2007/10/8 13:47
涙の撤退から11分、私は舗装が復活する地点まで旧道を戻っていた。
新旧道分岐地点からは1.3kmほどを進んで引き返したとはいえ、ここから撤退地点までの真に廃道となっている区間は500mほどであった。
二居側の状況がどうなっているかは不明であるが、残された距離は余りにも長く感じられる。(3km以上もある)
あの、“見えていたのにたどり着けなかった対岸”へ、果たして私は行くことが出来るだろうか。
焦りにも似たこの気持ちは、恋心に近いと感じる。
私の「欲しい」に、この道は応えてくれるだろうか。
さらに300mほど旧道を戻り、貝掛温泉への道を使って現国道へショートカットした。
再度旧道に挑戦するために、現道を使って二居へ回り込むことにする。
現道を経由した場合の距離は、約4kmである。旧道よりも1km強短縮されている。
右の地図の通り、現道は連続する3本のトンネルと、4つの大きなヘアピンカーブとで構成されている。
このうち、新境橋以北は「三俣道路」として昭和39年〜40年に完成。以南は「二居道路」として昭和34年〜37年に完成している。
これは下から数えて二つめのヘアピンカーブの入口。
国道17号はもともと「一級」を冠する国道であって、国道の中でも特に幹線とされる路線の1つであるが、本州の脊梁を越えるという地形上、今以てこのような山岳道路的線形を排除できていない。
最大の難所である群馬・新潟県境の三国峠越えにおいては、群馬側に50を超えるカーブが連なり、そのうち最小曲率半径が30mのカーブも複数ある。
そんな中でも、牽引車付きのトレーラーが通るし、ありとあらゆる車が通行している。(新三国トンネル構想はあるようだが…)
この二居峠は、2車線としては通常考えられないほど拡幅を受けており、またヘアピン部分にはコンクリート壁の中央分離帯を設置するなど、雪道の峠道として、事故防止へ可能な限りの対策が講じられている。
新境橋である。
この橋を渡った突き当たりのカーブまでが「三俣道路」として建設された部分で、その先は二居道路だ。
橋のすぐ手前で国道を暗渠で潜る砂利道は(写真左の道)、旧道から分かれて本来の二居峠を目指す三国街道(現在は遊歩道)であり(分岐地点(左))、二居道路完成後三俣道路が出来るまでのごく短い期間、旧道と二居道路の取り付け道路としても利用されたことがある。(画像にカーソルを合わせると、線形を表示する)
三つ目のヘアピンカーブを遠くに見る。
この一連のヘアピンカーブ群で、一挙に100m近い高度を稼ぎ出す。
よって、自然とダイナミックな道路風景を現出しており、ここは私の好きな場所になった。
これが四つ目にして最後のヘアピンカーブ。
ここまで、現道に合流してより1.4kmである。
このカーブの外側に、背の高い廃墟がポツンと建っている。
総コンクリート造りの如何にも産業用の建物なのだが、周囲は背丈よりも高い藪と急斜面に囲まれ、また風化が進んでおり、現地では何の建物なのか分からなかった。
しかし、昭和40年当時の地形図には、この辺りに「変電所」の記号が描かれているので、おそらくこれがその残骸だろう。
14:06 萱付トンネル
廃墟の前を過ぎると直ぐにトンネルが現れる。
この先はもう二居まで殆ど地上区間はなく、3本のトンネルが連続する。
その一本目、萱付トンネルだ。
3本はその全長だけが異なり、幅・高さ・竣工年度については全て共通である。
その諸元を述べれば、車道幅員5.5m、限界高4.5m、竣工年度昭和37年となる。
幅・高さとも、国道17号という立地を考えれば明らかに不足である。
そのため、写真にあるとおりの規制標識が設置されている。
雪害対策のため後付けされた坑門延伸部はルーバーの役割も兼任している。(ルーバーとは、トンネル内外の明るさの急激な変化を緩和させるため設置された緩衝機構のこと。)
しかし、そのせいで慣れないドライバーにとって、延伸部の先に控える本当のトンネルの狭さに驚くことになるだろう。
実際、この隧道の幅員は最大級のトラック同士ではすれ違いが困難であり、坑口直前で対向の大型トラックに気付き急停止した大型トラックに後続車が突き刺さる事故が冬期を中心に多発しているという。
…というか、冷静にレポートしている場合でなく…
チャリで入るのが少し怖いんだけど…。
この萱付トンネルは全長145mと短い。
全線が緩やかな上りではあるが、その勾配も緩やかなので直ぐに出口へ達した。
しかし、この出口の線形もまたかなり際どい。
特に反対方向から来るのは恐怖さえ感じる。というのも、私はこの日の未明、ここを車で長岡方面に向かって通行したのであるが、鋭角にカーブする落石覆いの直後にこの狭い坑門である。
スピードが出すぎていたせいもあるが、正直ヒヤッとした。
反対から来ると、2本の長いトンネルがほぼ直線で続いており、しかも途中から下り勾配になるので自然速度超過になりがちなのである。
冬期など、とても安心して通れる道ではないと感じた。(もう少し標識類で注意を喚起して欲しい)
短い明かり区間である。
続いて船ヶ沢トンネルが見えているが、ここに標高を示す標識が建てられていた。
800mあるという。
この右側の谷は清津川に通じており、その中腹に、先ほど私が断念した旧道の続きが通じてる筈である。
とりあえず見下ろしてみても、森が深くて道は見えなかったが…。
ゴッツイ高さ制限バーを潜り、さらに短い延伸部を経て本来の坑口に至る。
この船ヶ沢トンネルは一気に長くなり、全長361mある。
真っ直ぐ登っており、しかも結構な勾配なので、車に追い立てられながらの自転車には辛い。
だが、四の五の言ってもいられないので、さっさと通り過ぎることにする。
出口… は無くて、そのまま次のトンネルへ続く。
なにやら周囲から重機の唸りが聞こえるが、外で何かやっているのか。
この3本のトンネルは何れも直線であり、トンネル同士を結ぶごく短い明かり区間にカーブのしわ寄せが来ている。
如何にも古い時代の設計と分かるのであるが、今のところこの二居峠に新道を、と言う話は聞かない。
盛んに雪害対策などの付帯工事を行っている最中なので、むしろ今後とも長く付き合っていくつもりなのだろう。
このトンネル連結部の山側に小さな出口があり、林道が分岐している。
この造り… 同じ魚沼地方にある奥只見シルバーラインみたいだ…。
試しにこの横穴から出てみると、さっきから盛んに聞こえていた工事の音の正体が判明。
また、現道のトンネル連結部分が実は谷を跨ぐ暗渠の上にあったことも分かった。
この谷が船ヶ沢と言われる沢である。
下流にはやはり旧道が横断しているはずだが、トンネル連絡部分の谷下流側に出口はなく、また谷自体はコンクリートの函になっており、相互往来の通路としては使えない。
こうして、私も色々と旧道攻略時のエスケープルートなど、“二の手”を考えながら進んではいたのだが、現道に明かり区間がたった二カ所しかない状況では、期待できなさそうだ…。
逃げ道無しという訳か…。
14:14 【現在地:二居トンネル】
暗い!
なんだか恐ろしくこの二居トンネルは暗い。
連結部からトンネル内へ入る部分でもこの暗さだ。
なお、ここが現道における二居峠であり、この先二居トンネル内は一方的な下り坂である。
長い!!
二居道路の首魁である二居トンネルは全長1295mに及び、国道17号三国越え全体の中でも、県境の三国隧道に次いで長い。
照明が少なく、狭いので、余計に長く感じられる。
そして… 来たッ!
来た!
来た来た!!
怖え〜よぉ…
この隧道は掘削途中、その軟弱地盤により導坑が7mほど圧壊したり、支保工が崩壊し250立方メートルもの土砂が洞内を埋め尽くしたこともあるという。
また、漏水の多さにも苦しめられたと言うことだ。
当時の最先端の技術を投入し、幾多の苦難を乗り越えて開通にこぎ着けたと、『上越国道史』も興奮気味に語っている。
関わったトンネルマン達にとってはこの上ない喜びかと思うが、それは未だ現役で国道の第一線を張っているために、私を含めた全通行人にとって感慨を持って内部を観察できる状況ではない。
下手に立ち止まれば轢かれかねない。
緩やかな下りとなった二居トンネルを惰性で突破。
三国街道の重要な宿場街であった二居集落が待つ小盆地へ、脱出だ!
フゥ〜〜ッ!
14:19
色々な物が取り付けられ、一際雑然とした印象の二居トンネル二居口。
美観的に、もう少しどうにかならなかったのかと思ってしまうが、勿論それどころではないのだろう。
このような“注意書きの多い”トンネルを、少しでも安全に運用していくためには、色々と取り付けるより無い。
日の当たる開けた場所にあるせいか、坑門のコンクリートは白く、新しく見える。
だが、五心円という、この当時幹線国道で盛んに利用されたトンネル断面が、どうやっても取り繕えない古びた印象を与えてしまう。
この断面はよく「半卵形」とも言われるが、最小限の掘削量で出来る限りの有効断面積を得ようという、工期と予算に緊縛された上での苦肉の策だった。
今日、この断面のトンネルで現役の物はほぼ例外なく、車輌の大型化による内空高の低さに苦しんでいる。
(左)
ゴチャゴチャした坑門にあって、印象の薄い存在である扁額。
それ自体は御影石製の立派な物であり、傍らには小さく、時の建設大臣の揮毫と思しき名前が刻まれている。
このトンネルへの、行政の並々ならぬ意気込みや期待感を感じさせるものに他ならない。
ちなみに、「隧道」ではなく「トンネル」が正式な名称になり始めた初期の銘板でもある。
(右)
と ん ね る。
トンネル前はかなり広いロードサイドパーキングになっている。
なお、地形図によれば、目指すべき旧道はこの坑門の上を横切っているようだが、そこにあるのは雪崩防止柵の列で、道らしき影は見えない。
さらに離れて全体を見渡してみると…。
…やっぱり見えないのだが、まあ、有るには有りそうだ(適当)。
それより目を惹くのは、今越えてきた区間に対する注意書きの数々だ。
連続雨量180mmの通行規制は三国峠も同様なのであるが、これらが同時に封鎖された場合、この間にある二居や三国、浅貝の集落は陸の孤島となってしまう。
それ故、新しい新三国トンネルが渇望されているとも言えるだろう。
もう一枚の注意書きは、前に萱付トンネルの所で説明した危険そのものを現している。
流石にそれを追い越そうとするのは、気が狂っているとしか思えないが…。
このレポートの出発地であった三俣、そしてこの二居、さらに奥地の三国峠直下にある浅貝。
この三つの集落がかつて三国三宿と呼ばれ、三国街道を行く旅人達で賑わった。
これらの宿の間にはそれぞれ峠があって、そのことが余計に各宿場に人を良く留めさせたものであろう。
現国道は、旧国道に面して円弧状に続く街場を、二居大橋によってインにショートカットしている。
より上越国境線方面の山々は、より深い雨雲に覆い隠され全く見通せない。
当地は既に海抜800mを越えている。濡れた太腿の肌寒さもそれ相応だった。
写真は二居大橋を渡りきり、左に旧国道との分岐が現れた場面。
ここから旧道は左後方へ戻る形になり、二居の旧宿場町へ入っていく。
なお、この二居大橋だけは二居道路の中でも別個に建設された物で、昭和44年開通となっている。
開通以前は、二居トンネルを出て直ぐに集落内へ屈曲し、以後旧道を通じ当地へ来ていた。
14:24
現道4kmほどを経由し、いよいよ二居側の旧道入口へと辿り着いた。
ここから二居集落を抜けて旧道は、「白崩れ」「赤崩れ」の順に経由し、件の撤退地へと通じることになる。
推定4km弱の道のりだ。
依然小雨の止まぬ中、再戦のゴングが打ち鳴らされた!
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