帰宅後、【水路跡をそのまま道路化】したような、前代未聞のトンデモ県道の来歴を知るべく、机上調査を開始した。
まず最初にはっきりさせようと試みたのは、一部が県道化している水路跡の正体だ。
現地の私はこれを立梅用水の旧水路ではないかと考えたが、それは正しかったのだろうか。
右図は、県道片野飯高線と立梅用水の位置関係を示している。
どちらも概ね櫛田川に沿っているが、粥見地区から片野地区にかけて両者は並走している。
立梅用水をキーワードにネットを検索すると、現在の管理者である「水土里ネット立梅用水」の公式サイトに情報が集約されていた。
立梅用水が、約200年前の江戸時代後期に建設された、全長30kmに及ぶ大規模な灌漑用水であるというような簡単な解説は本編第1回でもしているが、同サイトの「立梅用水の歴史」のページによれば、その建設は紀州藩の一大事業として、文化11(1814)年に、247000人余りの膨大な労働力を投じて行なわれたことや、近世以降も灌漑用水としてはもちろん、発電用水や防災用水などとしても多目的に活躍を続けてきたことが分かった。
@ 地理院地図(現在) | |
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A 昭和45(1970)年 | |
B 昭和32(1957)年 | |
C 明治32(1899)年 |
その次に入手したのは、昭和45(1970)年、昭和32(1957)年、明治32(1899)年版の歴代地形図だった。
これらを最新の地理院地図と比較してみた。
まず、A昭和45(1970)年版だが、矢印の位置に取水堰があり、そこから始まる立梅用水の径路は現在と変わらない。しかし、縮尺の問題もあるかも知れないが、川沿いの県道にあたる道路の表記は立梅と生辺の間で途切れていて、立梅以南や生辺以北も徒歩道の表記になっているので、現状よりも整備されていない印象を受ける。
次に、B昭和32年版……
即、キター!となった。
堰の位置は変わらないが、案の定、水路は立梅隧道ではなく、川沿いの径路を採っていた!
しかもそこには大小2本の隧道が描かれている! 堰から始まる長大な1本は、現地探索で見た(仮称)3号隧道であり、短い1本は(仮称)1号隧道に対応しているようだ。実際は間にもう1本隧道があったが、短すぎて省略されているようだ。
この版をよく見ると、川沿いの旧水路の隣に、並走する「小径」(=徒歩道)が描かれている。
隧道を迂回しているこの徒歩道が、現在の県道のもとになったのだろう。水路の点検用通路だろうか。
また、生辺から立梅隧道北口までの旧水路も、現在の県道と並走していたことが分かった。
現在、この区間には水路跡らしい遺構は見られないが、県道の拡幅に呑み込まれたと推測される。
唯一、第1回で写真を紹介した市町境付近にある【小さな掘り割り】に、その面影が感じられる程度だ。
最後に、明治32(1899)年版であるが、地形図が遡れる最古の版でも、江戸時代生まれの水路は当然ながら既に描かれている。
ただし、当時の堰の位置が少し現在とは違っていて、少し上流にあったようだし、隧道も1号隧道に相当する1本しか描かれていない。
現在は立梅地区の水路は全て暗渠化しているが、当時は開渠だったようで、おそらく3号隧道についても、土被りがある区間だけの短い隧道だったために、表記が省略されたと考えている。
このように、歴代地形図の調査によって、私が見たものが立梅用水の旧水路だったとはっきりした。
そのこと自体は予想通りであり驚きはなかったものの、水路をそのまま県道にしようとした異様な決断が本当に紛れない事実だったと分かったことは、やはり衝撃的だった。
なお、水路の切り替えの時期は、昭和32年から45年の間と推測され、旧水路を県道として整備する工事も、それ以降の出来事だろうと判明した。
ますます、水路の換線から、旧水路が県道化した経緯を、知りたくなった!
次に私は、旧飯南町が昭和59(1984)年に発行した『飯南町史』の閲覧を試みた。
『飯南町史』より
町史には、私が知りたかった情報のいくつかがあった。
例えば立梅用水に関しては、右のような私の趣味性に合致する興味深い写真が納められていた。これに関する本文は次の通りだ。
私が見つけなかった、文化年間のものと推定される旧水路隧道が、やはり県道沿線の2ヶ所で発見されていたことが述べられている。
その場所は桜橋の少し下流(この地図の矢印の辺りか)の川べりで、昭和52年の県道拡幅工事中に発見されたという。
町史によると、堰の位置はこれまで何度か変わっているらしく、確かに明治32年の地形図では別の位置に描かれていたが、初代の堰はさらに上流の桜橋付近にあったらしい。
これらの隧道が現在どうなっているのかは情報がなく不明だが、県道の拡幅工事と旧水路の関係が、今回探索した区間だけではなかったことが分かる。
そして、次に引用するのは、まさに私が探索した旧水路隧道群に関わる内容である。
紀州藩による立梅用水の工事について、こんな記述があった。
今回探索の舞台となった、生辺と立梅の間の険しい右岸の岸辺を足山と呼ぶらしい。
その足山で、今から約200年前に繰り広げられたのが、硬い岩盤を人力で穿って、暗渠という名の水路隧道を掘り抜くという、たいへんな苦闘だった。
この工事を指揮した人物は、本編第1回で深野橋という沈水橋が登場したのを覚えているかも知れないが、県道と立梅用水の対岸にある現在の松阪市飯南町深野の地士、野呂市之進。
彼が石工達の指揮を高めるために行なった「岩一升米一升」なる報奨制度が逸話として残るほど、深く地域の記憶に刻まれた難工事だったようだ。
私が探索した3本の隧道は、この時に掘られたものだったのだ。
もちろん、廃止までの長い月日には、コンクリートで側壁を巻き立てるなど色々な手入れや改築が行なわれただろうが、根本的には江戸時代生まれの廃隧道を、まとめて3本も探索したことになる。
そして、町史にある立梅用水の記述の最後を飾るのが、私が一番知りたかった、立梅隧道への換線に関する、次の記述だった。
立梅隧道への換線の経緯が判明した。
櫛田川の増水によって度々水路が崩壊したことを換線の理由に挙げており、これは現地探索でも、県道上に大量の流木が散乱していたり、旧水路隧道内に土砂の堆積があったり、大掛かりな石造の擁壁が部分的に流失していたりといった状況を見ているので、大いに納得出来る。
昭和30年12月完成という時期も、先の歴代地形図による推測から大きく離れてはいない。
ただし、旧水路敷の転用内容については、県道になったということは出ておらず、町の粗大廃棄物捨て場になっているとあるのだが、現地でそのような風景は見ていないので、町史編纂当時の旧状況なのかも知れない。
以上が、町史から判明した、立梅用水の旧水路が足山の地に存在していることの答えである。
だが、町史の記述は、まだ他にもあった。
続いては、町内の国道や県道について述べている章から、県道片野飯高線についての解説を見ていこう。
多気郡勢和村片野を起点として、本町生辺・向粥見・有間野を経て、中之瀬橋より飯高町に至る路線が、昭和42年3月31日県道に認定され、「片野・飯高線」と呼ばれるようになった。この路線はそれまで櫛田川南岸道路と呼ばれ、本町では前記南岸部落を結ぶ生活道路として、往古より利用されていた大切な道であった。
大正4(1915)年、当時の粥見村は舟戸より有間野に至る本路線の改良事業を計画して県に働きかけ、(中略)同工事によって、それまでの人馬道が荷車道に替わり、部落間の交流や物資輸送に大きな利便を得るようになった。
県道片野飯高線は、昭和42年に初めて認定された。
その前身は、櫛田川南岸道路と呼ばれていた道で、生活道路として長い歴史を持っており、車道化するための整備は大正時代から始められたという。
だが……
その後、舟戸・飯高の間は改良工事が進み、荷車道が自動車となり、産業開発に貢献してきた。だが、舟戸・生辺間は長く人馬道のまま放置され、昭和50年になってようやく改良が進められ、舟戸・立梅間の山道が一挙に二車線の近代道路に替わりつつある。
今回探索の終盤に訪れた国道368号(和歌山別街道)交差地点である舟戸を境に、その南側の区間の整備が先行し、北側区間は櫛田川の険しい川岸の道であるために難航した。
県道に認定された後の昭和50年になって、ようやくこの区間の入口に当たる舟戸〜立梅間が現代的な自動車道として整備された。
(この県道改良工事の中で、従来の山道のすぐ下の岸辺に江戸時代の旧水路隧道が2本発見されたことは、既に述べた)
さて、この時点で未整備のまま残されたのは、今回探索した立梅〜生辺間の“足山の難所”だけとなったが、その改良の見通しについて、昭和59年発行の町史は、次のように結んでいた。
だが、その部分もやがて改良されて、県道としての面目を新たにする日は近い。
右の2枚の写真は、用水路の変更によって埋め立てられ道幅が広くなった区間と、古道のままと評された暗渠部分の風景である。
今回探索した奇妙な道路風景に対する謎解きを、町史は丁寧に試みてくれている印象だ。
これらの記述には納得がいった。
しかし、現状の道路風景をこれほど正確に解説してくれた町史編纂者でさえ、数十年先の未来を見通すことは難しかった。
県道としての面目を新たにする日は近い。
本当に?
しかし、現状はある意味、“唯一無二の貴重な県道風景”を、ここに生じさせているので、
そのことが、真っ当な開通以上の価値を、地域にもたらす可能性が、あるのではないかと思う。
江戸時代の由緒ある水路隧道と、気軽に“ふれあいまくれる”この道は、只者じゃない。