【この区間】を通行している最中には気付かなかったが、そこには特筆すべき大規模石造擁壁が築造されていた。

この護岸擁壁には特徴があり、場所によって使われている石材の大きさが全く違っている。
具体的には、1号隧道と2号隧道の間の石材は大きく、逆に隧道脇の迂回路の石材は小さい。
つまり、水路部分の擁壁のみ、粒が大きいということだ。

これは、水路部分と迂回路部分で築造の時期が違っているか、或いは同時期だとしても、目的が違っていることを意味している。

石垣は、重量を武器にして外力に抵抗する構造物なので、組み方の精巧さが同程度なら、石材が大きいほど強度は増す。
巨大な城を支える城壁が大きな石材を用いているのは、単に外見的な理由からだけではないのだ。
この見るからに立派な石垣の存在は、ここにあった水路の重要性を示しているに違いない。やはりこれは平凡な水路じゃない。




なにかが もっこり してきた〜!

笹藪の辺りまで来ると、道路右側の地面にもっこりとした膨らみを見せるコンクリートの帯が出現した!

この奇妙な膨らみの正体だが、埋設された旧水路隧道に他ならない。
どこへ向かっているのかを知らされぬまま、狭さと高温に【悪戦苦闘】していた数分前の私は、この膨らみの中に閉じ込められていたのである。

これまで無数の隧道を相手にしてきた私だが、自分が潜った隧道を直後に地上からこんな風に透かして眺める奇妙な体験は、これまでなかった。
あの苦闘の半分は、全く土被りがない所で行なわれていたのだ。
隧道探索者としては、いささか間の抜けたことに、必死になっていた…。

県道の利用者は、このもっこりをどういう気持ちで眺めれば良いんだろう。
うっかり怪しい隧道に入ると、こんな壁の下に閉じ込められて出られなくなるという、一部の人間だけが教訓を得る眺めだった。



さらに進み、“縦穴”から7〜80mも戻ると、もっこりが山の下へと消えていく決定的瞬間に遭遇した。
これを隧道内の光景と対応させれば、【断面変化の地点】にあたるだろう。

この辺りで天井を突き破っていた“のどちんこ”みたいな大岩があったが、おそらくここにも私が脱出に使ったような人工の縦穴があって、その穴を塞ぐように引っかかった大岩だった可能性が高い。

周囲に大量の倒木が散らばっているが、これは洪水によってもたらされた流木である。
櫛田川は川幅に似合わない穏やかな流れを見せているが、ひとたび大雨となれば、紀伊半島らしい暴れ川の顔も持っていることを忘れてはならない。
そのとき川沿いの県道は容易く水没し、かつてそこが水路だった時代には、大量の流木で埋没するハメになったはず。それを防ぐために、水路の一部に天井を設けて地下水路化したと思う。




旧水路が地中へ消えると、県道は3度目となる隧道迂回のための単独区間となる。

1号隧道や2号隧道の迂回区間と同様、今回も自動車通行困難な狭さだが、最低限の手入れはされているのか、自転車ならば自走可能な舗装路である。




あっという間に3号隧道の西口……この隧道の唯一の坑口に帰着した。
赤矢印のところに乗り捨てられた自転車が見えている。
隧道を通ると10分以上苦痛を強いられるが、正しく県道を辿れば徒歩3分で戻ることができた。

黄色で囲んだところに、粒の大きな石垣の断片が残っていることに気付いた。
県道の路肩よりかなり川寄りに築造されているが、これこそ水路時代の護岸擁壁だろう。
現状の県道は、水路の底の部分だけを利用しているが、水路の幅は側壁分だけ横に広かったのだ。
この部分の旧石垣は、洪水などで失われたのだろう。




自転車を回収し、“縦穴地点”まで再び前進した。



13:32 《現在地》

隧道10分以上、徒歩3分、そして自転車だとわずか1分だった。
西口を自転車に乗って出発した私は、1分で縦穴へ戻った。

ここで改めて現在地と状況を整理しよう。
私の主題は、県道745号片野飯高線の自動車交通不能区間約700mの走破だった。
そしてここは、区間の西口から約400mの位置である。途中で発見した3本の水路隧道のため、3度行ったり来たりしているので、たった400mとは思えないくらい多く行動したが、ともかく残りあと300mくらいである。

そして、ここから見える行く手の明るい風景と、数分前までこの辺りに軽トラが停まっていた事実から、突破成功はほぼ確定だ。
この地味な県道を予想外の方向から最高に面白く演出してくれた旧水路も、今や私の執拗な追跡を振り切って、地下へ消えようとしている。
旧水路との戦いは、私の身体を張ったニョキニョキニョキで終わったのだ。

画像の○のところの地面に小さな穴があった。正体は洞内探索で見たとおり。
ここが地上から3号隧道内部を覗ける最後の地点となった。



13:34 《現在地》

縦穴地点から50mほど前進したところだ。

すでに旧水路は地面の下に完全に消え去り、その行く先を目視する手段はない。
そして、地上には坦々たる堤防道路が続いているだけの場面だが、地形図が描く水路の位置が正確だとすれば、立梅用水の地下水路(立梅隧道)がこの辺りで左の山の下から県道の路下へ出て来ているはずだ。
そしてそこでは、旧水路と立梅用水の合流という、水路ファン垂涎の状況(?)が起こっているはず。




さらに50mばかり前進すると、待避所らしき拡幅部分があった。
この道、恐ろしいことに、コンクリート舗装の周囲にはだいたい段差があり、うっかりタイヤを落とすと、即座に脱輪立ち往生となりかねない。
川側に落ちないように注意するのは当然としても、山側も危険なのである。

そして、この待避所の山側にも、古びたコンクリートの地面があった。
おそらく立梅用水がこの下を流れているのだと思うが、確かめる術はない。




また50mほど進むと、今度は路面が少し高くなっている場所があった。

高まりの一画にマンホールの蓋があるのだが、なぜか周囲が溶接され、開けることが出来なくなっていた。
だがこれも水路の存在を示唆していると思う。

それにしても、この地の県道はどこまで行っても、水路の従でしかないのだと思わされる光景だ。
車輪が乗り越えられないほどの段差ではないものの、こんな段差を越えていけということ自体、県道を軽んじている。
この無造作な段差に対する県道側のせめてもの抵抗か、1ヶ所だけアスファルトで段差を埋めようとした痕跡があった。




13:36 《現在地》

そしてとうとう、堤防区間の終わりまでやってきた。そこには小さな広場があった。
地形図だと、ちょうどこの辺りを境に道の表記が一段階太くなる。
自動車交通不能区間の長さを記載した資料が未発見であるため、
正確なことは分からないが、この辺りが区間の終点なのだろう。

写真は、来た道を振り返っている。
ここから見ると、どうにかこうにか自動車の通れる県道がありそうなのだが、
実際には、魔境的に奇妙奇天烈な“水路跡道路”だけが辛うじて繋がっていた。

また、立梅用水の側からこの景色を見ると、
正面の高い尾根を迂回する川沿いの旧水路を放棄して、
1km以上の長大隧道でショートカットする新水路に更新されている。
道路でよく見る種類の進化改良が、ここでは水路にだけ、施されたわけだ。



堤防区間を出ると、すぐに短い上り坂があり、川から上がる。
地中に潜ったままの立梅用水とも、これでお別れだ。
長年連れ添ってきたような心持ちもする用水路および櫛田川との別れは、県道のひとつの区切りを物語るようだった。

坂を上りきったところに、見覚えのある「この先通行不能」の標識の片割れが、進行方向と逆向きに立っていて、一連の自動車交通不能区間突破を確信した。

攻略完了!




13:38 《現在地》

こうして辿り着いたところが、立梅(たちばい)集落。
このレポートの陰の主役の座を射止めた立梅用水の名前は、この地に取水堰があることに拠っている。

そして県道は、不通区間の終点側の末端に当たるこの集落内にも、【起点側の末端】を思い出させるような、立派な2車線のバイパス(新道)を完成させていた。



13:40 《現在地》

茶畑がたくさんある立梅集落を抜ける県道バイパスの出口を、終点側から振り返って撮影した。
道は立派だが、白線が消えかけている辺りに未成道感がある。
「この先 大型車両 通り抜け不能」の看板もあるが、バイパスを抜けた直後から、車種を問わず自動車は全て通り抜け困難な区間が始まることには触れていない。

起点側と終点側に用意されている2車線道路の間隙は、わずか1km足らずであるが、間にある“現道”の状況を見る限り、あそこを2車線道路に拡幅するには、相当大規模な護岸工事と切り取り工事が必須だろう。
不通区間の前後には、対岸の国道へと迂回するための十分な橋が既に架かっており、この区間を自動車で通れないことの迂回による損失はあまり大きくないと考えられることから、今後の整備も期待は薄そうだ。



立梅地区を出るところにこの丁字路があり、右折する2車線道路は、すぐに櫛田川を渡る。橋は桑瀬橋といい、県道不通区間を迂回する終点側の最終径路である。
橋の袂に大きな案内板があり、この地が中央構造線の在処であることが告白されていたが、県道とは直接関わりがなさそうなので解説は省く。

県道は直進する。
チェンジ後の画像は直進直後の風景で、道幅は1.5車線程度に縮小し、再び櫛田川に寄り添う。
立梅以前の櫛田川とは風景の印象が違って見えるが、じつはこれが中央構造線を跨いだことによる地質の根本的な変化によることらしい。

奥に赤い鉄橋が見えるが、次の写真は、約700m離れているその橋の袂まで飛ぶ。



13:44 《現在地》

ここは県道745号片野飯高線の起点から約10km(立梅集落から約1km)地点にある、国道368号の交差点だ。
小地名を舟戸といい、不通区間の始まりからここまでは全て、松阪市飯南町粥見に属していた。

チェンジ後の画像は、国道側から見た県道の入口。
青看はなく、いわゆる卒塔婆標識だけがあるのは、起点と同じ。
特にこの先が不通であることの案内もない。
誰が、この平凡な入口の2km先で、【あんな道】になると思うだろう。

県道は国道を突っ切り、引き続き櫛田川の右岸を終点目指してあと8.5km走るが、私の探索はここまでとした。
私は国道へ右折し、櫛田川を桜橋という名の赤いトラス橋で渡って、愛車の待つ「道の駅茶倉駅」へと向かった。




14:00 《現在地》

最後の紹介ポイントは、道の駅茶倉駅から。

ここは眼下に櫛田川、そして対岸に先ほど通過した立梅集落を見渡す、絶景の地である。

エメラルドグリーンの川面が美しいが、これは川を堰き止めている存在があってこその風景だ。




湖の下流へ目を向けると、石とコンクリートを組み合わせて作った、緻密な堰堤がある。
この堰堤こそ、立梅用水の取水堰である。黒い地下水路の入口が、ここからもよく見えていた。

今までの私なら、遊びで作ったような左の公園的つり橋には目を向けても、
この真面目な取水堰には、さほど感心を示さなかっただろう。
しかし今の私は、立梅用水とは旧知の間柄と思えるほどに深く関わった身である。
この眺めが今回の探索の〆には相応しいと思った。

探索はこれで完了だが、旧水路を活用して開通した、
破天荒な県道の机上調査という仕事が、まだ残っている。





〜県道になった水路の正体〜 ミニ机上調査編

帰宅後、【水路跡をそのまま道路化】したような、前代未聞のトンデモ県道の来歴を知るべく、机上調査を開始した。
まず最初にはっきりさせようと試みたのは、一部が県道化している水路跡の正体だ。
現地の私はこれを立梅用水の旧水路ではないかと考えたが、それは正しかったのだろうか。

右図は、県道片野飯高線と立梅用水の位置関係を示している。
どちらも概ね櫛田川に沿っているが、粥見地区から片野地区にかけて両者は並走している。

立梅用水をキーワードにネットを検索すると、現在の管理者である「水土里ネット立梅用水」の公式サイトに情報が集約されていた。
立梅用水が、約200年前の江戸時代後期に建設された、全長30kmに及ぶ大規模な灌漑用水であるというような簡単な解説は本編第1回でもしているが、同サイトの「立梅用水の歴史」のページによれば、その建設は紀州藩の一大事業として、文化11(1814)年に、247000人余りの膨大な労働力を投じて行なわれたことや、近世以降も灌漑用水としてはもちろん、発電用水や防災用水などとしても多目的に活躍を続けてきたことが分かった。

しかし残念ながら、【立梅隧道】の開通によって水路の一部が付け替えられたという記述はなく、水路跡の正体解明はお預けとなった。


@
地理院地図(現在)
A
昭和45(1970)年
B
昭和32(1957)年
C
明治32(1899)年

その次に入手したのは、昭和45(1970)年、昭和32(1957)年、明治32(1899)年版の歴代地形図だった。
これらを最新の地理院地図と比較してみた。

まず、A昭和45(1970)年版だが、矢印の位置に取水堰があり、そこから始まる立梅用水の径路は現在と変わらない。しかし、縮尺の問題もあるかも知れないが、川沿いの県道にあたる道路の表記は立梅と生辺の間で途切れていて、立梅以南や生辺以北も徒歩道の表記になっているので、現状よりも整備されていない印象を受ける。

次に、B昭和32年版……
即、キター!となった。
堰の位置は変わらないが、案の定、水路は立梅隧道ではなく、川沿いの径路を採っていた!
しかもそこには大小2本の隧道が描かれている! 堰から始まる長大な1本は、現地探索で見た(仮称)3号隧道であり、短い1本は(仮称)1号隧道に対応しているようだ。実際は間にもう1本隧道があったが、短すぎて省略されているようだ。

この版をよく見ると、川沿いの旧水路の隣に、並走する「小径」(=徒歩道)が描かれている。
隧道を迂回しているこの徒歩道が、現在の県道のもとになったのだろう。水路の点検用通路だろうか。

また、生辺から立梅隧道北口までの旧水路も、現在の県道と並走していたことが分かった。
現在、この区間には水路跡らしい遺構は見られないが、県道の拡幅に呑み込まれたと推測される。
唯一、第1回で写真を紹介した市町境付近にある【小さな掘り割り】に、その面影が感じられる程度だ。

最後に、明治32(1899)年版であるが、地形図が遡れる最古の版でも、江戸時代生まれの水路は当然ながら既に描かれている。
ただし、当時の堰の位置が少し現在とは違っていて、少し上流にあったようだし、隧道も1号隧道に相当する1本しか描かれていない。
現在は立梅地区の水路は全て暗渠化しているが、当時は開渠だったようで、おそらく3号隧道についても、土被りがある区間だけの短い隧道だったために、表記が省略されたと考えている。


このように、歴代地形図の調査によって、私が見たものが立梅用水の旧水路だったとはっきりした。
そのこと自体は予想通りであり驚きはなかったものの、水路をそのまま県道にしようとした異様な決断が本当に紛れない事実だったと分かったことは、やはり衝撃的だった。
なお、水路の切り替えの時期は、昭和32年から45年の間と推測され、旧水路を県道として整備する工事も、それ以降の出来事だろうと判明した。

ますます、水路の換線から、旧水路が県道化した経緯を、知りたくなった!

次に私は、旧飯南町が昭和59(1984)年に発行した『飯南町史』の閲覧を試みた。



『飯南町史』より

町史には、私が知りたかった情報のいくつかがあった。
例えば立梅用水に関しては、右のような私の趣味性に合致する興味深い写真が納められていた。これに関する本文は次の通りだ。

当初の井堰(取水堰のこと)は、現在の立梅ダムより1kmほども上流の、桜橋下手に築構されていたと伝えている。そのことを実証するように、昭和52年県道片野飯高線の拡幅工事に、当時の取水口と思われる暗渠の跡が現われた。暗渠は、幅・高さともに1.4mほどの半円で、削られた鑿跡が美しく残っていた。その位置は現水面より約5mの高所にあり、旧山道の1m下に口を開けていた。また、100mほど下流にも同じような暗渠が発見された、いずれも現河岸に開口しているので、同じ水路であったかは明らかでない。井堰の場所も2、3度変更されたという伝えもある。前記の暗渠が文政年間のものとすれば、岩盤との戦いもそこにあったはずである。
『飯南町史』より

私が見つけなかった、文化年間のものと推定される旧水路隧道が、やはり県道沿線の2ヶ所で発見されていたことが述べられている。
その場所は桜橋の少し下流(この地図の矢印の辺りか)の川べりで、昭和52年の県道拡幅工事中に発見されたという。
町史によると、堰の位置はこれまで何度か変わっているらしく、確かに明治32年の地形図では別の位置に描かれていたが、初代の堰はさらに上流の桜橋付近にあったらしい。

これらの隧道が現在どうなっているのかは情報がなく不明だが、県道の拡幅工事と旧水路の関係が、今回探索した区間だけではなかったことが分かる。

そして、次に引用するのは、まさに私が探索した旧水路隧道群に関わる内容である。
紀州藩による立梅用水の工事について、こんな記述があった。

工事は櫛田川本流を堰き止め、櫛田川右岸に沿ってその段丘上に水路を通じたが、特に立梅・生辺間の足山地区は、峨峨たる山腹が接し、岩盤が川岸をとざしていた。この地区の水路を担当したと思われるのは、深野村地士 野呂市之進 である。当時の削岩技術といえば、鑿と金槌によるしか方法がなかった。しかも岩盤が途をとざしているために暗渠としなければならなかった。工事に先立って集められた石工達も容易に捗らない工事に倦(う)み、野呂氏を苦慮させた。今に伝えられる「岩一升米一升」の伝承は、野呂氏が石工達を激励した逸話である。(中略)岩一升削れば米一升を与えて、野呂氏は難工事を遂行したのである。
『飯南町史』より

今回探索の舞台となった、生辺と立梅の間の険しい右岸の岸辺を足山と呼ぶらしい。
その足山で、今から約200年前に繰り広げられたのが、硬い岩盤を人力で穿って、暗渠という名の水路隧道を掘り抜くという、たいへんな苦闘だった。

この工事を指揮した人物は、本編第1回で深野橋という沈水橋が登場したのを覚えているかも知れないが、県道と立梅用水の対岸にある現在の松阪市飯南町深野の地士、野呂市之進。
彼が石工達の指揮を高めるために行なった「岩一升米一升」なる報奨制度が逸話として残るほど、深く地域の記憶に刻まれた難工事だったようだ。

私が探索した3本の隧道は、この時に掘られたものだったのだ。
もちろん、廃止までの長い月日には、コンクリートで側壁を巻き立てるなど色々な手入れや改築が行なわれただろうが、根本的には江戸時代生まれの廃隧道を、まとめて3本も探索したことになる。

そして、町史にある立梅用水の記述の最後を飾るのが、私が一番知りたかった、立梅隧道への換線に関する、次の記述だった。

文政以後井堰の崩壊ごとにその市を下流へ移したのであろう、その間水路は変更されることがなかった。しかし、立梅から生辺を経て名古に至る水路は、櫛田川の増水によって破損することがしばしば起こっていた。そのため立梅から名古に通ずる隧道が計画され、昭和29年頃より工費4320万円(県費4分の3、地元4分の1)で松阪北村組が工事を進め、同30年12月完成した。隧道は約1km余に及ぶもので、出口は柿野小学校対岸の名古にあって旧水路と結ばれている。それまでの旧水路は現在町の粗大廃棄物の捨て場となっていて、深さ・幅ともに2m余の旧水路に、満々たる水が流下していたかつての面影はない。
『飯南町史』より

立梅隧道への換線の経緯が判明した。
櫛田川の増水によって度々水路が崩壊したことを換線の理由に挙げており、これは現地探索でも、県道上に大量の流木が散乱していたり、旧水路隧道内に土砂の堆積があったり、大掛かりな石造の擁壁が部分的に流失していたりといった状況を見ているので、大いに納得出来る。
昭和30年12月完成という時期も、先の歴代地形図による推測から大きく離れてはいない。

ただし、旧水路敷の転用内容については、県道になったということは出ておらず、町の粗大廃棄物捨て場になっているとあるのだが、現地でそのような風景は見ていないので、町史編纂当時の旧状況なのかも知れない。


以上が、町史から判明した、立梅用水の旧水路が足山の地に存在していることの答えである。
だが、町史の記述は、まだ他にもあった。
続いては、町内の国道や県道について述べている章から、県道片野飯高線についての解説を見ていこう。


 県道片野・飯高線
多気郡勢和村片野を起点として、本町生辺・向粥見・有間野を経て、中之瀬橋より飯高町に至る路線が、昭和42年3月31日県道に認定され、「片野・飯高線」と呼ばれるようになった。この路線はそれまで櫛田川南岸道路と呼ばれ、本町では前記南岸部落を結ぶ生活道路として、往古より利用されていた大切な道であった。
大正4(1915)年、当時の粥見村は舟戸より有間野に至る本路線の改良事業を計画して県に働きかけ、(中略)同工事によって、それまでの人馬道が荷車道に替わり、部落間の交流や物資輸送に大きな利便を得るようになった。
『飯南町史』より

県道片野飯高線は、昭和42年に初めて認定された。
その前身は、櫛田川南岸道路と呼ばれていた道で、生活道路として長い歴史を持っており、車道化するための整備は大正時代から始められたという。
だが……

しかし、生辺と立梅、立梅と舟戸の間は、峻険な山が川岸に迫って難所のままであった。特に生辺と立梅の間は烏岳の西麓を巡り、わずかの距離であるが、足山の崖が通行を阻んでいた。
その後、舟戸・飯高の間は改良工事が進み、荷車道が自動車となり、産業開発に貢献してきた。だが、舟戸・生辺間は長く人馬道のまま放置され、昭和50年になってようやく改良が進められ、舟戸・立梅間の山道が一挙に二車線の近代道路に替わりつつある。
『飯南町史』より

今回探索の終盤に訪れた国道368号(和歌山別街道)交差地点である舟戸を境に、その南側の区間の整備が先行し、北側区間は櫛田川の険しい川岸の道であるために難航した。
県道に認定された後の昭和50年になって、ようやくこの区間の入口に当たる舟戸〜立梅間が現代的な自動車道として整備された。
(この県道改良工事の中で、従来の山道のすぐ下の岸辺に江戸時代の旧水路隧道が2本発見されたことは、既に述べた)

さて、この時点で未整備のまま残されたのは、今回探索した立梅〜生辺間の“足山の難所”だけとなったが、その改良の見通しについて、昭和59年発行の町史は、次のように結んでいた。

足山の難所がある立梅・生辺間は、用水路の変更によって埋め立てられ、道幅は広くなったが、足山の暗渠部分は古道のままである。
だが、その部分もやがて改良されて、県道としての面目を新たにする日は近い。
『飯南町史』より

右の2枚の写真は、用水路の変更によって埋め立てられ道幅が広くなった区間と、古道のままと評された暗渠部分の風景である。

今回探索した奇妙な道路風景に対する謎解きを、町史は丁寧に試みてくれている印象だ。
これらの記述には納得がいった。

しかし、現状の道路風景をこれほど正確に解説してくれた町史編纂者でさえ、数十年先の未来を見通すことは難しかった。




県道としての面目を新たにする日は近い。

本当に?


しかし、現状はある意味、“唯一無二の貴重な県道風景”を、ここに生じさせているので、

そのことが、真っ当な開通以上の価値を、地域にもたらす可能性が、あるのではないかと思う。

江戸時代の由緒ある水路隧道と、気軽に“ふれあいまくれる”この道は、只者じゃない。