国道17号旧道 二居峡谷 第5回

所在地 新潟県南魚沼郡湯沢町 
公開日 2007.10.17
探索日 2007.10. 8

 「白崩れ」 その先へ

 活動を停止した 大崩崖 




アーッ!





 2007/10/8 15:06 

いてーッ!!

こ、転んじまった!
行く手に現れた「白崩れ」が余りに高く、呆気にとられるように見上げて歩いていたら、何かに足が引っかかり、バランスを崩し、真後ろへ尻餅をつく感じで豪快にひっくり返った。

…こんな写真まで撮っているとヤラセっぽいかも知れないが…

   マジだ。


 しかし、危なかった…。

訳も分からずひっくり返ってしまって、それでも後頭部だけは咄嗟に腕で護った。
そして、重力による運動が制止したのを感じた刹那、むっくりと上半身を起こしてみれば…。
私の転がった場所は、殆ど路肩すれすれだった。

左の写真は「手がイテーよー」と思って撮影したのだろうが、図らずも背景に寒そうな谷が覗いている。
あと50cmずれていたら、そのままコンクリートの擁壁から10mも下に、愉快な後転のまま落ちていっただろう。


 この野郎だ。
この野郎に俺は足を取られたんだ。

なんでこんな所に穴が開いてるんだよ!


 覗き込んでみると…(画像にカーソルを合わせてね)… 深い!

良くは分からないが、先ほどの「奇跡の石垣」の件もあるし、長居は無用のようだ。




 おそらく、この藪の向こうが白崩れだ。

右側から灌木を満載したような斜面が押し寄せてきて、みるみる広かった道幅を浸蝕してくる。

左はコンクリートの駒止が延々と連なる擁壁で、逃げ場はない。




 遂に平坦な場所は無くなり、路肩まですべてが斜面に覆われる。

斜面の色は確かに白く、確かにこれが「白崩れ」なのだと納得できる。

その崩壊の上限は遙かな稜線にも達そうとしており、痩せ尾根の上には僅か数本の立木が見える。

白崩れは、既に崩壊の大部分を終えており、ほぼ安定斜面に移り変わっていた。

それは、老いたる崩壊地の姿だった。




 ここに崩壊の芽が生えたのは、いつのことだろうか。
或いは、人が手を加えたときに始まっているのかも知れない。
明治36年頃、最初の谷沿いの徒歩道が開かれた、その日に。

法面のごくごく小さな綻びが、雨の度、風の度、数度はあった大きな地震の度、豪雪、風雪、雪崩、諸々を繰り返す中で、拡大、破砕、破綻。

人がそれを取り除き、剥きになって補修すると、崖はまた不安定さを増し、崩壊で応えてきた歴史。
そんなものが、連想される。

人は最後に堅牢な擁壁を残したが、その結事を見ずして姿を消した。
そして半世紀近く、自然に任された。

結末は、この姿だった。
そこに人が介在せずとも、崩れる土砂は無限ではない。
最後には、こうやって安定した斜面(土質にも拠るが基本45度)に変わり、さらに長い年月の後、森の一部へと変わる。





 15:13

白崩れ、 踏破…。

 現役当時に最も畏れられていた崩壊地は、既にその牙を失い、老弱した姿で私に力なく抵抗した。

私は、それを難なく乗り越え、再び灌木の茂みを潜り、道へと復帰した。




 現在地は白崩れの北。
二居と船ヶ沢のほぼ中間地点。地中の現道と最も距離が離れる辺りだ。
二居で折り返してからここまで約50分を要し、現在時刻は15時15分。
踏破できた距離は全線約5kmに対し1.7kmほどか。ただし、反対側も1.3kmほど歩いているから、残されたのは中間部分の約2km。
これでようやく全体の半分以上を歩けたと言うことになる。

 きっついなー。 雨も止まねーし…。



 しかし、二つの関門として考えられていたうちの一つ、白崩れは後背に帰した。
残るは赤崩れ一つである。
しかも、白崩れの老弱した姿を見るに、現役当時に盛んに崩れていた地点が、既にその活動を終えている可能性も高まってきた。

もしかすると、赤崩れもさして私の進路を妨げないかも知れない。



時間的にも余裕が無くなってきたので、前進を急ごう。



 心霊写真ではないから安心してカーソルを合わせて欲しい。

 古いオブローダーの足跡かとも思ったが、果たしてどうだろう。
「1955 TAKE」と読めるが、この数字が西暦だとしたら昭和30年、まだ国道として現役だった当時になってしまう。
わざわざ路肩を外れた急斜面の立木に名を刻んだからには、何かしら彼らに「達成感」が有ったのだと思うが…。



 (写真左)
これまた「奇跡の石垣」同様、上手くそのスケール感を伝えられずもどかしいのだが、相当の規模を有する石垣である。
幅20m、高さも同程度はあろうか。
丸石をモルタルで粘着しつつ丁寧に積み上げているが、苔や小さな植物が表面に密生しており、平らであることを除けば石垣だと気付きづらい。
そして、その巨大な石垣に、まるで蛸のように太い根を這わせ、信じられない生え方をした木がある。
もうそろそろ巨木と言っても差し支えのない太さだ。
彼に何があったのか…。

 (写真右)
視界に入る谷が一際広くなった。
これまで道が沿っていたのは清津川の支流である二居川であったが、間もなくその本流に合するのだ。




 歩きやすい部分は稀で、殆どは背丈ほどの笹藪や草地を掻き分け、または灌木の密林に身をくねらせて進む道のりだった。
身軽にしてきたことは、灌木の隙間を潜るときに最も威力を発揮する。



 藪の密生が酷く視界は殆ど利かないが、これまでで最も広い平坦な場所に出た。
ポシェットの中で湿り気を帯び、インクのにじみが目立ってきた地形図を辛うじて判読すると、現在地はここだと分かる。

 往時は駐車スペースを含む道路だったのだろう。
藪の向こうに、谷を背にして何か白い看板が見えてきた。



 私ははじめ、それが道路標識の類ではないかと色めきだったのだが、近づいて見ると、各地で見るダムの増水を警告する看板だった。
電源開発株式会社(2003年民営化、それ以前は特殊法人)は、日本最大の電力民間企業で、全国各地に発電所やそれを結ぶ送電線を所有している。
と言っても、東北育ちの私には余り実感はないが。

それはともかく、この文面には上流にある「二居ダムが」と言うようなことが書いてあるのだが、二居ダムが稼働を開始したのは昭和53年である。
となると、国道としては昭和37年に廃止されていたこの道も、53年頃までは人の往来があったのかも知れない。
まさか、わざわざ廃道の藪を掻き分けて、この大きな看板を設置したとも思えない。



 一旦清津川の谷筋が遠ざかることになり、それに伴って道も落ち着きを取り戻した。

とても感じの良い廃道だ。

しかし、景色を愛でている余裕が無くなりつつあった。
あと1時間後にはかなり暗くなっているだろう。




 船ヶ沢の戦慄!!  


 路上が葦の茂る湿地となった小さな谷筋を越え、また山腹にかかる。
進んでいくと、僅かだが杉の林が現れた。
同じくらいの幹がまとまって生えているところからも植林と思われるのだが、全く手入れがされておらず、蔓延る下草に覆い被さられている。
今後も顧みられる日は来ないだろう。

 植林地の出現は、何らかのエスケープルートが接近しているのではないかという期待を抱かせたが、それは幻に過ぎなかった。




 本来の岩場を削って設けられた道に戻った。
このころ、雨は一時的に小康状態となった。

特筆すべき事があるとしたら、この道幅の広さだろう。
『上越国道史』に載っている木製桟橋はどこにも現存していなかったが、現役当時にはちゃんと車道をしていたことを伺わせる。
それもただの車道ではない。
東京と新潟、首都と北陸とを最短に結びつける、国の幹線である。
本路線が東京日本橋と新潟を結ぶ路線として一級国道に指定されたのは昭和27年、現行の道路法施行時であるが、それ以前は紆余曲折があって、決して生粋の幹線国道だったというわけではない。
この二居峠はもちろん、なんと言っても国境の三国峠に車道がなかなか付けられなかった事が、政府の鉄道重視政策の影響と相まって、三国街道の国道指定を遅らせていた。



 もう少し具体的に述べれば、上越国境の道路として覇権を争った清水峠(現:国道291号:不通)の盛衰と、この三国峠の道とは連動した関係にあった。
日本に初めて「国道」が指定された明治10年、往古の三国街道は「国道一等」となった。しかし、同18年に国道が改訂され新たに路線番号が付される際には、東京と新潟を結ぶ路線は、「碓氷峠」と「清水峠」をそれぞれ経由する国道5号8号となった。このとき、三国峠は国道から県道へと降格されている。
先に馬車道へと改良された清水峠が優位となったのだ。さらに三国峠は大正9年、県道からも降格している。
だが、清水峠の車道が苛烈な自然環境に耐えきれず自然に荒廃すると、再び三国峠にチャンスが巡ってくる。
大正10年には、再び県道「沼田六日町線」に復帰。
さらに昭和9年、それまで東京前橋間であった国道9号が三国峠経由で新潟まで延長指定され、三国峠は国道にも復帰した。
清水越えとの競争は決着し、北陸のみならずアジアへの最短ルートともなった三国街道の改良は、戦中一時中断するも、戦後も強力に推し進められることとなった。
県境に三国トンネルが貫通し、上越国境を越える初めての自動車道が通じたのは、昭和32年だった。

 この流れの中に、当時「二居新道」と呼ばれた本道開通の一幕もあった。





 15:50

 白や茶の怪しいキノコ達が、雨に濡れた地面から楽しげに顔を覗かせていた。
毒々しいマムシ草の蜂巣のような実が、緑からオレンジへの微妙なグラデーションに飾られていた。
古木の立ち並ぶなか、森々とした静寂に包まれて、しばし淡々と歩いた。

 そして、場面が変わる。


ものすごい崩壊地だ。
まだ赤崩れには遠いはずだが、滑落斜面は“白”に匹敵するくらいの高低差を見せている。

嫌な感じだ。

特に、あのツルッとした感じの斜面… 巻くことは出来ないぞ。

──横断は、できるのか…。




 目の前の斜面の行方が気になるところだが、そのずっと向こうに見えてしまった。

とても嫌な色が、見えてしまった。


 山が傾いている?!

今までこの道ではみたことの無かった、崩壊現在進行形を知らしめる真っ裸の瓦礫の山。
おそらく半世紀前には芽を出していなかったろう、今が旬の崩れだろう。

その規模は、如何ほどか…。
手前の尾根の木の帯は、異様に薄い……。



 いやーーーな感じ…。


斜面の下には横断できそうなスペースが無い。
真っ正面もつるつるで、とても安全に横断できそうにない。

ひとつ、また一つと考え得る進路が、狭められてゆく。

突破したいと希う、或いは突破しなければならぬ場面で感じる、この感覚の嫌さは、想像していただけるだろう。

まして、ここを越えてもまだ、生きた崩壊地が待っている…。
言わば、前門の虎、もっと前の門の狼

 …なら引き返せと言われればそれまで…。



 セオリー通り、私は上部からの突破を狙い、危うい草付きの斜面をよじ登った。
登るにつれ角度は増していき、野草を掴む腕に入るべきでない力が入りそうになる。

もう、これ以上は登れないと、そう感じて肝心の谷を見上げると、なんと、そこに一本のトラロープが渡されているではないか。

えっ?
誰か、来ていた?!

心強い!
今は素直に嬉しい!!
得体の知れぬロープに頼ってはイケナイと思いつつも、嬉しい。

使い物になるか分からないが、ともかく、その袂へ行ってみよう。
もう少しだ…。



 これなら、ロープ無しでも渡れそうだ…。

あくまでも、ロープはバランスを崩さないための補佐に使おう。
引き絞ったところ、その程度の強度は十分ありそうだ。

 Go!

余り時間がない。
直感的に行けると感じたのだ。
これは行けるはずだ。
直感を信じよう。







 わざわざロープを設置してここを横断したのは、まさかオブローダーではあるまい。

しかし、助かった。

ロープには体重を殆ど預けずに斜面を横断することが出来たが、ロープのお陰で進路を素早く見付けられたように思う。

もしロープが無ければ、たった独りで、この景色に耐えなければならなかった。

写真を撮ったりする余裕は、当然無かっただろう。




 15:52 また一つ難所を突破。

しかし、前進したことと引き替えに、さらに自身を窮地へと追い立ててしまった事に気付けない。

 …気付いていても立ち止まれない!


自己責任とは言ってはみても、死んでしまえば迷惑もんだ。

 …崩壊が、連鎖する!


森全体が、谷へと傾く!!




船ヶ沢の戦慄!



 ここは、今までこの道で見てきた中では、最も新しく崩壊した場所のようだ。

角の全く取れていない赤っぽい崩壊岩石の上には、まだ殆ど草もなく、一緒に崩れてきたろう木の根が混ざっている。
そして、足を載せるとそのうちの一部はガラガラと音をたてて崩れ、そうでないものも、体重で微妙に動く。
崩壊からせいぜい2〜3年と言ったところだろうか。
崩壊は斜面全体を動かすような激甚なる規模だったようで、完全に道の跡を覆い隠し、尾根の形自体を変えてしまっている。
そして、この岩原の向こうには支流である船ヶ沢が口を開けており、向かいの目立つ尾根の上に鉄塔が立っているのが見えた。




 雨と泥に濡れた瓦礫の山は思いのほか滑りやすく、しかもそれ自体も安定していないものだから、乗り越えて進むにもかなりの神経を要した。
軽く転倒しただけでも掌を切ってしまいかねないし、前みたいにもんどり打つように転倒しようものなら、どう怪我するか分からない。
さらに、雨のため地盤は緩んでいるだろうし、下手な振動でさらなる崩壊を誘発しかねない。
こうやって横断している矢先にも、上から次の落石が無いとも限らない状況。

かといって、危ないから引き返そうというわけにも…。

 時間的にも……




あっ!

そう言えば、この探索ってどうせ最後には、“例の撤退地点”で折り返しになるのでは……。

となると、時間的に間に合うわけ無いような…。
もうやがて夜になるぞ…。

ネタでなく、そのことを何故か私はここに至るまで気付かなかった。
ここに来るのに1時間半もかかっているのだから、今から引き返したって、もう暗くなってしまうのは目に見えている…。

 馬 鹿 だ …。

現在時刻、15時50分。日没まで、あと1時間10分ほど…。

どうしよう。
この後でも、現道へとエスケープできる場所があるかも知れない。
例えば、いま目の前に接近してきた船ヶ沢もその候補だし(現道側からは受け入れの用意がなさそうだったが…)、その他にはあともう一カ所だけか…。
現道が、殆ど全部トンネルの中だというのが…痛すぎる……。




これって… 行くべき? 退くべき?