道路レポート 長野県道55号大町麻績インター千曲線 差切峡 最終回

公開日 2015.10.04
探索日 2014.10.28
所在地 長野県麻績村〜筑北村〜生坂村

1号隧道から最後の旧道、そして「全面通行止」へ


2014/10/28 13:21 《現在地》

差切5号隧道を皮切りに、かなり矢継ぎ早のペースで現れてきた隧道群も、2号隧道から150mほど離れたところにあるこの隧道、差切1号隧道をもって、打ち止めとなる。
そして隧道群の終わりは、差切峡を無事に通過し終えるということでもある。
事実、隧道の向こう側にはもう、先ほどまでのような、そそり立つ山肌のシルエットは見えていない。

なお、「大鑑」には、1号隧道について全長20m、幅3.3m、高さ3.2m、竣工昭和28年という記録がある。
この20mという全長は、既に開削されてしまった旧5号隧道の13mに次いで短い。




目前に現れた1号隧道は、これまで目にした5〜2号隧道の中で最短というだけでなく、幅も3.2mと一番狭い。「大鑑」でもそう記録されていたが、現状でもそのままのようだ。
そして、素掘吹き付けの2号隧道には見られなかった坑門があり、そこには見馴れたデザインの扁額も取り付けられていた。
そこで私は気付いた、小さな異変に。
ここまで2号隧道を除く各隧道で扁額を見たが、この1号隧道だけはなぜか「一号隧道」と、番号が漢字で書かれているのである(他はみなアラビア数字)。

「だから何だ?」
…そう言われると、困るんだぜ。扁額のデザインは4号や3号で見たものと全く同じなので、単に文字を入れる人間の気まぐれか或いはミスで、「1」ではなく「一」を入れたというだけだろう。
実はこの隧道については、さらに重要な異変があるのだが、私が気付いたのは、もう少しだけ後だった。



目の前にある1号隧道の大きな異変にも気付かないほど、私の意識は“旧道”発見へ注がれていた。

そしてその甲斐あって、今回もまた旧道が発見された。
4号や3号隧道の旧道で見たような片洞門が、1号隧道の“外”に続いていた。

もしかしたら本当に、2度あることは3度あるかも知れない!




隧道の坑門が旧道へのアクセスを邪魔していたが、自転車を残して身軽になれば、これを越えるのは難しい事では無かった。

たった数分前に体験した2度の強烈な成功体験がリフレインする。

おそるおそる、過去2回の成功地である岩場突端のカーブを回り込むと…




残念! 今回、隧道は無し。

さすがにそう何度も思い通りにはならないのである。
1日で2本も未知の明治廃隧道を発見したのだから、もう満足しなければならない。

ともあれ、これで現存する5本の隧道の全てに、旧道が発見された事になる。
どれも短い旧道ばかりだったが、成果は大きかった。

藪の枝葉を退かした先には、そこまで集落が迫っていた。
これで私は差切峡を無事に突破したのである。



13:25 《現在地》

旧道の終わりは、1号隧道の西口だった。
その事は全くの予想通りに過ぎないが、間近に見る坑門と内壁の様子には、先ほど東口では気付かなかった“大きな違和感”があった。
写真に破線で示した位置に、何か奇妙な線が見える(よね?)。

また、見ての通り、1号隧道の断面は随分と縦に長い。
だが、これは「大鑑」に記録されている数字とは矛盾している。
「大鑑」に記録されている昭和40年頃のデータでは、幅3.2m、高さ3.3mである。
幅と高さはほとんど同じくらいだったはず。

ここまで書けば、坑門や内壁に浮かび上がった奇妙な線の正体は明らかだろう。


1号隧道の路面は、開通当時よりも1mほど掘り下げられている!

この大規模な改修工事が施された時期は不明だが、それほど最近のことでは無さそうだ。
また、このような掘り下げを受けたのは、1号隧道だけではないと思われる。

前回までの画像を振り返ってもらうといいが、3号隧道と2号隧道についても、現在の路面は旧道に対して約1m低いところにある。
このように3本の隧道で同じ程度の落差が観測されるのは、偶然とは思えない。
また、3本とも「大鑑」のデータ以上に高さが大きく感じられる。
以上の事から、3号隧道と2号隧道でも、後年に路面の掘り下げ改修が行われたと考えられる。

3号隧道内部の手が届かない高さにある奇妙な地蔵?(画像)も、路面の掘り下げがあったとすると、だいぶ納得が行く。また改めて写真を見ると、旧路面の高さに微かに線が残っているように見える。




私が車から自転車を降ろして探索を始めた場所は、筑北村の西端にある赤松という集落のはずれだったが、そこから1.6km県道を走り、お隣の生坂村の東端にある重(しげ)という集落に辿りついた。
2号隧道付近で私を追い越していった村営バスの停留場も見つかったが、車両は次の(そして終点の)中込へ走り去った後だった。

それにしても、1.6kmである。
差切峡の難関とは言ってみても、別に長いものでは無い。
自動車ならば5分もかからず通りぬけられる。
だが、旧道の姿を知っている私には、それでも甘くないとはっきり分かる。
ちゃんとした道がなければ、この程度の隔たりであっても、容易く地域は分断される。
差切峡が伝統的に村の境をなしているのは、偶然ではない。



初めに現れた重集落は、麻績川の谷底から50mばかり高い右岸の南向き斜面に広がっていたが、対岸の中腹には中込集落がある。
県道からこの集落が良く見渡せたが、とてもバスの終点とは思えないほどに家数の少ない、山と谷に抱かれて縮こまったような小集落だった。



そして現在の県道は、重集落から中込集落へ向かうところで写真のような九十九折りの坂道になり、一気に川縁に下って行くのだが、このルートはおそらく昭和15(1940)年頃に整備されたもので、明治以来の旧道が別に存在している。



13:27 《現在地》

それは、九十九折りの最初のカーブを曲がらずに、まっすぐに進む道である。

ここで分かれる旧道は、1.5kmほど先で再び現道と合わさり、山清路にある国道19号との合流地点に向かうのだが、今回はその山清路が通れないということだったので、とりあえず旧道を通って通行止めの地点まで行ってみることにした。




旧道の入口には「全面通行止」の看板と、簡単なコーンバリアがあった。

差切峡の旧道は全て短距離だったので、ここにきて1.5kmというまとまった長さを持つ“第2ステージ”の開幕かと期待したが、実際にはこの「全面通行止」ははったりだったのか、道幅は狭いものの鋪装があり、自転車をのんびり走らせるのには理想的な道だった。オブローディングには物足りなくても、サイクリングの充実した時間がここにあった。



旧道を麻績川の下流へ向かって走ったので、下り坂が多く、あっという間に1.5kmを走り終えようとしている。
通る人が自由に開閉できる獣除けのフェンスゲートを開けて進むと、そこには込地(こみじ)集落があった。

ここはもう麻績川の谷底であるが、周囲を取り囲む山々が明るい秋色に染まっているせいか、バスも通じぬ最後の集落に、さほどの淋しさは覚えなかった。
景色に心を奪われ、それ以外の観察に意識があまり向かわなかったようだ。




13:35 《現在地》

込地橋という橋で麻績川を渡ると、そこが現道との合流地点である。
橋の上から間近に眺める麻績川には、河原の砂利の代わりに山盛りの泥が堆積していたが、これは山清路の犀川合流地点よりも下流にある平ダムのため、満水時にはこの辺りまで湖になるせいだ。

なおも川沿いに県道が続いているのが見えるが、今回進めるのはここまでだ。




この込地橋の山清路側が、前から繰り返し予告されていた「全面通行止」の閉鎖地点であった。
この先は現在進行形で災害復旧工事中ということで、さすがに廃道のようなワルニャンはお呼びでない。
既に十分探索の成果は得られたこともあるので、今回はここで大人しく引き下がることにした。

山清路は、また次だ。




なお、帰り道は込地から重まで現道を通行したが、途中に1本隧道がある。
「大鑑」にも記載のある込地隧道である。
全長32.5m、幅3.4m、高さ4.2mの記録があり、規模的には差切1〜6号隧道と似通った小隧道であるが、それらよりも13年古い昭和15(1940)年の竣工とされている。

この後は自転車を幸せに漕いで、現地探索を終了した。




机上調査編


本編で紹介した通り、県道55号の差切峡区間には、2本の廃隧道を含む多くの小規模旧道が、各トンネルに対応するように存在している。
これらの旧道は、いずれも道幅が1.5間(2.4m)程度で、かつ比較的に平坦であることから、現道よりも古い世代の“車道”とみられる。
現道の整備は、「大鑑」の記録から、昭和28(1953)年頃と考えられ、それより以前の車道ということは、昭和の戦前かあるいは大正、もしくは明治時代まで遡れる可能性が高く、いわゆる「明治車道(明治車道は、自動車が主流となる以前の馬車や荷車や人力車を想定した車道で、明治の文明開化の流れの中で各地に誕生した第一世代の車道のこと。代表的な道は、万世大路や清水国道)を期待させた。

果たして実際はどうだったのか。明治車道は本当か。
そのことを確かめるべく、帰宅後に机上調査を行ったが、結論――、明治車道。
よって今回の探索は、明治生まれの廃隧道発見という大きな成果であった。それも2本! 2本だよ?!

以下、机上調査により判明した、差切峡を巡る道の歴史を概説しよう。
なお、本稿の主な参考資料は、『生坂村誌 歴史・民俗編』(平成9年刊行)(以下、「村誌」とする)である。



差切峡道路史(1) 江戸時代の街道は谷を避けた 


差切峡を通る現在の県道55号の歴史を遡ると、近世に「川手道」と称された、松本平と麻績盆地の間を、犀川と麻績川に沿って通じていた街道に辿りつく。
左図はその位置を示したものである。

松本平と麻績盆地を結ぶ街道としては、中山道を塩尻で別れ、松本、麻績を経由し、篠ノ井で北国街道と合流して善光寺(長野市)へと至る善光寺街道がメインであり、善光寺参りをする多くの旅人や交易人がこの道を選んだのであるが、それと並行する別路線として川手道があった。
この道も松本藩の重要な道とされ、近世初期には善光寺街道や千国街道などと同様に(小規模ながら)一里塚が整備されていたというが、基本的に犀川沿いに点在する集落を結ぶ生活路という範疇を出るものではなかったようだ。

そのルートは、松本城下から生坂(いくさか)までは犀川に沿っており、現在の国道19号のベースとなっている。そして、生坂からは犀川筋を離れて麻績川筋へ入り、麻績宿で善光寺街道に合流した。この後半部分が現在の県道55号のベースといえる。

しかし、そのルートは今とはだいぶ違っている。
「村誌」にはこうある。

下生坂では山清路が通れなかったので(中略)眠峠を越えて(中略)込地の東で麻績川を渡った。差切も通れなかったので日向へ登り、(中略)桑関、高へ上がってから麻績村の宿場へ出た。


険しい峡谷的地形を見せる山清路や差切峡に川に沿った道を作る事は容易でなく、この区間は大きく山の上へ迂回していたのであり、これらの開削が企てられるのは、平坦な車道の必要性が認識されるようになる、明治の時代を待たねばならなかった。



差切峡道路史(2) 明治の新道開鑿は谷に挑んだ 


右図は、本編で繰り返し使用した昭和27年版の地形図よりもさらに古い、明治43(1910)年測図版の地形図である。
そして、この地形図にも既に(昭和27年版と同じ)3本の隧道が描かれており、今回の現地調査により、このうちの西寄りの2本が現存することが確かめられた。(東の1本は、「大鑑」に「5号隧道」として記録されているもので、現在は切り通し化してしまった模様)

そしてこの明治の地形図に示した青と赤のラインは、それぞれ近世までの川手道と、明治時代に開鑿された新道(車道)である。
(川手道については正確でないが、「村誌」に書かれた地名を結ぶと、概ねこんな感じのルートであったろうと考えられる)

明治の新道は山清路や差切峡の谷沿いに開通しており、従来の山越えの道は廃止された。
また、山清路に犀川を渡る橋が初めて架けられ、長野方面へ犀川沿いに道が伸びていったのも、明治時代のことである。



左図は、明治35(1902)年時点での、麻績盆地周辺の重要な交通路を示したものである。
近世において特に重要であった善光寺街道や北国街道には、この時点で既に並行する鉄道が開業しており、もちろん道自体は存続していたが、主要な機能は鉄道に置き換わったとみて、図では鉄道のみを目立たせている。

そして、今回探索した差切峡の旧道は、この明治35年の時点で既に存在していた。
郡道差切街道というのが、当時の記録に残る正式な路線名である。
同じように、図中の川手街道や山清路街道なども、それぞれ東筑摩郡の郡道という格付けにあった。
対して、篠ノ井線に沿う旧善光寺街道は、仮定県道西街道といった。旧千国街道は、仮定県道糸魚川街道である。いずれも郡道より格上だ。(一般に「郡道」という道路の種類は、大正8年に制定された旧道路法により認定されたものだが、長野県では、明治33年から、里道の一部に郡費の補助を与えて整備を行っており、これを独自に「郡道」と呼称した(他の県では「郡費支弁里道」などと呼ばれるものと同じ)。また、「仮定県道」とは、長野県が指定して国が正式に認定する手筈だったが、実際には(全国的に)国による県道の認定が行われなかったので、当時の県道は全て「仮定」県道というのが正式である)

鉄道の開業や、道路に郡道や県道などの格付けが生まれたことは近世から明治にかけての大きな変化であるが、もちろん道路網自体にも大きな変化があり、現代の国道19号の原点である犀川沿いに松本と長野を結ぶ道(川手街道と山清路街道)は、この時代に本格的に開鑿された。
そして我らが差切街道も、この犀川沿いの道とは切り離せない密接な関係があった。

それでは具体的に、「村誌」から差切街道の開鑿に関する記述を拾ってみよう。



生坂から坂北方面へ麻績川に沿って行くには初め差切の峡谷が通れなかったので、明治11(1878)年、込地と坂北村仁熊(にゅうま)の有志、宇留賀の戸長牛込久瑳の努力により、掛け橋を造り開通した。同20年から久瑳は郡会に働きかけ24年に差切新道を開削した。その後トンネルを3ケ所開けた。

今回私が目にしたのは、2本の廃隧道他、数ヵ所の旧道跡であったが、これらは全てが一度に開削されたものでは無かったようだ。
一番最初の明治11年に切り開かれた道は、掛け橋(桟橋のことだろう)で通りぬけていたとあり、さすがに車道ではないだろうが、この道をおそらくベースにして、明治24年までに差切新道(今度はおそらく車道)が完成。さらに時期不明ながら(明治43年以前であることは確か)、3本の隧道を開削したというのである。

明治24年の開通とは、まさに私が愛する「明治車道」の資格十分だ!
隧道の正式な開削年が分からなかったのは少し残念だが、それでも上記の文章にはじめて接した時は、興奮してしまった。

それに、現地の険悪な地形を知る者として非常に驚いたことがある。
それは、隧道が開鑿される以前に、一度は(おそらく車道としての)差切新道が開通している点だ。
例えば、右の写真のような箇所に、隧道を用いず車道を通すなど非現実的と思えるが、村誌が誤りでなければ、やはり岸壁を回り込む曲線の桟橋を架けていたと解さねばなるまい。
現地でそれと注意して見ていたわけでは無いので、見逃したかも知れないが、今でも岩壁に橋脚の挿し穴くらいは残っているのだろうか。(果たして、それを無事に確かめる術はあるのか…)

なお、差切街道(新道)に接続する川手街道の山清路に最初の車道が開通したのは、差切峡よりやや遅れて、明治34(1901)年である。これにより川手街道が全通した。
また、麻績盆地を通る鉄道篠ノ井線も、同じ年に篠ノ井駅から西条駅まで開業し、翌年にはさらに松本駅まで延伸開業している。
先ほど敢えて明治35年の交通網を掲載したのは、このように東筑摩郡の主要な交通網の整備が一段落するのが、この時期であるからだ。
そしてこの当時の差切街道には、次のような活躍があったという。

鉄道輸送の物資が西条駅から差切新道を経てこの地(生坂村のこと)に運搬されるとともに、山清路で荷上げされた通船荷物も運送(馬の荷車)で西条に運ばれるようになった。

この「村誌」の記述から、差切新道を荷車が通っていたことが分かる。
また、犀川の通船の話が出ているが、これは江戸時代の末期(天保年間)に始まり、昭和10年頃まで存続していたという。
つまり当時の差切新道は、犀川中流域の広い地域にとっての鉄道連絡道路という、非常に重要な機能を持っていた事が分かる。
後に犀川通船を置き換える犀川沿いの陸路(後の国道19号)はまだ貧弱で、大量の輸送を担うことは不可能だった。

なお、近代デジタルライブラリーで公開されている『東筑摩郡誌』(大正8年発行)(以下「郡誌」とする)に、同郡内の県道や里道、郡道の変遷がまとめられており、その中から関係のあるものを抜き出して時系列順に並べると、次のようになる。

明治9(1876)年頃川手街道が3等県道に指定される。
明治19(1886)年川手街道の県道指定解除。
明治23(1890)年川手街道が仮定県道に指定される。
明治26(1893)年川手街道や差切街道が郡内枢要の里道に認められ、東筑摩郡会の5箇年間2分の1の補助金醵出による改修が行われる。
明治32(1899)年川手街道が再び県道指定解除される。
明治33(1900)年川手街道や差切街道、山清路街道などが、東筑摩郡の郡道に指定される。
明治41(1908)年川手街道の南半区間が明科街道、北半が生坂街道に分割される。
明治45(1912)年東筑摩郡内の郡道が甲号18路線と乙号15路線に区分され、差切新道(街道ではなく新道と書かれているが、改名されたのか誤記かは不明)、明科街道、山清路街道などは甲号に、生坂街道は乙号に指定される。
大正6(1917)年郡道の呼称を郡費支弁里道に改めるとともに、路線名を従来の○○街道から○○線に改訂。また、路線網も整理される。このとき、従来の郡道明科街道、郡道生坂街道、郡道差切街道が一本化し、郡費支弁里道川手線へ改称される。

こうした目まぐるしい路線名や制度の変遷のなかで、次の時代に本当に必要な道が徐々に洗い出され、地域の熱意を背景として、それぞれが競い合うように整備された。それが、今よりもずっと生活の近くに“道作り”が存在していた、明治という時代の一般的な風景だった。
しかし、やがて鉄道を補完する乗り物として、荷車より自動車が台頭するようになると、こうした手作業的道路整備では、質的にも物量的にも限界が来るのは当然であった。
「村誌」は、明治時代に開削された川手街道(差切新道を含む)について、次のように結んでいる。

川手街道は地元の大変な努力の上に出来上がってゆくのであるが、橋が多く、本格的に府県道として整備されたのは、大正から昭和初期までの年月を要した。


差切峡道路史(3) 昭和以降は別の顔を見せた 


差切街道に関する「村誌」の記述は、大正時代以降になると、ぱったりと見えなくなる。
差切“新道”が開通し、犀川流域と鉄道を結ぶ重要路線として頻繁に馬車が通った華やかな時代は、さほど長続きしなかったようだ。
この地域の道路整備に対する熱意は、ここよりもむしろ犀川沿いに松本と長野を結ぶ府県道犀川線と呼ばれた路線を、自動車道として整備することに向けられるようになった。
そしてそれは昭和27(1952)年の一級国道19号指定へと結実し、差切峡の道はあくまでもその支線、脇道という地位…すなわち現在まで“険道”を残す重要度…に甘んじることになる。

「村誌」と「郡誌」のどちらにも、大正8年に制定された旧道路法下で差切街道がどのような路線名を与えられ、どのように整備されたかについての記述は無い。
他に頼れる資料も(今のところ)未発見で、この時代の差切街道は、未知であるといわざるを得ない。

昭和27(1952)年以降は現行道路法の時代だが、やはり差切街道に関する情報は「村誌」にほとんど無く、その他の色々な資料やネット上の情報から、断片的に変化を追い掛けることしか出来ない。


この時期の最大の変化は、本編でも度々登場させた「大鑑」の記述に見て取れる。
「道路トンネル大鑑」に記載された昭和43(1968)年時点の道路トンネルのリストには、右のように差切1〜6号隧道と込地隧道の合計7本が、一般県道中島大町線の隧道として記録されている。
この記述や現地の状況から、昭和28(1953)年頃に、明治の差切新道を刷新する非常に大規模な道路整備が行われたことが伺える。

この大規模な改修がどのような経緯で行われたのかという重要な事は不明だが、ともかくこの県道中島大町線という路線名を調べてみると、昭和34(1959)年に(現行道路法下で)はじめて県道認定を受けている事は分かった。
つまり、道路法施行時点では県道認定から漏れていた(市町村道であったのだろう)とみられ、旧道路法の末期も既に府県道ではなかった(町村道に降格していた)可能性が高そうだ。

その後についても路線名の変遷だけは判明しており、昭和57(1982)年にこの一般県道中島大町線は廃止され、代わりに主要地方道大町麻績インター戸倉線へ昇格している。
従来は大町市と筑北村(当時の名前は坂北村)を結ぶ路線であったが、国道403号との重複区間(ここに長野自動車道の麻績ICが設置された)を挟んで、東の戸倉町内(現在の千曲市)までが1本の路線となった。
さらにこの路線名は、平成15(2003)年になって終点の戸倉町が千曲市と合併したことを契機に、主要地方道大町麻績インター千曲線へと改称され、現在に至るのである。


「村誌」の記述の軽重を見ても、差切街道の交通路としての黄金期は、麻績盆地にはじめて鉄道の篠ノ井線が開業した明治34年から大正時代頃までにあり、その後、犀川沿いの道(国道19号)の整備が進むにつれ、相対的に重要度が減少していったことが伺える。

だがそれでもこの道には、沿道集落の生活道路として細々と生き長らえるだけで終わらない、ある強みがあった。
それは、かつて天険に挑んで困難な開削を行った功名とも言うべきものである。
天功の景勝地である差切峡をたどる唯一の道として、観光道路としての魅力があったのだ。

「村誌」に、山清路についての次のような記述がある。

(山清路は)昔から美しい峡谷美で有名であり、昭和3(1928)年信濃十名所当選、同12年長野県史蹟名勝天然記念物に指定、同41年に近くの差切峡と共に県立公園に指定され、同63年に長野県の「自然百選」に選定されている。

本編にも登場した、村境の生坂側にそそり立つ右の写真の大岩には、「天狗岩」という名前があるという。
現在の差切3号隧道と、明治の隧道のうちの1本が、この大岩を貫いており、明治の隧道の名は、天狗岩隧道といったのかもしれない。
また、以前はこの村境の沢端には差切鉱泉藤屋旅館というのがあって、昭和5年から営業していたが、同34年の災害で流失したともあった。
現在の冷沢橋に昭和35年竣工の銘板があったが、おそらくこの災害で先代の橋が流失したのであろうし、本編に登場した旧道上の民家も、流失した藤屋旅館と関係がある(移転先?)かもしれない。

このように、山清路や差切峡は、かなり古い時期から景勝地として知られていた。
その証拠に、お馴染みの絵葉書通販サイト「ポケットブックス」で「差切」をキーワードに検索すると、ドキドキの絵葉書画像をいくつか見ることが出来た。
サンプル画像への直リンクは控えるが、「長野 差切の景 その1」と名付けられた画像は特に一見の価値がある。
はい、ばっちり写ってますよ、明治隧道が!! 差切2号隧道脇の明治隧道と思われる。
他に、「長野 阪北村 差切の奇勝」と名付けられた画像にも見覚えのない隧道が見えるが、これは切り通しになって失われた旧差切5号隧道と思われる。
(全体的に見て、現在よりも昔の差切峡の風景は、スケールが大きく感じられる。理由は、おそらく樹木が今のように育っておらず、峡谷内の見通しが良かったためだろう。探索した私でさえ、そこまでスケールの大きな場所だとは思っていなかったので、驚いた。)

長野県出身の俳人加藤犀水は、昭和の初期にここを訪れ、「天工の差切る岩や秋の水」と詠んで風光を讃えた。
鳥立鉱泉前の沿道に、この句碑を含めて、昭和3年から44年にかけて建立された4基の文学碑が並んでいる。
そんな差切峡の風景は、規模からして、“全国屈指”などというド派手な飾り言葉にはほど遠い。
だが、人混みを避けて景勝を楽しみ、山峡のドライブに遊ぶ、そんな穴場的な良さがある。
それに、交通路としての“黄金期”は、既に過ぎ去って久しいかも知れないが、毎年いまの時期になると、欠かさずに“黄金期”がやって来るのだ。
そのことが続く限りにおいて、明治の遺物を抱いたこの道は、これからも末永く愛され続けると思う。


さて、今回積み残した「山清路」にも行かないとな。なんかあるって情報が、読者さんのコメにちらほら見えるし…(笑)。