鋸山の元名石切道 第6回

公開日 2011.11.16
探索日 2011.02.08
所在地 千葉県安房郡鋸南町

はじめにこの山(鋸山)へ入った目的は、

明治39年の地形図にだけ記された、1本の隧道を探すことだった。



地図が描かれてから100年後の現代。

農業用水地に閉ざされた谷の奥で私を出迎えてくれたのは、

予想だにしない、石の舗装路。

人が操縦する猫車という荷車が、石材を乗せて山を下るための専用道路 「車力道」 の痕跡だった。



そして、この車力道を上り詰めた先で出会ったのが、

100年前に描かれていた、隧道。


今回は、しばらくの寄り道を終えて本題の隧道へと戻ってきた場面からだ。




戻ってきた“明治隧道” その内部探索。


2011/2/8 8:32 《現在地》

1時間12分ぶりに戻ってきた、隧道前。

ここまで近付いたのも初めてであり、はっきりと貫通していることが確認出来た。

この隧道、歴代の地形図を信じるならば、大正初頭には早くも廃止されていたのであり、明治廃隧道としては驚異的な保存状態と言えそうである。
この位置からも、僅かに歪だが整形されたアーチ型の出入口が見通され、それらに挟まれた闇の奥行きは、20〜30m程度である。

その土被りは見るからに浅く、いわゆる小隧道の部類であるが、切り通しにされなかった事実は、これが余り長期間使われた隧道ではないと言う事を示唆しているように思う。
この辺りは、前回見た巨大な切り通しとの好対照では無かろうか。


それでは、土と落葉で少し盛り上がった路盤を進み、洞口へさらに接近しよう。




丁場の石は、どれも綺麗さっぱり角が直角だったので、
アーチを模して丸く成型された断面は、目に新しく感じられた。

石を切り出す時と同じ手法で四角く掘削しても、このくらいの隧道なら簡単に作れそうなのに、
あえてそうはせず、“隧道らしい”形状に拘ったのは、どんな理由からだったのか。

一枚岩から彫刻的に削り出された正真正銘の“石隧道”だが、
扁額など、その由緒を直接に語るようなものは、見あたらなかった。




でも、洞内は四角いのね。

乾ききった灰色の洞内も、やはり普通の道路トンネルとはちょっと違う、印象的な形態を示していた。

特徴的なのは、洞床の形状だ。
元もと手前から奥に向けての上り勾配が付けられているのだが、その勾配をより強めようとするかのように、手前側の洞床ほど深く掘り下げられていたのである。
この幅というのは、隧道全体の幅よりも一回り小さく、車力道の石畳舗装の幅と一致しているのではないだろうか。

この隧道も車力道の一部であったことが、これで確かめられたと言って良いだろう。
そして、平均360kgもの石材を積載した猫車を人力で運行させるため、勾配を調整する洞床の掘り下げ工事が、後に行われたのではなかっただろうか。

ひときわ深く掘り込まれた部分からは当然天井が高く感じられ、一方で両側の壁は手が届くほどに近い。
そして、素堀隧道であるにもかかわらず、土気が少しもない。つまり、壁を触って手が汚れることのない、限りなく純粋な石隧道だ。
短くとも、何から何まで“変わり種”な隧道だった。




   

出口側から振り返ると、この特徴的な断面変化の全貌が分かり易かった。

注目すべきは、洞床が掘り込まれているとは言っても、両側坑門のサイズに違いはないと言う事だ。

これはどういうことかというと、次のような縦断面になっているのである。

東口から洞奥付近までは勾配を加えるように洞床が掘り込まれているが、西口の落葉がたくさん溜っているあたりでは、今度は勾配がほとんど無く、結果として東西坑口の天井の高さは同じである。

このような縦断面を要する理由は、不明である。
西口(私が入ってきた方)の前は分岐と急な下り坂になっているので、隧道から勢いよく飛び出さないための工夫…なのだろうか?




隧道東口へ到達。

いったいどんな場所へ出て来たのだろう。




東口はその先に続くカーブに摺り合せるように、口径がラッパ状に広がっていた。
それ以外は特筆するようなことは無く、岩盤に穿たれた素堀の坑口である。
やはり、隧道の由緒を語るようなものも見あたらなかった。


そして、その先の路盤。

岩盤を直角に切り取ったような、なかなかアグレッシブな場所に出て来た。
道幅は洞内と同程度で、路肩はすっぱりと切れ落ちている。
右側の立ち木が高く、見晴らしは良くないのだが、確実に鋸山を登ってきた感じの風景だ。
隧道までの谷筋の道からは、一変した。




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急勾配の車力道の先には…


最大の目的であった隧道の探索を終えてしまったわけだが、最後は魅惑の石畳を見せてくれた「車力道」の終着地を確かめたいと思う。

隧道が描かれている明治の地形図だと、道は標高328.4mの鋸山山頂の三角点から南へ100mばかり下った、「採石場」の記号で行き止まりになっている。
等高線に対して、道が直交するように描かれているから、とても尋常の勾配ではないように見受けられる。
(この地形図から読み取れる隧道の標高は200m、採石場は240〜280m附近である)

対して現在の地形図では、この一帯には一切の道や人工物が描かれていない。
しかし、谷筋の等高線が山頂に向かって険しく連なっている様子は同じで、屏風のように並んだ岩場の記号も存在する。
(なお、現在の地形図から読み取れる現在地の標高は180m前後である)




幅1.5m程度の狭い道。
両側は崖になっていて、猫車がすれ違うような余地はない。
また、振り返って見る隧道は、入口のカーブのために見通せなかった。




隧道から20mほど進むと崖からは解放されたが、今度は大量の苔むした瓦礫が散乱していて、路盤の位置が不明瞭になった。

だが、落ち着いてよ〜く見ると…。





道がある!

しかも、驚くべき急勾配になってきた。

現代の自動車道であってもありえないくらいの急坂で、普通に歩道か登山道のレベルである。

だが、相変わらずこの路盤には、同じ幅の凹みが付けられている。
というか、路盤自体が岩盤に穿たれた凹みになりつつある。

これはまるでガイド方式…、“ミニ四駆”のコースと同じような仕組みで、脱線しないように作られているのである。





地形はますます険しくなってきた。

←道の左側は垂直に切り立った岩場で、人工的に削ったりした形跡は見られない。
おそらく有史以前の鋸山は、こういう苔むした岩場が全山に屹立する、仙境のような場所であったのだろう。
この地に行基が日本寺を開山したのには、それなりに理由があったはずである。

→道の右側は急斜面の杉林だが、長い間手入れがされていないようで、まるで“ポッキーチョコレート”のようにツタに絡まれた森は、異様な雰囲気を醸し出していた。




←もの凄い“ミニ四駆コース臭”がする岩場の掘り割り道を振り返る。

この車力道の路盤を全て板敷きにしたら、“鋸山山頂(附近)から滑り降りる世界一のスーパーすべり台”が出来るかも知れない。
最後は元名ダム湖へ飛び込むのだから、ウオータースライダーとしての面白みもある。
誰か企画しないものだろうか?

→さて、間もなくこの急勾配は一段落するようだが、そこに石垣のようなものが見えている。
あれはなんだ?




それは、“何か”であった。

しかし、何なのかは分からなかった。

石を組積した何かがあったのだと思うが、地形的にただの石垣では無さそうだし、石畳にしては範囲が広い。
単に、運び出すべき石を並べて置いていた跡なのかも知れない。

細長く整形された“尺三石”らしきものが多いが、いずれも非常に風化していて角が無く、円柱に近付いているものもあった。
同じように運び出されず残された“尺三石”でも、「石祠丁場」で見たものとは、大きく経年が異なっていた。

これが、隧道よりこちら側で目にした、最初の“丁場”の気配であった。
それは、確かに近付いていたのだ。




8:41 《現在地》

地形的に偶然なのか、意図的にそうなるように道を付けたのか分からないが、
この道の勾配は一定ではなく、非常に急な部分とほとんど平坦に近い緩やかな箇所とが、交互に現れた。

隧道から150mほど進んだこの場所もそんな平坦部で、しかもここには直進する道の他に、
左の山手へと分け入る分岐線があった。

先に左へ。




つか、ここへ来た時から、

左に何か見えていたんだよな。




気になったのは、この影。

隧道… ではないようだが……。




見た瞬間に連想したのは、世界遺産になっている、バーミヤーン渓谷の仏像遺跡。

天然の岩場を掘り込んだ縦に長い空洞の奥に、秘められた大仏像があるのではないか。

そんな連想が働いた。

もちろん、現実にはそんな神仏めいたものではなく、これも丁場のひとつであったわけだが、
しかしこの丁場には、今までの丁場にはない“目を引くもの”が、ひとつあった。

それは何か?



採石のために掘り込まれた半地下の空洞。

その切り取られた壁面の目立つところに、何か文字が刻まれていたのである。

これは、今までの丁場では全く目に付かないものだった。


いったい何が書かれていたのか。




明治廿八年 旧八月

これを見た瞬間、ゾクゾクーッと来た!

地上からは決して手の届かない高みの岩盤に刻まれていたのは、今から116年も昔の「年」と「月」。
流石に誰かが酔狂で、後の時代に刻んだものでは無かろうから、隧道では遂に見つけることが出来なかった“明治人の息吹”を、初めてここで感じる事が出来た。
明治の時代、確かに我々と同じ日本人がここにいたということを、実感したのである。
遺跡のような遠い存在が、お婆ちゃんの墓石くらいまで、一気に近付いた感じ…。
宝物を見つけたような嬉しさがあった。

なお、明治28年といえば、清国との間に下関条約が締結(4月)され、台湾総督府が開庁(6月)した、本邦が海外へ本格的に力を向け始めた、そんな時期である。
ではこれが刻まれた「旧八月」には、どんな意味があるのか。
何かの記念であったのか。

今となっては、おそらくそれを知る術はないだろう。
ただ、地形図に隧道が初めて現れる明治39年よりもかなり前から、この壁面が存在し、おそらくは隧道も存在していたであろうと推測する、手がかりにはなった。
またそれは同時に、その後はこの丁場にほとんど手が付けられていないということでもあり、丁場やそれに繋がる車力道が明治時代の比較的限定された期間の遺構である可能性を高めた。




そして目の届く場所に刻まれた文字は、もう一つあった。

←写真の黄色の○のところにも文字が刻まれていた。(赤○は上の文字)

明治二拾八年
元旦一月「元日二月」とも読めるし、二行目は不鮮明なのでそれ以外の可能性もある

こちらも同じ明治28年。
だが、書き方に「廿」と「二拾」の違いがあり、おそらく別々の人間が刻んだのだろう。

と、私に想像出来るのはこのくらいまでで、どんな目的で誰が刻んだのかは、やはり皆目見当が付かない。
丁場の歴史に詳しい方の証言を待ちたいものである。




この丁場を以後便宜的に、「明治28年丁場」と呼ぶ。

「明治28年丁場」は、露天掘りと坑道掘りの中間的な半地下式露天掘りを行っていたようだが、外光が届く範囲で掘削は終了していた。
これより奥の石質に陰りがあったのか、他の理由があったのかは分からない。(見た目には均一な材質である)

いずれ、私の見立てが正しければ、ここは明治から時の止まった、手堀時代の丁場である。
半地下にある壁面は、石の材質の良さもあってか全く劣化が見られず、昨日まで掘削していたといわれても、信じてしまいそうだった。
しかし、足跡、空き缶、タバコの吸い殻、その他いかなる「現代人」の気配も、見つけることは出来なかった。

本当に、時が止まっているみたいだった。




丁場の出口を振り返って撮影。

左右の岩盤は、明らかに風合いが異なっており、左側の白っぽい岩盤だけを選択的に採石したことが見て取れる。

当然のことながら、商品価値の少しでも高い部分を探し求めて、日々掘り進められていったのだろう。




8:45

一通り見終えたので、分岐へ戻った。

次回は、本線をさらに突き詰める。


それは、おおよそ限界まで上り詰め……