道路レポート 旧特別国道30号 扇浦〜北袋沢 最終回

所在地 東京都小笠原村
探索日 2019.02.28
公開日 2022.08.10

 地底の蒼


2019/2/28 13:03 (入洞8分後)

南口から推定150mの地点で、ついに恐れていた状況になってしまった。

地底湖の出現である。

入口からずっと片勾配で下り続けてきた隧道であり、かつこの先も下り坂と思われるだけに、奥に水を堰き止める“何か”があれば、容易く地底湖を造ってしまうことが想像できたが、恐れていたことが現実になってしまったのだ。

しかし今日のこの水位も、過去のある時点よりはだいぶ低いらしい。
地底湖の両側の壁面に、少なくとも2列の水平線が、明瞭な模様として刻まれていた。これは私が“過去汀線”と呼んでいるもので、長い期間同じ水位であったときに、地下水の成分が壁面に変化を与えることで描かれる、水没した洞窟や隧道の壁にしばしば見られる模様だ。高い線は、現在の水面の1mくらい上にあり、その時の渚は20mくらい後方だったことだろう。

水位の問題はここでどうにもならないが、気になるのは、なぜ堰き止められているのかということだ。
その原因は大きく2つ考えられ、落盤による堰き止め、もしくは、隧道がそもそも未貫通ということだろう。

これが、現役時代を知られている普通の旧隧道なら、「隧道がそもそも未貫通=未成隧道」なんてことを考える余地はないのだが、この隧道に関しては、現に未成隧道の疑いを持ってしまっている最中だから悩ましい。主に、洞床にある謎のレールのせいで…。
また、隧道全体をくまなく見て回ることさえ出来れば、この謎は解明出来るはずだが、地底湖が邪魔をしてくる……。

いずれにしても、今すぐ決断を強いられる場面だ。
行くか、引くかの決断を。
ここまで泥濘に耐えてきたらしき先達たちの足跡も、見るからに深い地底湖の出現に、悔しげに湖畔を右往左往した様子が見て取れた。

決断は――




ぐじゅり。

この音が答えだー!!


……って、ネタっぽく書いてみたけど、これはほとんど勝ち目がない戦いだ。

この隧道の下り勾配が、都合良くここで終わってくれない限り、すぐに歩けないほど深さになると分かるから。

そんな絶望的な心境だったから、探検家が未知を切り開いていくときのようなヒロイックな気持ちは乏しかった。

わずか数メートルで、何も得られず撤退する可能性が高いのに、なぜわざわざ濡れる選択をするのか、

そして、どこまで身体を濡らしたら撤退するのかということを、やるせない気持ちで自問自答していた。

自問自答しながらも、諦めきれずの、ぐじゅり、であった。




13:04 (入洞9分後)

水に浸かって、すぐに振り返った。

入口の淡い光が、約150mの長い上り坂の向こうに薄ぼんやりと灯っている。

私が原因である、ちゃぷりちゃぷりという小さな波の音だけが、静寂の中に揺らいでいる。

この状況に、三途の川の姿を想像するのは、きっと私だけじゃないと思うのだ。

亡者になりに行くつもりはないが、この岸から離れるのは、怖いと思った。




綺麗な水だ…。

父島といえば綺麗な青い海が何よりも有名だが、地中にもこんな清澄な水を湛えた所があったのか。

それが、島の自然が最も軽視された時代に生まれた人工物だというのは、いささか皮肉めいている。

ずっと下り続ける洞床を見てきたが、初めて奥行きが水平線の上に見通せる形になった。これぞ正常。

希うは、水の底の洞床が、ここで平らになることだった。



13:06 (入洞11分後)

三途の湖畔を離れて15mほど進んだが、非常に残念なお知らせがある。

水位の上昇(=下り坂)が止らない!

手心は、加わらない。冷徹に下り続ける洞床は、窒息する靴の下で我が道を行く。
既に水深は股ぐらを浸すところまで来ている。大量のバッテリーを仕舞ってある腰袋を
慌てて外して、首から肩にかけ直す。過去何度もバッテリーの大量廃棄をやらかしている。

この程度を「幸い」とも言ってられないピンチだが、洞床は硬く締まっていて、泥に足を取られはしない。
そして、湖畔で一度は泥の海に消えた2条のレールが、依然として同じ位置に並んでいることを、
靴の底を介した感触ではあったが、明確に捉えることが出来た。
レールは健在! しかし、舞い上がる泥と水面の揺らぎによって姿は見えず。




上の写真と同じ地点で、前方を撮影したのがこれ。

もう、堪らない青さになっている。身震いするような青さ。入っていくのは躊躇われる色。

だが、もはや絶望と思われた先行きに、ほんの一筋の光明を感じられたのは、

不気味に乱反射する水面の遠くにある闇の奥へと目を凝らしたときだった。



写真だと、ほとんど分からないとは思うが……、

隧道の全断面を塞ぐような、灰色っぽい壁が、見える気がするのである。

もしあれが未掘削の岩盤なら、洞奥を極めたことになり、未成隧道と確定させられる。


頼む! せめてあの“壁”の正体を、見届けさせてくれ!

前進再開!





これ以上の前進は無理だ!

最後は“即落ち二コマ”みたいな展開になってしまったが、
冷徹な軍曹よろしく一切の手心を見せない下り勾配と水面の合わせ技に、
私の手策は完全に尽きた。モニタの前で「泳げ」と命じる鬼軍曹は、どうかご自身で。
私とて全くのカナヅチではないが、裸一貫というわけでなし、無理だ無理!




13:07〜13:09 (入洞12〜14分後)

あおい!

この色の水は入ったらいけない深さだって本能的に分かる。

両側壁面の“過去汀線”は、天井の近くまで行ってしまった。肺の空気が常に圧迫されて息苦しい。

全身に浮力を感じる。首を絞められているような恐怖心から、無意味にぴょんぴょんしたくなる。


もうこれ以上は一歩も進めない。だからせめて、

奥の壁を撮影させてくれ!





隧道を塞ぐ壁の正体は、

巨大な瓦礫の山。

未掘削岩盤ではない。

すなわち、閉塞壁は単純な落盤によるものなのか。

出来ることなら、あそこまで行って、壁に“上陸”し、
天井に隙間があるかどうかを確かめたかったが、近づけない。

これで、隧道が本来から未貫通であったかどうかについては、分からないままになってしまった。
最後まで湖底に感触だけが感じられた謎のレールの行方も、その目的も、分からないまま。


(水面の色がチェレンコフ光を発しているみたいだ…。私の歩行で
舞い上がった微細泥粒子がチンダル現象を引き起こしたのかも…)




13:09 (入洞9分後)

首まで水に浸かる勇猛を発揮したが、力は及ばず、ここで引き返す。

隧道は最初から最後まで完全な直線で、横穴もなく、無心に下り続けた。

だいぶ離れた入口の光が、闇夜の海に浮かぶ月の出のようだった。

私が濁した水面に長い光の尾を引いて、唯一の脱出路を示していた。




これは最深部から戻りながら撮影した動画だ。

進むほど浅くなる様子がよく分かると思う。

前進時は、この勢いで深くなったわけで、とても恐ろしかった。




隧道の簡単な断面図を作成してみた。(→)

南口から最終到達地点までの距離は、約180mである。
そこは洞内の水没開始地点から30mの位置で、さらに20mくらい先に閉塞壁を目視した。
すなわち、南口より数えて200m付近で、隧道は高確率で落盤によって閉塞しているということが分かった。
隧道の全長は推定500mだから、あの閉塞壁の向こう側に、半分以上の長さが残っている計算になる。

なお、私はこの探索の直後、北口の探索も行ったが、その顛末は既に皆様ご承知の通り、坑口に築かれた止水壁によって洞内は初っ端から深く水没しており、立ち入りは不可能だった。
したがって、この隧道の未踏破部分は320m前後もある。

また、洞内の平均勾配は、両側坑口の高低差が25mあることから、5%と算出された。
今回探索した範囲内は、途中で勾配の変化した感じはなく、この5%という数字は実感に近いと思う。
5%勾配だと30mで150cm下がるわけだから、汀線から30mの位置で、身長172cmの私の首まで水没し、撤退を余儀なくされた状況とも符号する。

もし、私が自力で島へ持ち込めそうな簡単装備のみで再探索するとしたら、北口から“WFT装備”での挑戦というのが、現実的なところだろう。





こうして、

父島最長、そしておそらく軍事国道全体を通じて最長であった隧道の探索は、多くの謎を残したままに終わった。

幻の軍事国道、その闇の深さを “分からさせられた” と感じた。

だが、ほとんど情報のないところから始まった初回探索としては、十分な成果であろう。出来る範囲での妥協はしなかったはずだ。

なお、このあと私は、島内で声を掛けることが出来た複数の住人に、この隧道の正体や貫通の有無を聞いてみることも怠らなかった。
だが、戦前の島を知っている古老よりも、今の小笠原に魅せられた若人が遙かに多い島内で、思うような成果を得ることは難しかった。
現地に設置してある看板以上の情報を、この短い滞在中の聞き取り調査で得ることは出来なかったのである。

あとは、帰宅後の机上調査に委ねたい。

軍事国道の深淵を、もっと深く覗いてみたい。



 机上調査編 〜国道特30号整備史〜 どこまで完成していたか?

 第0章 現地探索のまとめと、机上調査の目標


今回探索したのは、戦時中に軍事国道の国道特30号として建設された道の一部である約1.7kmの道路だ。
(右図のA〜B〜C〜D〜E〜F〜Gの区間)

この道路の現状の内訳は、再整備のうえ都道として利用されている区間が0.6km(F〜G)で、残りの1.1kmは軍事国道時代の旧態を残していた。
この1.1kmのうち0.3km(A〜D)は、小笠原村によって平成23年に遊歩道として整備され、そこにある全長0.1kmの「連珠トンネル」には照明や落石防止ネットが取り付けられていた。
残る0.8km(D〜F)は廃道状態で、うち0.5kmまでが名称不明である1本の長い隧道(顕峠隧道と仮称)であるが、洞内は崩落と水没の坩堝であり、今回の探索では0.2km程度を実踏により確認するにとどまった。

右図は、今回探索した軍事国道と、並行する現都道(A'〜E'〜F'〜G')における、勾配と距離の比較である。
各地点の高度から大雑把に描いた図ではあるが、軍事国道と現都道の間に距離の差はほぼなく、たった30m峠の高さを下げることが、合計700m越える4本のトンネルの効用だったことが分かる。
たった30m峠を下げるのに、これほど長いトンネルを掘るというのは、現代でも過剰な計画のように思えるが、これが道路工事に使える物資も人員も極度に欠乏した戦時中の作なのである。

ここまであからさまに奇異となると、逆に、“戦時中だからこそ”が、正解ではないかと疑いたくなる。
戦時中における重要な施設の在処として、空爆に対し強力な防衛力を発揮する“地下壕”や“地下工場”が重宝されたことは、内地においてもよく知られている現実だ。
対して、内地以上に戦場としての切迫度が高く(小笠原諸島は太平洋上の米軍拠点に最も近い日本領土だった)、かつ島特有の土地の狭さから空爆が特定の道路に集中する可能性が高かった父島においては、道路自体を地下化しようという、大胆な防空的設計思想があったのかも知れない。

もしも上記の想像が正しければ、これまで私が他の道路では聞いたことがない、まさしく“軍事国道の真骨頂”とでもいうべき設計思想だと思うが、こうしたことは単に一介のオブローダーの想像ではなく、資料によって裏付けられることが望ましい。
そしてこのことに限らず、国道特30号に関して調査した既存の文献は、極めて少ないようである。
未知へ挑む現地探索は面白いものだが、机上・・探索も同じである。調べ甲斐がある。

繰返しになるが、今回探索したのは、国道特30号の一部であった。
ということは、全部ではなかったということ。
では、全部がどれほどであるかということも、実は解明されていない謎である。
起点「扇浦」、終点「西海岸」。
それだけは明らかだが、それ以外の様々なデータ……ルートも、全長も、建設の経過も、どのような構造物によって構成されていたかも、誰が通ったのか……も、事前には全く分からなかったのである。
現地調査によって、「構成していた構造物(2本の隧道や築堤)」を見出したものの、やはりそれ以外のことは分からないまま、島を離れることになった。
それらを知りたいというのも、机上調査の大きな目的だ。


国道特30号に関わる既存の文献を捜索し、そこからこの路線の全体像を可能な限り明らかにすることが、この机上調査の最大の目的だ。
現地探索で私を悩ませた、「顕峠隧道は本当に完成していたのかどうか」という謎も、この調査を進めれば解明が出来るだろうという期待を持っていた。





 第1章 国道特30号に関係する一次資料の収集


文献調査を行うに当たってすぐに直面した問題は、小笠原に関する総合的文献が少ないことだった。
たとえば、伊豆諸島の島々には必ずあるような、『小笠原村史』が未刊行である。これは、昭和43(1968)年の本土復帰に始まる、まだ若い村であるせいかもしれない。
そして、本土復帰以前の情報もまた限られていた。島の置かれた特殊な位置、特異な経験を踏まえれば、語るべき事柄は少なくないはずだが、総合的な文献として集成されたものは少ない。
このことは、本土との交流が自ずから限られてきた遠隔地の小島で、語り部となる人口が多くはなかったこと、大正時代から終戦までの長い時間を要塞地帯として過ごし、情報の収集や持ち出しに制約があったこと、特に戦時中はそれが著しかったこと、終戦時に多数の軍事に関する資料が島内で処分されたらしいこと、終戦直後から20年あまりを“外国”として過ごしたことなどなど、他の地域以上に、歴史的情報の空白を避けがたい環境があったためだろう。

そんな島の限られた情報の中にあって、今はなき軍事国道に関する情報の少なさも例外ではなく、現地の案内板(→)の文言にあった通り、「機密に触れる性質」のものとして意図的に秘匿されたのだと考えたくなる。それほど、文献は乏しかった。

具体的には、私は現時点で次のリストに掲げた文献を調査済みだ。これらは全て二次資料であるが、この中に特30号に触れているものは一つとしてなかった。(現在の都道と関わりが深い特19号については、そこそこ情報が散見されるのだが…)

▼展開する (調査済の主要な文献タイトル)

もっとも、これらの文献調査は無駄であったとは思わない。島を知る上での有意義は情報はたくさんあった。
特に、軍事国道との関わりが深いのではないかと期待して入手した『小笠原村戦跡調査報告書』(小笠原村教育委員会/2002)は素晴らしかった。島内の50箇所を超える戦跡を実踏し、図面と共に報告する極めて有能な文献だった。しかし、同調査でも軍事国道に関するものは対象外だったのか、全く採録されていなかった。(ちなみに沿道で見つけた【トーチカ】についても同様。あの程度はたぶん父島ではありふれた存在に過ぎないのだろう)
軍事国道が戦跡であるか否かについて議論があるかも知れないが、制度的に見ると、軍事国道は内務省が整備を担当する道路法の道路の一種に過ぎず、海軍省や陸軍省といった軍部が軍事施設として整備した「軍道」ではないので、戦跡ではないという見方も出来るだろう。


ともかく、出版された各種の文献に国道特30号に関わる記述を見つけられなかった私は、この道が誕生した時代に編まれたナマの資料、いわゆる“一次資料”を探すことにした。
しかしこの一次資料の捜索も、戦前の資料を検索する手段の乏しいこともあって簡単ではなかった。


「陸軍省大日記」『特19号国道改良に関する件』より

なんとか成果らしいものを得られたのが、「陸軍省大日記」と総称される陸軍省の公式文書類を編冊した簿冊群だ。これを防衛省防衛研究所がデジタルデータとして公開しており、国立公文書館アジア歴史資料センターで検索・閲覧が可能なので、旧軍に関する素晴らしい一次資料群となっている。

右図は、大正11(1922)年に作成され、内務省との間でやり取りされた「特19号国道改良に関する件」という文書の一部である。

国道特19号は、大正9年に父島で最初に認定された軍事国道である。
特十九號 東京府小笠原島父島大村ヨリ扇村ニ達スル路線」というのが、導入編でも紹介している、この路線に関する公示の全てで、例によって起点と終点の大まかな地名しか明かされていない。

幸いこの路線については、昭和10(1935)年版の地形図に国道として太く描かれたおかげで、そのルートや区間をかなり詳細に特定出来るが(とはいえ厳密な部分では分からない部分もある)、陸軍文書に綴じられていたこのフリーハンドの地図こそは、当時の国民のほとんどは見ることが許されなかった、特19号国道の位置を図示した貴重な一次資料といえるのである。なるほど確かに、現在の「海岸通り」の前身であるということが、この雑な図からも分かるというもの。

逆に言えば、これは父島に限らない話だが、当時の軍事国道には、このように軍の資料くらいにしかルートを示した地図的なものが残っていない路線があった。
軍事機密とは、まさにこういうものを言うのだと分かる一例だ。

本稿の主題は特19号ではないので、この資料の中味について深くは言及しないが、大まかに、内務省から陸軍省へ向け特19号国道の具体的整備計画を打診した内容だ。最終的にこの計画が実る形で、わずか5kmほどの間に9本のトンネルがひしめく特19号国道が昭和15年に完成し、現在の都道「海岸通り」の礎になっている。


さて本題はここからで、陸軍省大日記には、特30号や、それと同時に認定された特31号に関する文書も、たった一つだけだが、発見することができた。
それを紹介する前に、特30号と特31号の認定を報せる昭和15(1940)年3月28日の公示を改めて転記する。また右図は、公示された起点と終点の地名から私が推測した、これら2本の軍事国道の予想ルートを示した地図だ。

特三十號
東京府小笠原島父島扇村扇浦ヨリ袋澤村西海岸ニ達スル路線
特三十一號
東京府小笠原島父島扇村扇浦ヨリ袋澤村南崎ニ達スル路線
『官報 三九六六号 昭和15年3月28日』より

陸軍省大日記に綴じられている「対馬北部縦貫道路並父島南部ニ道路新設速成の件」は、昭和14(1939)年9月から翌年の4月にかけて陸軍省と内務省でやり取りされた一連の文書をまとめた綴りである。


「陸軍省大日記」『対馬北部縦貫道路並父島南部ニ道路新設速成の件』より

表題に軍事国道の路線名は出ていないが、これがまさしく、父島の特30号と特31号(そして対馬に認定された特32号)の認定および整備について、陸軍省から内務省へ要望・打診した文書であった。実際の軍事国道の路線認定に先駆けてやり取りされた内部文書なのである。

その中で、左に転載した1ページだけが、特30号と特31号に関わる部分である。(他のページは対馬の内容だった)
書いてある内容を現代語の表記に改めて転載しよう。

次官より内務次官へ照会
左記道路を特国道として緊急速成かた特別詮議あいわずらわしたく
 追って細部に関しては主務者をして協議せしめたく
     左    記
一 長崎県下県郡厳原町厳原より同県上県郡豊を経て比田勝に達する北部縦貫道路(図面参照)
二 父島南部
  (イ)扇浦―北袋沢―巽崎方面
  (ロ)扇浦―北袋沢―南崎西方地区(図面参照)
     (別紙要図二葉添付)
          陸普第五六六一号 昭和十四年九月六日

「陸軍省大日記」『対馬北部縦貫道路並父島南部ニ道路新設速成の件』より

熱い! 軍事国道の深淵にやっと触れた気がするッ!


『小笠原村戦跡調査報告書』より

対馬北部と父島南部に「特国道」を緊急速成したいので協議を行いたいという文書であり、父島南部の路線として(イ)(ロ)の2路線を提示しているが、これらが実際に認定された特30号と特31号に対応していることは明らかだ。
そしてこの文書では、官報に公表されたものよりも詳細な地名が明らかになっている。

起点はどちらも公示と同じ「扇浦」だが、次に経由地としてどちらにも「北袋沢」という地名が入っている。このおかげで、この2本の国道が極めて高い確率で、扇浦から北袋沢の区間を重用(重複区間)としていたことを初めて明示された。これは地味に気になっていた小さな疑問点だったので、謎を一つは解決できた感じだ。
今回探索した区間は、特30号であると同時に、特31号でもあったらしい。

終点の地名は官報と違っていて、それぞれ「巽崎方面」と「南崎西方地区」となっている。
これらが実際にどこを示しているかだが、地名を調べてみると、結局は官報の「西海岸」「南崎」と大差ないようだ。ただ、より具体的に目的地を示しているように見える。

例えば特30号の終点は、大正15年に陸軍が巽(たつみ)崎に新設を決定した巽崎砲台を念頭に置いたとみて間違いないだろう。そして特31号は南崎砲台であろう。南崎砲台が整備された経緯は明らかでないものの、前述の『小笠原村戦跡調査報告書』に、大戦中に建設された南崎砲台の存在が記録されている。(ただし遺構は未発見とのこと)

右図は、『小笠原村戦跡調査報告書』に掲載されている父島の戦跡地図だ。
50箇所を超える戦跡がプロットされており、大半が二見湾を取り囲む島の北半分にあるが、ほとんど人の住んでいない南部山間部にもぽつぽつと軍事施設は点在し、巽崎と南崎には砲台があったことが分かる。

しかし、惜しむらくは……本当に惜しむらくは!!!……この「対馬北部縦貫道路並父島南部ニ道路新設速成の件」に附属しているべき「別紙要図二葉」が、見当らないことだ。
「特19号国道改良に関する件」に附属していたようなフリーハンドな簡単な図ではあろうが、きっと特30号と31号の位置を図示したものが附属していたはずなのだ。
しかし、散逸したのか、デジタルデータ化されなかっただけなのかは不明だが(おそらく前者)、見当らないのである。
もしあれば、もう少し正確に、起点や終点、経由地、ルート、もしかしたら計画されていたトンネルの位置なども分かったかも知れないのに…!


以上が、「陸軍省大日記」に辛うじて発見できた、特30号に関する一次資料の(現時点で私が把握している)全てである。
国道認定前の計画段階の資料であるから、実際に、どのような道が、いつ、どれだけ整備されたかという情報を含まないのが、非常に残念なところである。
国防的な意味合いもあったのだろうが、軍事国道に限らず、道路に関する詳細な情報が、一般の国民に広く開示される機会は少なかった。(そんなことを趣味で知りたいという国民も少なかっただろう)




 第2章 統計資料から推測できる国道特30号の実態



『道路現況調 昭和13年3月末日現在』より

軍事国道のデータを知る数少ない手掛かりの一つが、現在も継続して調査公表されている「道路統計年報」の前身となった、「道路現況調」だ。

国会図書館デジタルライブラリでは、昭和14年3月版同15年3月版同23年3月版同24年12月版が公開されており、それぞれは、昭和13年3月末日、昭和14年3月末日、昭和21年3月末日、昭和22年3月末日現在の道路に関する様々な統計情報を記している。以後、文献のタイトルとして、例えば昭和14年3月版のデータは昭和13年3月末日のものであることから、後者を優先して表記する。その方が分かり易いはずだ。また、戦時中に発行された前者二部は当然のように当初は閲禁資料であった。そして、大戦中の版がないのは、発行自体行われなかった可能性が高い。


『道路現況調 昭和13年3月末日現在』より

さっそく具体的な内容に入るが、例えば最古の昭和13年3月末日の現況調には、右図のようなデータが収録されている。

これは、「道路延長内訳」という統計表で、昭和13年3月末日現在の、軍事国道、国道、府縣道の延長の内訳、すなわち、道路延長(A)隧道延長(B)橋梁延長(C)渡船場延長(D)が、それぞれどれだけあったかを、都道府県別にまとめたデータである。なお、実際の道路の延長(実延長)は、A+B+C+Dの値である。

右図はこのうち軍事国道の欄を抜粋したもので、赤枠で示したところが東京(府)の数字だ。
当時の東京府内には、軍事国道が、道路延長2806m、隧道延長1017m、橋梁延長と渡船延長はゼロ、合計3823mあったことが分かるのだ。
分かってしまうのである!
そして、このとき東京府内に認定されていた軍事国道は。父島にあった特19号線だけなので、今までずっと知りたくても分からなかった特19号の実延長が、隧道の長さも、橋の長さも、分かってしまうのである!
すばらしい!(だから閲禁資料だったわけだ…)


こんな感じで他の版も見ていくと、右の表のように、東京(府/都)内の軍事国道の延長の推移(および全国の軍事国道の延長の推移)を知ることが出来た。

今回の主題である特30号は、昭和15年3月末に認定されているので、統計の数字に反映されているのは、「昭和21年3月末日」以降である。
そして、昭和21年と22年の都内の軍事国道の総延長は11477mで、このうち隧道が2812m、そして橋梁が26mである。
この数字が、父島に存在した3本の軍事国道を合わせたデータなのである。

なお、表の最下段の「昭和23年3月末日」のデータは、『道路統計年報 昭和24年版』からの引用だ。
終戦後は小笠原諸島に対する我が国の施政権が停止されていたためだろうが、この版以降、東京都に軍事国道は存在しないことになっており、父島の3本の軍事国道は、昭和22年3月末から23年3月末の期間に、特に官報で公示されることもなく、ひっそりと存在を抹消されたようである。

昭和14年の欄にある数字は、特19号単体のものだったから、これを昭和21年の数字から割り引くことで、特30号と特31号の合計を導ける。
もっとも、昭和14年から21年の間に特19号のデータが変化している可能性があるので、この方法は正確とはいえない。
しかし、特19号は大村〜扇浦間の道路であり、約5kmと実測できるから、昭和21年当時の特19号の長さも、やはり5km程度であったと考えられる。
とすると、上記の計算から導き出される特30号と特31号の“推定”合計延長は、11477-4707=6770mとなる。
何度も言うが、この数字は正確ではない可能性があるが、狭い島内で採りうる範囲を考えれば、それほど大きく外れてもいないと思う。

さらに、昭和21年の隧道延長2812mという数字も、極めて重大な情報である。

これも地味に驚くべきことだが、当時、全国の軍事国道にあった隧道の総延長が6605mなのに、その半分近くが父島に集中していたことになる。凄い“隧道島”だったんだな。笑

左図は、終戦当時、島内の3本の軍事国道上に存在したと考えられる全隧道、13本の位置と名称を示したものだ。

もっとも、これは私の独自研究であり、抜けがある可能性はある。
またこのうち今回の探索の最大のテーマとなった「顕峠隧道」は、現地探索の結果、完成しない未成の隧道だったのではないかという疑いを持っていたものだが、ともかくこれを含めての13本を図示している。

対して右の表は、この13本の隧道の全長や竣工年をまとめたものだ。
現存しない隧道や、本土復帰後に改修された隧道が多いために、終戦当時とは長さが少し変わっているものも多いだろうが、何百メートルも変化したとは思えない。
そんな13本の隧道の長さを合計すると、おおよそ1877mと計算できるのである。
これらの隧道は今回の小笠原探索で全て走破したので、おおよその実測値といっても良い数字だ。

さて、昭和21年度末の道路現況調で、隧道の全長は2812mとあった。
2812mと1877mを比較すると、確認されている隧道の長さが、900m以上も不足する。

なんと父島には、まだ900mもの未知の軍事国道用隧道が存在するのだろうか?!

だとしたら、なんとも夢のある話である。
だが、私はこの差の原因は、特30号と特31号の隧道を二重に計上しているためではないかと疑っている。
前章で調べた通り、特30号と特31号の扇浦〜北袋沢間は、重複区間であった可能性が高い。本来、こうした統計資料では、重複を差し引いて実延長を計算すべきだが、何らかの手違いで、ダブって計上されている可能性が高いと私は疑っている。
この重複区間にあった隧道の総延長は約700mで、これは900mという不足分に近い数字なのである。ピタリと一致しないので、ダブりがあったうえで、さらに未発見の隧道が眠っている可能性もあるが。

また、ダブりの有無を問わず、全長500mもあった顕峠隧道(仮称)を計上せずに、島内の隧道の総延長を2812mという大きな数字へ近づけることは難しいように思う。
このことから、現地探索では未完を疑われた顕峠隧道も、どのような形であれ、完成していた可能性が極めて高いように思う。
これは非常に間接的な解決方法になってしまったが、おそらく、間違っていまい…。

さらに書き加えると、重複区間の延長をダブって計上している問題は、先ほど計算した、特30号と特31号の終戦時の合計延長が6770m程度と推測されるという話にも影を落とす。
もし扇浦〜北袋沢間をダブって計上しているなら、本当の合計延長は、重複区間の延長1.6kmを減じて、約5.2kmとすべきだろう。
この数字が、終戦時における特30号と特31号の合計延長により近いものと私は考える。
つまり、今回レポートした範囲(1.6km)の外に、これらの2本の軍事国道に由来する道が、あと3.6kmほど残っている可能性が高い。

道路現況調は、これ以外にも教えてくれることがあった。
例えば、幅員に関する情報だ。
昭和21年3月末のデータを見ると、東京都内の特殊国道11477mの幅員の内訳は、3.6m以上4.5m未満が11477mとなっていて、つまり全線が車道としての規格を有していたと推測できる。
ただの徒歩道や山道を、無理矢理に軍事国道と称していたような区間は、少なくとも、当時供用中とされていた区間にはなかったということだ。
もっとも、未供用区間の有無は、統計表に出ていないので分からないが…。

そしてもう一つ、これらの統計資料から分かるのが、国が各県の軍事国道の整備にどれだけお金を出そうとしていたか(=実施設計額)をまとめた、「特殊国道改築費調(国直轄)」というデータである。
軍事国道の整備は基本的に全額国庫負担の国直轄事業として行われており(地方が単独で整備したものはこれに含まれない(おそらく歩道の整備とかそういう軽易な内容だろうが))、この統計から、各県の軍事国道がいつ整備されたかを推し量ることが出来るのだ。(ただし、実施設計額の統計なので、実際にどれだけ執行されたかは分からない)

右図が、東京(府/都)に投じられた軍事国道改築費(国直轄)のデータをまとめたものだ。

昭和13年と14年のデータにあるのは、特19号の整備に関する費用であり、昭和21年と22年のデータは、おそらく特30号と31号の整備に関する費用だと思う。
おそらく、特19号は昭和15年度で整備が完了し、同時に特30号と特31号が認定されて、その整備がスタートしたものと思う。
昭和21年版と22年版で大きく数字が違っている理由は不明だが、いずれにしても、1〜2年の短期間に従来以上に大きな額が投じられようとした。
このときに、父島最長の顕峠隧道を含む新たな2本の軍事国道の整備が進められたのだと推測できる。

また、昭和19年度以降は予算の投入が行われておらず、昭和18年度までに島内の軍事国道の整備は完了、または中止された可能性が高い。顕峠隧道の竣工年度は、昭和18年だった可能性が高そうだ。 まあ…、実は軍事国道としての工事は未完成で、それを軍が独自に引き継いで戦費を使って完成させた……なんてことが仮にあっても、この統計には出てこないだろうが…。この辺は統計資料から実態を推し量る限界だろう。


以上が、道路現況調という統計資料から推し量ることが出来る内容だ。





 第3章 終戦後〜本土復帰後の元・国道特30号に関する文献調査


昭和15年に特30号と特31号は認定され、おそらく昭和18年度までに工事が行われ、終戦時点では2本を合わせて推定5km程度が、幅3.6〜4.5mの車道として完成していた。
さて、この道を誰がどれだけ通行したのだろうか。
今回、第1章で挙げたような様々な文献に目を通したが、特30号や特31号の工事中のエピソードとか、完成後に通行したことがはっきり分かる記録などは、全く発見できなかった。
たった1件でも、扇浦から北袋沢に抜ける長い隧道を潜ったような話があれば、顕峠隧道の通行記録と言えただろうが、見つからなかったのである。

そして、終戦後の父島に関することは、日本語による文献自体が見つかりづらくなる。
残念ながら日本語しか読み書きできない私には探せない領域である。
昭和21年から43年まで、島には百数十人の日本国籍を有する欧米系の元島民のほかは、米軍基地の関係者だけが暮らしていた。
戦前と比べて人口が激減したので、島の広さを持て余し、大村の周辺だけが米軍によって集落として整備された。それ以外の島内の全域がジャングル化した。



『Army Map Service/ South Japanese Islands/ CHICHI-JIMA』より

見慣れない地図がここにある(→)。

これは戦争末期の1944年に、United States. Army Map Service.(米軍地図サービス)が作成していた25万分の1地形図の父島部分だ。
敗戦によって米軍が駐屯するようになる前の島内の様子が描かれている。
当時既に制空権を完全に奪われていたから、航空写真をもとに作成されたのではないだろうか。

凡例によると、島内に張り巡らされている太い赤線は、「Road, 2 to 4m. wide(幅2〜4mの車道)」を示している。
国道(National highway)や県道(Prefectural road)は存在せず、上記の車道と、歩道(Track or Trail)だけが島内に描かれている。

チェンジ後の画像は、本編で何度もご覧いただいた、昭和10(1935)年の地形図だ。
比較してみると、特19号も、特30号も、特31号も、いずれも米軍によって、その存在を把握されていたようである。
もっとも、実踏したわけではないだろうし、縮尺も小さいので、それほど正確な表記ではなさそうだ。

興味深いのは、ちょうど今回探索した顕峠越えの区間で、車道が途切れているように書かれていることだ。
おそらく昭和19(1944)年には、既に顕峠の隧道が貫通していたと思うが、地下にあったため、道路の存在を隠蔽できていたということなのかも知れない。
こんな、戦況を一変させる要素のなさそうな小さな錯誤を敵軍に与えた程度で、一矢報いたなんて言ったら、おこがましいんだろうけど……。


昭和43(1968)年6月26日に小笠原諸島の本土復帰が実現し、そこから国を挙げた復興への道筋が始まる。
国の施策の柱となったのは、同年12月に施行された小笠原復興特別措置法に基づく復興計画であって、返還と同時に設置された東京都小笠原支庁が中心的な役割を果たした。

平成10(1998)年に小笠原支庁が発行した『小笠原支庁30年のあゆみ』には、本土復帰直後の島内の道路状況に関する記述があり、参考になる。いくつか引用しよう。

父島における道路の状況は、大村から洲崎の旧飛行場跡までの西海岸線に沿う西海岸道路(現在の湾岸通り)と東部山間部をかこむ東部ループ道路(現在の夜明道路)が主なもので、その他に大村からウェザーステーションや宮之浜への道、二子からコペペビーチへの道等があった。
これらのうち、道路としての一般的形態を有するものは西岸道路のみであって、ループ道路の東部山間部は道路と称するには程遠く、わずかにその存在が認められるに過ぎなかった。

『小笠原支庁30年のあゆみ』より

これが復帰直後の島内道路の全般的な状況であって、個別の道路の状況は、このあとに列記されている。
現在の小港道路にあたる、元・特30号の一部、今回探索した区間については、次のように書かれている。

(ウ) 扇浦(小花橋)から小港区間(現在の小港道路)
ほとんどジャングル化していた。

『小笠原支庁30年のあゆみ』より

たった一文である。
そして、隧道があったなどということは書かれていないが、隧道については別に項目が設けられていて、そこに次のように書かれている。

(キ) 隧 道
島内には、11箇所の素掘りの「隧道」があった。
隧道の断面は馬蹄形で、一般的構造は出入口をコンクリートブロックにより積み上げ、あとは素掘りで土の崩落防止のためセメントの吹きつけを行ってある。隧道内の照明は全く無く、路面は舗装されていなかった。

『小笠原支庁30年のあゆみ』より

さてこの11本とは、どの隧道のことなのだろう。
第2章で述べたように、島内の軍事国道には終戦時点で13本の隧道があったと考えられている。
だが、本土復帰直後には、「11本の素掘りの隧道があった」と書かれているのである。
うち2本は、既に崩壊して、使い物にならなかったのだろうか。
だとすると、現状から考えて、真っ先に疑わしいのは、顕峠隧道だろう……。

顕峠隧道は、戦時中に一度開通したのは確かだと思うが、本土復帰時点で既に崩壊して使用できなくなっていたのではないだろうか。

本土復帰直後の島の道路について、さらなる情報を求めていたところ、革洋同氏(@FanTaiyoよりご教示頂いたのが、全国加除法令出版が昭和43(1968)年から平成2(1990)年まで刊行していた『道路セミナー』という雑誌の昭和43年7月号(おそらく)に掲載された、本土復帰直後(まだ本格的な島民の帰島が始まる前)の小笠原の道路を概観した、その名も「小笠原の道路」という記事だ。記事の筆者は建設省計画局地域計画課の磯中孮一氏である。
同記事に、次のように書かれている。


『道路セミナー 昭和43年7月号(おそらく)』より

戦前の道路状況については詳らかでないが、現在島民の話では、大村―扇浦―袋沢―西海岸まで、車道幅員4.5〜4.0mの幹線道路(都道)が通じていた。この道路は昭和10年前後に着工され、奥村から扇浦の間には数ヶ所のトンネル(総幅員5.5m、坑口巻立、内部素掘モルタル吹付)が開さくされ、全区間は昭和18・19年頃に開通したようである。

『道路セミナー 昭和43年7月号(おそらく)』より

大村〜扇浦〜袋沢〜西海岸までの幹線道路があったというのは、国道特19号と特30号を合わせた区間で、これは昭和10年前後に着工され、昭和18・19年頃に完成したのだという。
まさに第2章で間接的に導き出した内容が、初めて古い島民の方の証言として出て来たのである。
そして、隧道は扇浦より北側にあったという書き方をしている。実際は、扇浦の南側、袋沢までの区間にも今回探索した隧道たちがあったはずだが、これらが登場していないのは、本土復帰時点で道が荒廃していて、忘れ去られていたのではないだろか。

右の画像は、記事に掲載されていた「父島道路現況図」である。
ここに描かれている道路が、「ジープのみ交通可能路線を含む」父島の車道らしいが、扇浦と袋沢を結ぶルートを見ると、これは現在の都道小港道路と同じ位置、すなわち、特30号の隧道が建設される以前に使われていた、本編中で「第二世代の道」と表現した車道が描かれている。特30号のルートは、消失している。

さて、この『道路セミナー』は、2年後の昭和45(1970)年3月号にも、改めて小笠原の道路の特集記事を掲載している。



『道路セミナー 昭和45年3月号』より

険しい山岳ジャングルを泥沼のような道がのたくっている。そこを踊るようにジープが走る。そんな激アツな風景が表紙の、「現地ルポ 亜熱帯ジャングルの道をゆく 復帰2年目の小笠原の道路現況」という記事だ。
写真は、昭和45年当時の夜明道路の風景だという。
この記事にも興味深い情報がいくつもあった。

戦時中は日本軍の重要兵器庫になっており、この島に赴任した日本軍の最高指揮者がコレヒドール要塞を陥落させた人で、父島全島にコレヒドール要塞を真似て洞窟をはりめぐらし、地上を歩かないでも洞窟内だけで隅から隅まで行けたらしい。洞窟の広さはトラックで走れたというから驚かされる。

『道路セミナー 昭和45年3月号』より

――なんていう、さすがにちょっと眉唾というか盛っているっぽい話が飛び出してくる。でも、「島中にトラックで行き来できるような洞窟が掘られていた」なんていうのは、まさに特30号の顕峠隧道の風景を連想させる証言ではある。惜しむらくは、このような話が他に聞こえてこないので、裏付けがとれていないことだろう。

記事は二本立てで、後半に小笠原支庁開発課長山崎哲朗氏へのインタビューが掲載されているのだが、そこに今後計画されている道路計画が述べられている。

そこで道路計画ですが、父島では幹線道路として大村〜扇浦〜小港間の7100m(幅員7.5m)の改良及び舗装、循環道路の東部〜南部の12000m(幅員5m)と、その他の島内道路10200m(幅員4〜5m)の改良及び一部舗装を……

『道路セミナー 昭和45年3月号』より

『道路セミナー 昭和45年3月号』より

――という具合で、最初に扇浦〜小港間の改良と舗装が採り上げられているのである。まさに顕峠隧道がこの区間にあったわけだが、実際に行われた整備というのは、同隧道の復活ではなく、より古い世代の道の復活であった。そして、現在の都道である小港道路が、昭和48(1973)年に開通するのだった。

また、同記事に掲載されていた「父島の道路現況」という図も興味深かった。右図はその南半分を拡大したものだ。
この図は、当時の道路整備計画にある道路を、幹線道路、循環道路、その他道路、第二環状計画という4種類に区分して表示したもので、最初の3つまでは実施計画があり、最後の第二環状道路だけは将来計画だったようだ。

図の矢印の位置に、点線の道がある。そしてこれがちょうど「顕峠隧道」の位置である。
この点線が意味しているのが第二環状計画で、その主要部分は、小港道路の終点から島の南部のジャングルを周回して長谷で夜明道路に合流する約6kmの道である。
現在の道路地図と比較すると、夜明道路から分岐する巽道路と呼ばれている行き止まりの都道が、この第二環状計画の名残であることは明らかになる。昭和50年代に整備された巽道路は、行き止まりのまま整備を終了している。

巽道路の最終的な完成形だった第二環状計画に、顕峠隧道の復活が盛り込まれるはずだったのかも知れない。
だが、令和の現代まで隧道の復活は行われていないし、第二環状計画自体も立ち消えになって久しいようだ。
島の南部は自然の宝庫として立ち入りが制限されている地域であり、今後この計画が甦る可能性はないだろう。
それこそ、島が再び戦場となる危機でも起こらない限り…。



最後になるが、顕峠隧道に残されていたレールの正体は、なんだったのだろうか?

……残念ながら、不明と言わざるを得ない。

机上調査のここまでの成果を念頭に、可能性はいろいろ挙げることは出来る。
例えば、戦時中に隧道は開通したが、何かの理由でレールを敷いた状態のまま終戦を迎え、放置された。
あるいは、このレールが敷設されたのは、本土復帰直後であったという可能性もある。
何らかの目的でレールを敷設したが、結局は放置された。

……うん、謎だな。


 顕峠隧道(仮称)の正式名は、「小曲隧道」    2022/8/14追記


本編公開後、ありがたいことに、さっそく感想コメントなどでいくつもの有用な情報が集まってきている。
今後も大きな進展があり次第ここに追記していくが、最初の追記は、名称に関することだ。

本編中では「顕峠(あらわれとうげ)隧道」と仮称してきた“長い方の軍用隧道”だが、現地でこれがなんて呼ばれているかを知ることができたのである。
加えて、片勾配である同隧道の低い側の坑口が、右写真のようにコンクリート止壁によって堰き止められ、多量の水が貯蓄されていたことの“目的”も、判明した。

小笠原村役場の担当者が小笠原のイベント情報等を発信されている「小笠原ブログ」の2017年4月6日のエントリ「節水の取り組みに感謝いたします」に、次のような一文がある。

まとまった降雨が期待できない状況が続いている中、村民の皆様には長期に渡り節水にご協力いただき誠にありがとうございます。
長谷ダム利用の農業者の皆様、また、小曲隧道湧水では川島様のご理解ご協力のもと、農業用水の一部活用を継続させていただいており大変感謝しております。

『小笠原ブログ 2017年4月6日のエントリ』より

「小曲隧道湧水」 という、「隧道」付きの初耳ワード。

「小曲」がどこであるかは、本編で散々使った地図にも出ており今さら説明不要だろうが、まさに件の隧道がある(おそらく南口がある場所の)字(あざ)だ。
その地名を関する「小曲隧道」というところの湧水が、普段は農業用水として利用されていたが、これを農業用水以外の用途にも活用したという内容である。
同ブログにはこれ以上「小曲隧道」に関する記述はないが、これは値千金な情報では?

さらに、小笠原の総合情報サイトである「小笠原チャンネル」でも、同じときの渇水に関するニュースに次の一文があった。

2/10 旧小曲隧道(農業用水)から連珠ダムへ取水開始(35㎥/日)

『小笠原チャンネル 2017年4月18日の記事』より

「旧小曲隧道(農業用水)」というワード。

そして、連珠ダムとの関わりの示唆。
連珠ダム(右写真)がどこにあったかは、本編読者ならご存知だろう。件の隧道の北口の傍にあった小さな水道用ダムだ。
そして、“旧”小曲隧道という表現が、それがもともと水道施設として作られたものではないことを暗示している。軍用隧道の転用なのだから当然だ。
厳しい渇水に際して、あの暗き坑を満たした清澄な水が、水道用ダムへと導かれ、島民の喉を潤す尊い仕事をも果たしたらしい。島のリソースを無駄にしない采配に感服する。

ここまで来ればもう確信になっているが、ダメ押しだ。島民の方からのコメントがついに来た。(非公開希望コメントなので一部の抜粋のみです)

島の人は小曲トンネルと呼んでいます。島民より。

読者様コメント』より

――ということで、件の隧道の名称は、小曲隧道で決まりだ。

扁額にそう刻まれているわけではないので、建設された当初からそう呼ばれていたかについての断定までは出来ないものの、現在の島で大勢の人からそう認識されていることは確かであり、私の仮称より遙かに重い。
この件について、情報提供を下さった皆様、ありがとうございました。





いくら文字を費やしてみても、父島の特30号を巡る謎の完全な解明には、まだ遠い。
導入でも述べたとおり、私の小笠原探索は、これが一度目。まだ入口に立ったばかりである。
まだまだ島の浅いところを、ウロウロしているばかりなのだ。

せめて今回の記事が、教師でも反面教師でも良いので、同じ興味を共有する人たちの役に立って、より核心に迫る情報が集まるきっかけとなることを切に願いたい。

父島の軍事国道を巡る第一作目は、これにて完結だ。

南島の失われた国道を巡る闇は、まだ明けぬ。