道路レポート 房総東往還 大風沢旧道 第6回

公開日 2022.07.11
探索日 2021.01.20
所在地 千葉県鴨川市

 東隧道の尾根を越えて…… 東口開口なるか?!


2021/1/20 9:41 (尾根越え開始1分後) 《現在地》

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さて、この閉ざされた区間から脱出しよう!
内部が閉塞している東隧道直上の尾根を乗り越えて、その東口を目指す。
西隧道でも行った行為を、もう一度再現する。

幸い、今度の尾根の方が比高は小さい。
前の尾根には50mの比高があったが、今度は約30m程度である。
地形は相変わらず傾斜がキツく、直登にはなかなかハードだが、比高が小さいことは助かる。

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上りながら、元いた道を見下ろして撮影。
2本の通りぬけ不能の隧道に挟まれた明り区間は短く、他の道には繋がらない孤立した区間だった。
迅速測図以外の地形図に描かれたことがなく、いまこの世界に生きる人類の誰一人として現役の姿を見たことがない区間だった。

明治期にこのルートを放棄せず、改良しながら使い続ける決断をしていたら、現代ではもう少し平凡な廃道になっただろうが、廃止が古いということは立派な個性だ。



9:45 (尾根越え開始5分後)

西隧道の尾根を登った半分の時間で、尾根のすぐ下まで到達した。
こちらも尾根の周りでは立ち木の根っこが随分露出しているが、西の尾根と比べれば常識の範囲内だった。

そしてこの尾根の傍で、倒れたコンクリート製電信柱の残骸を見つけた。
中が空洞になっている鉄筋コンクリート製の電信柱で、木製でない時点でそこまで古いものではないのだろうが、ほとんど地面に埋れているので、倒れてからそれなりの時間が経過しているだろう。代わりの電信柱も見当らない。

西隧道の西口前で見つけた【碍子】と関わりがあるのか、偶然なのか。
でも、電線が旧道となった古い峠道に沿って設置されているケースは良く見られるので、この沿道にも昭和の時代まで電線が敷かれていた可能性はありそうだ。



9:46 (尾根越え開始6分後) 《現在地》

尾根の頂上に着いた。
が、やはり鞍部や切り通しのようなものはなく、むしろ尾根に沿って道、あるいは防火帯らしき目通りがあった。
写真は尾根の突端である海側を向いて撮影しており、私は右から登ってきて、そのまま左に下る。

隧道直上の標高は、先に越えた西の尾根よりも20mほど低いこの東の尾根だが、海岸線への突出はより大きくなっており、大風沢旧道に対する新道であった海岸ルートも、全長191mの実入隧道でこの尾根を抜いている。

またここは鴨川市の天津と内浦の大字境であり、過去には天津小湊町の大字境であったり(昭和30年〜平成17年)、天津町と小湊町の町境であったり(昭和30年以前)した。大風沢旧道が誕生した明治中頃(明治22年町村制施行以前)は、天津村と内浦村の境だったようだ。



9:50 (尾根越え開始11分後)

樹木のせいで見晴らしこそないものの風通しの良い尾根は爽快で、5分ばかり腰を下ろして休息しつつ軽く間食をした。
行動を再開した私は、直ちに尾根の東側へ下降を開始する。
目指すは、東隧道の東口への直接下降である。

残念ながら全長の中間付近での落盤閉塞が確認された東隧道であるが、これから向かおうとしている同隧道の東口は、ここまで何度か書いているとおり、『歴史の道調査報告書』にて「崩れたトンネルがある」という表現で“発見”の報告がある。同報告書は平成2(1990)年に発行されており、調査自体はその数年以内のものだから、私の探索時点(2021年)より見て30年くらい前までは開口していたとみられるのである。

再度、鍾乳洞化しつつある怪しき隧道への進入なるか、これは今回の探索における最後の正念場といえそうだ。
ということで、ここは気合いを入れ直し集中して坑口を発見したい。
尾根から見えるのは急斜面のスギ林と、その下は竹林らしかった。



(尾根越え開始13分後)

こういうことを何十年もやってきたので、それなりに手慣れている。
己の感覚に頼って下っていくと、それらしい凹んだ地形はすぐに見つかった。
おそらくあそこが、隧道の東口だ。

果たして開口しているかどうか?




9:53 (尾根越え開始14分後) 《現在地》

東隧道の東口跡地を発見!

だが……、間に合わなかったようだ。

残念ながら、もう開口はしていなかった。



シンプルに、崩土で埋れてしまっていた。

坑口が埋れている深さは、西隧道の西口と同程度だと思うが、積み上がっている瓦礫に大きな岩が多く、掘るのは遙かに大変そうだ。
それなりの時間と人数を伴って作業を行えば、再貫通出来そうな感じは受けるものの、今日の私の単独行ではやはり手に余る。状況確認に止めておこう。

これで、2本の隧道の4つの坑口の成績は、1勝3敗となった。
苦戦の成績だが、廃止からの時間経過を考えれば、これでも上々かもしれない。
1箇所だけでも入れて、本当に良かった。内部に大発見もあったしね(笑)。

(……と思っていたのだが、このレポートの第4回を公開後に頂いた読者様の情報により、西隧道の内部へ、2020年の夏に西口から潜入した方がいるとの衝撃的な情報を頂いて、驚いた。私としても、協力者を得たうえでの再排土作業計画を持っているので、進展次第報告したい。なお、読者様からの協力者募集はしないので、手伝いたいとのご連絡にはお応えできません。)


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隧道東口を発見したことで、尾根越え作業ももちろん終了。
ここから先はまた、大風沢旧道の廃道跡を辿っての下山である。峠越えの探索としての仕上げの部分に入ってくるな。

坑口跡地から東へ向かって明瞭な谷筋が流下しており、大風沢旧道は、隧道を出るなり、谷に沿って素直に下って行くようだ。

そこは西隧道への急な上り道を彷彿とさせる、急勾配の下り道で、やはり同じ道の片割れなんだなと妙に納得する風景だった。
馬車が通るには些か急すぎやしませんかと、同じコメントをまたしたいぞ。



GPSで改めて現在地を確認すると、外房線安房小湊駅の700mほど西の山の中で、海抜約70mの地点にいた。
地形図には周囲に道が描かれておらず、最寄りの道までは300mくらい離れているが、相変わらず外房線大風沢隧道の直上ではあった。
道はこの先、いわゆる小湊の市街地へ向けて足早に下っていくはずだ。

現地点では忘れられた山岳廃道そのものといった感じの景色であるが、これが見知った街の景色へ吸収されていくような変化は急速に起こるはずで、楽しみである。
そして望めるのであれば、ここまでは見つけることがなかった、この古い廃道の由来に関するような石碑とか、記念物のような何かを見つけられたら、仕上げとしては最高である。

最終ステージ、突入!




廃道を歩き出してまもなく、道端に不思議なものが標示されているのを見つけた。

この道の本来の古さを考えれば場違いな、塩ビとアクリル板を加工して作られた何かの標識だった。
道路標識とかではなくて、例えば…連想したのはオリエンテーリング用の標識だったが、何か意味があるだろう白と緑のツートンのデザインだ。

正体が何であるにせよ、ここが既に集落の裏山という表現に相応しい、人に親しい山であると感じられる発見だった。
こういうところから急速に明治のベールは剥げていき、人慣れた景色へ移り変わっていくのであろう。




おおー! なんか綺麗だ。

だいぶ荒れ果ててはいるが、馬車道にありそうな道幅の広さが残っている。
勾配は少しキツいものの、個人的な好みも込みで「理想的」と言ってもいい明治廃道風景じゃないか。
この感じだと、たぶん路肩には石垣があったんだろうが、もう風化しすぎて地山と区別が付かなくなっているな。




道は素直に谷沿いを下っていく。
落葉や倒木が路上にたくさん堆積しているが、おかげで下草がなく見通しが良い。
これならもうすぐ下山を果たせそうだ。

そしてまた、先ほどと同じ造りの標識板があった。
白と緑のツートンはなく、ただの透明なアクリル板が標示されていた。



いよいよ日常の世界へ舞い戻ってきたようだ。
地図には描かれていないが、道の下の谷底がちょっとした公園のように整備されていて、枝振りの良い木の下に古ぼけたベンチ(?)が置かれているのを見た。
手前側の斜面はミカンの果樹畑っぽい。
ただしこれらの整備は一切公的なものではないかも知れない。案内物のようなものは全く見当らなかった。




果樹畑の出現を合図に道は改善し、歩き易くなった。引続き、陽当たりのよい沿道にはミカンの木が植わっている。
ここで1本のコンクリート製の標柱を見た。「工」の字が刻まれた大量生産品の標柱は、よく見慣れたもので、国鉄やJRが用いる鉄道用地杭だった。
地図を見ると、道の下の谷のすぐ地下を大風沢トンネルが通じており、まもなく地表へ出てくるご様子。



道に促されるままに足早の下山をしながら、思い出したようにちょっとだけ振り返ってみた。

そこにはほんの少し前まで私が地べたを這い回り、ときには地面の中まで這いずり回った、ほとんど峠のような地形を持たない峠の尾根が、明るい青空を背負って聳えていた。
そこにいるときにはずっと樹木の下にいたから、山としての“外観”には意識が向きづらかったので、「あそこを越えてきたのだな」と頭で分かってはいても、ピンとはこなかった。確かにあの尾根を越えてきたんだけどね。間違いなく。




10:05 《現在地》

埋め戻すのを忘れられた暗渠のようなコンクリートの巨大な構造物が、谷の底に現われた。
それは外房線の大風沢隧道の小湊側坑口に繋がるロックシェッドの屋根であり、同様のシェッドが天津側坑口にもあったが、さらに長かった。
鉄道の利用者は気付かなくても、外から見ればはっきり分かる特殊構造物だった。



外房線の地表への復活は、私の一連の峠越えの完成を象徴する風景の変化であった。
依然として谷の中腹を下っていく我らが道の両側路肩付近に、通行の妨げになりそうな数の鉄道用地杭が点々と植わっていた。
たぶん路面だけは公道として市有地扱いで、その両側は法面込みで鉄道用地なのだろう。なんとも肩身が狭い。

この写真にも写っているが、道路脇の法面がコンクリートのミニ柱で補強されているのも、鉄道側の仕事っぽい。道路ではあまり見ない工法だし、こんな小さな法面に手を入れるとか、本当に鉄道の守りは念入りだ。




そんなこんなで、最後の坑口跡地から約350m前進したところで小湊市街地の外縁に辿り着いたらしく、行く手にやや唐突な感じで、家屋の一部である物置が現われた。
その現れ方に、少し面食らう。

と同時に、焦る。
今回、ワルイコトをする気はないのだが…、この出方って…




どうやっても他人様のお庭へ出ちゃう。

片側は鉄道で、他方は山で、迂回困難な情勢である。

大風沢旧道は、最後の最後で民有地に分断されている状況なのかもしれない。



10:06 《現在地》

大風沢旧道としての一連の廃道区間の出口を振り返る。
こちら側から道に気付いて探索するのは無理だったな(苦笑)。

一連の廃道区間は、天津踏切からここまで約1.3kmの距離があり、
たったそれだけと思われるだろうが、これは2本の隧道が共に通り抜け出来たと仮定した長さだ。
実際には2回の尾根越えが必須で、私の場合はこの区間の踏破にほぼ3時間を要していた。

ともかくこれで、大風沢旧道の核心部としての山岳区間は無事終えた。
国道や鉄道だと一瞬の山越えだが、同じ区間を明治廃道でやると大変だ。
でもすごく発見に恵まれた探索が出来て満足だ。



次回が最終回。

大風沢旧道が現国道と再び合流する、小湊市街地を街角探索するぞ。

あとは帰宅後の机上調査編も。国語の教科書の大常連も出るぞー。笹峠の人だよ。