道路レポート 国道256号 飯田市上村の地形図に描かれていない区間 最終回

所在地 長野県飯田市
探索日 2011.4.21
公開日 2018.8.25

目には見えない“虚道”として存在する、清水集落付近の国道


2011/4/21 16:03 《現在地》

約2時間ぶりに再会の時を迎えた県道251号だが、素直に合流して終了とはならない。最後までおかしげな状況が待ち受けていた。

私がかつて、ある人から見せてもらった図面では、この先の国道256号は、右図に示した赤線の通りに描かれていた。

どう見ても不自然過ぎる直線ルートであり、道としての実態がそこに存在しないことは明らかだったが、長野県はこのルートで国道256号を指定したうえで、供用開始の告示もしている。(告示自体は見ていないが、「道路統計年報2017」には国道256号の未供用延長ゼロとなっているので、供用中(自動車交通不能区間)で間違いない)

さて、私はどうするべきなのか。
図面だけに存在する実態のない道を無理矢理にでも辿るべきなのか。
国道を正確に辿るという目的なら、おそらくそれが正解だろうが、廃道探索者としては違う答えもある。
それは、私がこれまで辿ってきた古い道の続きを辿ることだ。
目に見える道形は、図面のような不自然なルートではなく、このまま地形に沿って右へ素直なトラバースを続けている。
遠からず県道と合流するのはどちらを選んでも同じだろうから、折角なら目に見える道を選ぶことにした。



素直に道を辿っていくと、すぐにスギ林の終わりが見えてきた。
路肩側に結構な規模の石垣があるが、風化の度合いが著しく、近代車道の石垣というよりは、戦国時代の土塁という方がしっくりきそうな姿であった。

県道との間に最後まで残った高低差をどうやって詰めるのか、いろいろ想像しながらスギ林を抜け出てみると……




……呆気なく道形は消えてしまった。

道形の最後まで続いていた石垣は、斜面に呑み込まれるようにして終わっていた。
その斜面の上方10mほどの位置に県道の路肩がある。

状況から見て、県道に進路を奪われたということだろう。
この消失地点辺りで切り返して登っていたのだろうが、あとから出来た県道に破壊されて埋没したのだと判断した。

やむなく、【斜面を直登して】県道へ脱出した。



16:03

おおお〜! 久しぶりの県道!
いままで好き放題上から落石攻撃してくれたな! もうそれもおしまいだぞ。これからは国道が上を行くからな。

ここは県道の「3号カーブ」と呼ばれている地点である。標高770m。上町の“終点”を出発してから約1.5kmで、“地図にない国道”は約200m山を登っていた。これに要した時間は約2時間だ。
普通は県道を使って移動する区間だが、一応は並行する国道(や古道)でも移動できることを証明した。(一部、正確に国道を辿れていないかも知れないが)

県道の前身である赤石林道が昭和43年に開通する以前は、私がここまで辿ってきた道がここから九十九折りで清水集落へ登っていき、そのまま小川路峠の現在ある九十九折りへ繋がっていたのだろう。林道の建設に伴う地形の変化によって、古道は広範囲にわたって消失してしまったようだ。

古道、林道、県道、国道……、いろいろな道たちが絡み合った歴史を紐解くことで、なぜここの国道が不自然な直線ルートになったかという疑問の答えを見出すことができたし、それはそのまま、「なぜ使える県道と使えない国道が並走しているのか」という今回における最大の疑問の答えにも通じていたが、これらの謎解きについては探索後の机上調査で述べたい。

まずはこのまま探索を完結させよう。




16:06 《現在地》

再会した県道は1.5車線の舗装道路で、地方のローカル国道っぽくもあったが、あくまで県道だ。
この県道を3号カーブから100mばかり上村方向へ戻ると、“図面上の国道”と交差するこの地点がある。
先ほど通った【この地点】を直進して無理矢理斜面をよじ登れば、ここへ出る。

やはり、案の定というべきか、この国道には実態がなさそうだ。
一応、黄色い矢印のところから山へ入ると、県道の九十九折りを1段分ショートカットできるのだが、単なる山の斜面なのか道なのか微妙なところ。
わざわざ山側の土留め擁壁が切れているのが、国道の存在を意識してのことだったとしたら萌えるが。




同地点で県道のガードレール下を覗き込んだのが、この写真だ。

【さっきの地点】が下にあるが、森が鬱蒼としていて道形らしいものは見えないし、そもそも県道のガードレールが切れていないので、覗き込むこと自体を普通はしないだろう。

総じて今回の国道は、県道の車窓から徹底的にステルスされていて、目に見える分岐もないために、普通に通っていて存在に気付くことはまずないだろう。
やはりここは、日本一存在感がない供用中の国道かも知れない。



舗装された県道を探索するなら車や自転車が欲しいところだが、今回はどちらも麓に置き去りにしてきているので、歩くよりない。
今度は県道を飯田方向へ向って歩いている。【3号カーブ】を通過したところで振り返って撮影したのが、この写真だ。

かなりの急傾斜のところに1.5車線の九十九折りが無理矢理入り込んでいるため、道の周囲はガチガチに固められた大きな法面になっていて、かつては古道の九十九折りがあっただろう場所でもあるのだが、痕跡は何も残っていないようだった。(写真右端のガードレールの下で古道は消滅している)




16:12 《現在地》

3号カーブから50mほどで、県道の九十九折りを串刺しにしている“図面上の国道”との2回目の交差地点へやってきた。

なぜかこちら側にもガードレールが切れている場所(矢印の位置)があり、斜面のショートカットが可能である。
古道の名残りかもしれないし、”図面上の国道”に超近接しているので、実はこれが国道だという可能性もある。私が見た2.5万分の1の図面だと、国道はまっすぐのように描かれていたけれど…。



このいかにも人が手を加えた感じが出ている斜面の上には大きな平場があり、そこに一軒家が建っている。清水集落の最後の1軒である。
私の感覚では、集落などはありそうもないような山中だが、この後で実際に一軒家の姿を目撃したので納得するよりなかった。
かつての小川路峠や秋葉路の繁栄の大きさを傍証するような集落の立地だと思う。

この辺りの地形はかなり大規模に手を加えられているようであり、県道以外の道…古道や国道は見当たらない。逆に言えば、県道(およびその前身である林道)の建設に伴って地形の改変が行われただろうという推論が成立する。

図面上の国道はこの目の前の斜面を直登しており、物理的にはそれをなぞることも出来そうだったが、道形も目印もない空虚な歩行は面白くないので、このまま県道を歩いた。
そして5分後には清水集落の入口に着いた。




16:17 《現在地》

これは、清水集落と、目に見える県道と、目に見えない国道の集合写真だ。

誰がここにこんな風に国道が指定されていると思うだろうか。私も思わず笑ってしまった。
目に見えない国道というと“海上国道”というのがあるが、あれは海で寸断された未開通の国道だ。
しかしこちらははっきりと陸上に位置が定まっていて、供用開始もされている開通した国道なのである。
廃道であっても、道形が目に見えるところに指定されているなら分かるが、これはさすがに酷い(笑)。
荒唐無稽すぎる。
(私が描いた国道の点線は、厳密には少し位置がズレているだろうが、だいたいこんな感じなのは間違いない)

道路管理者としても、興味本意の道路趣味者に知られたら面白がられそうだから、
できれば知られたくない国道だったかもしれないが(考えすぎ)、知ってしまった。




清水集落で踏ん張る最後の一軒を遠望する。

海抜800mの山中に一軒だけ孤立してある現状は集落とは呼びにくいし、既に誰も住んでいないのかも知れない。
しかし、四方の山に睨みを利かせる見晴らし絶佳の位置にあり、一山の主を思わせる威厳ある佇まいに惹かれるものがあった。
昭和43年に赤石林道がここに開通するまでは、私がさきほどまで歩いてきた古道を頼りにした暮らしだったのだろう。
清水という地名も、水の確保に苦労した峠道における集落の成立理由に関わりそうだが、現状それらしい清水は見当たらない。

世界の中心で「国道」を叫ぶには、おそらく最高の立地にある一軒家だ。



少しだけ先へ進んだところから上村方向を振り返って撮影したのがこの写真だ。

今回の探索のスタート地点は、左に見える巨大な断層谷の底であり、まだまだ小川路峠の頂上は遠いけれど、
それでもよくぞ登ってきたと思えるだけの高度感を獲得している。山と谷のメリハリが効いていて、爽快な風景だ。




図面だと、このカーブミラーがある辺りで国道は県道と合流していることになっている。それからわずか50mほどを重複してから、奥に見える広場でまた別れるのだ。あの広場はよく“登山道国道”のワンシーンとして紹介される、小川路峠の上村側入口だ。

ここにほんの少しだが国道256号と県道251号の重複区間があるということも、あまり知られていない事実だと思う。この2本の道が重複する場所はここだけだ。この後はそれぞれ伊那山脈を越えて飯田市街を目指すのだが、二度と出会うことはない。



同地点から国道の来た方向を見ているが、何度も書いているとおり、ここの国道は地物を無視して指定されており、目印もなさそうだ。
私が描いているラインも、おおよその目安の位置と思って欲しい。
さすがに左に見える民家やその敷地には被っていないと思うが、その辺りもいずれ道路台帳の詳細な図面を見て確認したいところである。

ちなみに、ここのカーブミラーには所属する路線を示す「上・飯田線」の表示があった。
この先の重複区間内にカーブミラーはないが、もしあったらどういう表示になっただろう。たぶん、国道は無視されただろうけど…。

また、上町の県道251号と国道256号の分岐地点の路面には、管理の区分に関わるとみられる【路面のペイント表示】があったが、ここにはそういったものもない。
国道と県道が重複する場合、普通は国道として管理される決まりだが、ここはあまりにも国道としての実態が乏しく、そもそもどちらも管理者は同じ長野県だから、そんなに厳密に区別する必要もなさそうではある。



16:20 《現在地》

わずか50mにも満たない久々の舗装国道を噛みしめるように歩いたが、前後の県道区間との違いのようなものは何も感じられなかった。
そしてすぐに、小川路峠登山道の上村側入口へ到着した。

ここが今回の探索の目標地点であり、これで“地形図にない国道”を探索するという目標達成だ。あとは県道を歩いて帰るだけである。

この場所から国道256号が突然“登山道”として始まるように描いている地図もあるが、実際はちゃんと上町の終点まで続いていたのだ。
地形図には描かれないような廃道や、実態のない掟破りの“虚道”として。




国道重複区間にもかかわらず、県道251号のヘキサが!

小川路峠の“登山道国道”を制覇した屈強な国道探求者たちも、ここで県道の標識に迎えられるのは、がっかりだろう。せっかくならここに国道標識を1本どうですか、道路管理者さん! 
まあ、たしかにここは県道251号でもあるわけだから、これでも間違ってはいないし、少なくとも明らかに国道256号上であるのにフライングして登場していた【上町のヘキサ】よりは罪がないが。

また、単に老朽化のためだとは思うが、標識板がおかしげな方向を向いており、奥に見える行き止まりの枝道が県道であるかのようにも見える。
この枝道の正体も気になるところ(国道の未成道疑惑あり)だが、これについては小川路峠本体の探索時に紹介したい。



いきなり木組みの階段から始まるこの徒歩道が、国道256号である。
国道としては驚くべき風景なのだが、今の私に驚けと言われても(小傘ちゃんくらい)無理だ。もっと酷い国道を見た直後なんだもの。

入口の傍らには水準点と、「歴史の道 秋葉街道 小川路峠入口 峠まで5.5km」と書かれた看板があり、国道であることはどこにも書かれていないが、街道ファン向けへの最低限のアピールは行われている。

峠までは5.5kmとあるが、峠を越えて国道256号が一般車両の通行を再び許すようになる地点までは約10kmもある。
小川路峠の本探索は、また機会を改めて。メジャーだと思って侮ると、強烈な廃道の出現に泡を吹くことになる。




引き返す前に、清水集落の佇まいを別アングルからもう1枚。

写真左側に石垣の地割が見えるが、昭和51(1976)年の航空写真だと、そこにもう1軒の家屋が写っていた。
しかしそれでも合計2軒だけの集落だ。大昔はどのくらい栄えていたのか気になるところだが、近年は県道251号のお株も矢筈トンネルに奪われたことで、いよいよこの地の寂しさは晴れる見込みがなくなった。

そもそも、実はこの県道も今日は工事通行止めだった。だから予めここに車を持ってくることが出来なかった。私は並行する国道で通行止め区間の裏を掻くことに成功したが、今から県道を歩いて帰れば、途中でその工事現場にぶつかるはずだ。




伊那山脈の山影にあるこの場所には、1日の終わりを飾り付ける夕日もなく、ただひたひたと夜が近づいていた。

小川路峠という大きな不通国道の影に隠れて、“地形図に描かれていない国道”という変わり種が眠っていた。

そのことを知ったことが、今回の探索の成果である。

16:22 撤収開始。



オマケ: 県道上飯田線を使った帰路の気になったシーン


清水集落(折り返し地点)から麓の上町まで、県道を経由すると約3.1kmある。
全部下り坂なので自転車が欲しいところだが、ないので歩いて戻る。
細かいレポートはしないが、いくつか気になったシーンがあったので、かいつまんで紹介しよう。


16:37 《現在地》 

ここは折り返し地点から750mほど下ったところで、国道は少し前に下へ“落ちていった”。
国道側から見たとしたら、【ロックガーデン】の上部あたりだろう。
ここの土留め擁壁上に、石仏が安置されているのを見つけた。
しかし恐ろしく目立っていないので、車で通りかかったらたぶん気付かないだろう。

柔和なお顔つきをした小型の観音像であった。
そして、擁壁のせいで近づくことは出来ないが、光背部分の左右にそれぞれ「六」と「番」という文字が刻まれていることが見て取れた。

このように番号を振られた観音像は、古い参詣路でしばしば見られるものだ。
特に多いのが三十三観音で、文字通り1番から33番までの石仏が沿道に順序よく並んでいるものである。昔の人はこれを見て進み具合を知ったのだから、現代のキロポストに近いものである(等間隔に設置されていることは稀だが)。



16:42 《現在地》

“6番観音”の発見地点から5分ほど歩くと、県道が凄まじい絶壁を横断している場面に遭遇した。
これはちょっと無視できない道路の畏景であり、足を止めてしばし鑑賞。

国道が【荒れたスギ林】の中でぼんやりとしていた、その50mほど上部を県道は通過しているわけだが、ここまで険しいとは思わなかった。これは相当の難工事だったろう。……さっきまでは国道の贔屓をしていたが、この苦闘を見せられると県道にも肩入れしたくなった。

険しいお陰で、ここは見晴らしの良さもすばらしい。
ハングライダーでここから飛び降りたら、谷を跨いで向いのまだ明るい山へ辿り着けそうだ。
もちろん向いの山に写っているのは、私が背にした伊那山脈の大きな大きな影である。
今回の探索も、最序盤を除いてはずっと日陰の写真ばかり見せてきたが、別に天気が今ひとつだったわけではないのだ。むしろ快晴に近かったが、私の周りには日陰しかなかった。

4月という比較的に日の長い時期でも、午後5時前にはすっかり日陰になっている谷底のことを思うと、遠山郷の一帯が昔から稲作をほとんどしなかった事情がよく分かる。というか大抵の農作物には不向きだろう。代わりに木を切る杣人が多かったことと、単純に日光を焦がれる人間心理から、仙人境じみた高所にも多数の小集落を成立せしめたのだろう。
向いの明るい山上で悠々と残光を浴びているいくつかの小さな屋根たちは、私にそのような実感を抱かせた。



16:45 《現在地》

見晴らしの良い絶壁から3分ほど進むと、相変わらず険しい路肩にいくつかの目を惹くものがあった。
写真の中の「A」「B」「C」を順に紹介する。

まず「A」(→)だが、またしても観音像だった。
刻まれている仏像の姿は先ほどと違っているが、やはり光背に番号が刻まれていた。今度は「十一番」と。

6番から大して間を空けずに11番というのは、普通に考えると不自然だ。
だがそもそもの話として、これらの県道沿いにある石仏は、かつて古道沿いに安置されていたのだと思う。
古道と並行する赤石林道が開通し、それが県道として整備される過程のどこかで、使われなくなった古道に石仏が取り残されることを心苦しく思った誰かが移設したのだと思う。

古道では、【最初】こそ物凄く大量の石仏に出迎えられて驚いたが、それ以降は1体だけ【壊れた石仏】を見たくらいで、伝統的な秋葉道ならばもう少しあっても良さそうだった。
単純に道の荒廃によって失われたのかとも思っていたが、状態の良いものは県道沿いに移設されたのだと考えると、より納得できる。
そして移設が事実なら、番号が飛んでいることもそれほど不思議ではない。



(←)「B」は、「転落死亡事故現場」と書かれた、上村交通安全協会が設置した古い看板だった。

…ゾクッときた。

そういえば、私が【廃車体】を目撃した荒廃斜面は、ここの真下というわけではないと思うが、でもこの辺りの下だ。過去に何台も落ちているのか…。

そもそも、ガードレールのかなり外の崖縁という看板の妙な設置位置が、かつての恐ろしい道路風景を彷彿とさせた。昔はあの縁が路肩で、道幅もいまより遙かに狭かったのでは…。


「C」(→)は、観音像ではなかった。
台座に「交通安全」という文字が刻まれた、微妙に背丈の違う2体のお地蔵さまが寄り添っていた。
これまで目にしてきたどの石仏よりも新しく、一目で慰霊碑と分かる雰囲気があった。

裏に回って台座の文字を読んでみた。
やはり亡くなられた方は2名で、21歳の男性と80歳の女性の(おそらく)家族であった。命日は昭和47年1月2日。
赤石林道が開通して4年目の正月2日である。まだ県道になる以前のことで、道も良くなかったのだろう。
自動車による峠越えは、それまでの徒歩とは比べものにならない短い時間と少ない労力での行き来を可能にしたが、それでも命をかけなければならないことに違いはなかった。

古道に多くあった馬頭観世音の石仏を、県道沿いにまとめて移設しなかった理由がもしあるとしたら、それが個人的な慰霊の性格を帯びたものだったからだと思う。慰霊碑が後生に悲劇を繰り返させないように通行人への注意喚起を行う装置であるなら、遭難現場の近くにありつづけることに意義があるのだ。

手を合わせて、ここを離れた。



その後は県道もスギ林へ収まって、険しさはなりを潜めた。

今日の県道を通行止めにしていた工事現場にも途中で遭遇した(おそらく【大崩壊】の直上だったと思う)が、時間が遅かったのが良かったのか工事関係者の姿はなく、徒歩で普通に通りぬけることが出来た。
もし通れなければ、無理矢理に古道(国道)へ迂回しなければならないと思っていたから、助かった。
今ごろはすっかり道も治っていることと思う。




17:17 《現在地》

欲張りな私は、この後もう1件小さな探索を予定していたので、残りは下り坂をいいことに体力の続く限りマラソンしたので、清水集落を折り返して35分ほどで麓に着いた。
“マムシの大岩”の前に置き去りにしていた自転車を急いで回収し、スタート地点の上町へ戻ってきたのが17:17。折り返してちょうど40分後だった。

探索終了!