<1> 大坂隧道の開鑿と改修
都道215号八丈島循環線にある大坂隧道は、明治40(1907)年に開通し、その後何度か改修を受けて現在も同じ場所、同じ名前で活躍している。
隧道が整備される以前は、その上部の尾根を越える「大坂」という道が使われていたが、頂上部分に「大坂堀切」という、人工物とも自然地形とも判別が難しい、少々常識外に深い切通しが現存する。
今回の机上調査編では、大坂隧道とその旧道にあたる大坂堀切について、いくつかの文献の記述を元に、整備された経緯や通行体験談などを紹介したいと思う。
まずは大坂隧道だが、島の交通史を語る上で決して外せない重要な存在であり、かつ現在も日常的に利用されているため、文献情報は豊富だ。現地にも「大坂隧道之碑」と「同改修之碑」が並んで綺麗に安置されており、その内容は前編で紹介済だが、これら碑文からだけでも一通りの経過(明治38年着工、同40年完成、昭和41年改修着工、同43年完成)や、初代隧道の建設には阿坂という島司(とうし)の貢献が大きかったことなどが読み取れた。
碑文の復習となる部分も多いが、ここで改めて『八丈島誌』(八丈町教育委員会/昭和48(1973)年)による解説を紹介しよう。
阿坂多一郎八丈島司
(『黒潮に生きる東京・伊豆諸島(下巻)』より)
明治36(1903)年、2代目の島司として赴任した阿坂多一郎氏は、着任早々、島の開発にはどうしてもこの大坂越の難所を改修して、坂上・坂下の通行を容易にすることが重要先決問題であることを見抜き、積極的にこの問題と取り組んだ。阿坂島司は、まず法律に明るい大賀郷村名主浮田欽吉氏と、経済に明るい三根村名主持丸庫三郎氏を説得し、つづいて坂上三か村の名主たちの賛同を得たうえで測量に着手、明治38年、日露戦争の戦勝記念事業として新道の建設計画を進めた。
まだまだストーリーは続くが、阿坂島司による大坂隧道開鑿の第一歩が述べられている。
彼は着任早々、島内を地形的に二分してきた坂上と坂下の界にある大坂の道路を改修する必要を見抜き、まずは坂下2ヶ村の名主を説得し、続いて坂上3ヶ村の名主の賛同も得て、難事業に挑む下準備をした。
島の全部の村の代表から賛同を得ることは、小さな島ゆえに出来たことかも知れないが、後に繰り広げられる難工事ぶりを知ると、このような周到な準備がなければ、隧道の完成はずっと遅れていたように思われる。
ちなみに、明治期の八丈島における様々な事績を、人と物が豊富に得られる本土と同じ条件で捉えるのは適切ではない。
明治時代は島と本土を短時間で行き交える空路が存在しなかったことは当然としても(島に空港が出来たのは昭和2年)、海路についても、三宅島と八丈島の間に黒潮の最も強力な海流があって小型船の往来が困難であったことや、近世の終わりまで島は流刑地であって年2回以内の航海に限定されていた影響もあって、そもそも本土との交流が薄かった。
明治時代に入っても島と本土を結ぶ定期便はなかなか開設されることはなく、ほとんどの島民は明治初期の短期間に島の管轄が韮山県(明治元年)→足柄県(同4年)→静岡県(同9年)→東京府(同11年)と変わっていたことを知る由もなかっただろう。明治20(1887)年にようやく国営の定期汽船が開設されたが、これは小笠原行きの船がわずか年2回寄港するのみであった。翌年に日本郵便会社の補助航路となって年4便に増えたが、こんな不便な状況が明治の終わり頃まで続いた。ようやく月1回の定期船が確保されたのは明治43(1910)年である。
阿坂島司は、このような本土とは隔絶に近いような状況にある島に赴任し、そこで短期間に島の有力者の賛同を得て、未曾有の大事業に乗りだしたのであった。
計画の内容をみると、つづら折りの横間が原の小道を捨てて、大里から一気に横間越に通ずる新道を開発したうえで、長さ93間(約170m)のトンネルによって坂上・坂下を結ぼうという、当時としては画期的な計画が描かれていた。
当時、島民の多くの声は阿坂氏に冷たかった。横間越に道路を作ることすら難しいのに、そのうえトンネルを掘るのはとても不可能なことだという声が強く、中には、もし新道ができたら首を一つ出そう、トンネルが開いたら首を二つ出そうというほどの強硬な反対論もでた。
しかし、阿坂島司は初心を曲げなかった。
各村の有力者を説き、請負い業者に頭をさげて、ついに総額800余円で工事を開始することができた。
ここに阿坂氏による新道計画の概要が述べられている。
合わせて、旧道がどのようなものであったかも多少分かる記述になっている。
すなわち、「九十九折りの横間が原の小道
」というのが頂上に大坂堀切を有する旧道であり、それをまるきり捨てて、新たに「大里から一気に横間越に通ずる新道
」と「長さ93間(約170m)のトンネル
」を整備することにしたのであった。
右図は隧道が整備されて間もない大正元年の地形図だ。
既に旧道は描かれておらず、頂上に隧道を持つ新道だけが「里道(達路)」として表現されている。
図の一番上に「大里」があり、ここが坂下に属する大賀郷村の外れにあたる。そこから横間越と呼ばれていた急な山腹をトラバース気味に登って高度を稼ぎ、最後は従来の峠の下にトンネルを通して坂上へ抜けるという一連の新道ルートは、全体が緩やかな勾配となるように設計された、車道化を念頭にしたものであったことが伺える。そのルート設計の完成度の高さは、現在も(防災や拡幅の目的で概ね高架化されたとはいえ)ほぼ同じ位置に都道があることに証明されている。
だが、この新道や隧道の計画に対しては、各村のトップである名主の賛同は得たものの、村民の中には実現を疑う声や、成功を望めない事業として強行に反対する声もあったという。
それでも島司は初心を曲げず、「できらぁ!」と言ったかは定かでないが、着工まで辿り着いたのだったが……。
工事はほぼ2年続いた。その間、政府や東京府からの補助は一銭もなく、すべて五か村島民の血税によるものであったが、予想通りの難工事に、費用はまたたくまに入札価格を上まわり、当初35銭であった日当が、決算では8銭3厘しか支払えない事情に陥り、倒産する請負業者も出るありさまであった。
予期していたことではあったが、工事の途中たびたび大崩壊が起こり、そのつど何人かの犠牲者を出し、必然的に経費の増大と工事の遅延という悪条件が加わった。
しかし、阿坂島司の熱意に感じた島民の努力で、明治40年、さしもの難工事は終わり、島の歴史を一変する大坂トンネルが貫通した。
大事の前の小事ということであったのかもしれないが、現地の『隧道之碑』で描かれていた以上の、物凄い島民の犠牲の大きさである。
時代が違うといえばそれまでだが、もし現代の公共事業であったなら、島司は罷免を免れまい。
しかも、この手の話では良く出てくる、事業の言い出しっぺである人物(今回であれば島司)が私財を傾けて完成させたというエピソードも、見えない。書かなかっただけで実際はそれをしていたのだとしたら恐縮だが、私が読み込んだ資料の中にはそのような話はなく、破産まで陥ったのは、(落札した内地の)請負業者だけであったようだ。これではさすがに、「できたら首を一つ(あるいは二つ)出そう」と言っていた島民から首を貰うのは申し訳なさすぎる(汗)。
この工事の模様を、実際に工事に参加したことがある島民の磯崎八助氏より聞き取った内容が、雑誌『富士』からの転載として『島誌』に次のように掲載されている。
私はその頃まだ18才くらいでしたが、ほとんど島中の人があの工事には賦役に出ましたよ。夜もたいまつをつけてやったもんです。わたしらが一番心配したのは、坂上と坂下からトンネルを掘ってって、うまくぶつかるだろうかっていうことでしたが、実際に貫通したときは3寸(約9cm)くらいしか誤差がありませんでしたな。貫通したのはたしか夜中でしたが、阿坂さんもぞうりをひっかけてかけつけて来ましたよ。それにしても、あの工事のために財産を潰した人も何人かいて島民の犠牲も大きかったと思います。
この貴重な聞き取りにより、工事にあたったのは内地で落札した専門の請負業者だけではなく、島民自らも賦役にあたっていたことが分かる。それも大半の島民が工事に参加したというから、三島通庸時代の工事を彷彿とさせるものがある。また、隧道が両坑口より同時に掘る迎え掘りによって建造されたことも分かる。夜中に隧道が貫通して島司が駆けつけてくる場面も、栗子隧道と三島通庸で同じ内容が記録されている。突貫工事であったことが分かる。
そして、この聞き取りでも改めて島民の犠牲の大きさが読み取れる。ここまで犠牲を強いたとなると、たとえ隧道が完成しても、島民から島司への風当たりが強くなったのではないかと思いきや、そうはならなかったようだ。なぜなら……
その後、阿坂島司は全島一周道路を計画したが、時の東京府知事阿部浩氏の許可をうることができなくて、かえって休職を命ぜられて、明治42(1909)年1月、その職を解かれた。
島を去る日、港をうずめた島民は、阿坂氏との別れを惜しんで号泣したと伝えられている。
当時の島司は東京府知事の指揮下にあった。阿坂島司は大坂隧道が完成すると直ちに、島のもう1つの難所である登竜峠の開鑿を含む「全島一周道路」を計画し府知事に申請したが、このことが原因で職を解かれることになったというのである。
磯崎八助氏の談話によると、当時の阿部浩知事は、「日露戦争が終わって、国民が疲れ切っているときに、君は名を売るためにやろうとするのか」と突っぱねたというが、阿坂島司は食い下がり、結局許可されなかったうえに「文官分限令」に触れたとして休職を命ぜられたという。
今となっては、果たしてどちらの言い分がより島のためになっていたか検証は出来ないが、ともかくこうして阿坂島司はわずか6年間で島を去ることになった。彼の業績は大坂隧道に代表されるが、他にも後に島の一大産業となった乳牛を導入したことも挙げられる。ちなみに彼が夢見た島一周道路が完成したのは、戦後に東京都が都道事業として登竜峠を開鑿した昭和35(1960)年だから半世紀後のことである。
阿坂多一郎の人生について、あまり多くは伝わっていない。
文久3(1863)年の生まれであり、八丈島に赴任したのは40才のときであったが、直前までは日本海に浮かぶ隠岐島の島司であり、後年には島根県の代議士にも立候補している。そして隠岐島には明治生まれの隧道が多数ある。その中に彼が関わりを持ったものがあるかは未確認だが、八丈島最古の隧道(おそらく伊豆諸島全体で最古の隧道)が、遠く離れた隠岐島から来た人物の手で生み出されたことは、意表を突く接点として記憶しておきたい。
阿坂島司による大坂隧道建設事業は、『島誌』では次のように締め括られている。
昭和初期の大坂隧道
(『黒潮に生きる東京・伊豆諸島(上巻)』より)
その後、この新道の利用価値が高まるにつれて、この大事業は後世の人々の感謝の的となり、大正13年、島民有志によって、阿坂氏の英断を称える「大坂隧道の碑」が隧道の入口に建てられた。
島民の大きな犠牲のもとで完成した大坂隧道は、その後大いに活躍し、大正13年に島民は隧道への感謝を込めて『大坂隧道之碑』を建てた。
別の箇所の記述によると、碑は隧道の北口に建てられたが、後に土砂崩れで埋没して失われ(おそらく昭和40年代の改修時の土砂崩れ…後述)、『島誌』が刊行された昭和48年当時もそのままであったようだ。したがって現在の隧道北口付近の旧道入口に立つ【大坂隧道之碑】は、近年に再刻再建されたものである。
右画像は、昭和初期に撮影された大坂隧道の姿である。
むくつけき素掘りである。
装飾的な要素は全く見られない。扁額もない。しかし、一緒に写っている人物や隣の電柱と比較すると、意外に大きな断面だ。4m四方くらいはありそう。また、断面は半円形ではなく五角形に近い感じがする。坑口上部や両側をかなり掘り下げているように見えるので、【坂上側坑口】の可能性が高いか。
この写真の撮影は昭和初期と転載元にあるが、明治40年に完成した当初の姿ではない可能性が高い。
後述するとおり、昭和初年に隧道が拡幅を受けた可能性が高いためだ。そしてこれより古い時期の写真は見たことがない。
完成直後の隧道を通った“車”といえば、島の特産品である蚕糸や木炭、島外より持ち込まれた生活物資を運ぶ荷車くらいであったろう。あとはみな人と牛馬であった。だが、明治41年にバター、大正2年にくさやといった新たな特産品の製造も始まり、隧道はそれら全ての輸送路となった。
交通量は増え続け、やがて自動車の導入が始まった。
昭和初年に改修して延長152m、幅3.5m、高さ3mとしたが、車輌の大型化によって近代交通の用に堪えなくなり、坂下・坂上交通上の一大隘路となってきたので、隧道の切り拡げと横間道路改修は多年の懸案となっていた。
大正14(1925)年に初めて島内にトラック(自動車)が持ち込まれたが、隧道や横間道路を自動車が通るには改修が必要であったようだ。
『島誌』に上記の通り記録されている、昭和初年に行われたという隧道の改修は、上記の他に情報がなく詳細不明であるが、明治40年の開通当初は先ほどの写真よりも断面の小さな(そして少しだけ長い)隧道だった可能性が高い。
昭和4(1929)年5月、静岡県沼津市でハイヤー業を営んでいた芹沢竹太郎という人物が事業を本島へ移転し、ハイヤー業を始めた(2年後に貨物運送業も兼業)。彼は昭和5年に全島一周道路の開設を計画して、その第一次計画として、大賀郷村から樫立村までの横間道路を自費で拡幅し、三根村から中之郷村まで自動車が通れるようにした。
このとき、隧道がさらに拡幅を受けたかは定かでないが、横間道路が拡幅されたのは確実である。
こうした一事業者による献身的な道路整備の甲斐もあって、島内5ヶ村のうち4つの村を自動車が通うようになった。これでますます島内の交通は盛んになり、大坂隧道の利用も増大した。
また遅ればせながら、この時期からは東京府でも毎年補助金を出して島内の道路整備を行っている。
初めて(県道に相当する)東京府道が島内に指定されたのは昭和16(1941)年であり、大坂隧道は島で最初の「府道」となった。大坂府道じゃなく東京府道の大坂隧道。昭和18年に東京府は東京都となったが、正式に「都道」となったのは昭和27年の道路法改正時である。
八丈島の道路史に再び大坂隧道の名が現れるのは、だいぶ下って昭和40年代だ。
昭和35年には長年の悲願であった島内一周道路が都道として全通していた。
昭和40年代、折からの離島ブームと相まって、飛行機で手軽に訪れられる離島である八丈島は空前の観光ブームに沸いていた。特に新婚旅行先としては国内屈指であった。
島内の観光開発や道路整備が急がれ、明治以来素掘りのままであった大坂隧道にも、ついに刷新の時が来た。
昭和42年10月、大坂トンネルの改修工事が着工した。その坑道は、幅3.5m、高さ3.9mで非常にせまく、道路構造令の制限高さ、4.5mに程遠く、その上素掘りの断面もあるので年とともに風化がひどく、数ヶ所が落盤しているところもあったので、改修が迫られていた時でもあった。バスの屋根や、トラックの積荷がトンネルの岩石に接触したり、落石にも悩まされていた。
これを、道路構造令の基準にのっとり、有効高さ4.5mを基準として、実高6.5m、有効幅員は6.5mで、実幅は7.3mになるような計画であった。
トンネル改修に先立って、横間道路の改修も進められていたが、昭和42年4月12日未明、大坂トンネル大賀郷側上層が約30mにわたって崩壊するという事故が発生した。トンネル口は完全にふさがり、道路の半分をけずりとられ、通称横間が原下約200m、一直線に地すべりを起こした。幸い、道路改修後の整備と、トンネル改修準備のため通行止になっていたので、人畜や車輌などには被害はなかったが、流域の山林、畑は流れ出した土砂でかなり大きな被害をこうむったようであった。電話ケーブルも100mにわたって切断された。
『黒潮に生きる東京・伊豆諸島(下巻)』より
改修直前の隧道の断面サイズが書かれているが、これは『道路トンネル大鑑』に記録されていた数字とほぼ一致する。
また、昭和初期に撮影されたという先ほどの古写真の坑口サイズとも一致するように思われる。
隧道の通行の頻繁さを考えれば、もっと早くに改修されていても不思議はないように思うが、逆に通行量が多すぎて、改修のために通行止にすることが出来なかったのだろう。昭和35年に登竜峠が開鑿され、大坂隧道を通らなくても坂上と坂下を行き来出来るようになって、ようやく大規模な改修に着手出来るようになったのだと思う。
隧道の改修直前に、隧道北口を埋めるほどの大規模な山崩れが起きたことも記録されている。このときに大正13年に建立された初代の『大坂隧道之碑』も失われたようである。
改修後の大坂隧道を、島の地方紙である南海タイムス誌は、当時建設されたばかりである国道20号の笹子トンネルより大断面であることを挙げて、「国道なみのトンネル」として誇らしげに報じていた。
昭和43年7月5日に盛大な完成式典が催され(右画像)、同日正午より交通が再開された。
この時の改修や、さらに平成初期に行われた坂下側坑口の改修、そして横間道路を高架化する大規模なバイパス工事の完成により、誕生から110年を超える大坂隧道は今日も島の大動脈としての面目を保っている。
以上が、大坂隧道に関わる経緯である。
私が特に印象に残ったのは、初代隧道が島民の大きな犠牲と献身によって完成していたことだ。
阿坂島司の偉業という面が碑文などでは強調されているが、彼を信じ、その手足となって働いた島民の功労を忘れることはできない。
だが幸いにして、完成した隧道は驚くべき長期間にわたって、功労者の島に恩恵をもたらし続けている。
喜ばしいことである。
<2> 大坂堀切の伝説と、旧道としての実態
現地調査により、大坂隧道より30mほど高い尾根上に発見されたこの写真の切通しは、かつて「大坂堀切」と呼ばれており、隧道が建設される以前の坂下と坂上を結ぶ重要な通路だった。
この切通しは一般的なものと比べると極端に深く、かつ両側の法面が垂直に切り立っているうえ、人がノミやツルハシで削った際に作られたような明確な痕跡もなく、果たして人工的に作られたものか、もともと自然に形成された地形を利用したものなのかが、現地では判断が出来なかった。
今回の机上調査では、一度目にすればなかなか忘れ難い姿をしているこの切通しについて、新旧の文献にみられる記述を整理し、その正体を解き明かす事を目的とした。
まずは島の代表的な文献である『八丈島誌』に書かれている内容を拾ってみよう。
この社の前方100mの所には、椅子に似た高さ2mほどの大石があり、これが為朝の腰掛石と言われている。ここから南の方を仰ぐと、大坂峰の右方断崖に凹地がある。為朝が弓で射通したという所である。大坂堀切というのがここで、旧島道になっていたが、そこは八丈島第一の難嶮であった。
上記引用文の冒頭にある「この社」とは、横間道路の入口に面して鳥居が立つ【為朝神社】を言っている。
為朝神社の前方100mにあるという「腰掛石」付近から源為朝が放った矢が射通した場所が「大坂堀切」であるという。
これは島に沢山ある為朝伝説の一つで、大坂堀切を調べると必ず出てくる話だ。
源為朝(1139-1170)は、実在する平安時代末期の武将で、身長2mを超える剛の者であり稀代の弓の名手でもあったとされる。保元の乱(1156)に敗れて伊豆大島へ流刑となるが、その後も追討を受けて三宅島から八丈島へ渡り、そこで妻を娶り子を育て、島民にも様々な知識を与えて教化したが、再び追討軍と戦い最後は八丈小島で自害したとされる。
こうした史実とは別に、伊豆七島の全域に為朝の超人的な活躍を伝える伝説が広く分布しており(放った矢が刺さった場所から清水が湧いたというような、他の地方では概ね弘法大師が担当する種類の伝説が多くある)、彼の威徳を慕った島民が勧請したとされる為朝神社も各地に点在する。
「八丈島の為朝伝説」によると、かつては腰掛石の近くに「足跡石」もあったといい、江戸時代後期の文政期に書かれた『旧昔綜嶼噺話』(むかしのいとしまばなし)には、「樫立村へ越る所に御足跡あり、此は其所の峰を射切て道にし給ふ時の御足跡なりとかや
」とあるほか、同年代の地誌である『八丈実記』にも、「為朝御曹子、赤間里ノ腰掛石ヨリ弓勢ヲ試ミ、射抜玉フ矢、中之郷中里ナル農家宇右衛門ノ庭ニ落ル
」と紹介されているなど、江戸時代後期には既にこの伝説は島外にまで紹介され、かつ、射抜いた所は「道」として使われていたことが分かる。
右の写真は、為朝神社付近から大坂堀切のある稜線を遠望している。
直線距離で約1200m離れており、かつ約100mの仰射となる。
これを射抜いたとはまさに超人の業であるが、ターゲット自体は十分目視出来るので、仮に為朝が“かめは○波”のようなものを撃てたとしたら、史実であるかもしれない。
ともかく、ここで重視すべきは、江戸時代後期には既に大坂堀切は道として利用されていて、かつその由来が為朝伝説をもって語られていたという、この2つの事実だ。
したがって、少なくとも明治以降の近代的な土木技術を用いてゼロから人工的に作られた切通しでないことは確実となった。
昭和36(1961)年に東京都教育庁八丈出張所が発行した『註解八丈遺文』は、島内に残る様々な古文書や古碑、詩作、伝承などを集めて解説した文献だ。「大賀郷堀切」として大坂堀切を取り上げており、やはり為朝が射抜いた伝説を紹介しているのだが、「堀切という切通しは、現在も大坂トンネルの上に昔のままの姿で残っている。天然にできたものか、人為によるものかは知る由もないが、為朝が射抜いたとはうまく言ったものである。
」と評していて、これは数少ない、実際に堀切を訪れた体験談を含んでいる。そしてその中で、人為か天然かは分からないと書いているのである。
当時既に、切通しが人工物であるか否かが明確に伝わっていなかったことが伺える。
これより古い文献を調べてみると、昭和3(1928)年に発行された八丈島のガイドブックである『八丈島仙郷誌』に、次のような記述を見つけた。
為朝の腰掛石がある。(中略)此所から南の方を仰ぐと大坂峯の絶壁であって、右の方断峯に凹地がある。為朝が弓で射通したと言ふ所である。その矢が、樫立村の村道路の箭立土に落ちたといふ口碑が伝へられてゐる。大坂堀切といふのがここで、為朝が弓で射通したといふ所を掘切って、旧島道を造ったのであるが、そこは、八丈島第一の難嶮であった。大坂の新道は左の方山麓にうねって逢坂隧道になっている。
……このようにあって、先に紹介した『八丈島誌』の記述は、この文献を元にしていると伺える内容なのだが、為朝が弓で射通したといふ所を掘切って、旧島道を造ったという表現に注目したい。
これは、為朝が射通したという伝説を有する凹地が先に有り、そこを掘り下げて道路としたと捉えられる記述だと思う。
つまり、予めあった地形に手を加えて道を造ったという、天造人造の合作であるという結論だ。
他にもいろいろな文献を調べたが、堀切が純粋な人工物であるという記録は見当らなかった。
仮に、純粋な人工物であったとしたら、その偉大な工事を成功させた人物の名は、かの阿坂島司のように顕彰されるのではないか。だがそういう記録が見当らず、為朝伝説によってのみ由来が語られていることは、逆説的に、大坂堀切の主要な部分が自然地形であることを示しているとも考えた。
以上が、私が文献の調査から導き出した、人造 or 天造 という疑問への答えである。
ただ、より具体的に、堀切にどの程度まで人が手を加えたかは、やはり情報が少なく判明しなかった。
現地には、堀切の底に柱を立てたような工作の痕があるが(→)、これが行われた時期も判然としない。
しかし例えば、昭和49(1974)年に東京都教育委員会が発行した『文化財の保護 第6号』には、大坂隧道が整備される以前にも大坂の道路整備が行われたことを示す次のような記述があった。
坂上と坂下を結ぶ大(逢)坂峠は、坂下の2港が多く使用されることもあり、坂上の人々にとっては特に大きな意味をもっている。しかし、この峠道は急な斜面を通る細い道で、牛を引いてやっと通るほどの狭さであった。明治17年にはこの付近の工事が行われたことが記されている。この工事は、「各村一戸宛の人夫を差出し、各一人五尺五寸を割付、一日で竣成した」とあるから、五ヶ村共同の事業として行われたことが分かる。
残念ながら下線部を記しているとされる原典は不明だが、明治17年に大坂峠道を改修する工事が島内全戸の賦役によって実施されていたというのだ。
まあ、わずか1日で竣成したのが事実であれば、地形を大きく変えるほどの大工事ではなかったと思うが…。
ここで峠の頂上にある堀切から離れ、現地探索では時間切れのため踏破を断念せざるを得なかった、大坂峠の旧道全体についての記録も見てみよう。
大坂越は、上るも下るも急坂な上、その土質から崩壊しやすく牛による運搬さえもままならぬ険阻な道で、樫立・中之郷の村民の中には、遠く登竜峠を越えて坂下に下る者もいて、島の発展には一大障害になっていた。
(中略)
この険悪な峠道には、島民はほとほと困りはてたものであった。坂の途中にはとがった石が乱雑にたちふさがり、登るにはどうにかなったものの、坂下へくだるのが一番こわかった。ショイコに荷物をつけてくだると、ショイコが石の端にあたれば、まっさかさまに転落するおそれがある……
この後段は、旧道が凄まじい急坂道であったことを伺わせる記述となっている。
現地は右画像のような地形であるから、150m近い落差を短距離で上り下りしていたのであろう。
八丈町の公式サイトには、島言葉と呼ばれる八丈方言を伝承する目的で、録音された会話や文字起こしが公開されている。
この中に、隧道建設直前の大坂峠を、17〜8歳の時に通ったという明治18(1885)年生まれの女性の話があり……
トンネルで通じてなくて、あそこは上へ上へ下から岩の所を跳ねて行くぐらいになって、ノミでも跳ねて行くように、あそこを上がったものだね。……あのトンネルの上へ、四つん這いになりながら、這い上がって……(夜中の)1時 2時に、あそこのトンネルの上に這い上がって、四つん這いになって、こわい道を行くのは怖かったですよ。
……上記のような事が語られている。
引用は省略したが、人を化かす魔物が出るという話がまことしやかに言われていたそうである。それほど寂しい道であったのだろう。
あのとき私も無理矢理に突撃していたら、船の時刻に間に合わないどころか、2度と島からは出られなくなっていたかも知れん…。
八丈町公式サイト「八丈八景F 大坂夕照」より
さらに調べを進めると、面白い絵図を見つけた。
右の画像がそれで、江戸時代末期の慶応2(1866)年に、当時流罪中であった鹿島則文が、八丈島の優れた景勝を選んで名付けた「八丈八景」から、「大坂夕照」(おおさかせきしょう)の絵である。
現在の為朝神社あたりから、横間ヶ浦の太平洋に沈む夕陽と大坂峯の突兀とした山嶺を描いている。
なんと頂上には、今日のそれと変わらぬほど深い切通しが見える!
明治以前の絵であるから当然大坂隧道は存在しないが、麓から峠の堀切へ通じる道は明らかに2本ある。
1本は、横間ヶ原から少数の九十九折りを交えつつ一気によじ登っている。
もう1本は、いまの都道(横間道路)に近い位置を崖に沿ってグネグネと登っていく。
これは驚いた。
幕末には既に2本の道があったのか。
おそらく、前者は大坂越、後者は横間越と呼ばれていた道だ。もしかしたら後者が新しいのかも知れないが、詳細は分からない。
いずれにせよ、明治の隧道工事よりも前から、横間道路に近い位置から峠に至る道も存在したらしい。
大坂堀切も既に、麓から鮮明に見えるほど、深く刻まれている。
いやはや、マジで江戸時代から大坂堀切はその威容を見せつけていたのだ。
そんな巨大な切通しの大部分を誰が作ったかといえば、為朝の名を借りた天造に属するものということになろう。
すなわち、自然現象が作り出した地形である。
というわけで、最後は歴史ではなく、地学的な面からも少しだけ現場を考察したい。
国土地理院が最近作成公開した火山土地条件図「八丈島」およびその解説書により、火山島としての島の地形の成り立ちをよく知ることが出来るのだが……、驚いた。
国土地理院「火山土地条件図「八丈島」解説書」より
右図を見て欲しいが、大坂堀切の北側に広がる急崖に三方を取り囲まれた横間ヶ浦は、なんと、爆裂火口だという。
解説によると、約10万年前に海底火山から浮上してきた古期東山火山(三原山を作った火山)が先にあり、それからずっと遅れて約1万年前からその北側に西山火山(八丈富士)が浮上してきた。
同じ頃に、東山火山の海岸線に近い横間ヶ浦でも激しい水蒸気爆発(地下の熱源が海水と反応して爆発する現象で溶岩を噴出しない)が起り、その時に開いた爆裂火口が、横間ヶ浦を取り囲む急崖地形の正体だった。
アッハハハハハ………ハハハ……
(←)現在の地形と重ね合わせてみると……
なるほど、確かに火口っぽい!
マジでなんて所に道を通してやがるんだ…八丈島!
爆裂火口が生じた時期は、1万年前から4000年前までの範囲にあるらしく、その頃島に人が定住者があったかは知らないが、意外に最近だ。少なくとも、我々が目にする地形の由緒としてはずいぶん新しい。
かつて島の人々がここを火口跡と知りながら道を作っていたかも証言がなく不明だが、我々本土に住む人間の前に、いつでも気軽に訪れられる八丈島がお出しされた時点では、とっくに島民によって、このような凄まじい場所での道路開発が済んでいたのだから驚きだ。
改めて地学的にみると、この(→)大坂堀切がある場所というのは、古期東山火山の山体を、海面の高さから豪快に吹き飛ばした巨大な爆裂火口の縁である。
なんとも非日常的な地形である。よく目にする普通の山の尾根では全くなかった。
そんな特異な場所であれば、平穏な侵食の作用では少々説明しづらい、尾根を断ち割る異常に深い亀裂のようなものが、生じることがあったかも知れない。いや、むしろありそうな気がしてくる。
残念ながら、大坂堀切がなぜ出来たかを地学的に研究した文献は未発見だが、もし過去に研究の対象となっていたなら、答えを知りたいところである。
あるいは、これを読まれた方の意見もお伺いしたい。
島は、必ず私を驚かしに来るな。
今回、廃道区間の存在を知覚しながら時間切れで踏破できなかった負い目と、探索自体の短さからこのレポートは「ミニレポ」としたのだが、ミニレポってナンダッケなぁ……
大坂と逢坂 その由来について 2023/9/16追記
歴代の「大坂隧道」は、この表記が正式な名称であるようだが、一部に「逢坂隧道」と書いているものがある。
本編に登場した文献だと、『道路トンネル大鑑』や『八丈島仙郷誌』などだ。
なぜ大坂が逢坂なのか、書き換えが起きている根拠を知りたいと思っていたところ、『註解八丈遺文』に次のような解説があった。
その昔、坂上・坂下の若き男女が、互いにこの坂の辺りで逢瀬を楽しんだところから、誰言うとなくこの坂を逢坂と呼ぶようになったが、いつの頃からか大坂と書かれるようになったという。
途中までは、さもありなんなエピソードだと微笑ましく思ったが、終盤、どんでん返しだ。
もとは「逢坂」と呼ばれていたものが、いつの頃からか「大坂」へ変わったのだという。
道理で、逢坂と記した文献は古いものが多いわけである。
とはいえ、漢字から地名が生まれたわけではないはずで、「大きな坂」だから素朴に「おおさか」と呼ばれたのが本当の最初であって、後に地名を表記する必要に迫られてきたところで、男女逢瀬のエピソードも踏まえてより美しい「逢坂」となり、しかし島民にとっての実感は圧倒的に「大坂」だから、やがてそれが定着したという感じなんだろうと個人的には思っている。
逢坂という地名は、いずれも男女邂逅の物語を秘めて日本各地に存在する。その全てが所詮は大坂だったのだろうと決めつけるのは乱暴だが、八丈島のそれはどう見ても「大坂」っぽい地形だ(苦笑)。
「大坂隧道之碑」に関する追記 2023/9/16追記
現在の大坂隧道坂下側坑口傍に安置されている「大坂隧道之碑」(右画像)が、後年の再建碑であると考える根拠について本編では十分に示さなかった。
文献に記録されている碑文と、現在の碑の文が一部異なっていることが、その最大の根拠だ。
旧碑は、昭和42年に発生した大規模な土砂崩れによって坂下側坑口が埋没した際、土砂と一緒に流失して未だ発見されていないと考えられる。
ここでは、旧碑と新碑の碑文の違いについて紹介したい。
前編にて新碑の碑文の書き下し文を掲載したが、ここで旧碑の碑文を原文である漢文のまま紹介する。
ソースは、『註解八丈遺文』である。
なお、赤字の部分が、新碑と異なっている部分となる。
一三位東京府立第四中学校長正六位勲六等 深井鑑一郎 撰文
平井博 書
東京青山 石勝 刻
違いは4箇所あり、まずは題字にある「隧」の字が、旧碑では「隊」となっている。
「やらかしやがったな!」 と思った人も多いだろうが、これについては、後述する。
残りの違いは、全て旧碑にだけあり、新碑からは削除された内容だ。
府知事の名前が削られているあたり、まさか大坂隧道の大恩人である阿坂島司を解任した府知事への恨みがまだあって…?! なんて深読みをしかけたが、他の削除部分も見れば、そうではないことがすぐ分かる。
これらの削除は全て、旧碑の篆額(石碑などの上部に篆書で書かれた題字)を記した人物、旧碑の碑文を清書した人物、旧碑を製造した石屋さんの名前であり、いずれも新碑とは異なるものであるから除外したのだろう。
なお、本編では紹介を忘れていたが、新碑の裏面にも文字が刻まれている。旧碑にもおそらくあったと思うが、定かではない。
内容は以下の通り。
三根村名主 持丸庫三郎
樫立村名主 峯元恒次郎
中之郷村名主 菊地初蔵
末吉村名主 佐々木惣市
測量技手 大坂辰衛
工事請負者 岡田恒太郎
7名の役職と氏名が列記されているだけで、他は何も書かれていない。
当時の島内にあった5ヶ村の名主が全員集合しており、まさに島を挙げた工事であったことが伝わってくる。『八丈島誌』にも、工事前に阿坂島司は全ての名主に協力を取り付けたとあったが、その通りなのだろう。
そしてその後には、文献では見ることがなかった名前が2人。
初代隧道の測量を務めた八丈島島庁の技手・大坂辰衛と、工事を請け負った岡田恒次郎である。
『島誌』には、隧道は大変な難工事となり、「費用はまたたくまに入札価格を上まわり、当初35銭であった日当が、決算では8銭3厘しか支払えない事情に陥り、倒産する請負業者も出るありさま
」とあったが、この岡田氏の会社がどうだったかは明らかでない。しかし請負人として唯一名前が刻まれているのだから、工事で中心的な役割を果たしたのだろう。
最後に、旧碑の篆額の文字が、「大坂隧道」ではなく「大坂隊道」となっていた件についてだ。
おそらくオブローダーであれば、これまでどこかしらで「隧道」を「隊道」や「随道」と誤記した場面に遭遇し、その不注意や無知を嘲ったことがあるかも知れない。
私も恥ずかしながらその一人なのだが、今日ばかりは自らの無学を反省しなければならない。
なぜなら、『註解八丈遺文』に次のような解説があった……。
碑の篆額では、隧が隊となっている。篆書では隧の字が隊の字と同字体にされているから、隊と書いても間違いにはならない
マジかよ!
篆書というのは字体の一つで、昔から格式が求められる場面、特に碑の題字によく採用された。篆書体で書かれた題字を、特に篆額と呼ぶほどだ。
旧碑は題字が篆書体で書かれていたらしい。だから、隧道ではなく隊道と書いたのだ。
一方、新碑の題字は篆書体ではないから、隊道では誤字になるので隧道へと修正されたのだ。
ふ、深いッ…!
石碑なるものは、悠久に近い時を長らえる特別な記念物である。
したがって、その時代の知恵者が集って、本気で作っているのである。
ゆえに、私ごときが安易に笑えば、そこに壮大な墓穴が待ち受けていることをもっと恐れるべきであると、大いに自戒する出来事だった。
字体によって、誤字になったりならなかったりというのは、考えたことがなかったぜ…。
完結。
『島司:阿坂多一郎 ―Episode 0―』は、こちら……