道路レポート 函館山の寒川集落跡への道 机上調査編

所在地 北海道函館市
探索日 2022.10.27
公開日 2022.11.29

 机上調査編 〜函館山の裏に秘められた幻の漁村〜


25万人以上が暮らす北海道第三の都会函館のシンボルである函館山裏手の険しい海岸線に、かつて富山県から移住してきた漁民たちが暮らした寒川という集落が存在した。
今回は、寒川集落へのアクセスルートとして、同集落と函館市街地を結んでいた海岸沿いの道を探索した。

その成果は右図の通りである。
基本的に、「道があった跡」が明確に残っているのは道中きっての難所だった穴澗の周辺の険しい岩場だけで、それ以外の部分については、概ね自然状態の浜辺を歩く感じであった。
それでも、浜辺の通行が困難な部分には、ピンポイントに隧道が穿たれていて、道としての機能を確保していた。

そうした隧道は、穴澗の周辺に貫通した状態で2本存在するほか(仮称だが、北から第一、第二隧道と表記した)、集落の南側にも、貫通はしていないものの、さらに1本が発見された。
今回は、この3本目の隧道(第三隧道)のすぐ南側で撤退したが、集落より南側に隧道が存在している理由は、私にとって、現地探索後に残った最大の謎である。

チェンジ後の画像は、まだ集落が存在していた昭和26(1951)年当時の地形図である。
集落は既に衰退期に入っており、描かれている軒数はわずかだが、現在の地形図からは完全に抹消されている今回探索した道が、徒歩道として描かれているのが分かる。
隧道は省略されているものの、穴澗を越えるこの道によってのみ、外界と通じていた様子が見て取れるだろう。

そして、集落よりも南側に道は延びていない。
実際には第三隧道が存在しているが道は書かれていないというのは、確かに未成隧道、未成道という一説を裏付けるような表記といえる。

第三隧道の謎は興味深いが、寒川道の魅力の焦点といえばやはり、確実に通行された記録がある道中最大の難関、穴澗周辺の高潔過ぎる道路風景にある。
集落の歴史とほぼ同じだけの血と汗と涙が染みこんでいるであろう穴澗の道が開発された経緯や苦心譚、そして利用の実態、こうしたことを私は想像ではなく、実際の証言として触れてみたいと思った。

寒川集落の“道”に焦点を当てた机上調査編のスタートである!



 <第一章> 寒川集落の盛衰史 


ここで一度、寒川集落道と一体不可分の関係であった寒川集落の歴史を概説しておこう。

寒川集落については、平成12(2000)年に相次いで刊行された、『寒川』(大淵玄一著)『寒川集落 改訂版』(中村光子著)という2冊の文献がある。
前者は、寒川の地に昭和18年まで存在した分教場で校長職にあった人物が保管していた当時の文書により、後者は、多数の元住民からの聞き取り調査により、それぞれ失われた集落の姿を描き出そうと試みたものであり、前書の著者は後書の著書の恩師であるなどの関係から、互いに内容を参照する部分もある。
また、今回の探索のきっかけとなった『深夜航路 午前0時からはじまる船旅』(清水浩史著)にある寒川集落に関する記述も、概ねこれらを引用したものと読み取れた。

以後、この章で述べる内容は、基本的にこれら2冊の記述を元にしている。
本編中で既に触れた内容と重なる所もあると思うが、改めて寒川集落の盛衰史として全体を概観したい。



今回撮影した集落跡の風景。既に建物はなく、
石垣や段々畑の跡がわずかに残っている。

寒川集落を開拓したのは、富山県東部、新潟県の県境に近い宮崎村(現在の富山県朝日町宮崎)の漁師、水島和吉である。
明治17(1884)年、彼が31歳のとき、同郷の漁師総勢8戸20名を率いて、コンコロ舟と呼ばれる越中伝統の木製漁船で、富山から日本海伝いに北海道へ渡り、寒川の地へ入植した。
当時既に函館は都会化が進み、新たに入植できる土地は少なかったが、函館山の裏の少し広い浜辺は無人で、しかも綺麗な湧き水が豊富にあった。また崖地によって強烈な北西季節風から守られた向陽の地でもあった。

和吉と宮崎村の仲間たちは、この地で村づくりをはじめた。
当時、富山地方の漁師には夢を抱いて遠方へと入植する者が多くいた。彼らは米や網を故郷から持参して、大謀網の技法を携え、北海道は無論、遙か樺太や千島列島にまで渡っていた。現地で漁法を伝えて漁師の指導者となった者も少なくないという。

入植当時の寒川の海は、寒流と暖流がぶつかり合う大変な好漁場で、ニシン、ブリ、イカ、マグロなどが面白いほど採れた。すぐ近くに当時北海道一の都会であった函館市場があり、寒川は船宿として急速に成長した。船宿とは、出稼ぎの漁師たちの足掛かりとなる根拠地のことで、毎年宮崎村から大勢の漁師が寒川へ渡り、ここを足掛かりに漁をした。
明治38(1905)年には、宮崎村からさらに入植者を受け入れ、30戸約60名が暮らすようになった。
寒川集落は、この明治30年代に早くも最盛期を迎えていた。


『日本築城史』より転載

だが、この頃既に大きな環境の変化が起っていた。
それは、函館山の一帯が、日本帝国陸軍が所管する函館要塞となったことだ。
幕末期より、函館は我が国の北の守りの要として、台場が整備されるなど軍港的な色彩を持っていたが、明治政府はこれを推し進め、函館山一帯の土地を買い上げ砲台を設置、明治31(1898)年に函館要塞を誕生させた。

右図は『日本築城史』に掲載されていた函館要塞の配置図である。
明治35年頃までに、函館山の地形を利用した5箇所の砲台が整備され、同時に函館山一帯は要塞地帯として一般人の立ち入りが出来なくなった。そしてこの状態は、昭和2年に函館要塞が津軽要塞に組み込まれた後も終戦まで続くのである。今日、函館山に貴重な自然環境が残されている一因は、一般人が立ち入らない期間が長かったためでもあるのだ。

右図に寒川集落の存在は見えないが、この大規模な要塞整備は最盛期を迎えつつあった寒川の暮らしに様々な影響を与えた。
『寒川集落 改訂版』に掲載されている年表には、明治29〜33年の出来事として、「弁天台場先の埋立工事や船入澗の築設工事の際、穴澗付近から石を切り出し小穴澗は削り取られ、寒川への道が出来た」というものがある。
この内容は、本編で“小穴澗”消失の経緯として既に紹介済みだが、これも函館要塞整備の一環であった。
そしてこの次の項目である明治32(1899)年の出来事は、詳細不明ながらも集落の存立にとって極めて重要な内容となっている。それは次のような内容だ。

・明治32(1899)年
津軽要塞設定に伴い、集落民は、大鼻岬より採石、トロッコ運搬で軍に協力、その協力により、2ヘクタール余与えられ畑を作った。

この短い内容の主旨は、寒川の住人が要塞建設に協力したために、要塞地帯内に土地を与えられて住み続けることができたことであろう。
このことは『寒川』にも記述があり、函館地方法務局に保管されていた地籍図によれば、寒川の民地は海岸線に沿って長さ約400m、奥行き最大47m平均約30mという大変に細長い土地になっていて、その外側は全て「陸軍所轄地」だったそうだ。要塞地帯内での土地の使用を特別に許可されていたのであろう。

集落がこのような特殊な立地であったことは、戦前の寒川集落で撮影された写真が1枚も見当らない最大の理由だったろう。
また、急勾配で高低差があることを我慢すれば、最短かつ比較的安全に函館市街の中心部と行き来が出来たはずの函館山越しでの集落への出入りがほとんど行われなかった理由も、ここにあった。 要塞設置後は一部の郵便局員を除いて山越えの通行は禁止されたらしく、このことは住人たちが今回探索した海岸ルートの整備に注力しなければならなくなった大きな要因だったはずだ。

そしてもう一つ、先ほど引用した文章の下線部には、私にとって重大かもしれない内容が含まれている。
それは、「大鼻岬より採石、トロッコ運搬で軍に協力」という部分だ。

左図を見ていただきたいのだが、大鼻岬で採石を行い、それをトロッコで台場(現在の「函館どつく」付近にあった)方面まで運んで埋立の資材として利用したとすれば、今回探索した海岸道やそこにある隧道は全て、このときにトロッコ道として誕生したものだったという意外な仮説に結びつくのである。

この仮説に拠れば、正体不明である第三隧道の存在を説明できるが、今のところこの「トロッコ」に言及した文章は、年表のこの一行しかないので、トロッコの敷設区間など詳細が全く分からないうえ、そもそも途中の穴澗にトロッコが渡れる橋がこの段階で架けられていたとは考えにくいこともあって、強い仮説だとは思わない。普通に考えれば、採石を埋立地に運ぶのは船の方が有利であり、トロッコの使用は稜線上での砲台建設の場面だった可能性が高い気がする。


ともかく、寒川集落は函館要塞の建設という環境の変化を乗り越えると共に、このことは集落と市街地を結ぶ海岸道が整備される契機となったようだ。
道については次の章で改めて詳しく見るとして、集落の盛衰史を先に進めよう。


『寒川』より転載

明治38年に集落の人口は約60人に増えて最盛期となり、40年には幸小学校の分教場も設置されている。
写真が残っていない集落の在りし姿を伝える貴重な資料として、『寒川』の著者が元住民からの聞き取りを元に作成した、昭和4〜24年頃を描いた「絵地図」があり、本編でも活用しているが、それより以前の最盛期に作成された右のような地図が同書著者によって発見されている。

これは函館市郵便局が明治43(1910)年に調製した集配先を描いた地図で、この頃の家屋数やその配置をかなり正確に描いていると考えられる。
浜に沿って描かれている実線は道であろう。右端付近が「第三隧道」の所在地だと思うが、それらしいものは見当たらない。
また、この頃から集落は南北の2つの部分に分かれていて、右に描かれている南側部分がより栄えていたようである。

入植以来順調に発展しつつあった寒川だが、人智の及ばぬところに綻びの芽があった。
明治41年頃から、寒川近海の漁獲が急速に衰えたのである。そのため生活の柱であった近海漁業は衰退し、樺太方面へ出漁する遠洋漁業へ切り替えた。
そんななか大正4(1915)年には、村の草分けで指導者的存在だった和吉が、郵便配達の途次で波にさらわれ帰らぬ人となった。

人口の推移を見ると、昭和2年には8戸49名とあり、明治38年の30戸60名から戸数が大幅な減少しているが、昭和13年頃からはさらに離村者が増える。
これは分校を卒業して高等小学校へ入学すると市街地に下宿しなければならない不便さや金銭的負担もあったし、何よりも太平洋戦争がはじまると北洋漁業が続行不可能となったことで、生活が成り立たなくなったのである。
昭和18年には分校も廃止され、高齢者世帯が中心の集落となった。

戦後の昭和23年は6戸、29年も4戸が細々と暮らしていたが、風前の灯火となりつつあった集落へ追い打ちをかける出来事が起る。昭和29年9月26日、函館湾内に未曾有の海難事故を引き起こした洞爺丸台風の襲来である。猛烈な風と高波によって、家も道も橋も大きな被害を受け、生活の道具であった漁具や舟もほとんどを流失した。
昭和32(1957)年の春、最後まで残った扇谷幸吉氏の離村によって寒川は再び無人の浜辺へ帰したのだった。

以上が、おおよそ70年間の寒川集落盛衰史である。



 <第二章> 暮らしの命綱、穴澗の道と橋の発展史



『寒川集落 改訂版』より転載

本編第3回でこの写真を紹介したところ、当レポート内での瞬間最大風速的コメント量を叩き出した、異常としか思えない“2本ロープの吊橋”の正体について、まず紹介しよう。

『寒川集落 改訂版』によれば……

先駆者たちが寒川に入植した頃は、橋はなく最も危険な山越えをして市街地に出たものでした。
その後、橋が架けられたのですが、上下一本ずつのワイヤーを渡しただけのもので、上の一本を握り下の一本に横に両足を乗せ蟹のように横歩きして渡ったのです。
前川チエさんは一度落ちたことがありました。その後上下二本ずつのワイヤーが渡され、下の2本に板が敷かれたのです。(大正14年頃)

『寒川集落 改訂版』より

このようにあって、大正14年頃まで、この尋常ならざる2本ロープの吊橋が生活道路として利用されていたそうである。頭が逝っている。
橋の渡り方の説明もあるが、その動き時代は想像できるよ。現代でもアスレチック公園とかに近い遊具があるよな。ただ遊具のやつは上と下のロープを縦に繋ぐロープが狭い間隔で存在する。それがないと、橋の上でバランスを一度崩すと、横向きになるまで傾いて振り落とされることになるからだ。
この写真の橋には縦のロープがないので、私には渡れないと思う。普通にグリンとなって落ちるぜこれは…。
写真では、後続らしき人物が橋のたもとでロープを支えているっぽいが、先行者のミスに巻き込まれたくなければ一人づつ渡るべき橋だろう…。

なお、ここには書かれていない、この最初の吊橋が架けられた時期についてだが、はっきりはしていないようで、同書の年表でも年号は空白になっている。ただ、昭和21〜24年に「政府が(現在ある植林地に初めて)杉苗を植樹した」出来事から、明治29〜33年に(前章で採り上げた)要塞工事の一環で小穴澗が削り取られて寒川への道が通じた出来事の間に、「穴澗に2本の鉄索を上下に渡す吊橋が出来た」という項目が収まっているので、おそらく海岸沿いに船入町から寒川へ通じる道が初めて整備されたのは明治29年頃であり、その一環として、穴澗を渡る2本ロープの吊橋が初お目見えしたのだろう。

しかし、穴澗に吊橋が架かる以前も、穴澗がある岩場を越える極めて危険な道があった。
それが本編中でも何度か触れた、穴澗の岬の別名“勘七落し”の名前の由来となった、高巻きの道であった。

 「勘七落し」の嶮
悪天候時や吊橋の無い時等、海沿いの通路が断たれたときは、穴澗手前の小トンネル脇の急斜面を登ると、丁度吊橋の真上に出ます。目もくらむ絶壁の渕を通って反対側の急斜面を70m位下りて、磯伝いに出なければなりません。
ここは通称「勘七落し」と呼ばれておりますが、勘七という漁師が転落死したことからきたものです。

『寒川集落 改訂版』より

現地の私は、ここを通路とすることなど全く考えなかったのであるが(苦笑)、おそらく右写真の矢印のような経路で穴澗を迂回するルートがあったと考えられる。
引用した文中にもあるとおり、海岸線からピークまで70mものアップダウンがある、よもや生活道路とは考えられないような崖同然の道だと思うが、これを利用したのは、最初の吊橋が架けられるまでの“大昔限定”というわけではなくて、その後も、悪天候時や吊橋が無い(後述)時など、海沿いの通路が絶たれれば、住人は時期も男女も問わず、やむなくも半ば日常的に、ここを越えていたそうである。
(オブローダーどころか、登山家裸足だ…。こんなルンゼ普通歩かねーだろ…、まして海が荒れているような天候下でなんて……。)



『寒川集落 改訂版』より転載

右の画像も『寒川集落 改訂版』に掲載されているもので、穴澗に架かる吊橋の在りし日の姿であるが、撮影時期は昭和30年代以降とみられ、集落が廃止されて跡地の一帯が海水浴場として利用されていた当時に海水浴客が渡る姿であろう。

これなら現代人もどうにか渡れそうとは思うが、やはり脆弱を絵に描いたような吊橋である。
そしてこの橋もまた、主塔などの遺構が現在残っている、すなわち最後に架かっていた吊橋の姿ではないようだ。主塔の形などが異なっている。
穴澗の吊橋は、驚くほどの回数にわたって架け替えられている。

この橋が、寒川の生活を支える命綱でした。生活の糧は、ほとんど自給自足していたとはいえ、米や調味料は買い求めなければなりません。フノリ、マツボ等を売り、金に換え、帰りは必要なものを買い、重い荷物を背負ってこの橋を渡りました。

昭和22年頃、一時、通称「H鋼」と呼ばれる電車のレールを利用した、役所の人をして「永久的な橋だろう」と云わせた頑丈な橋が架けられた事がありました。その橋は半月も経たないうちに台風で飛ばされ、今でも海の底に沈んでいます。あまり頑丈に作り過ぎても、風や波の当たりが強くて橋を取り付けている柱さえもさらわれてしまい、集落では一時住人の手に負えなくて大そう困ったことがありました。
その後又、吊橋に戻ったのです。

舟も交通の手段でしたが、舟は主に漁に使われますし、私が通ってた頃は舟の無い家もありました。(中略)女、子供は陸路が普通でした。
荒天の穴澗はすさまじいものでした。波しぶきは滝のように襲いかかり、洞窟の水路を通って怒濤が唸り声を上げて流れ込み、吊橋は宙に舞い上がりました。橋は年に数回もつけ替えられました。

『寒川集落 改訂版』より

「橋は年に数回もつけ替えられた。」

文章にすればたったこれだけだが、現実に考えればなんと不便だろうか。
付け替えの度に橋は通れなくなっていたのである。不便すぎる。
そして、その都度誰がお金を出して直していたのかも深刻な問題だろう。



『寒川』より転載

『寒川』に、この辺りの事情がより詳しく述べられている。
右図は、寒川分校の「学校記録」より集計された、昭和7年から17年の間の吊橋の落下・破損の記録である。
この11年間に20回以上も落下している。

尋常ではない多さだが、月別だとやはり海が荒れる日の多い冬期間、11月〜3月が多い。9月に多いのは台風だろうか。年に3回落下している年が昭和7年、13年、16年で、昭和17年に至っては4回も落ちている。ツラい!



『寒川』より転載



「学校記録」には、橋が落ちたときの対処についても、左図のように記録されている。
これを見ると、橋が落ちるとまず本校の校長に報告するほか、「土木課」へ修理を依頼している。
この土木課は函館市の部署であろう。戦前の道路法下における市道の法定管理者である函館市だとすれば、当時の寒川集落道は函館市道だったのだろうか。路線名までは分からないが、道路法に認められた道だったとしたら、なんか嬉しい。

また、落橋した橋の本復旧は土木課が担当するが、落橋直後の仮復旧は、集落が備蓄する橋材などを利用して住民が自主的に行っていたことも分かる。まさに“おらほの橋”であった。
このための予算も集落で確保していたようで、その金額も大きく、『寒川』には、昭和7年6月には(橋の架設費用か予備費として)現在の金額で260万円相当の概算予算を決めたことが出ている。

さらに注目すべきことは、分校において校長と(唯一の)教員を兼ねる分校長の業務の多岐にわたる点だろう。
『寒川』には、実質的に分校長は、函館市役所の職員と、寒川の村長をも兼ねた存在だったとある。
それに、「学校記録」には電話で報告という文言がよく出ているが、集落に電話は導入されなかったから、橋が落ちているような状況で電話機がある市街地まで連絡へ行く事も茶飯事だったのだろう。キツイ!



市街地側からだと、穴澗の吊り橋を渡った先が、今回の探索で私が最も感激した場面、右写真の片洞門地帯である。
『寒川集落 改訂版』には、このように描写・解説されている。

吊橋を過ぎると、この道最大の難所です。
穴澗の険をこえる高い断崖が続き石屋(大黒町―現入舟町―の鍛冶石材店)達がのみと金槌で絶壁を削って付けたという、人ひとりやっと歩ける程度の道があります。左は崖面、右下はすぐ海面で、高波が来ると波しぶきを浴び波に足をさらわれます。(中略)
避難できる小トンネルがあり、岩場の切れ目に角材を渡してありましたが、「安全確保」には程遠いものでした。

『寒川集落 改訂版』より

かつての住人が、“最大の難所”と表現したのが、この片洞門地帯だ。

現地探索では、この奇絶の道を誰がいつ建設したかについては、物語る石碑も何もなく分からなかったが、建設者はどうやら富山から渡ってきた漁師の住人達ではなく、現在の函館市入舟町辺りで鍛冶石材店を営んでいた石のプロ達であったらしい。
かつて小穴澗があった場所で石切場が営まれていたことは本文中で紹介したが、火山島である函館山は石材の産地で、古くからこの地方には技術を持った石屋が多くいたのだろう。
まさに餅は餅屋、石は石屋というわけで、これほどまでにハードコアな道を完成へ導いたのは、この道のプロフェッショナルであったのだ。


さらに元住民は、探索者としての私の共感を引き出すこんなことも語っている。
「避難できる小トンネルがあり」……と。

トンネルは避難所――難所にあってこの心境に至るのは、“オブローダーあるある”ではないだろうか。
一見すると不気味で不安に駆られるトンネルが実は一番安全だというのは、大いに共感するところである。
住人たちも、橋を渡って片洞門をへつり、トンネルまで辿り着ければホッと一息といったところだったろう。

ところで、最初の穴澗の吊橋はおそらく明治29年頃に架けられたであろうという話をしたが、この片洞門や隧道の誕生はいつなのだろうか。
これについては個別に言及は無いが、地形的に見て、最初の吊橋と隧道は、同時期の開通でなければならないだろう。
すなわち、(正直驚きだが)穴澗の前後にある2本の隧道については、いずれも明治隧道、それも29年頃には完成していた北海道内屈指の古隧道だと推測できる。 凄い!!

また、避難所的なトンネルの直後に現われる右写真の場面は、地味に今回の探索において最大の難所だったが、ここには角材を渡してあったそうである。
橋と呼ばず角材というのが、なんともワイルドだ。波飛沫で濡れた角材とか、普通に死ねるヤツなのにな。


このように、穴澗の吊橋やその前後の崖道は、集落の命綱であり先駆者達が作り出したかけがえのない財産であったが、北の海の猛威の前では如何ともしがたい脆弱さを以て、住民達に苦しみを与える存在でもあった。
そしてその苦しみは、愛する者の命に手を下すことさえあったので、部外者の私には安易に美化することの許されない、恨みの橋であり、呪われた道でもあったといえる。

穴澗の周辺では、前述した通り集落の草分けである水島和吉が命を落としたほか、「口岩源次郎の母と義母らや、後に扇谷幸吉さん(最後の離村者)の妻も波に呑まれ、溺死しています(『寒川集落 改訂版』)」とか、「先生の在職中にも昭和7年4月2日、尋常2年平田花子の父親が同じ目に遭い、翌日、水死体となって発見され(『寒川』)」というふうに、何人もの住民が命を落としている。
さらには、「穴澗付近は事故だけでなく投身自殺者の多い場所でもありました(『寒川集落 改訂版』)」というようなことも、魔性を感じさせるほどに険しい道が大都会に隣接していたことによる一つの暗部として記録されている。


以上が、集落が健在だった時代を共に歩んだ、穴澗を通じる道と橋の記録である。
今回の机上調査の山場はまさにここにあったかと思うが、次の章では集落解体後の経過について、そして最後の章では、なおも残された謎に少しでも迫りたいと思う。



 <第三章> 函館市民の憩いの場となった寒川海水浴場


昭和32年に最後の住人が去り無人となった寒川だったが、すぐに明治以前の静けさへ戻ったわけではなかったようだ。
住人がいなくなったこの土地を次に訪れたのは、寒川の住人を長年潤してきた冷泉の存在に着目した人々だった。

この様にして、明治17年から昭和29年まで細々と続いていた、この生活共同体は、終わりを告げたのでした。
その後、ここを買い取った人等(柳沼商事、他)によって、温泉の試掘が行われましたが(昭和34年)温度が低く(22℃〜25℃)、その後行われた金の試掘にしても、商品価値がなく立ち消えになりました。

『寒川集落 改訂版』より

『寒川集落 改訂版』より転載

寒川の由来が三本川であったとされるほど、この地には狭隘な地形のわりに涸れない豊富な水があったが、沢水だけでなく、鉱物を含んだ冷泉(=鉱泉)も湧いていたそうだ。
『寒川』掲載の絵地図にも、集落内の2箇所に温泉マーク付きで「冷泉」の表記がある。
この冷泉周辺をボーリングすることで、鉱泉よりも高温の「温泉」が湧出することが期待されたのである。

もしもこのボーリングが成功し、函館山の海岸に温泉が湧いていたら、今日も寒川への往来は途絶えていなかったのかも知れない。
しかし残念ながら期待された高温のお湯が出ることはなく、中止された。
またこれとは別に、金鉱の試掘も行われていたというから驚きだ。

右の写真は、ボーリング作業の詰所となっていた元住居を撮影したものだ。
戦前は要塞地帯のため撮影御法度だった寒川の住居が写った写真は非常に珍しい。
このボーリングには屈強な男達が大勢で取り組んだから、寒川の浜に働く男達の熱い血潮が久々に戻った、そんな一夏の出来事であったろう。

定住する人が居なくなってからも、寒川は穴澗と並んで市の海水浴場として賑わっていました。しかし現在、穴澗の吊橋は取り外され、鉄柵が行く手を鎖(とざ)しています。今残されているのは、吊橋へのコンクリートの階段と支柱だけです。

『寒川集落 改訂版』より

読者様からのコメントでも、海水浴で寒川へ行ったことがあるという方が何人かおられたが、富山県宮崎村出身者たちの閉鎖的なコミュニティであった寒川の地が一般に開かれたのは、無人化から数年後、函館市が一帯を海水浴場として整備・解放してからだった。
海水浴場としての名称は、今回の探索のスタート地点(地名としては「おつけの浜」と呼ばれた)一帯が穴澗海水浴場と呼ばれ、そこから穴澗の橋を越えて辿り着ける旧寒川集落前の浜は、寒川海水浴場と呼ばれたようだ。

観光目的で大勢の人が訪れるようになったことで、海水浴場時代の写真は、集落時代のものより遙かに多く残っているようである。
そのような写真をいくつか紹介するが、先にこれを見ておいて欲しい(↓)。


(↑)今回見つけた3本の隧道の坑口画像集。

古写真に写る隧道と対照同定させるために用意した。



『寒川集落 改訂版』より転載

これらの写真は、『寒川集落 改訂版』に「寒川への道」として掲載されているものだが、いずれも海水浴場として賑わっていた当時のものだ。
左と中の写真では、麦わら帽子の家族連れが危なっかしい岩場の道を一列になって歩いている。

左は穴澗の吊橋付近、中は第二隧道の南口付近の角材を渡した橋だろうか。右の写真は第二隧道を南側から遠望した景色だ。
どれも現在の風景によく面影が残っているが、このように子連れで気軽に訪れることはもう出来ない。



『寒川集落 改訂版』より転載

この写真も同年代の風景だが、隧道の入口が大きく写っている。
これはどの隧道だろうか。
見較べてみると、第一隧道の南口だと考えられる。

この場所までは今でも簡単に行けるが、それでも最初に【鉄柵】を乗り越える必要はある。
やはりこのように大勢の人で賑わうことは二度とないだろう。

明治生まれと推測される第一、第二隧道や、明治以来数え切れないほど架け替えられてきた穴澗の吊橋には、寒川の人々の苦難した歴史がこびり付いていたであろうが、海水浴場として解放されていた数年間(夏の時期に限ったことではあったが)は、大いに賑わい、喜びと歓声に満ちた幸せな時間を過ごしたようだ。ある意味、道としての救いがそこにあったように思う。

穴澗や寒川海水浴場が賑わっていた当時の貴重な写真や体験談が、『函館のおぢさん2的ブログ』にたくさんあると読者様に教えていただいた。

同ブログには、ここで転載したものよりも精細な写真が、たくさん掲載されていた!すごい!
本当に素晴らしいので、ぜひアクセスしてみて欲しいのだが、新たな謎を巻き起こす非常に気になる写真もあったので、ここでいくつか同ブログのエントリを紹介しつつ、気になるポイントを書いておきたいと思う。

2007年7月15日のエントリ 「穴間にある穴 寒川に続く道」
一連の寒川シリーズの最初のエントリ。海水浴場となっていた寒川へ通じる道でのスナップ3枚。撮影および写真の提供は赤帽子屋さんという人物だが、ブログ主自身も同年代にこの道を何度も通行しているとのこと。
3枚とも見覚えのある場面で、3枚目の隧道写真は、第一隧道内部から北の「おつけの浜」、当時は穴澗海水浴場と呼ばれていた海岸を撮影したものだろう(同アングル写真)。数え切れないほどの海水浴客がいる。自転車の姿も見える。
2007年07月27日のエントリ 「昭和34年の穴間海水浴」
寒川シリーズの2番目のエントリ。赤帽子屋さん提供の写真8枚。全て昭和34年の穴澗海水浴場の賑わいを撮したもので、当時の海水浴ブームの加熱を窺わせる、驚きの賑わいぶりである。
2007年08月04日のエントリ 「再度、穴間海水浴場」
寒川シリーズの4番目のエントリ。赤帽子屋さん提供の写真6枚。全て昭和30年頃の穴澗海水浴場の風景。3枚目の写真に写るのは、第一隧道の北口である(同アングル写真)。この頃既に特徴的な入口の形状だったことが分かる。これを潜り抜けると、寒川海水浴場へ行くことができた。
2008年10月10日のエントリ 「函館 寒川 海水浴場 S20年代?」
寒川シリーズの5番目のエントリ。赤帽子屋さん提供の写真2枚。寒川海水浴場で撮られた(おそらくこれも昭和30年代の)写真であり、木造の船着場や海の家の存在が見て取れる1枚目は特に貴重であろう。

同写真は、絵地図のこの位置にあった「まさかり岩」から南を撮影したものらしく、同アングルで撮影した今回の写真(→)と比較すると、「まさかり岩」の前に船着場へ通じる木造の桟橋があったことや、現在も残る大謀網番屋跡の【巨大な石垣】の背後に、かなり大きな三角屋根の「海の家」が建っていたことが分かる。集落の家屋の再利用ではなく、新たに建てられたのだろうか。
よく目を凝らせば奥には第三隧道が見えそうだが、はっきりしない。

エントリの本文では、ブログ主の体験談として、この木造の船着場へ函館市街地から通船が出ていたことが語られている。危険な穴澗の崖道を通らなくても寒川での海水浴を楽しむ事が出来たということだ。
2008年12月14日のエントリ 「函館 寒川 4」
寒川シリーズの6番目のエントリ。赤帽子屋さん提供の写真6枚で、これまでの総集編的内容だが新たな写真もある。
1枚目は、穴澗の吊橋を見上げるように撮したもので(同アングル)、『寒川集落 改訂版』に掲載されている【この写真】と同一の橋のようだ。少なくとも、現在遺構が残っている、コンクリート階段と鋼鉄の主塔を有する、最終型の吊橋とは異なっている。見るからに恐ろしいボロボロの木造吊橋である。怖い。

2枚目の写真は、同橋の上から穴澗の内部を覗き込んだものだ。
これはドローンでも使わない限り、現在では撮れないアングル。奥も、海の底も、どちらも見えない穴澗の海蝕洞が恐ろしい。そして、何かのロープが視界に被さっているが、ま、まさか…… まさか、例の2本ロープ吊橋の残骸じゃないよな……。怖すぎる。
2009年02月10日のエントリ 「函館 穴間  何回目?」
寒川シリーズの7番目のエントリ。赤帽子屋さん提供の写真7枚。
1〜2枚目は穴澗の吊橋。6番目のエントリの橋と似ているが、少し綺麗に見える。たぶん橋板が架け替えられている。男性2名が渡っている2枚目は橋が撓みすぎていて怖い。
3〜4枚目は穴澗海水浴場の賑わい。5〜6枚目は穴澗の崖道で、6枚目の隧道は第二隧道南口だ。どれも素晴らしい写真。
7枚目は本文にもあるとおり寒川で、「まさかり岩」の船着場へ通じる桟橋を南側から撮影している。
2009年02月12日のエントリ 「函館 穴間のさき」
寒川シリーズの8番目にして現時点で最後のエントリ。赤帽子屋さん提供の写真3枚。
いずれも右写真の入江で海水浴を楽しむ美男美女。美女多し。素晴らしい眺め。
よく見ると背後の崖道に無数の人影が列になって歩いている。賑わいが凄い。でも岩と海の景色は本当に変わっていない。
2007年08月03日のエントリ 「穴間、寒川」
寒川シリーズの3番目のエントリ。敢えて順番を最後に紹介したのは、これだけ異質だからである。
掲載されているのは赤帽子屋さん提供の写真8枚で、明らかに海水浴の時期ではない。本文およびブログコメント欄でのブログ主の発言によれば、これは昭和20年代の撮影だそうで、寒川に冷水を汲みに行ったときの一連のスナップ写真であるとのこと。この年代が正しければ集落が存在した末期のものとなるが、確かに全体的に海水浴場として賑わってからよりも道の状況がワルく見える。

1枚目は、「おつけの浜」から見る穴澗の岬(同アングル)。
2枚目は、第一隧道北口(同アングル)。
3枚目、4枚目と穴澗の崖道を進んでいく。崖道はひとり分の幅がコンクリートで軽く舗装されていたようだ。
5枚目は、かなり寒川集落に近づいている、見覚えのある風景だ(同アングル)。
6枚目、見たことがない隧道が写っている。
7枚目は、鳥居が写っていることから、絵地図にある「鹿島神宮」と判断する。周囲は一面玉石の河原のようだ。洞爺丸台風の時に山津波があって、神社一帯大きな被害があったという(『寒川』)。それよりも後で撮影された写真のような気がする。
8枚目は、目当ての冷泉である。絵地図にある2箇所の「冷泉」のうち、鹿島神宮に近い南側の冷泉だと思う。

問題は6枚目の写真だ。見たことのない隧道が写っている。
今回現地で出会った3本の隧道はいずれも草木乏しい岩場に穿たれていたが、問題の隧道の周囲には草が多く繁っている。
そして何より最大の違いは、洞内に坑道のような木製支保工が見えることだ。サイズ感は、人物が身をかがめて入るほど小さい。

改めて考察すると、1〜5枚目は全部見憶えのある場面で、順序よく寒川へ向かっているのが分かる。
私のレポートに照らし合わせると、5枚目は第3回後半の5枚目の写真の場所だ。別アングルだと右の画像。地図上の位置は、ここ。

それから6枚目の見覚えのない隧道を潜って? 7枚目は寒川集落内の鹿島神宮とみられる地点となる。

(←)ここから地形図に照らし合わせると、この図示した範囲に6枚目の画像の隧道があったと考えられることに!

しかし、そのような隧道は現存しないばかりか、ありそうな地形にも思い当たらない。
元住人の記憶より描き出された絵地図にもなければ、『寒川』や『寒川集落 改訂版』にも、このような隧道が存在した話は出ていないのである。最も集落の近くにあったと考えられるのに、これはあまりにも不自然である。

問題の写真をよくよく見ると、冷水を汲みに向かっている被写体の人物がずっと背負っている行李が、この隧道らしきものに身を屈めて入っている場面でだけ、外に置き残されている!
ああ!分かった!! これは通り抜け出来る隧道じゃないんだ!
こいつの正体は……

金の試掘坑!!!

もしくは温泉ボーリングの試掘坑。

そのどちらかである可能性が、極めて高いのではないだろうか。
隧道でないなら、地形に特徴が乏しいので現地で見逃した可能性がある。ただ、現地を訪れた誰も報告をしていないようだから、もう埋没か埋め戻されたかで、現存しない可能性が高そうである。

……ということで私は一応納得したが、ともかく『函館のおぢさん2的ブログ』の内容は必見なので、ぜひご覧いただきたいと思う。
次の最後の章では、海水浴場としての賑わいの終わりと、残された謎について、見て行きたい。


 <最終章> 賑わいの終わり、そして残された謎 



穴澗に架かっていた最後の吊橋の跡。今回の調査では、
この橋の現役当時を撮した写真は1枚も見つからなかった

穴澗の吊橋を渡って行くほか、市街地から出ていた通船によっても辿り着くことができたという寒川海水浴場だが、いったいいつ頃まで営業していたのだろう。
これについて、前出のブログ主「おぢさん」氏は、昭和43年か44年までは毎年のように訪れていた、と書いておられる。
また、このレポートに寄せていただいたコメントを拾ってみても、やはり昭和40年代の前半の体験談が目立つ。
こうしたことから、昭和40年代前半までは確実に営業し、吊橋も架かっていたと推測する。

さらなる情報を求めて、地元紙『北海道新聞』のバックナンバー「どうしんDB」を調べてみた。ここでは昭和63(1988)年以降の多くの記事を検索・閲覧できる。

「寒川集落」+「函館」 というキーワードを設定して検索すると、全部で13件ヒットした。
古いものは1995年、新しいものは2018年の記事があったが、1999年から2000年にかけての記事が多い。2000年といえば『寒川』や『寒川集落 改訂版』が相次いで刊行された年であり、この頃ちょっとした寒川ブームがあったようだ。上記の2冊が刊行された日もそれぞれ記事になっていて、著者のインタビューが掲載されているほどである。

また2004年2月には、寒川のルーツを探ろうと、木村マサ子さんという地元の自然観察指導員が、富山県朝日町宮崎に赴く記事も2回あり、応対した現地の教育委員会の学芸員さんが寒川集落跡の写真を見るや……「優しい表情で「昔の朝日町の浜と同じです。故郷に似ていた場所に住んだのですね」と、語りだした。」場面などは、正直ちょっと目頭が熱くなった。

いろいろな記事を見ていくと、寒川海水浴場へ通っていた渡船に関する情報を見つけた。

一行は、73年まで寒川海水浴場に定期航路を開いていた共同通船(小林敏夫社長)の船3隻に乗り込み、函館港中央ふ頭から約30分で寒川に上陸した。

『北海道新聞 2001年7月26日夕刊 「市内の秘境「寒川」を訪ねて」』より

これは平成13(2001)年7月26日の記事 「市内の秘境「寒川」を訪ねて」 の中の一文だ。
7月24日に「寒川で夏のひとときを楽しむ会」という催しが開かれ、市民ら35人が同地区に船で上陸したという「ニュース」である。
この中に、昭和48(1973)年まで共同通船という会社が寒川海水浴場への定期航路を開いていたことが出ていた。

穴澗に遺構を留めている最後の吊橋が、いつ架けられ、いつまで架かっていたかについては、はっきりとした記録は見つかっていない。おそらく昭和40年前後に、海水浴場への安全な行き来のため、それまでの木造橋より頑丈な鋼製主塔の橋へ改めたのだと思う。

 “最後の吊橋”の写真が発見された!
2022/11/30追記

なかなか見つけられなかった、“最後の吊橋”の在りし日の姿を撮した写真だが、読者様の情報によって見つけることが出来た。
前章でたくさん利用させていただいた『函館のおぢさん2的ブログ』に、それはあった!

2006年05月27日のエントリ 「穴間つり橋」

上記ページに1枚でっかく、最後の吊橋の現役時代…… からは少しだけ後になるのだろうが、我々オブローダーが良く目にする「この先、落石〜〜通行止」などと書かれた看板によって塞がれた、見覚えありまくる主塔を持つ吊橋を、果敢に渡っておられる男性が写った写真が、掲載されている。

撮影時期は不明とのことだが、海水浴場が廃止された(昭和48年以降?)直後くらいの写真ではないだろうか。
というのも、まだコンクリートの階段が痛んでいないし、階段に取り付けられている手摺りなんかも全然綺麗で現役さながらに見えるのである。

右の画像は、上記の古写真を参考に、現在の風景に橋を描き足したものである。
この吊橋、思っていたのとは異なる構造だった。
メインケーブル(ピンクの線)の張り方が、想像と違っていたのである。

これは、メインケーブルが踏み板(人が渡る部分)を固定した床板を直接支える直路式吊床版橋と、メインケーブルから伸びたハンガーに床板がぶら下がるように取り付けられるという、一般的にイメージする吊橋を折衷したような、不思議な姿をしている。
橋の両端付近は従来型吊橋、中ほどは吊床板橋みたいな……。完全な吊床版橋には主塔もないなずだが、この橋にはしっかりあるし…。

なぜこんな橋になったのか、不思議であり興味深いところだ。私は同じような橋を見た記憶がちょっとないのである。
いずれにせよ、それほど長い期間使われることなく、この面白い型式の吊橋も役目を終えていたことが伺える極めて貴重な1枚だと思う。

橋が廃止された経緯は伝わっていないが、昭和48年で寒川への定期航路が終わったそうであるから、この年で海水浴場の営業は終了した可能性が高く、同時に橋も管理がされなくなって壊れたか、安全のために撤去されたのだと推測できる。

なお、この共同通船の船をチャーターした寒川訪問の催しは、2年後の2003年8月にも行われ、8月15日の記事 「<みんなの広場>寒川の自然に感動」 になっていたし、さらに2007年8月にも行われたことが記事になっていた。だがこれも最近は行われていないようである。


仮称「第三隧道」こと、寒川集落跡と大鼻岬の間にある閉塞隧道。
この隧道について言及している記事も発見された!

そして、私の心が大いにときめく発見もあった。
先に紹介した2001年7月26日の記事 「市内の秘境「寒川」を訪ねて」 の終わりの方に、このような文章が……

到着した岩場から辺りを見渡すと、周りには大きな岩石がごろごろと転がり、かつて家屋があったという場所の石垣は、雑草が覆いつくしていた。『寒川』や『函館の地史』の著者、大淵玄一さん(76)が寒川の地形や函館山の形成過程などを説明。「ここの岩盤が函館山で一番古い地層であるのは間違いないだろう」と解説した。
一行は家屋や神社の位置などが記された「寒川集落略図」(大淵さん作成)を手に探検を開始。住居跡の石段や段々畑の跡、集落があった当時、植樹された杉の成長などを確認した。『寒川集落』の著者で、子供のころ、寒川を訪ねた経験がある中村光子さん(61)は「50年ぶりですが、生活の跡が残ってないですね。想像していたとおり、自然に返っている」と感慨深げ。

『北海道新聞 2001年7月26日夕刊 「市内の秘境「寒川」を訪ねて」』より

……まさに幻の寒川集落を現世へ紹介する役割を担った2大立役者の揃い踏み感があって、私は勝手に熱くなってしまったわけだが、ときめいたのは、この後の文章……

また、午後から訪れた同地区の南側では「昔、立待岬側と行き来をしていた」という高さ約1.8mの洞窟を確認。

『北海道新聞 2001年7月26日夕刊 「市内の秘境「寒川」を訪ねて」』より

昔、立待岬側と行き来をしていた洞窟!!!

ま、マジかよ?!

私が引き返した右画像の先のガレガレの海岸線をずっと歩いて、さらに2km近く先にある立待岬側からも市街地に出ていたってことなの?!

ネットを検索してみると、確かに立待岬側から寒川集落跡へ辿り着いている“猛者”もいるにはいる。
例えば、北大水産ワンダーフォーゲル部のブログの記事「函館山海岸歩き報告と雑感」にその挑戦が紹介されているが、泳いでいるじゃねーか!!(驚)

立待岬と寒川の間で泳ぐ区間があることは昔からそうだったらしく、前述のおぢさん氏のブログへ寄せられたコメントにも、そのことがはっきりと書かれていた。
泳がねば突破出来ないような難場にも、集落健在の当時は何らかの通路が用意されていたのだろうか…?

それとも、先ほどの記事の文章は言葉のアヤというやつで、「立待岬側と行き来をしていた」は、立待岬へ行き来をしてたわけではなく、釣りとか野草採取とかの用事で、途中の大鼻岬あたりまで行って引き返していたことを言っているのだろうか。そのために隧道を掘ったというのも、贅沢な気がしないでもないが…。

カヤックがあれば、この区間の再探索は可能だろうが、とりあえず隧道などの道路的構造物は他に見当らない様子ではある。

で、この記事の続編と言うべき、2003年8月に開催された2度目の「寒川で夏のひとときを楽しむ会」の記事 「<みんなの広場>寒川の自然に感動」 に、またまたこの「第三隧道」が登場するので見てみよう。

その後、今回の目的でもある南側の洞くつを探検。前回は一部参加者だけが訪れた南側の洞くつは、上陸地点から300〜400mほど先にあり、かつての住民が掘ったとされます。 人がやっと立てるぐらい(高さ約1.8m)で、奥は真っ暗で約16m先で行き止まり。入り口には、つややかな緑色のオニヤブソテツが岩間から生え、手つかずの自然に感動した参加者は、カメラやビデオに収めていました。

『北海道新聞 2003年8月15日夕刊 「<みんなの広場>寒川の自然に感動」』より

かつての住民が掘ったとされる!

そして、この当時から内部は行き止まりになっていた!!

現地に詳しい方々も参加しているツアーで、このように書かれている以上、第三隧道もまた、寒川集落があった当時に、住民達の意思で建設されたものである可能性は極めて高い。
ただ、建設の目的は書かれていない。
立待岬まで(泳がずに)歩いて行けるように道づくりを始めたが、最終的に未成に終わった可能性もある。
この記事を最後に、本隧道の存在に言及した記事はなく、これ以上は分からなかった。




寒川への道は、鎖されたままとなっているが、苦労して訪れた誰もが感心し、興奮し、感動していた。

人間が関わりをもつことで初めて、ただの地形にも物語が生まれ、魂が宿る。奢った考えかも知れないが、私の興味は、ほぼそこにしかない。

険しすぎる自然に“食い込んだ”寒川集落跡やその道の風景は、改めてこのことを深く私に再認させた。