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道路レポート 岡山県道437号下郷惣田線 後編

所在地 岡山県高梁市
探索日 2022.02.21
公開日 2025.01.15

 長期通行止区間の迂回路の様子と、私の大好きなもの


2022/2/21 13:35 《現在地》

通行止区間の起点側に設置されたバリケードを振り返って撮影。
作りも、新しさも、終点側にあったものと全く同じである。設置されている看板の内容も、ほぼ同じ。

チェンジ後の画像は少し退いて撮影したもので、こちら側は分岐地点となっている。
そしてここにも中国自然歩道の道標が設置されていた。

なお、長期通行止が開始された翌月である2014年1月に撮影されたストビューを見ることができるが、当時はこのバリケードはなく、400mほど先の【発電所入口の分岐】まで行くことができたことが分かる。



バリケードを背にして、分岐地点を撮影。
県道は左の道で、ここまでの上り坂をそのまま引き継ぐように、いや、それ以上に勾配を加えながら登っていく。
また、道幅も一段と狭く、長期通行止である区間以上に険悪そうな道だ。

一方、右の道は高梁市の市道笠神線といい、新成羽川ダムを経由して対岸の県道107号へ抜けることが出来る。
今しがた突破した県道437号の長期通行止区間を迂回し、その起点と終点を最短距離で結ぶ経路となる。
また、中国自然歩道もこちらの道である。

私は当初の計画通り、県道437号の走行はここで打ち切り、市道笠神線へ入った。



これは、私が進まなかった県道の進路を、分岐地点から覗いて撮影した2枚だ。
この先も2014年1月に撮影されたストビューで疑似旅行できるが、起点である高原上の平川まで下郷川の狭く険しい谷を登って行く険しい県道である。

そして、探索したこの日は、この区間もたまたま「工事中」とのことで「通行止」になっていたが(バリケードが奥に見える)、こちらの通行止の理由は「道路の幅を広げています」というもので、翌月31日に解除されているから、ここまでの長期通行止とは事情が異なる。
というか、新規で拡幅工事を行うくらいだから、少なくともこの県道の南側半分については、県も県道としての整備を諦めるつもりは無さそうである。
果たして、この拡幅工事の先に見据えているのは、長期通行止県道の再解放か、はたまたこれから紹介する迂回市道を活用した整備なのか。



右折して市道笠神へ入ると、少し下ってすぐ下郷川の底を均した公園然とした平地に出会う。
ここに改めてAバリが設置されており、結果的にこれが一連の探索で通り抜けた最後のバリケードとなったが、このバリケードの趣旨は長期通行止区間に関するものではなく、前述した拡幅工事に関わるものであった。

そしてこのとき……(↓)



うお〜〜〜!

めっちゃぐねぐねした道が、眼下の下郷川の谷底を蛇行して下りていっているのが見える!

なんだこれ?! こんな激しい九十九折りの道、最新地形図にも描かれてないぞ。



13:38 《現在地》

この公園然とした平地の正体は、新成羽川ダムの工事用地として埋め立てられた下郷川の谷である。
工事中は巨大なコンクリートプラントをはじめとする様々な工事施設が谷を埋め尽くしていたが、完工後は植樹されミニ公園となった。
広場の中央には一連のダム工事の沿革と、それに伴う水没移転集落について記した「水没記念碑」が設置されているほか、中国自然歩道の大きな案内板も設置されている。

一段と強さを増して降りしきる雪の中、冷たい水に沈んだ故郷のことを想像するのは、それが他人事だとしてもつらい。早く車通りのある場所へ抜け出したい気分になった。



水没記念碑のある広場でも道が二手に分れており、市道は道なりに進めば良いが、そこに「大型貨物自動車等」と「大型乗用自動車等」の【通行止標識】が設置されており、この先の区間はこれらいわゆる大型車は通行できない。したがって、長期通行止区間の市道を利用した迂回は、これらの車種の場合不可能である。

分岐の右の道が、先ほど見下ろして驚いた物凄い九十九折りである。最新の地理院地図にもまだ反映されていないこの道は、入ってすぐにチェーンゲートが閉じており、いかにも私有地らしい10km制限の速度標識が設置されていた。その下って行く先は、明らかに新成羽川発電所であり、その新たなアクセス道路として設置されたものだった。
同発電所への従来のアクセスルートは【長期通行止区間内で分岐】していたので、新たなアクセス道路を整備したのだろう。

前後に恒久的なバリケードを設置するのみならず、こんな大掛りな新道まで作っているとは……。
ますます、長期通行止区間を復活させる意思を県は持ち合わせていないものと勘ぐってしまう。



市道笠神線をひとしきり登っていくと、最大高さ3.5mの規制標識を有する狭隘なトンネルが現れる。
現地に名称を知らせるものはないが、資料によると笠神隧道といい、竣功は昭和43(1968)年、全長は27.3mである。
この竣功年は新成羽川ダムと同年であり、トンネルを潜り抜けるとそこは……



13:41 《現在地》

直ちにダムの堤上路であった!

堤頂長289mの天端部は、そのまま市道笠神線の一部として供用されている。
田原ダムとは異なり、堤上路が弓なりのカーブを描いていることが、アーチダムを物語る。ただしこのアーチは国内に12基しか存在しない重力式アーチダムであり、アーチダムと重力式ダムの中間的な構造となっている。そして本ダムは、重力式アーチダムとして国内最大の規模を有している。

高さ103mのダムが成羽川を堰き止めて誕生した湖には備中湖の愛称が与えられているが、その湖面は15km近くも続き、途中からは旧備後国である広島県域に掛かる。当然、中国地方では有数の貯水量となっており、その水は発電のみならず、下流の水島工業地帯の工業用水として欠かせないものである。まさに、岡山県経済の縁の下の力持ちといえる、人の英知の結晶であった。



堤上路の始まりのところに、中国電力から、堤上路の利用者へ向けた、驚くべき「おねがい」が掲示されていた。

「恐れ入りますが 大型バスに乗車 のお客様は重量 制限のためダム の上を歩いてお 渡りください。」

こんなことをお願いされても、そもそも大型バスの運転手がバスを停めて乗客にこれをお願いしなければ、誰も下りては歩けない。お願いする相手が違っている気がする。それはともかく、今まで多くの堤上路を目にしてきたが、初めて見る種類の「おねがい」だ。

通例として、この手のダム堤上路は、道路法における道路とダムの兼用工作物になっており、道路管理者とダム管理者が協議のうえ個別に管理のルールを作っていることが多い。本ダムでは、以前は大型バスの通行が許可されていたのだろうか。現在は前述の通り【通行禁止】となっている。
実際に通行した実績があるのかも不明だが、もしバスから下りて歩かされたという経験をお持ちの方がいたら、ぜひ教えて欲しい。(他のダムでも良い)



高い転落防止フェンス越しに眺めた、ダム下流の田原ダムに繋がる湖面。
右岸に見える道が、先ほど突破した県道437号であり、見えている範囲は全て長期通行止区間である。
このくらい離れて見る限り、全く荒れている感じはしないし、現役の道との見分けがつかない。
ただただ、降りしきる雪が冷たく、風が頬に痛かった。



ところで、このダムには、個人的に、大変好みな、“ある装置”が、存在している。

そのことを私は事前には知らなかったので、たまたま遭遇したときには、「おおっ」となったのであるが。

この写真から、それが何か何かお分かりだろうか。



これは、もう少し分かりやすい……というか、端的な写真である。

レールが、写っている。

しかも、なぜか1本だけ、堤上路の外側に……。

これは、いわゆる“せんろ”を使った鉄道のメカニズムに属する、ニッチなもののひとつである。



この堤上路で私が出会ったものは、ガントリー・クレーンであった。

これはレールの上を移動可能な構造を持つ門形の大型クレーンで、このダムでは堤上路を走行し、堤体に設けられた複数の取水口ゲートを捲き揚げによって開閉する役割を担っている。
チェンジ後の画像に赤矢印を付した部分に左右のレールが敷設されており、移動するガントリークレーンの本体が黄色い部分、ケーブルで上げ下げされるゲートがピンク色の部分である。

つまり、このガントリークレーンは、堤上路の頭上を走行する!

大好き!!!



私も特別に詳しくはないが、ガントリークレーンによってゲート開閉を行うダムは、長野県の西大滝ダムなど他にも見たことがある。
だが、堤上路の上に跨がる形でガントリークレーンが設置されているのは、(今までそれと意識せずに素通りしていたかも知れないが)初めて見た。
これは、鉄道好き……いや、メカ大好き男子オヤジとして、とてもドキドキする機構である。
水門の開け閉めの度に、道の上をこいつがノロノロと自走し、ギリギリとした捲き上げを、間近で観察できるのだろうから。
きっと動いているところを見た人も沢山いると思うので、どうか報告をお願いします。

好きな人向けに、本機に取り付けられた諸元の銘板画像、置いておきますね。



13:46

289mの長い堤上路に待避所はないので、車で通行しようとするなら、進入前にアーチカーブを描く道の先までよく睨んで、進入したら一気に通行するのが良いだろう。
渡りきると、直ちに県道107号と接続している。
特に案内板なども無い。
中国自然歩道の一部になっているとはいえ、ダムの周辺はほとんど観光地然とした余興のない空間だ。
しかし、見せるために飾っていないこのリアルさを好ましく感じる人は、当サイトの読者ならばむしろ多数派ではないかと思う。



成羽川というか、連続するダム湖の右岸をひた走る県道107号奈良備中線へ出た途端、お馴染みの黄色い道路パトロールカーが通り過ぎていった。
最近、探索中に妙によく出会う気がするのは、目を付けられているのか。←過敏になっているだけだと思うぞ(笑)。
県道437号の長期通行止区間を迂回して平川へ向かうためには、ここを左折して堤上路を進む必要があるが、特に案内標識は見当らない。

だが、チェンジ後の画像で拡大表示したように、ここに県道437号の拡幅工事による通行止の案内があるので、一応はここを迂回路としての想定がなされていることは窺えた。
ちなみに、この工事看板にある地図だと、長期通行止区間は、道自体が既に描かれていなかった……。



アーチダムのスマートさと、重力式ダムの剛健さ、その両方のメリットを併せ持つ新成羽川ダムの勇姿である。
私が萌えたガントリークレーンは、このダムの中央部分の水門が並んでいる範囲を行き来するように作られている。
つうか、雪が止まない。まだ探索中なのに積もる気なんか、これ……。



県道437号の迂回路チェックとして、引続き、長期通行止区間の対岸の県道107号を走行する。
今度は下りがメインになるので、ペースはとても速い。
道幅も437号よりも余裕があり、センターラインこそ敷かれていないが、大部分は2車線幅であった。
地形条件は県道437号と同じくらいに厳しいが、整備状況的に、迂回路としては及第点以上だと思った。

そんな道をダムから300mほど下った所に、小さなロードサイドパークがあった。
そしてそこには、ダム建設によって失われた、ある歴史的遺産の“名残”が、置かれていた。



13:50 《現在地》

国指定史跡 笠神の文字岩

この文字岩は、鎌倉時代の徳治2(1307)年に成羽川の上流、笠神の竜頭の瀬を中心に、上下十余カ所を掘削し船を通した船路開削工事の記念碑で、わが国の水運開発史上最古のもので極めて貴重な史跡です。
備中北部は古代以来、砂鉄の生産を以て知られ、ここから山を北へ越えた神代、野部(現在の神郷町、哲多町)は建仁2(1203)年に伊勢内宮の御厨となって鉄3000挺を内宮に送っていたと言われています。
この鉄は、八鳥(現在の哲西町)に集められ、険しい山道を2日がかりで成羽へ運ばれ、そこから船に積みかえられて川を下っていました。陸路は、距離(28km)が遠いのみならず、急峻な山道でたえず危険にさらされていました。笠神の瀬を船が通れるようにすれば、八鳥から小谷までは陸路を運び、そこから船で下ることができ陸路約20kmが短縮され半日あれば運べることになります。
このことから笠神の瀬の船路開削は、当時の人たちの悲願であったといえましょう。
(中略)
文字岩は、昭和43(1968)年の新成羽川ダム完成に伴い眼下の湖中の中に沈み、今ではその姿を現わすことはありません。

現地案内板より

……という、トテツモナク古い時代の船路開削記念碑のレプリカであった。ここにある文字が刻まれた大岩の正体は。

なお、別の資料によると、ダムに沈んだ碑には、工事関係者の名前や、神仏の助けを願行して十余ヶ月の苦心の末に完成したことなどが刻まれているといい、昭和16(1941)年に国指定文化財になったものとこであった。




『岡山県の歴史散歩』(山川出版社)より

今日では見ることができなくなったという「笠神の文字岩」、せっかくなら見てみたいよね。

というわけで、少し古い資料から写真を見つけてきた。
これは、昭和51(1976)年に発行された『岡山県の歴史散歩』という書籍に掲載されていた写真で、矢印の位置の岩がそれであるとのこと。

確かに、何やら文字が刻まれている様子が分かるが、岩の全体はレプリカより遙かに巨大である。
そもそも、行き交う川船に読んでもらうために、川底の巨大な岩に刻まれたものであったから、これをそのまま別の場所へ移設するのは困難だったのだろう。

移設が容易ではなかったとはいえ、そして、いくら地域発展のための大事業遂行のためであったとしても、日本交通史上における貴重な“石証人”である国の文化財が躊躇なくダムに沈んでいる辺り、昭和40年代の日本の開発偏重というか、とにかくイケイケ感が伝わってくるようだ。
きっと、両岸に付替道路を整備したのも、そんなイケイケの流れであったのだろうと予想した。



笠神の文字岩を通り過ぎてなお下ると、田原ダム湖の両岸の近い高さに、県道107号と437号が綺麗に並走するようになる。
長期通行止である対岸の道を見ても、ただ車通りが全く見えないというだけで、特段荒廃しているようには見えない。

……まだ、今のところは。


果たして、この塞がれている県道は、これからどうなるのか。
また、どんな経緯で誕生した道だったのか。
この辺のことを、帰宅後に少しだけ調べてみた。



 ミニ机上調査編


まずはいつものように、歴代地形図のチェックだ。あわせて、『備中町誌』の記述を参考にした解説も行う。

@
明治31(1898)年
A
昭和21(1946)年
B
昭和39(1964)年
C
昭和44(1969)年
D
地理院地図(現在)

@明治31(1898)年版を見ると、早くも成羽川の左岸谷底近くを通る「里道(達路)」の二本線が描かれている。この図中では最も上級の道である。
これは当時、里道東城往来と呼ばれ、成羽川沿いに東城へ通じる幹線道路として重要視されたもので、明治32年には成羽東城間が馬車道として結ばれた。現在の県道107号奈良備中線の前身である。

また、図中の黄○と赤○の地点には、現在の地形図では見慣れない渡し舟に関係した地図記号が描かれている。黄○のところにあるのは「人馬渡」の記号で、人だけでなく牛馬が利用できる規模の渡船を示している。赤○の地点にあるのは「舟楫による通船」の記号で、これは渡船ではなく、川を上下に行き来する通船港の存在を示している。当時の成羽川には河口からこの田原下まで高瀬舟を利用した河川交通が存在した。(笠神の文字岩によって記念された上流の通船は明治期までは存続していなかった)

さらに、後の県道437号のうち、下郷川沿いの区間の前身道路も既に「里道(間路)」といて描かれており、これは笠神の成羽川べりで前述した「人馬渡」によって対岸の東城往来と結ばれている。この下郷川沿いの道路は当時、里道福山往来と呼ばれており、南は平川を越えて、遙か南の瀬戸内海沿岸の福山まで伸びる高原の道だった。

A昭和21(1946)年版では成羽川沿いの道路はさらに太く「県道」として描かれるようになっており、下流では通船に代わる存在として軌道の記号(吉岡鉱山軌道、明治41年開業)も見える。
また、成羽川は県内で最初に本格的な水力発電が行われた河川であり、右岸には導水路(水色に着色)とともに、県内最古の発電所である笠神発電所(明治36年運転開始)の姿が見える。図外だが、さらに下流に成羽川発電所というのもあった。

成羽川地域の近代化に大きな役割を果たした吉岡鉱山だったが、戦後は衰微し、地域の発展のため、より大規模な開発計画が県の主導で推し進められた。それが従来の成羽川発電所に代わる新成羽川発電所計画ならびに水島工業団地への工業用水計画であった。
B昭和39(1964)年版は開発前夜の模様を描いており、地図中の道路は@やAまでと大きくは変わっていない。

それが5年後のC昭和44(1969)年になると、成羽川を堰き止める田原ダムや新成羽川ダムが誕生し、従来左岸にあった明治以来の県道は完全に水没した。当然、水没補償として左岸に長い長い湖畔道路が整備されたが(現県道107号)、従来は道路がなかった右岸にも立派な車道が建設されている。これが後の県道437号である。
水没補償の原則や交通量からすれば、付替道路は片岸だけでもおかしく無さそうだが、両岸に車道が整備されたのである。
その経緯は不明だが、やはり当時のイケイケぶりを反映したのだろうか。

これに関して、読者からの情報提供ならびに昭和46(1971)年の文献により、【水没記念碑】の近くに観光施設「備中湖畔センター」が存在したことが判明しており、国内最大の重力式アーチダムとして登場したダム一帯を観光拠点化する動きが当時あって、その一環で右岸道路は整備されたのかもしれない。なお、湖畔センターの建物は既に取り壊されているようだ。

開通時点では県道ではなかった右岸道路は、昭和51(1976)年2月20日に、現行の県道下郷惣田線へ昇格している。
この認定の経緯についても『備中町誌』発行以後の出来事であることもあって文献が見当らないが、中国地方の道路について多くの情報を発信されておられる深津安那氏のサイト「ちゅうごくDrive Guide」のページ「(2019年1月3日公開)今年期待されること・今年注目したいこと」に、当路線について、「6期24年の長きにわたって岡山県知事を務めた長野士郎(知事在任期間:1972〜1996)が展開した市町村道の県道路線昇格政策で発足した路線であり」として、知事の強い開発指向を背景に認定された県道であることが示唆されている。


経緯はともかくとしても、元よりダム建設の水没補償として整備されたという素性の良さやもあって、はじめから比較的良く整備された道路ではあったように思う。
今回通行した実感としても、鋪装だけでなく落石防止柵などの安全施設も多く整備されており、これよりも整備状態の劣る県道はいくらでも各地で現役だ。
また、長期通行止の原因となっているとみられる【落石の現場】も確認したが、既に仮復旧は済んでおり、その後さらに大きな追加の落石も発生していない様子だったから、本復旧を行おうと思えば十分可能な状態と見えた。

にもかかわらず、本編執筆時点では既に通行止が丸11年目に及んでいるのである。
そのうえ、現地探索で判明した通行止の長期固定化が窺える状況として、通行止区間の両側には大掛りな恒久的バリケードが設置されているほか、新成羽川発電所への進入路も同区間を経由しない新道が新たに整備されていたのである。


果たして今後、この区間の扱いはどうなるのだろうか。

20年、30年と、これからも県道のまま、封鎖され続けるのだろうか。 →パターン(1)

それとも、封鎖区間の県道を廃止して、代わりにダム上の市道笠神線を県道に昇格させるのか。→パターン(2)

あるいは、思い出したかのように現道の復旧が行われ、県道として甦るのだろうか。→パターン(3)

はたまた、心機一転、面目躍如、大々的に改良された新道として復活を遂げるのか。→パターン(4)

パターン(1)から(4)まで、対応としての積極性が低い順に並べたが、皆さんはどうなると思うだろう。


本路線の答えはまだ明らかでないが、実はこれと似た境遇を経験した県内の県道で、既に結論が出されたものがある。
ひとつは、前編冒頭でも名前を紹介した、2009年から落石による長期通行止が続く、いわば本県道の“通行止の先輩”にあたる道「岡山県道50号北房井倉哲西線」であるが、なんと、同路線は2024年3月に、パターン(4)に近い形での復活を実現させている。(→詳しい内容はこちら
通行止15年目にしての県道復活であった。

また、こちらは私は現地を訪れたことがないのだが、岡山県道57号総社賀陽線の豪渓附近での長期通行止の事例もあった。しろ氏の「廃線隧道【BLOG版】」の記事「岡山県道57号線・豪渓隧道」によると、この区間の県道は2003年から2011年まで土砂崩れによって長期通行止となっていたが、隣接する町道を整備後、案内標識ではそちらを県道の代替のように案内しつつも、県道自体は旧位置のまま復旧して解放してあるとのことだ。前掲の4パターンに照らせば、パターン(3)が近いだろうか。

上記の2例では、ともに県道は復活を遂げている。
近年の事例から私が探した限りにおいて、車道として解放されていた県道が、長期通行止の末に復旧や代替の新道の整備なく廃道とされた事例(パターン(1)や(2))は、岡山県内において、まだ確認していない。
そのうえで、県道437号はどのように処置されるのか、とても気になるところである。

なお、県道50号の事例では、長期通行止中に地元自治体から県に対し復旧について要望や、今後の見通しについての問い合わせなどの働きかけが行われていたことが、新見市議会の会議録から見て取れた。一方、県道437号下郷惣田線については、岡山県議会の会議録を検索した限り過去一度も取り上げられていないようであるが、地元の高梁市議会の会議録を見ると、令和2(2020)年に言及があり、「今は生活交通としても活用している、またダムへのさまざまな物資輸送の大事な路線として下郷惣田線というのは私どもは捉えておりますので、ここもあわせての改良ということについて(県に)要望をさせていただいているところでもございます」という市長の答弁があったから、まあ全く無視されているわけではないようである。




県道が崩れたら、管理者の県は出来うる限り速やかに復旧して解放する。
それは道路法が定める道路管理者の責務であるが、実際はそこで立ち止まって考える余地がある。

わが国の通例として、一度は県民の要望を容れて認定した県道を、建設工事中の中止ならばともかく、開通後に、改めて維持費と便益を秤にかけて、(一部区間であっても)道路自体を廃止するということは、かなり稀であるようだ(大嵐佐久間線は数少ない実例といえだろう)。
それだけに、災害による通行止という出来事が、便益の点で優等生とはいえない県道への支出を一時的に緩める機会として、利用されているという側面があるのかもしれない。

わが国で、国道が最後に追加されたのは平成5(1993)年のことであり、以後路線の追加はない(もちろん廃止もない)。
一方、都道府県道についてはその後も徐々に追加が行われており、また一方で廃止されている路線もある。
本格的な人口減社会となれば、将来的に地方部を中心とした大規模な路線削減は避けがたいようにも想像するが、まだそういう議論は聞こえてこない。

いずれにせよ、本県道の通行止がこのまま長く続けば、自然荒廃により、その後の復旧がますます困難になることは明らかだ。
そうすれば、議論のないまま、なし崩し的に廃道を選ばざるを得なくなるのではないだろうか。
いろいろ検索をしてみても、そもそも長期通行止であること自体が、あまり話題にされている感じのしないこの県道。Wikipediaでもスルーだしね。
もう少し認識されて、今後の処遇について、まずは県民の議論の俎上に登ることが必要なのかも知れない。 (え? 興味が無い……?そんなこといわないで…涙)






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