2018/5/25 16:21 《現在地》
ウエントマリの駐車場から旧国道へ自転車で進入して10分後、1km地点にて、封鎖された鵜の岩トンネル西口と遭遇。そこから徒歩に切り替えて、旧々道による隧道の迂回を開始。さらに40分後、ついに迂回を成功させ、平成14年の旧道化以降のオブローダーによる到達記録未確認である、樺杣内側の領域へ到達したのが、今だ。
ここ、鵜の岩トンネル東口から約1.5km先にあるビンノ岬トンネル西口が、今回探索の最終目標地である。
というわけで、ここからが今回の旧国道探索の本番だ。
まずはここで、この先の探索ルートを選ぶ。
鵜の岩トンネルと短いトンネルに挟まれた区間に上陸するための“第1ルート”と、短いトンネルのさらに先へ上陸するための“第2ルート”から。
私は、手近な前者から順に探索を進めることにした。
上陸を前に振り返る、迂回ルートの出口。
ここには現国道から見て旧々道にあたる道があったはずだが、岬の石門のこちら側に、最後まで道の痕跡を見なかった。
もともと大きな道ではなかったのだろうが、山の形が変わってしまうほどの巨大な岩崩れや海岸の侵食のために、完全に失われたのか。
だが、私にとっては、ただ一つの生還ルートである、とても大切な道だ。
暗くなる前にここを通って脱出しなければならない。どういうルートで通過してきたのかを、よく目と記憶に焼き付けておこう。
それにしても、全長300mほどの鵜の岩トンネルの迂回は、せいぜい500mくらいの行程であったはずだが、想像を遙かに上回る衝撃的な発見に彩られていた。
この探索のメインにはならない、ただの障害と見込まれていた区間が、一生忘れない印象を残すことになった。
しかし、そのことはひとまず忘れよう。また、旧国道が始まる。
これは、海岸線から見上げた、鵜の岩トンネル東口だ。
窓の一切ない、巨大な箱のような覆道に接続されているが、それは開通当初からのものではなかったはず。
その本来の坑門と思われる構造が、わずかに、覆道の縁から頭を出しているのが見えた(矢印の位置)。
古いコンクリートと新しいコンクリート、その風合いの違いは鮮明で、過酷な北の大地で打ちのめされてきた期間の多寡を如実に物語っていた。
役目を終えた道を守っていたのは、覆道だけではなかった。
坑口の二方を塞ぐほとんど垂直に近い、高さ50mにも達する大崖壁には、巨人が纏う鎖帷子(くさりかたびら)の如き落石防止ネットが張り巡らされていた。
身を守るための鎧だったが、放置の末に綻びが始まり、既に哀れなる“落武者”を印象づけるボロ衣になりつつあった。
40分ぶりに、旧国道にタッチした。これは私にとって快哉を叫びたくなる偉大な一歩だった。
そこから一歩進んで上陸するには、垂直のコンクリート壁が障害で、これも少しだけ手強かったが、身軽になって(どうせ戻ってくるのでリュックはここに残した)突破した。
さっきからずっと陸の上には居るが、この一連の行程におけるこの瞬間を、もっとも実感に近い形で表現できる言葉は、“上陸”をおいてほかにはないと、私は思っている。
上陸後、本来通路として準備されたわけではなさそうな犬走りの部分を横に移動して、覆道の切れる地点を目指した。
振り返ると、あの不気味な海蝕洞が、巨大な口を開けているのが見えた。
その姿は本当に、私が知る道路というものの次元を超越した感じがあった。
この眺めを見て、あの黒い洞窟が、海面もろとも反対側へ抜けていると予測する人はいないだろう。
まして、そこに道が付けられているなどとは誰も考えつかないはずなのに、現実は超越したところにあった。
道ならざるもの
そこを通じることで、私はここへ辛くも辿り着いたのだ。
また、海蝕洞だけでなく、潜り抜けてからここまでの径路も、やはり道ならざるものであった。
路面だッ!!!
横移動すること約30m。鵜の岩トンネル東口からの覆道が途切れた。
覆道が終わり、旧国道は久々にお天道様の元へ出る。
次のトンネルまで、ほんの少しだけ残った貴重な明り区間。
あと2歩で、私は路面へ辿り着く。
そしてこのとき、静かな海からのものではない豪快な水音が、
見えない位置から盛大に響き渡っていた! 来るぞ!
16:25 《現在地》
うぉおおおーっ! 梯子滝ッ!!!
出発前、「きたのたき」に掲載されていた1枚の写真を、
当時、ただ一人確認されていた“到達者”の記録とともに、穴の開くほど眺めまくった滝だった。
それがいま、我が手の内に……!
辿り着いたぜ!!!
普通に道路を辿ってここに来たわけではないために、路上へ上陸した瞬間には、四方八方がみな刺激的に感じられた。どちらを向いても、みな新しい景色という。
まず、いままでその外壁伝いを歩いていた、窓のない巨大な覆道。その入口部分が、手の触れる位置にあった。
これは紛れもない覆道の入口だが、通常は鵜の岩トンネル東口と表現されるものなのだろう。先ほど、壁に埋め込まれてしまった【旧坑門】を見ていなかったならば、私もそう呼んでいたはずだ。この東口の坑口延伸が行われた時期は、コンクリートの風合いからしても、比較的近年だと思う。
昭和37年の開通当初に300mと記録されていた鵜の岩トンネルの長さは、昭和46(1971)年の記録では325mとなっていた。この変化は先に見た西口の延伸によるもので、その後にこの東口でも、同様に30mほどの延伸が行われたと考えられる。
なお、予想はしていたが、
完全閉鎖だった。
西口と同様に。
このことが確認されたことで、鵜の岩トンネル内部へ入ることは半永久的に不可能だと分かった。
なお、坑口を塞ぐコンクリート壁面の中央下部に、鉄パイプによって木の板が押さえつけられている部分がある。
これを見た誰もが、ここに開口部が隠されていることを期待すると思うが、無駄である。
ここ3日間、何度も同じ景色を見させられてきたので分かる。
これは、閉塞工事の最後の最後にコンクリートを打設した位置に当てられた矢板に過ぎない。したがって、板の裏側は既に硬化したコンクリートの壁である。調子に乗って蹴りでも入れると、足を痛めることになるのでご注意を……。
この景色を見て、あの岬の反対側に歩いて抜けるルートがあるだなんて、誰も思わないだろうな。
…って、そのことはさっきも書いたか。でも、そう簡単に書き尽くせるものではない、このギャップの面白さ。
平成14年まで、この風景を眺めることは容易かった。ただ国道に車を走らせていれば見ることが出来た。
私が初めて万世大路に挑み、本格的に廃道探索にハマっていった、あの頃まで、ここは全く容易い場所だったのだ。
だが当時でも、あそこに旧々道があったことを知る人、そして通り抜けてみた人は、決して多くなかったと思う。
このレポートを書くにあたって、改めてネットで探してみたが、そのような報告を見つけることは出来なかった。
綺麗な道だ。
道のまん中に立つと、轢かれるのではないかという本能的な居心地の悪さを感じるほどに。
ここへ辿り着くために踏み越えてきた道、踏み越えなければならなかった道とのギャップが、大きい。
道幅も線形も良好で、全国で現役活躍している国道に勝るとも劣らないと思える。
だが、もう二度と車が走る日は来ない。
Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA
前も後も封鎖坑門
――という、普通に道路を利用している限りは絶対に見ることのない、
極めて特殊な道路風景を、全天球画像でどうぞ。
この明り区間は、2本のトンネルに挟まれた、たった100mである。
前方に見えるトンネルの向こう側にも、さらに1kmに近い旧国道が待ち受けているが、
そこは全て「樺杣内覆道」の中にあることが、さきほどの石門からの遠望で判明している。
ここは現役時代にあっても、海岸を間近に見ることが出来る貴重な場所だったのだ。
旧国道から見る梯子滝は、迫力満点だった。
滝が「見られたい」かは分からないが、国道時代に設置されたに違いない「看板」には、哀れを感じた。
このまま人目に遠ざけられ続けていれば、いずれこの名前も忘れられてしまうのかも知れない。
「きたのたき」によれば、落差25m、「崖の上から梯子をかけたように三段に変化して落ちる姿をしている
」とのことだが、確かにそういう姿をしていた。また、夏場は姿を消してしまうことから「幻の滝」と称されていたということも書いていたが、雪解け時期にあたるこの日の水量は十分だった。
幹線道路沿いにある滝としては、かなり規模の大きなものだと思うが、道路管理者側の意見としては、ありがたくはなかったと思う。
水涸れになる夏や、おそらく完全に氷結するだろう厳冬期は良いとして、流れ落ちる滝の水が海風に煽られて路上へ散り、さらにそれが凍結するような状況には、恐怖を感じる。
それでも覆道で隠してしまわなかったのは、この景色に観光面のメリットがあったからだろう。
それどころか、滝の前だけは落石防止の高いコンクリート擁壁も切れていて、路上から滝がよく見えるようになっていた。
「きたのたき」も、かつてこの場所に小さな駐車場が設けられていたと書いていた。
せっかくなので、滝の水を浴びる滝壺のそばまで寄ってみたが、
この状況(廃道、帰路の不安、天候の不安、夕暮れ)では、
怖い
という気持ちが先に立ち、じっくり鑑賞する気分にはならなかった。
飛沫を浴びながら滝の脇から見る、旧道と海。
滝の水は暗渠で道路の下を通り、海へ注いでいた。
道幅よりも暗渠はだいぶ広く、そこは駐車スペースとして使われていたと思う。
開通当初からこのような造りなのか、最初は橋を架けていたのかは分からないが、なんとなく後者である気がした。
チェンジ後の画像は、滝壺の様子。
滝壺に、やや斜めになった巨大なコンクリート床板が設置されていた。
路上に飛沫を散りにくくする工夫だろうか?
滝を後に、来たのとは反対側にあるトンネルへ。
16:28 《現在地》
上陸からわずか2分。
早くも、この区間の終点に着いてしまった。
見ての通り、塞がれたトンネルがあるだけだ。
だが、現在のこのトンネルは、北海道でも有数の人目から遠い存在になっている。
私のような、辿り着き難いものをことさらに愛する性癖の者にとっては、魅力的な“高嶺の花”……。そう思える存在だ。
いやはや、このトンネルを前にすることは、今回の目的の一つでもあったし、私はいままた、読みづらい長文を垂れ流しかねないくらいの興奮と戦っている。
……うん。我慢我慢。
銘板によると、トンネル名は、樺杣内トンネル。
北海道らしい、なんとも当て字感全開のよく分からないトンネル名だ。地名由来なのは間違いないだろうが。もちろん好き。
そして、お馴染み『道路トンネル大鑑』には、次のようなデータが記載されていた。
高さと幅は鵜の岩トンネルと同じで、竣工年は1年あと、長さは80mしかない。
鵜の岬トンネルとビンノ岬トンネルという、厳重に封鎖された2本のトンネルに挟まれた区間にあるトンネルだが、やはり完全に封鎖されていた。
ただ封鎖の方法は、鵜の岩トンネルほどには、徹底も洗練もされていない。
旧道の入口あたりで何度も道を塞いでいた巨大なコンクリートブロック。アレがピラミッドのように積み上げられて、全断面を塞いでいた。
おそらくこれ以外の封鎖工事はなされていないと思う。どかせば中には入れそう。
北海道の旧道トンネルの多くが、鵜の岩トンネルと同様の塞ぎ方をされている前で、この雑な塞ぎ方にはイレギュラーを感じた。
やはり、封鎖区間内に取り残されていることで、いくらか工事の徹底度が下がっていたのだろうか……。
まあそれでも、内部を窺い知れないし入れない“完全閉鎖”ということに、違いはないのだが…。
垂直の崖に突き刺さっていく、巨大なコンクリートの箱だ。
このトンネルも、20mばかり窓のない覆道によって延伸されていた。
当初は80mだったらしいが、いまは100mくらいあると思われる。
短い樺杣内トンネルではあるが、車道を開通させるとしたら、トンネルは必須と思える地形だ。
そのため、トンネルの力を借りずに“向こう側”へ行こうとしたら、再び危険に向き合う必要がある。
まず、ここから直接進むことは出来ない。
一旦、この回の最初の場面まで戻って、波打ち際の「第2ルート」を選ぶ必要がある。
その先の問題は、波消しブロック伝いに海上を渡る部分が、どうなっているかだ。
ここからだとよく分からないが、途中でブロックが途切れていると、たぶん進めないだろう。泳ぐのは、さすがに…。
果たして、大丈夫だろうか。
たぶんこれが、最終関門!
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