2007/10/8 12:39
この日は生憎の空模様で、しばらく晴天の続いていた北陸全域が、しっとりと静かな雨に濡れていた。
そんななか、例によってチャリによる二居旧道の踏査を企てた私は、前探索地からの移動を終え、昼過ぎに新旧道の分岐地点に当たる三俣地区でチャリを降ろした。
このとき身に付けていた全ての装備は、時間を追う毎に雨と泥に濡れてゆき、やがて全身ボロ雑巾のようになって探索を終えることになるのだが、そこまでの困難を想定していなかったゆえの雨天決行でもあった。
右の写真は新旧同分岐地点を撮影したものだが、まずは画像にカーソルを合わせてくれないと意味が分からないと思う。
現在、本来の分岐地点はスノーシェッドによって失われており、それがこの写真の位置である。
分岐直後の旧道敷きは、道路補修工事の作業場として利用されていた。
ここをスタート地点として、旧道を南下開始する。
(旧道起点より0.0km)
現道から分かれた旧道は、はじめ意外なほどしっかりとした道で、隣にスノーシェッドに覆われた現道が無ければそれが旧道とは分からないほどだ。(この写真も進行方向逆向きに撮影している)
だが、この後の旧道の“転落人生”ぶりは、目を覆いたくなるほどだった。
注目していただきたい。(0.1km)
いきなり分かりづらい分岐が現れた。
鋭角な三叉路となって全く同程度の道が二手に分かれたのである。
しかも全くの無案内だ。地図が無ければどちらとも判別が付かないだろう。
正しい旧道の道筋は分岐を右に進むのだが、左は何かと言えば、おそらく現道の工事用仮設道路に由来する道であろう。『上越国道史』にはこの三俣道路改良工事(昭和37年〜40年)について、仮設道路を建設中の道路と平行して用意し、工事期間内の交通を処理したとある。(この先の区間である二居道路はいち早く昭和37年に開通供用されていたので、それに接続する必要性があったのだ)現に、左の道を行くと直ぐに現道と合流し一本になる。(0.2km)
分岐を右に行くと、雑木林の中を真っ直ぐ進み、やがて両側に空き地と廃屋とが連なる一角に出る。
これは萱付集落の跡で、現在は地名もろとも地形図から抹消されてしまった村だ。
同地は江戸時代の文献に「第一眼病に善し」と書かれ評判のあった貝掛温泉の入口にあたり、三国街道の時代、そして道が国道として使われていた当時には温泉街として栄えていた名残を感じさせる。
路傍の草生した墓地には思いのほか多くの墓石が存在するが、近年のものと思われるのは一基だけで、村の侘びしい末年を連想させる。
また、極彩色で旅人の目を惹いた筈のみやげ物屋も、シャッターを閉ざしたまま色褪せ錆び付き、死んだ貝のようだ。(0.3km)
人影の全くない廃村の目抜き通りが、旧国道である。
どの家もみな玄関を道へ向けており、三国街道時代からの典型的な街村であったことを覗わせる。
100mも離れていない山手を現国道が通じており、その車音がひっきりなしに届く。
哀れというより外に言葉がない。
路幅も幾分心許なくなり、昭和37年の二居道路開通まで一級国道17号として表裏日本を結んでいた道路とは、とても思われない。(0.4km)
集落の端に達すると変形十字路がある。
ここで現国道から貝掛温泉へ向かう町道と旧国道が交差する。
直進が旧国道(+旧街道)、左は現国道へ、右は貝掛温泉への道である。
この角は昔から貝掛温泉の入口だったようで、道標石と地蔵尊が雑草の中に濡れていた。
道標石には大きな彫り文字で「ゆもと」の頭三文字まで読める。
また、左写真正面の藪の中にも無数の庚申碑が佇んでいた。(0.5km)
旧道へ入ってまだ500m足らずであるが、早くも旧国道は息も絶え絶えといった感じになってきた。
舗装されているのがやっとの様子である。
この先、二居峡谷もしくは二居峠を越えて、二居集落に達するまでのあいだ人家が途絶える。
ここから二居まで、谷沿いの旧道経由での地図上の距離は、約4.5kmほどだ。(0.6km)
12:49 《現在地》
旧道分岐より700mほど進んだ地点で、またしても道は二つに分かれた。
左の道を指して「北陸中部自然歩道」と書かれた木製の標柱が立ち、行き先を「二居峠」と示している。
分岐の手前には車数台をおける駐車スペースがあり、遊歩道の便宜を図っている。
そう。
この地点が明治以前までの旧街道(三国街道)と、明治36年以後開削され昭和37年まで使われていた旧国道(二居新道)との、正式な分岐地点である。
進むべき道は当然右である。(0.7km)
うわっ… もうかよ。
MOWなのかよ。
道は早くも廃道のムードに包まれた。
一応舗装は続いているのだが、両脇の草藪が大成長し、その大半を覆い隠している。
既に4輪の車が全く入っていないか、入っていても極稀ということだろう。
考えてみれば先ほどの分岐以降、地形図上では既に徒歩道を意味する点線による表記であるから、これも止むなしか。
おいおい。
展開早えーな!
道が藪から復活したように見えるが、実はそれはウソで、ここから本当の廃道が始まっている。
…意味が分からない?
こっちが正しい旧国道なのである。
信じがたい… と い う か
信じたくない展開である。
まだ、全体の4分の1も来ていないのに、早くも廃道。
しかもこの緑の濃さには、ヤバい予感以外なんにも感じられない。 (0.8km)
ここはかつての萱付村の外れで、海抜は約700m。
そして、ここから約4km先にある二居村の海抜は850m近い。
旧街道の場合、途中で二居峠(海抜980m)を越えねばならなかったが、明治36年頃に開通したという二居新道は谷沿いに進路を採ることで、馬車も通れる比較的勾配の緩やかな道を実現した。
昭和9年には、二居まで物資輸送のトラックが入った記録があるので、それ以前から自動車が通れるように改良されたのであろう。
一方、現在の国道は旧街道と二居新道のちょうど間を取ったような位置を通過している。
萱付を出ると比較的急な勾配と九十九折りが待っており、高度を稼いだ後でトンネルの連続地帯で一挙に峠を越えてしまうのだ。
現道が谷沿いに進路を選ばなかったのは、二居新道(旧国道)を維持することへの苦い経験による。
舗装が途絶えた先は、一挙に緑深い森の道へと変貌を遂げる。
冷たい雨に撫でられたこの日の緑は、不思議と普段以上に瑞々しく見えた。
紅葉を前に、最後の緑だったろう。
路面は既に雑草や落ち葉の支配するところとなり、自動車の通じた証といえるダブルトラックは限りなく薄れている。
だがそれでも、比較的勾配が緩やかなのと、岩や倒木と言った大きな障害物が少ないこと、なにより路面に砂利の硬さが残っている事により、チャリに乗っての進行が許された。
まだ、車道としての熱は醒めきってはいなかった。
私のテンションも、ぐんぐん上がりはじめた。 (1.0km)
進むほどに路肩の外の傾斜は増して行き、これと比例して山側の法面も高くなっていく。
最初の段階で既に清津川の水面に対し80m近い比高を有しているのだが、この先はかつて二居渓谷として名の知れた山峡となり、比高は維持したまま一気に谷が迫ってくる。もしくは道が谷の領域を冒すようになる。
転落事故から利用者を護るための、今で言うガードレールだが、古い欄干が現れた。
駒止のようでもあるが、一本一本路面に埋め込まれたコンクリートの支柱である。初めて見る形だ。
また、なぜかここにある一連の欄干(おおよそ10mに亘って10本ほど)には、全て側面の一面に「三二」と縦書きで数字が刻まれていた。
欄干全てが同じ数字であり、製造業者の刻印なのか、はたまた設置年度(昭和32年?)を示しているのか、謎である。
ちなみに、この先でも同様の欄干を目撃したが、数字が付いているのはおそらくこの一角だけのようだ。
また、よく見ると隣り合った支柱同士で木製の板を固定していた気配がある。
板の部分は殆どが朽ち果てていたが、この写真の一枚だけ、辛うじて残っていた。
こんな薄い板きれで、果たしてどれほど転落を防止できたのか。
あくまでも、コンクリートの欄干が主役で、板はおまけみたいなものだったに違いない。
ともかく、これらコンクリート製の欄干の存在は、重量物、つまり自動車がこの道を通った証と言って良いだろう。
未舗装の廃道となってから200mほど進んだところで、前方の視界が一気に開けた。
はじめ広場かと思ったのだが、さらに数歩前進したところで、草原になった部分の両側にコンクリート製の箱型をした巨大な「何か」があるのに気付いた。
それは、かなり風化はしていたものの、親柱であった。
つまり、ここには橋が架かっている。
近づいてみて、初めてそれと分かった。 (1.0km)
藪と一体化しつつある親柱(写真左)。
4mほど隔てて反対側にも同様のものがある。
銘板の取り付けられていた形跡があるが、既に失われていた。
この親柱よりも先の草原は、すなわち橋上であるのだが、その存在感は薄い。
しかし、橋の下部構造を見るべく親柱から身を乗り出してみると…(写真右)。
こ、これは大きな… そして珍しい形式の橋である。
所謂、「歴史的鋼橋」と言って良いのではないか。
その全貌を見たいがため、親柱の脇から斜面を途中まで下った私は、思わず歓声を上げてしまった。
それは、なんとも奇想天外な橋に見える。
まるで、曲弦トラスを悪戯でひっくり返してしまったみたい。
これまでも、この形式の橋に遭遇したことは何度かあるが、見事に廃橋となっているケースは初めてだ。
自分にとって見慣れないものというだけで、残る印象は数倍も大きなものとなる。
この橋などはまさにそうで、まして普通に通っているだけでは下部構造には目がいかぬ作りになっているだけに、余計に興奮した。
既に欄干などは雪の重みで半分以上が折損し、路面よりも下に向かってギリギリ墜落を免れている有様だ。
本橋には4つの親柱が全て残っているが、残念ながら銘板は失われている。
故に、現地ではその名も竣工年も、下を流れている沢の名前も分からずじまいだったのだが、『上越国道史』には名前だけ記録されていた。
境橋
それがこの橋の名である。
この沢の上流には現道の橋も架かっており、そちらは新境橋と命名されている。
下を流れているのは清津川の本流ではなく、二居峠の山中から流れ落ちる枝沢に過ぎない。
前回紹介した木製桟橋の光景とは似つかわしくない、このような近代的な橋も架けられていたのだ。
昭和37年に廃止された旧道であるが、橋はいつ架けられたのだろう。早くとも昭和初期ではなかったか。
となると、この立派な橋にとっては、少々役不足であったに違いない。
車道という役割はとうに終え、季節的に加重が増しはするものの、あとはただ無為に、その巨大な体躯を渓間に晒している。
この境橋の10mほど下流には、一基のコンクリート製橋脚が極めて風化した姿を残している。
これは明らかに旧橋の残骸であろう。
橋脚の上面には、さらにその上に継ぎ足されていた木製橋脚の切れ端が残っている。
林鉄などでよく見られる、コンクリート+木の橋脚だったのだろう。この場合、橋桁は木製であったと考えられる。
これが初代橋なのか否かは不明だが、この地に限って言えば、現道を含め3代の橋が存在したことになる。
私はこれらの発見に大変満足し、鼻息も荒く橋の上に戻った。
橋の上の様子。
向かって右側は欄干が無いので、近寄ると足を踏み外す危険性がある。
くれぐれも注意されたい。(←つか注意しろ、自分)
橋は、全長30mほどである。
橋の南詰は高い木々の影になっており、藪も幾分浅い。
…思いがけぬ巨大鋼橋の出現。
そして、なおも奥地へと誘う、広き国道の名残。
予期できぬ、まったく未知の廃道風景。
旧国道探索の持つあらゆる熱さが、私のテンションを
high-up-up-up!
ヨッキ! まだ、赤も白も現れてないぞ!
お読みいただきありがとうございます。 | |
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