大風沢旧道(仮称)のうち、現在使われていない廃道で、地形図にも描かれていない区間を、実踏の成果を踏まえて再現したのが右図だ。
全体的に廃止から非常に長い時間を経過していることが感じられる状況で、2本あった隧道(推定長150mと100m)は、いずれも埋没や落盤によって通り抜けは不可能だった。
こうして改めてその全体を地図上に見ると、迂回の少ないルートであったことが分かる。
しかしその代償として、急勾配である区間が目立ち、いわゆる馬車や荷車のような明治期の車両交通に十分適応した道とは思われない。
それでも急勾配の尾根を無視できる2本の隧道の効果は絶大で、これを乗り越えなければならなかったより古い時代の道に比べれば、大いに便利な新道であったとも思う。特に歩きの旅行者にとっては。
探索後、この道の由来についての机上調査を行ったところ、欲しい情報を的確に記した資料を発見できた。
『天津小湊の歴史 下巻』という、平成10(1998)年に天津小湊町史編さん委員会が発行した郷土資料だ。
以下、同書の記述を元に論を進めていこう。
明治2(1869)年には関所・番所を廃止し、5年9月には房総の諸県でも伝馬所を廃止して陸運会社が置かれた。この制度下では天津小湊地域は房総東街道に位置し、天津駅と内浦駅が設置された。
『下巻』は明治維新の直後から始まる。明治最初期の交通路は、当然ながら直前にあたる幕末期とほとんど変わるところはなかったが、制度的な部分の変革は矢継ぎ早で多かった。天津や小湊の地域は、明治5年9月時点では木更津県(旧上総国と旧安房国の区域)に属したが、翌年6月に印旛県(旧下総国の区域)と合併して、新たに千葉町に県庁を持つ千葉県が誕生している。この頃、政府の命令で、従来の伝馬や飛脚の制度を置き換える陸運会社という私企業が各地に設立され、宿場に代わる駅の名で拠点を整備した。しかしこの制度は自由な経済的物流を実現する前段階のもので、明治8年に政府は改めて全国の陸運会社を解散させている。
道路や橋梁に関しては千葉県政でも重要視され、明治7年11月、柴原和県令により「道路橋梁修築の儀に付人民へ告諭旁(かたがた)布達」が出された。柴原はここで道路を修繕し、橋を架け、運輸の便を良くして「人民の公益」を興そうと述べている。その方法として県下の各大小区ごとに道路の扱所を設立し、区戸長をおき、一村一郷にこだわらず共同して道路修繕にあたる旨を記している。
柴原和(しばはらやわら)は、初代千葉県令(知事)である。オブローダー的に分かり易い話をすると、あの万世大路の三島通庸と同じポストにあった人物ということになるが、この時期の外房地方における道路整備はまだまだ従前の街道の修繕が中心で、大々的に新たな新道を整備するような段階ではなかった。
彼は明治8(1875)年に自らの県治の方針を述べた『県治方向』で、地形条件が悪い房総半島の道路整備の難しさを、次のように率直に述べており、これが当時の為政者たちの共通した認識だったのでは無いかと思う。「半島部の安房、上総は陸上交通の袋地であり、その国境はけわしい岩山をなし……他に倍する道路修築費を投じても、効果が挙がらない」。
明治9(1876)年に国の布告によって初めて国道、県道、里道という、現在に通じる道路の大きな格付けが誕生した。外房海岸の幹線は、旧来の伊南房州通往還から、県道である房総東往還へと名前を変える。とはいえ、名前だけで道路が整備されるはずもない。道路整備には多額の予算の確保を含む仕組みが不可欠だ。道路の格付けはあっても、費用捻出の仕組みが確定していない当時、各県令が独自に政府から国庫補助を受けたり、住民の寄附金(任意/強制)を集めたりすることで、各地個別の道路整備が進められているに過ぎなかった。
そんな、我が国の道路整備の仕組みがまだよちよち歩きであった時代に、我らが大風沢旧道は、周囲の大半の道に先駆けて誕生していく。
引用は、いよいよ核心部となる。
安房地方は山地が海に迫り、道路の開鑿、修繕は困難であったが、どうにか進められた。
明治15年ごろには内浦と天津を結ぶ天津新道の開鑿が始まったようで、天津村では新道開鑿を名目にくじ引きを施行したとして明治15年12月25日に前原警察署において罰金刑に処された者が出たと報道されている(注)。
この新道は明治16年11月9日に落成し、開道式が開催されている。
天津新道。
これが、大風沢旧道(仮称)の正式名か?!
シンプルだけど、字面も綺麗だし、いい名前だなぁ…。小湊新道か天津新道で悩んだのかな? 私もレポート執筆時に仮称を付けるために悩んだから、大風沢旧道にしたんだけどね。笑
そして、「新道開鑿を名目にくじ引きを施行」して罰金刑に処された者がいるなんて、和やかだなぁ。
くじの売り上げを工事費にしようとしたのか、はたまたそれを装った全然関係のない者の詐欺的行為だったのか。
『天津小湊の歴史 下巻』より
開道式は明治16年11月9日に行われたらしく、本編で繰返し引用した迅速測図が明治16年1月の測量だったといわれているので、同図で新設工事中という扱いになっていたのは納得出来る。微妙なタイミングで測量が行われたが、出来上がりつつある新道を目の当たりにした調査員たちは、今後何十年も国家の重要な基礎的データとなるはずの地図から欠落させることが忍びなく、凡例にない特別な方法で描写したのだと想像できる。
なお同じページに、「天津・内浦間の道路開道式」とのキャプションを付された右の画像が掲載されていた。(→)
現在確認されている天津新道の画像は、これ1枚だけである。新道そのものを撮したものがないのは残念だが、集合写真に写る人の多さに、式の盛大さや、新道への期待感が表れているようだ。
写真と一緒に文章が撮されているが、これはおそらく集合写真の裏面に当時書かれた説明文だ(裏書き)。
やや不鮮明な画像を拡大しての解読には苦労したが(高解像度画像はこちら)、概ね以下のように読み取っている。(Twitterにて後段の部分の解読にご協力下さった方々、ありがとうございました。)
維時明治十六年十一月十日写
当天津村内浦村間新道(神明鳥居前ヨリ小関谷ヲ経テ内浦塩谷ニ至ル)開鑿
落成ニ付同日開道式ヲ郷社神明宮境内ニ於テ執行
ス本県知事船越衛氏本郡長吉田謹爾氏、
夷隅郡長中村権左エ門氏、県会議員安田薫、同
永井謙三、梨慎吾、両村戸長、同村会議員、
学校教員、医師、新聞記者、等其他各村々
来賓参列シ式終テ後天津城戸町旅館港
屋庭内ニ於テ撮写ス
図に記すこの新道開通式に阿多里
御哥所の長福羽美静大人与梨
内浦のう羅屋すらけき新道に
國をとまする天津里人
後段の部分が崩し字の変体仮名遣いになっていて読み取り難いが、前段は平易で読みやすかった。
この写真裏書きを読み取ったことで、初めて新道の正式な区間が判明した。これは大きな成果だ。
すなわち、起点は天津神明宮の鳥居前(現在ある石鳥居のことだとすれば、ここ)、終点は「内浦塩谷」という地名で、内浦にかつて塩谷という小地名があったのだと思うが、現在の地名との対照が出来なかった。
しかし、「天津新道」というワードは、『天津小湊の歴史 下巻』の本文には登場するものの、この裏書きには「天津村内浦村間新道」という呼称しか出ていない。天津新道が正式名だったというのは、ちょっと性急か? これについては保留の必要があるかも知れないが、まあ私の仮称よりは根拠が太いかな。当時の呼称として間違いないといえるのは、いささか不格好だが、「天津村内浦村間新道」だけかもしれない。
裏書きの内容を解説したい。
明治16年11月10日に開催された開道式は、天津神明宮境内で盛大に執り行われ、船越衛・千葉県知事や、吉田謹爾・長狭郡長をはじめ、小湊の東側に隣接する夷隅郡の郡長や、千葉県の県会議員、天津村と内浦村の戸長および村会議員、さらに学校教員や医師といった当時の知識人、新聞記者らが臨席したという。
そして開道式の後、一同は天津村城戸町の旅館港屋(これも現在地は不明)の庭へ移って撮したのが、この写真であるというのが、前段部の内容だ。
読み取りの難しかった後段部は、「御哥(歌)所の長 福羽美静大人(「うし」と読む、尊称)与梨(より)」、開道式にあたり和歌を賜ったという内容。
その和歌は、「内浦の うら安らけき 新道に 国を富まする 天津里人
」というもので、天津の人々の尽力によって穏やかな内浦に通じた新道により、国が豊かになっていく……というような意味なのかな?
それにしても、開道式に県知事や郡長、県会議員までもが多数来賓しているというのは、鉄道のような高速交通手段がない当時としては、本道工事がいかに大掛りのものであったかを物語っていると思う。
一般的に、外房沿岸の全線を貫通する公共交通手段は、明治40年代に登場した乗合馬車が最初であり、その後20年ほどで鉄道の房総線が全線開通して、交通の王者となった。
乗合馬車の開通以前は、海路で浦々を結ぶ定期船が唯一の公共交通手段であったとされている。
天津新道は、周囲の陸路がまだ十分に発達していない早期に、いち早く整備されたとみられる。
具体的に、天津新道の終点である内浦・小湊からさらに東へ、あの「おせんころがし」を越えて、夷隅郡の興津・勝浦方面へ通じる区間は、迅速測図には影も形も存在せず、明治36年の地形図で初めて描かれているように、正式な開通年は未だ不明なものの、明治30年代に整備されたと考えられている。
また、起点の天津から西へ、館山方向へ通じる道を考えてみても、現在の鴨川市内の加茂川河口に架かる加茂川橋の最初の木橋は明治20年の完成で、それまでは船渡しであったという。
一旦、『天津小湊の歴史 下巻』の引用から離れて、もう少しマクロな視点から、この新道工事を捉えてみるとしよう。
天津新道が建設された頃の千葉県は、初代県令柴原和に代って第2代県令船越衛の県政であった。明治13(1880)年3月から8年半あまりと歴代官選千葉県知事で最長の任期を誇った彼は、同年代の知事中でも名知事と言われる多くの実績を残しており、中でも全国に先駆けた巡査在勤所制度(現在の交番の原点)の創設などが著名であるが、土木事業への積極的な財政支出を行ったことも挙げられよう。
船越県政の末期において、土木事業、特に道路改修への積極的な財政支出を行い、地方産業振興の基礎を築いたことも、その実績としてあげられる。道路橋梁費は、明治12年度および13年度では、軍隊駐屯地の佐倉町や県庁所在地の千葉町のある県北地域にもっぱら支出されていたが、14年度からは県内各郡に公平に配分され、そのうえ難工事の多い県南各郡には増額して配分される方式がとられた。軍事・行政優先から県内の地域経済の全般的な発展をうながす立場へ、千葉県の道路政策の基調が変移したのであった。
しかし、明治14年以降の松方デフレのもとでは、県当局としても道路費支出を抑制せざるをえず、道路網の本格的な整備に乗りだすのは、景気回復の兆候がわずかに見え始めた明治18年以降であった。同年度の予算に総額19万円にものぼる三か年継続費が計上され、道路改修の一挙完成がめざされたのである。
初代県令が道路整備の難しさを嘆いていた房総半島への積極的な道路投資を最初に行ったのが、船越県令であった。
そしておそらく、外房における難所開鑿の手始めとして、古刹誕生寺、景勝地鯛ノ浦への観光誘致をも念頭に置いた、天津新道の建設を行ったのではないだろうか。
だが、同時に松方デフレによる緊縮財政に突入した結果、後続する工事をすぐに行えなかったのかもしれない。これが外房における天津新道の先に続く道路整備が、少し遅くなった原因のように思われる。
余談だが、当サイトでかつて保台清澄連絡道路の名前で発表した清澄山中にある隧道多作の長大廃道には、「遠沢新道」という立派な正式名があり、開通時には船越衛知事が視察に来たという話を地元の方からメールで教わったことがある。あそこも天津新道と同年代の新道だったらしい。
加えて、先ほどの裏書きに名前が出ていた、長狭郡長の吉田謹爾という人物も、鴨川出身の地域リーダーとして大いに業績があった人物である。
明治30年に4つの郡が合併して安房郡が出来るまで、鴨川から天津、内浦、小湊の地域は長狭郡に属していた。吉田謹爾は後に安房郡となる4郡の郡長として明治29年まで長く辣腕を振い、政界を引退した後も企業家として当地方の発展に尽くしている。郡長時代の実績の一つには、内房海岸を貫く明鐘岬の新道開鑿も挙げられる。
さて、天津新道開通当時の状況を紹介し終えたので、今度は開通後に話を移す。
おそらく短命に終わったと推測されるだけに、いったい何が道に起こったのか、気になるところだろう。
明治30年9月1日の『万朝報』には「小湊より天津まで僅かに1里(この車貨25銭)途中2丁余のトンネルあり。天然の岩をくり抜きたるもの、薄暗くして気味悪し」と記されている。
……以上である。
これは結構重要な内容で、明治30年9月1日現在では天津新道が健在で、おそらくまだこれに代る海岸沿いの新道(実入隧道)は開通していなかったということだろう。
『万朝報(よろずちょうほう)』というのは、新聞の紙名だ。(「三面記事」という語の由緒として知られる)
しかし、華々しい開道式の後に続く記述としては、いささか少ない。
なぜ短期間でこれに代る新道が整備されたのかということについて、同書には全く触れられておらず、その他の文献も可能な限り探してみたのだが……、むしろ現在も普通に使われている実入隧道の方が、整備された経緯や正式な開通時期に関して全く記録に乏しく謎が多いことが分かってしまった。
右図の通り、明治36(1903)年の地形図には明瞭に実入隧道がある海岸道路が完成していて、これはそのまま「おせんころがし」を通過し、勝浦、そして大原方面まで外房縦貫を実現している。
よってこの道路こそが、外房の車両交通に一大画期をもたらしたものであるに違いないのだが、「おせんころがし」の机上調査でも苦しんだ通り、なぜかこの道の整備に関する情報が、沿道各地の地方史に見当らない。
今回の現地探索で、天津新道が短期間で旧道となって廃止されてしまった経緯について、いくつかの可能性は述べたと思う。
まずは、勾配が全般に急であったということ。
そして、峠の隧道の地質が悪く、崩壊が起こったのではないかということだ。
どちらも可能性としては十分あるが、より深刻そうなのは、やはり勾配の問題だろう。
『千葉県安房郡誌』より
実入隧道の道(現在の国道)は海岸沿いへ迂回しているが、ほとんどアップダウンがない。
その割に、2本あった隧道は1本に減少し、隧道の総延長も短くて済んでいる。
ぶっちゃけてしまえば、設計の段階で勝敗が決していた気さえする、良好なルートだ。
天津新道が整備された当時は、前後にまだ車道らしい車道があまりない時期だったから、急勾配も受忍されていたのだろうが、時代が進み、来たるべき次世代の車両交通である自動車の導入を念頭に置いたとき、急勾配区間の連続はいかにも改修が面倒で、古道をある程度活用できる海岸ルートを用いた新道整備に白羽の矢が立ったのだと推測することは、十分に可能だ。
もっとも、先の『万朝報』の記録には、「車貨25銭」という記述があるので、当時天津新道を人力車が通じていたことは確かだろう。慣れていたにしても車夫は大変だったろうな。
右図は、大正15(1926)年に安房郡教育会が刊行した『千葉県安房郡誌』に附属している地図の一部だ。
この地図には、年代的には「なぜか」ということになるのだが、天津と小湊(当時は天津町と湊村)の間の「県道」が、明らかに天津新道の位置で山越えするように描かれている。
ただそれだけで、実際はすでに海岸ルートが使われていたと思われるが、地形図からはとうに消滅していた古いルートが随分遅くまで残ったケースである。
このほか、天津新道の現役当時の記録と呼べるものを探していくと、すでに冒頭で紹介済みだが、『歴史の道調査報告書』にあった、「明治29年に房州を訪れた邨岡良弼が「小半里穿隧道、則天津村」と記している
」という一文も捨てがたい。明治29年当時は、やはりこの道が使われていたらしい。
(もっとも、この記述も万朝報も、実入隧道の道に関する内容だとしても矛盾がないという問題が一応あるが、そこはまあ、それぞれの引用を行った著者を信用しよう)
さて、一応探索した道が作られた経緯は分かったし、廃止の経緯も推測とはいえ矛盾なく語れたと思う。
まあこんなもんかな〜といったところなんだが、もう少しだけ話は続く。
調べを進めていくと、ちょうど良い時期に、有名な文人が、この短命であった天津新道を通過し、記録を残していたことが判明したのである。
その人物とは、正岡子規(1867-1902)だ。
当サイトとの関わりでいえば、我が秋田県と岩手県の境にある山深い笹峠を、湯田温泉郷を目指す旅の途中で明治26年に越えた記録があって、地元では“子規古道”とも称している。
天津新道を越えたのは、その2年前の明治24(1891)年の春だ。
子規は明治24年3月25日から4月2日にわたって8泊9日、おおよそ250kmの行程で房総半島を巡る旅行を行っている。このとき23歳で帝国大学在学中だ。
旅の途中の3月29日、小湊から天津へ越える際、現役だった天津新道を越えているのである。
彼のこの旅の紀行を、『かくれ簔(みの)』『隠蓑日記』『かくれみの句集』の3編(それぞれは、旅の総評である短文、漢文による紀行日誌、句集)としてまとめ(後年に総括して『かくれみの』と呼ばれる作品集)、これを第一中学時代からの同級生で、生涯にわたって親交を深めた夏目漱石(1867-1916)に宛てている。
漱石は、子規に先駆けての明治22年8月7日から30日まで、22歳のときに房総一周旅行を行い、漢文による『木屑録』(ぼくせつろく)という紀行をまとめて、子規に送っている。(当初は公表の意図なく子規への私信としてまとめられたものだったが、今日では漱石の最初期作として知られている)
子規はそこに描かれた鋸山(日本寺)や小湊(誕生寺)などの景勝地の描写や、彼一流の筆致に魅せられて、自らも房総旅行を決行して漱石に紀行を送りたいと志したのであった。
漱石は、この旅行で明鐘岬の新道を歩き、そこにあった隧道を見て、大いに激賞している。
このことが、天津新道の隧道へ子規の意識を向けさせた可能性はあるかもしれない。
また逆に、おそらく漱石も房総旅行の途中で、子規に先駆けて天津新道を通過していると思われるのだが、『木屑録』にはこの区間の行程に関する記述はない(保田の次は小湊の記述となる)。
さて、ここからいよいよ子規が記した内容に入るわけだが、実は彼が完成稿とした『かくれみの』には、天津新道に関する記述はない。
記述は、『隠蓑日記』の草稿にのみ存在する。
草稿を漱石が見た可能性は低いので、天津新道に関することは、子規の中ではそれほど重視されなかったのだろう。
ではこの草稿だが、平成14(2002)年に崙書房が出した『かくれみの街道をゆく 正岡子規の房総旅行 山はいがいが海はどんどん』(著者関宏夫)に収められているのを見つけた。
副題になっている「山はいがいが海はどんどん」は、山行がとの関連性はなく(?)、原作の『かくれ簔』の文末にある「房総には何事かござる、山はいがいが海はどんゝ。菜の花は黄に、麦青し、すみれ、たんぽぽ、つくゞし」から来ている。意味は、「山はたいそう荒々しく、海は大波はうちくだける」で、山容が鋸状を呈する鋸山と、高波が押し寄せる外房の外洋の印象を形容したものとされる。
前置きがとても長くなってしまったが、それでは今度こそ、子規が明治24(1891)年3月29日に小湊から天津へ越えた天津新道の部分の草稿を、お読みいただきたい。
『かくれみの街道をゆく』より
(旅の途中で撮影された子規の旅姿)
小湊町誕生寺ニ至ル 内浦湾ニ臨 怒濤岸ヲ打ツ 今迄の董蒲公英ニ反シテ更ニ壮観ナリ 余ハ宇悲しき感ありき。町稍尽処にて寿しヲ喫ス(一軒家) トンネルヲくらやみに紛れて出て行く事半里天津ナリ 日已ニ暮ル……
たいそう引っ張った割には、特別珍しい感想が述べられているわけではないのであるが、「トンネルヲくらやみに紛れて出ていく事半里天津ナリ」というこの記述は、現時点で確認されているもので最古の天津新道の通行記録となっている。敢えて隧道ではなく「トンネル」というところに、当時のヤングの気鋭が見えるような…。それはさておき、マイナーだと思っていた天津新道のことを、こんな教科書常連の有名人が書いていたなんて! (それなりに人口に膾炙している完成稿にこの記述が生き残っていたら、少しは文学の名所になり得た……か?)
そして素晴らしいのがこの先だ。
『かくれみの街道をゆく 正岡子規の房総旅行 山はいがいが海はどんどん』は、単なる文学の解説書ではない。著者の関宏夫氏は本書テーマとして、当時の房総の風俗や交通に関する内容の検証を挙げている。まさに「山行が」向きの一冊なのである。
小湊の誕生寺から天津まで約4km。外房線安房小湊駅の天津寄りに当時の道がある。外房線の大風沢トンネルの上を歩くような道だ。山道が極まったところにトンネルがある。子規は「トンネルヲくらやみに紛れて」通った。このトンネルは崩壊して、天津側に口を開けている。このトンネルは明治16年11月に完成した。天津と内浦間の新道開削にあたって掘削されたものである。開道式には県知事の船越衛も出席した。このときに撮影された写真の裏に、「内浦のうらやすらけき新道に国をとまする天津里人」の歌が添えられており、道路行政が重要な位置を占めていたことが判かる。
このトンネルについて、明治30年9月1日の新聞『万朝報』には「小湊より天津まで僅かに1里(この車賃25銭)途中2丁余のトンネルあり。天然の岩をくり抜きたるもの、薄暗くて気味悪し」と記されている。小湊の内浦よりのトンネル入口は崩壊している。天津寄りは口を開いている。戦後しばらく農林業の作場道として通ることができた。どちらの側からもこのトンネルに至る道はなかなか険しいのである。それでも「2丁」(約200m)のトンネルは長い。提灯かランプを持たなければ不便であったことは想像にかたくない。
天津寄りの入口には茶店があったことを耳にしたことがあると、付近で山林の伐採にあたっていた方の弁である。
子規の歩いた明治24年のころの房総の道は、それまでの村と村を結ぶ生活の道から、産業を支える動脈へと転換する過渡期にあったことが様々な事象から見えてくるのである。
天津寄りのトンネルの入口から沢沿いをくだって外房線を渡り、神明神社の脇をぬける。「半里」ばかりゆくと今日の宿、天津の「野村」につく。
平成14年に出版されたこの本のための現地調査がいつ行われたかは分からないが、著者の調査が完全に私の先を行ってしまっていて、私は結局この本1冊を読めば済むだけのことを、あれこれの資料から集めていたことに気付かされた。まあ、この逆の順序であったら調査は他力本願に過ぎただろうし、楽しんだという意味では、私も負けてはいないが。
しかし、解読に手こずって読者の皆様のお手まで借りた開道式の和歌の全文も判読できたし、当時既に東隧道の東口は埋没していたことも分かったな。
興味深いのは、著者が現地で聞き取りしたと思われる2箇所の下線部だろう。
戦後しばらくは作業道としての利用があったというのは、隧道も含めてだろうか。だとしたら、廃止後も随分長く通り抜けできたことになる。
また、天津寄りの入口に茶店があったという伝聞の話も興味深い。
ただ、彼の調査では(そして、これまで目にしたいかなる文献においても)、なぜか、隧道が2本あったという内容が欠落している。
1本か2本かは、文学においては重要ではないということなのか。
それでも、『かくれみの街道をゆく』の現地調査では、隧道が2本あることに触れていても良さそうだが……。
あるいはもしかしたら、2本の隧道に挟まれた、到達には尾根越えを必須とする中間部の明り区間の存在が無視されて、東隧道の東口と西隧道の西口を繋ぐ1本の(2丁どころではない長さの)隧道が考えられたものだろうか。この点は疑問が残っている。
……子規も2本潜ったなら2本潜ったと書いてくれたら良いのにぃ。
幻の明治県道こと、「大風沢旧道」改め、天津新道のお話しは、ひとまずのところ以上である。
この道の存在を迅速測図で知ったときは短命すぎて心配になったが、机上調査の結果、たとえメインで活躍した期間は短くても、ちゃんと必要とされて大勢の人たちが愛用したのだと理解できた。良かった良かった。
しかし、思い残すことといえば、やはり西隧道の内部が気になるな。…私の前年に入った人がいると聞いたぞ、読者コメントで。(アレに入るとかネコマタスかよ…)
でも私としては、敢えて内部を詳しく知らないままで再訪したい。 あれの底も気になるしな。 続報を待たれたし!