2011/2/8 8:21 《現在地》
今回からまた、本題である「石切道」の話しに戻るわけだが、まずは前回紹介した「唖然丁場」への入口となった洞穴(隧道?)の唖然丁場側坑口を見てもらいたい。
ここは概ね長方形の窪地である唖然丁場の北西の隅であり、不定形の坑口は、周囲と同様に垂直に切り取られた岩盤に、直に口を空けている。
この姿から想像されるのは、この歪な坑口は本来の採石事業の中で想定された構造物ではなく、何らかの事情で急遽作られたものなのではないかと言う事だ。
私とこの採石に関わった関係者との距離は大きく、事実を確認する術はなかなか無いように思うが、坑口の姿は明らかに尋常のものではないし、単純な洞内の崩壊により変形したものでもないだろう。
そして今度は、窪地の底を南東方向に移動して、その南東隅へ接近中。
写真はそこから今来た方向を振り返って撮影。
正面に坑口がある北西の角が見えており、窪地のだいたいの広がりがこの写真から分かると思う。
南東隅にやって来た理由は、この辺に“本来の出入口”があるのではないかと思ったからだ。
この窪地の大きさにほぼ匹敵するだけの膨大な石材を、長期間にわたって運び出すのには、先ほどの通路では余りに場当たり的。
もっと本格的な通路がどこかにあるはずだし、それには既に心当たりがあったのだ。
その心当たりを確かめに来た。
――そして、擬定地に近付くと、
全く予想していた通りの“予兆”が現れ始めた。
斜面である。
そこはかなり古くに崩壊したような、瓦礫の山。
平坦な窪地は形を潜め、南国で登山をしているようなジャングルの斜面である。
そのまま10mほどよじ登ると、“鞍部”となった。
そこは確かに鞍部らしい凹んだ地形をしてはいたが、最低部は象よりも大きな巨石が、互いを噛むように地形を形作っているのであり、人間が単純に通路として掘り込んだ堀割ではないのだった。
下手に脚を踏み込めば、スルリと岩と岩の隙間に落ち込み、大けがをしかねない感じを受ける。
非常に足元が悪い。
この日はGPSなどを携帯しておらず、現在地は勘に拠っていたのだが、次に現われる光景を言い当てることが出来た。
それは、この景色である。↓
やっぱり、ここと繋がっていたか!!
今から約1時間前に、この巨大な崩壊した堀割の下に立って、
その行く先について、地形図には描かれていない空間の存在に想いをはせた。
そして、その決着が今付いたのだ。
地形図に全く描かれていない大空間、「唖然丁場」が存在していたのである。
こうして上から見ると、深い堀割を埋没させた岩の大きさが、改めて分かる。
この巨大な落石の発生源は、写真正面(すなわち堀割の東側)の岩山で、窪地とその外部を隔てる天然の壁の一部である。
既に崩壊地も周辺の山林と大差ないジャングル状態になっていて、崩壊が最近の出来事でないことを教えていた。
続いて私は、堀割の脇の斜面を伝って、1時間前の地平へと降り立った。
何となく、ひとまわり自分が大きくなったように感じたのは、直前に見た景色のスケールのせいだろう。
ほとんどの人が知らない千葉を知ってしまった。
改めて堀割を見ると、その向こう側に広大な空間の存在することを“感じる”事が出来た。
この巨大堀割の目的は、唖然丁場からの石材搬出用通路だったと考えて間違いないだろう。
そしてこの堀割の大規模な崩壊は、そのまま丁場が廃止される原因になった可能性もある。
廃止される丁場との最小限の行き来のために、この回の最初に見てもらった、異形の洞穴が掘られたのではないだろうか。
そう考える根拠のひとつが、丁場からの石材搬出用通路に付随する、独特の特徴の有無がある。
この堀割は、隧道ではなく、堀割とすることが非効率と思えるほどに深い。
その理由は2つあると思うが、ひとつは堀割建設のために切り出した石材にも、商品価値があると言う事。
そしてもう1つがより大きな理由で、それはこの深さの堀割が最初から求められたのではなく、丁場の底が深くなるにつれ、自然と深まっていったと考えられることである。
堀割の両側の壁の途中に、犬走り状の不連続部があるが、そういう箇所は古い時代の“底”であった可能性がある。
対して、先ほど見てもらった異形の洞穴は、そうした“経年的な変化”が見られる、一時的な利用に留まったことを示唆している。
そもそも、丁場からの陸路による石材搬出には、下りの自然勾配が必須であるはずで、その点でも異形の洞穴は落第である。
そういえば、堀割の隣に口を空けている、この内部がふさがった小隧道の行く先は確認出来ていない。
しかし、こちらも間違いなく唖然丁場との連絡用に掘られたものだと考えられる。
その丁場側の坑口は、堀割を埋めた大崩壊に巻き込まれ、跡形無く埋没してしまったようである。
これも想像だが、隧道は堀割よりも古い時代の、唖然丁場の搬出通路だったのではないだろうか。
両者の標高には、図中の「h」の高低差があるが、これは7m前後である。
唖然丁場が、鋸山の他の丁場の例にならって、1年で60cm程度掘り下げられたとしたら、10年以上の“時差”があることになる。
ここからは、本題である明治時代の車力道とも関わってくるが、これまでの調査(主に現地+歴代地形図調査)によって、一帯の丁場群からは、明治、大正、昭和で別々の搬出ルートがあった可能性が高まっている。
少なくとも、昭和と明治の2ルートは別々である。
そして、唖然丁場からの搬出ルートには、隧道に拠る明治ルート(赤)と、堀割に拠る大正ルート(黄色)があったのではないかという想像が成り立つ。
ただし、大正ルートの現地確認はまだなので、これは次回以降の課題である。
以上の私の想像が全て正しかったとすれば、壮大な唖然丁場の消長についても、推測が可能だ。
すなわち、明治に本格化し、大正時代に全盛を迎え、昭和の早い時期(石祠丁場より先)に衰えたと考える事が出来る。
だが、流石にこれ以上類推の積み木を重ねても、出来上がりは歪になりそうなので、ここから先は次回の調査(大正および昭和の搬出ルートの全容解明を予定)を待ちたいと思う。
続いては、待ちに待った(?)明治隧道だ。
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