2018/5/25 16:31 《現在地》
完全攻略へと一歩前進。
約10分間で、鵜の岩トンネルと樺杣内トンネルに挟まれた、約100mの孤立した区間の攻略を終えた。
そして一旦、前の回の始まりと同じ地点に戻ってきた。
今度はここから「第2ルート」を通って、樺杣内トンネルの向こう側へ向かおうと思う。可能性がありそうなルートは、ここしかない。
(→)
これが、「第2ルート」の始まりだ。防波堤の基礎にある犬走りを伝っていく。上にあるのがさっき通った「第1ルート」。どちらも通路として用意された場所ではないが、利用できるものは何でも使う。そうしなければ進めない。
しかし、ここは本当に海面すれすれだ。
そもそも、高波の日にはここまで来ること自体出来ないだろうが、この先は、高くなくても、波が「ある」だけで危険そう。滑らかな人工物の上では身体を支える手掛かりもなく、こんなところで波を食らったら、簡単に引きずり込まれてしまうだろう。
この日の海は湖のように穏やかで、とても幸運だった。(一般的には、夕方というのも味方した可能性がある。この時間は凪になりやすい。また、翌日以降はかなり風が吹き、翌々日の27日にはこのような高波になったので、やはり幸運に味方されていたと思う)
振り返り、仰ぎ見る、鵜の岩トンネル東口。
このように海面から眺める旧国道は、圧倒的に私を拒絶する姿をしていた。
それは、大自然の中に割譲された僅かな人の領域を守る堅固な防壁。本来ならば我々にとっては強く頼もしい存在であるが、今の状況から感じられるのは、こうした構造物には血や情が通っていないという、厳然たる事実だった。
その正体は、あらゆるものの上陸を阻む、冷徹な壁に過ぎなかったと気付かされるのだ。
人がいなくなったいま、ここにあるものの全てが、冷たく見えた。
親しみを覚える余地は、ほとんどなかった。
私の側の嫌悪の情で言えば限りなく「好き」だが……、片思いだ。
少し進むと、水路に行く手を阻まれた。
旧国道下の暗渠から、勢いよく流れ出てくる水の出所は、【梯子滝】である。
浅いが走るように流れる水は疾く、しかも平滑な水底のコンクリートが滑りやすいために、これ以上の水量になると横断は命懸けになりそうだった。
また、探索開始時点で既に濡れ靴を身につけていた私だが、この水路でまた、冷たく新鮮な水で濡れねばならなかった。
なお、ここを右折して、水流に逆らって暗渠を潜り抜けることでも、梯子滝の滝壺から旧国道の路上に出られそうだった。路上は既に「第1ルート」で探索し終えているので、改めてチャレンジはしなかったが。
16:36 《現在地》
さらに進むと、かつて樺杣内トンネルが貫いていた、海面より直にそそり立つ岩の峰が迫ってきた。
これが、海藻のほかには草木一本見当たらない、凄まじいばかりの不毛な景観を作っていた。
岩とコンクリートが、私に気弱な撤退を迫ろうと威圧してきた。
ここにあったのは、全長わずか80mと記録される樺杣内トンネル(おそらく現状では覆道が追加されて100mくらいになっていそう)だが、全長320mの鵜の岩トンネルに続いて、波打ち際の迂回が必須である。
昭和32(1957)年版地形図を見る限り、この岩峰の辺りにも、海岸線を“しれっと”抜けていく徒歩道が描かれているのだが、そんなものがあったとしたら、いったいどこにあったのか、教えてほしい…。そんな、目の前の風景だ……。
“緑の絨毯”のような地面の正体は、おそらく海藻のアオサだった。
見た目がとてもおいしそうなので、つい一つまみちぎって口へ運んでみると、仄かな塩味が利いていて本当においしかった。
ただし、道に生えているのは、もうこれっきりにしてほしいものだ。見た目でも予想が付いたが、恐ろしく滑りやすいのだ。
そのアオサゾーンを抜けると間もなく、進めなくなった。
犬走りは、やはり犬走りでしかない。単なる構造上の段差であり、通路ではない。
この先の犬走りは、もう足を乗せる幅がないために、通行不能である。
ではどうするかと言えば、少しだけ後退したところから、上の写真に書き加えたように、波消ブロックに飛び移って進むしかない。
消波ブロックは、毎年のように釣り人の命を奪う危険な存在だが、これを通路として利用する技術を持たなければ、海岸での探索は覚束ない。
今回も、ここを通れないならば、もはや海を泳ぎ進むしか手はないだろう。
私は慎重に、消波ブロックルートを進んだ。
これらのブロックはしばしば海水を浴びるらしく、恐ろしいことに、大半がアオサか何かの海藻で湿り気とぬめりを帯びていた。もちろん、ブロックの隙間は深い海水で満たされている。
ここにスニーカーで踏み込むのは、極めて危険である。愛用の軽アイゼンが、大いに役に立った。
アスレチックステージを攻略中のマリオの気分で、消波ブロックエリアを前進した。
かつては間違いなく海上だっただろう領域を、こうして濡れずに進めるのは、旧国道のあったおかげなのだ。取り残されたものを活用している。
消波ブロックエリアから振り返る旧国道は、“不沈鑑”と呼ばれるものの姿を連想させた。
トンネルが塞がれていることを除けば、ほとんど現役時代のままに、何もかもが取り残されていた。
足元の消波ブロックに始まり、防波堤、覆道、道を取り囲む崖に張り巡らされた落石防止ネットまで、
たった1本の道を守るための様々な防護施設が、全方位に幾重にも築造されていた。
どれをとっても、国道を守るための必要な装備だったろうが、道が役目を終えて棄てられた今となっては、
これらの様々な防護施設は、大地の消せない傷跡として廃道を刻み込む、毒の楔となっていた。
国定公園の一角を占める貴重なはずの海岸の景観は、この道の残骸によって、著しく跡を濁されていた。
このことは、道路管理者(北海道開発局)にとって、宣伝されたくない事実なのかもしれない。
それを隠すために、わざわざ前後の全トンネルを念入りに封鎖しているわけでもないのだろうが。
また、私には、廃道によるこうした自然景観の破壊に対する批判を煽る意図はない。
個人的信念としては、これらの難工事の残滓は、輝かしい人類の遺産であると信じている。
また、次のようにも考える。
もしも、これらの廃道敷きを完全に原形へ復旧することを行政へ要求するならば、
想像を絶する多額の税金を投入する必要があるはずだ。
それが無理であるために、旧道を使い続けるなら、我々は日常の中で、
道路災害に巻き込まれるリスクを今以上に受け入れなければならない。
この問題に、全員が納得する答えは、たぶんない。
消波ブロックから見る岩峰の低い位置は大きく凹んでいて、岩場はオーバーハングしていた。
この凹みの深いところはコンクリートで充填されており、内部に樺杣内トンネルを蔵している岩峰の安定を確保しているようだった。
自然の岩盤とコンクリートを継ぎ接ぎになっているのは、不格好だが力強い、土木の力業だった。
この凹みの正体については、単なる海食の結果と考えるのが自然だとは思うが、もう一つ、刺激的な想像も可能だ。
それは、ここに隧道があったという説。
鵜の岩トンネルの迂回中に、【人道用の小隧道】を発見しているが、迂回の困難な地形の険しさで言えば、この岩峰にも短い隧道が使われた可能性は十分にあると思う。
隧道は、この凹みを唯一の名残として、コンクリートの壁に埋め込まれているのかもしれない。
また、よく見ると、凹みの上部のオーバーハングしている崖の一角に、人工物らしい孔が、いくつか存在していることに気付いた。
太さからして丸太を挿していたような感じだが、桟橋の橋脚を挿す位置には思えず、この3つしか見つかっていないこともあって、正体は不明である。
岩峰の先端を、汀線から数メートル沖合に並べられている消波ブロックによって回り込む。
すると、新たな景色が豁然と広がった。
海岸防塞のような樺杣内覆道の姿だった。
この探索の最終目的地(折り返し地点)であるビンノ岬トンネル西口まで続く構造物である。ここから陸線の果てに見えるのが、そのビンノ岬だ。
岩峰を回り込む前半は、もし消波ブロックがなければ泳ぐしかないような地形だったが、後半は波食棚らしき平らな岩場が通路を提供してくれた。
しかもそこには、明らかに人工物とみられる石組みの構造物が存在していた。
旧国道とはおそらく時代も目的も異なるものだ。
……というと、だいたいが“正体不明”という決着になるわけだが、今回ばかりは一目で正体の分かる代物だった。
小さな入り江の出入口に、小舟が通れる位の隙間を残して建造された大掛かりな布積みの石垣は、海面上の高さが7〜80cm、海中にも2m以上沈んでいる。
外見は小さな船着き場に見えるが、積丹半島を中心とした北海道の西岸一帯に、このような海岸構造物がおおよそ300箇所も点在している。私もこの日までの3日間、積丹半島沿岸を巡っていたので、数多く目にしてきた。
他の地方にはほとんど見られないこの構造物には、北海道の歴史に深く根ざした由来がある。
これは袋澗(ふくろま)という。
江戸時代後期から明治・大正期にかけて、蝦夷地・北海道の代表的産業の地位を確保していた、ニシン漁の“遺跡”である。
これがあるところは、ニシン漁の極めて盛んな土地であったことを証明している。
袋澗は、漁獲したニシンを詰めた袋網を一時的に保管する場所だった。
この地方は、目の前の景色を見ても分かるとおり、大量のニシンを水揚げしようにも、出荷まで保管しておくだけの広い陸地が不足していた。
そのため、一時的にこうした澗(ま、小さな舟入を指す)に入れて、鮮度を保ちながら貯蔵したのである。
また、時化の際には漁網や漁船の避難所にも使われるなど多方面に役立てられ、多くの網元が、ニシン漁で得た莫大な財を投じて、自らの漁場に積極的に整備した。そのため、多くは明治・大正時代の建造物である。
ここに袋澗が存在していたことは、現在は海岸沿いに旧国道が通いるだけで、まったく村落の気配のないこの樺杣内にも、ニシン漁の盛んな当時は漁業者たちの根拠地が存在したことを物語っている。人の定住があったかもしれない。
そして、そんな樺杣内の暮らしに間違いなく関与していたのが、昭和32年の地形図に描かれ、私が旧々道と呼んだ、一筋の海岸歩道だったろう。
この入り江を浚渫して精緻な石垣を積んだ者達と、付近の岩場に隧道ををくり抜き、海蝕洞を隧道に生まれ変わらせた者達は、かような辺境の海岸に大きな投資をしている。
両者が同じ生業の者であったと私は考えているのだ。
Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA
袋澗の前で撮影した全天球画像。
注目してほしいのは、樺杣内トンネルに貫通されている岩峰の姿だ。
こっち側にも、コンクリートで埋められた巨大な凹みが……。
トンネルや消波ブロックの大きさと比較してもらえば分かると思うが、相当に巨大な凹みである。
したがって、この凹み全部が人工物ではないだろう。海蝕洞地形なのだと思う。
だが、同じ岩峰のすぐ反対側にも、少し高低差はあるが、同じような凹みがあったことが気になった。
これは私の想像だが、ここには海蝕洞を利用した(おそらく貫通はしていなかった二つの海蝕洞を人為的に繋げた)人道サイズの隧道があったかもしれない。
昭和32年の地形図に描かれていた徒歩道が、この岩場をどうやって通り抜けていたのかが不明である。この海蝕洞を利用して隧道を設けていたことも十分に考えられと思う。この道においては、前例があることで、決して突飛な想像ではないはずだ。
この凹みの上部に、岩場を巻くトラバース路のようなラインが見えるが、これは次回紹介する別アングルの写真を見る限り、道ではないただの地層だ。
現地では、「隧道がなければ通過困難」と考えたこの岩峰だが、ここに来て、「桟橋説」を有力にする発見があった。
きっかけは、読者様からのコメント(コメント番号32688)で、それは、「今回の7枚目の画像にも、9枚目の画像で指摘したものと同様の孔が5〜6個並んでいるのが見える」という内容の指摘だった。
私の方で縮小前の画像を使って検証したところ、右の画像の通り、一列に並ぶ数個の孔が確かに写っていた!
現地でこれを目の当たりにしながら気付かなかった迂闊は措くとして(言い訳だが、消波ブロックアスレチックは常に足元に集中しなければならない場所だった)、すげぇ と思った。
これが仮に横木(橋脚)を挿していた跡だとすると、右写真に書き加えたような桟橋が想定される。
緩やかに下りながら、袋澗がある岩場へ順当に続いているようだ。
しかし、添え木(斜めの橋脚)の痕跡がないことが気になる。横木のみで支えられた桟橋もあり得るだろうが、それは極めて耐荷重性が小さい、人道橋としても掛け値なく危険な橋だったろう。
近代以前の文献によく出てくる、いわゆる「桟(かけはし)」と呼ばれる類の危うい橋が、こんな姿をしていたかも知れない…。
別アングルから撮影した写真も精査してみると、こんなにたくさんの孔が並んでいた!
私は現地で赤矢印の孔だけを【このアングル】で見つけたのだが、実際にはこんなにたくさんの孔が開いていたのである。ちょっと気持ち悪いレベルで多い……。
改めて書く必要はないだろうが、大量の消波ブロックが並んでいる場所は、本来、陸ではなく海中だ。ここは波が直に岩根を洗う地形である。
したがって、桟橋が架かっていたとしたら、炸裂する波の直上を通過していたことになる。
高波で破壊されることも当然あっただろうし、人命尊重的な観点からも、桟橋説は俄に信じがたいものがある。
しかし、緩やかに下って行く孔の列は、確かに道の存在を窺わせるものがあり、小孔群の正体として、桟橋の横木を挿していた孔以外の説は思い当たらないのも事実だ。
皆さんは、「隧道説」と「桟橋説」、どっちを信じる?
16:39 《現在地》
思いがけない“産業遺産”との出会いを加えつつ、最後の難所と目されていた樺杣内トンネルの外巻きにも成功。
探索の舞台は遂に最終フェーズ、樺杣内の一大海崖の懐に残された、
長城の如き覆道へ!!
なのだが……
届かないっ!
マジかよぉ…。
2018/5/25 16:40 《現在地》
ぬうー!
旧国道に、あと一手が、届かない!!!
ネズミ返しのような反りをもった防波堤が、樺杣内洞門へ上陸を最後に阻んだ。
刑務所の周囲にあるものを思い出すまでもなく、こうした壁は極めてシンプルに、人の侵入を防ぐ強力な防御法である。
この場で咄嗟に用意できるもので、これを突破する手立てがなかった。
付近に、例えば適切な大きさの倒木とか、足場になるものを探したが、役立ちそうなものは見当たらなかった。
誰かが掃除しているはずもないのに、漂流物がほとんど見られないのは、海洋環境の綺麗さを喜ぶべきなのであろうが、もしかしたら、そうした漂着物さえ定着できないほどの頻度で、強い風と波が海岸を一掃しているのかもしれず、そんな想像は心細さに拍車をかけた。
私は、そんなところにいる。
至急上陸して安全圏に立ちたいという願いは、まだ聞き届けられない。いま高波が来たりしたら、きっと助からない。その確率は低いとしても、怖かった。
(→)恨めしく見上げた樺杣内トンネル東口。
味も素っ気も全くない姿をしていた。
樺杣内覆道とは隙間なく接続しており、おそらく覆道が増設される以前にはあったろう当初の坑門は、大きな壁に塗り込められたようで、全く見えなかった。
そして、その坑口が塞がれていることも見て取れた。
残念ながら、鵜の岩トンネルに続いて樺杣内トンネルも、内部探索の可能性はなくなった。
おそらく、1本も入れないつもりなのだ……ここでも……北海道開発局は…。
すんなり迎え入れては貰えなかった最後の旧道区間だが、
この程度で、「ハイソウデスカ」と、引き下がる私ではない!
ここで上陸できないならば、できる場所を求めて、先へ進むのみである。
樺杣内覆道は、全長1200m以上もある長大な構造物であり、全て一度に建設された訳ではないだろう。
継ぎ接ぎがあれば、防波堤の形にも変化があって、登攀可能な箇所の存在も十分期待できるはず。
この先の海岸線にも、たくさんの消波ブロックが並べられているので、
樺杣内トンネルの迂回に続き、“消波ブロックアスレチック”で前進する。
踏み越えてきた海岸線の風景は……
痺れた。今日イチで格好いいと思った。
コンクリートの壁に守られた道が、トンネルを抜きながら切れ切れに、悪魔のような海岸線を治めていた。
旧国道は、よくぞこんなところを切り開いたものだとつくづく思う。
昔からこの海岸を見続けてきた人がいたとしたら、昭和30年代の変化にはどれだけ驚いただろう。
今の国道は、4kmを越えるトンネルでこの悪魔の海岸を完全無視、横坑さえ作らず素通りしている。
旧国道の時代に較べて、技術的には遙かに洗練されたが、目に見える凄みという意味では、旧国道が最高。
私が日本中で探し歩いているのは、そんな最高の時代に生まれたの道たちだ。
人類による環境の征服力と支配力を誇示するように、ギラギラと輝く野性的な土木構造物の殿堂。
一度その味を知ってしまったら、もう探し求めることを止られない、麻薬のようだ。
コンクリートに守られた、土木技術の粋を集めた旧国道は凄い。
だが、そうした現代の力に頼らず、この海岸を潜り抜けていた道があったという
そんな信じがたい真実をも、この風景は見せてくれた。
私が石門と呼んだ海蝕洞を通る、小さな光が見えた。
私もいろいろな海蝕洞を目にしてきたが、岬の突端からこんなに離れた位置に貫通しているものを見たことがない。
お誂え向き、そんなワードが脳裏に浮かんだ。かつてここに袋澗を築いた人々の誰かが、
悪絶な岬の向こう側へ通じる、天より授けられた道を、この景色に見出したと私は思った。
しかし、現代の土木技術者が同じことを考え出す可能性は全くない。ゼロだ。絶対に考えないはず。
なぜなら、こうした貴重な景観を弄って道にする必要は既になく、きっと賛成も得られないからだ。
この景色は、単なる土木技術の進歩に留まらない、道づくりの思想の変化にまで想像を広げさせる凄みがあった。
望遠で覗いた石門の内部。
見覚えのある標柱が、あんなに小さく見えている。
実際に通り抜けている最中の写真より、スケール感が分かり易いだろう。
天造のものにのみ許された、雄大無比なスケール感を感じてほしい。
この穴の眺めを含む、ここからの旧道風景には、
日本の道路風景が到達した極致という、最大の賛辞を捧げたい。
振り返った景色が印象的な余り、行く手がほんの少しだけ褪せて見えたが、
こちらも依然として油断がならない展開は続いている。
いい加減、観念して上陸をさせてほしいのだが、まだ条件は整わない。
この区間の海岸線は全長1200m以上あるとはいえ、既に150mほどを消波ブロック上の移動で終えており、
最悪の場合は、このまま最後まで“上陸地点”がないという、悲しい結末がもありえた。
まあ、それでも大満足で帰還するくらいの満足は、既に得ていたけれども…。
既に10分以上、袋澗の地点から消波ブロックアスレチックを続けているが、進めども進めども同じ形に反り返った壁に上陸を遮られた。
穏やかな海況ではあっても、どこにも逃げ場のないことが分かり易すぎるこの状況は、陸生の私にとって心が痛い。焦りが募る。
消波ブロックの並び方には、ランダム的なブレがかなりあった。
だから、たまに少し高い位置へ届くものがあって、そこからジャンピングで上陸ができることを期待したが、すぐにそれは無理だということを理解した。少しばかりブレても、全然足りない。壁は高かった。
海の向こうには、白い稜線を棚引かせる積丹半島が幻想的な姿を見せていた。
白いのは雪だが、そこに不穏な暗さを見た。既に日中の曇り空よりも、辺りは明らかに薄暗かった。そろそろ午後5時になる。タイムリミットが刻一刻と迫っている。
焦る私を、たくさんの海鳥たちが甲高い声で騒ぎ立てた。
彼らはもう十数年、訪れる人の姿を見ていないかも知れないが、正直、その我が物顔はかんに障った。寄って集っての騒がれたい放題だ。
16:49 (今回冒頭から9分後)
あうあっ!
かれこれ10分近くもぴょんぴょんし続け、既に表情を失っていた私の前に、ようやく現われた変化。
あの高さなら、行けるんじゃねーか?!
やりました。
ここなら、どうにか身一つで這い上がれる!
やっと上陸できるぞぉ!
16:51 《現在地》
樺杣内覆道300m付近にて上陸成功!
時の止まった孤立の長城へ突入!!
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