幅の広い清水国道を行くと、道が二手に分かれた。
入口でも見た鉄塔巡視路の標柱が立っており、それに拠れば
「←A30 B32」
「→A31〜33 B33」
と言うことである。
我々は地図に倣い、迷わず右の道を選んだ。
左の地図の通り、この先はしばらくJRの送電線(A・B)と関係しながら進むことになる。
とりあえず、先ほどのような九十九折りでも無い限りは、巡視路も素直に国道をなぞることになるだろうから、我々も楽に距離を稼げそうだ。
ここまでで大幅な時間的ビハインドを背負った以上(約1時間遅れ)、なんとかペースを上げさせて貰いたいところだった。
2007/10/7 8:26
右の道を選んで進むとやや下りになって、同時に右側から川の音が聞こえてくる。
辺りには広葉樹の巨木が現れ始め、森の地面はそれらの木陰に覆われていた。
そして、林床をあまねく覆う緑は、しっとりと濡れていて一段と鮮やかに見えた。
絶え間ない水の音が、この森の静淑さをより際立てている様だった。
そして間もなく道は水音の主、東屋沢に突き当たる。
入口から1.3kmの地点だが、鉄塔巡視路を素直に歩けば1kmほどである。
残念ながら、この東屋沢の渡河地点には一切、橋梁の痕跡は残っていない。
清水国道の山越区間に架設されていた橋は全てが木橋だったようなので、一世紀以上の風雪に耐えて残っている事は、さすがに期待するだけ無駄だった。
東屋沢の谷は広く、30mもあろうかという河原の対岸に、この道の続きが見えていた。
しかし、水が流れているのは谷の中央の僅かな部分だけで、水量もご覧のとおり、飛び石伝いで楽に跨げる程度だ。
今回の探索では、出来る限り荷物を減らすべく、1リットルのペットボトル一本のみの持ち込みとしていた。
そのかわり、粉末の清涼飲料水を3リットル分持っており、途中の水場で適宜水分を補充しながら進むことにしていた。
まずはその第一弾として、ここで幾らかの補充を行った。
木橋の残骸はおろか、おそらく石積であったろう両岸の橋台も、全く痕跡を留めない。
流されたというよりも、埋没している可能性が高いように思う。
3枚ほど前の、沢にぶつかる直前に写した写真をもう一度見ていただきたいが、行く手が少し登っているのが分かるだろう。
水量の割に広い谷の中央部は盛り上がっていて、水はその盛り上がりの上を流れている状況なのだ。
おそらく、古代の氷河の作用によって形作られた広大な沢を、水だけが流れるようになって、流路沿いに土砂を堆積させていったのだと思われる。
いわゆる、天井川に近い。
そして、この120年あまりの堆積作用によって、橋台も土砂の下に埋まってしまったのではないか。
水面との高低差が余りに少ない道を見ていて、そう思った。
沢を渡って、ようやく第二攻略区も後半戦となる。
引き続き送電線の巡視路に重なっており、あの九十九折りが嘘のように歩きやすい道が続いている。
今まで色々な「明治道」と言われる道を見てきたが、こんなに幅の広いものは初めてである。
私とくじ氏は、これまでの遅れを取り戻せそうな手応えを感じながら、どんどん進んでいった。
ここは、長大な清水峠で私が目にした景色の中でも、特に印象深かった場所のひとつだ。(画像クリックで拡大表示)
別に、橋や隧道、石垣などがあるわけではないのだが、とにかく美しい。
10月だから新緑とは全然違う、むしろ紅葉が始まる直前な訳だが、擦れた感じのしない純な緑。
そして、そんな緑の山腹に撫でつけられた、2車線分はあろうかという広大な道。
こんなに広い道がいままで舗装もされず、それどころか一度も自動車を受け付けず、ただ前後を絶滅的な廃道に塞がれ、取りのこされてきたという現実がある。
それでも、この道は現役の国道なのだ。旧道無き、廃国道。
ここは、厳しい道中に糾(あざな)われた、ほんの僅かな安らぎの区間だった。
8:35
幸せな道行きは、東屋沢から150mほどで終わった。
我々を誘導した鉄塔マンたちの踏み跡は、無情にも左の急斜面へと吸い込まれた。
写真では少々分かり辛いと思うが、ここから巡視路は左斜面に取り付き、猛烈な角度で登っている。
国道は直進なのだが、そこはまたしても深い藪だ。
万人にお勧めできる新潟側の清水国道は、ここまでである。
巡視路を利用すれば九十九折りを無視して簡単にアクセスできるし、東屋沢を挟む前後約300m区間は、本当に「最高」だった。
再び道は藪に帰したが、それでも当初の幅の広さが生きており、その幅員の中で歩きやすい部分を選ぶことで順調に距離を伸ばすことが出来た。
序盤の九十九折りは、やはり特別な荒廃であったのだ。
自分たちにそう言い聞かせ、緑の道を進んでいく。
やがて東屋沢を完全に脱して、登川本流に面した明るい斜面となった。
自然の森を歩く楽しさは、植林地とは比べものにならない。
清水峠には、殆ど人工林は存在しない。
もし奥地にまでそのようなものがあれば、清水国道も林道として生き存えていたかも知れない。
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8:46
ん?
ヘアピンカーブ?
あれ?
もうそんなに来たか??
第二攻略区の終点と決めていた送電線の下を過ぎると、すぐに「第2の九十九折り」のヘアピンカーブが現れるはずだったが、まだ送電線もくぐっていないし、そんなに距離を稼げてもいないはずだぞ。
現在地は、どう考えてもまだこのあたり…。
しかし、幅の広い廃道はここで間違いなくヘアピンカーブを描き、そして後方へと登って行く。
分岐は見あたらないし、地形的にも考えられない。
万が一にも道間違えによるタイムロスは避けねばならない状況であるから、くじ氏と二人で周囲をくまなく確かめたが、やはり道はこの一本しかない。
最新の地形図が、まさか国道のカーブを描き損ねるとは……。
どうやら、「腐っても国道は国道」だというような考えは、完全に捨てねばならないようだ。
国道であっても地形図に正しく描かれていないというは、清水国道の現実であった。
これまでと同様の路幅を感じさせる廃道が、向きを150度変えて続いていた。
これが清水国道であることは間違いなさそうだ。
しかし、このとき我々が感じた不快感は、ただ事ではなかった。
なにせ、地形図は我々にとって唯一の羅針盤だった。
現在地を把握する上で地形図との照合がほとんど殆ど唯一の手段であったから、序盤でその信頼が損なわれたというのは、精神的な痛手が非常に大きかった。
それだけではない。
地形図をもとにして峠までの距離を想定していたので、このような“想定外”の九十九折りが現れることは、それだけ計画よりも峠が遠くなるということだった。
この爽快な朝日影の森で、我々は初めて本格的な焦りを覚えていた。
左の写真は、ここの路傍で見た奇妙な巨樹。
奇妙に捻れた幹は、中程が大きく抉れ貫通さえしている。
その上で主幹は分度器で正確に測ったように90度折れて、路上に枝葉を延ばす。
どんな境遇でここまで捻くれた造形に至ったのか。
樹齢200年くらいは経ていそうだから、道ともはじめからの付き合いなのだろう。
もし、明治政府の思惑通りに全てが運んでいたとしたら、この木などはとうの昔に切り倒され、厚いコンクリート壁の下に切り株さえ残さなかったに違いない。
何となく、“想いの残る”木であった。
手製のガイドラインを写真に挿入しなくても、道形がはっきりと見て取れそうなヘアピンカーブが現れてくれた。
このカーブで再び、進行方向は当初の向きに戻る。
意外に早くそして苦労せずに、想定していた道形へと収束しつつあるようで、我々も胸をなで下ろしたのだった。
最初の九十九折りでじゃ散々苦労しただけに、「九十九折りは怖い」という刷り込みが生じていたのだった。
このヘアピンカーブで、先ほど国道を捨てて左に消えていった鉄塔巡視路が、尾根伝いに登ってきていて合流した。
しかし、少し国道の先っぽをかすめただけで、また尾根の上に消えてしまった。
結論から言うと、右の図に示した青いラインが本当の国道のコースだ。
地形図からは、完全に1つの九十九折りが省略されていたことになる。
これによって峠までの総延長も150mほど延びたと思われるが、まあそれは大した問題でもなかろう。
さあ、気を取り直して進もう。
この辺りには、笹藪が広がっていた。
腰よりも深いが、それほどの密度ではないので、歩く分にはたいして支障しない。
この調子で行ってくれると良いのだが…。
ときおり木々の隙間から覗く登川対岸の景色。
前の九十九折りから眺めたときよりも幾らか視座が東に寄ったため、以前は見えなかった特徴的な尖鋒が姿を現した。
“上越のマッターホルン”と呼称されることもある、大源太山(海抜1598m)だ。
本峰はこれ以降、我々の眺望に長時間居座り続け、そして常に主役級の存在感を発揮し続けることとなった。
9:16
前方の道路上に、路幅の大半を塞ぐようにして高さ1mほどの盛り土を発見。
近づいてみると、やはりそれは人為的な盛り土であって、斜面が崩れたものではなかった。
そして、その正体は間もなく判明した。
お分かり頂けるだろうか。
この、こんもりとした盛り土の全容が。
高さ1m、底面円の直径が3mほどの大きさで、その中ほどの高さの対面となる2方向に、それぞれ直径30cmほどの孔があって内側に通じている。
これは、私が今まで見てきた“同種のもの”の中でもかなり巨大で、かつ本格的な形状であることが見て取れた。
何かと言えば、これは「炭焼きの窯」である。
内部にはまだ空洞が残っており、狸でも潜んでいそうだった。
また、右の写真はちょうど裏側の孔である。
二つの孔は、薪を出し入れするためのものと、空気孔である。
この地方に限らず東日本では、明治から戦前・戦後を通じて近年まで、木炭が山村における主要な外貨獲得手段であった。
それゆえ、こうした廃道上で炭焼きの窯跡を見るケースが少なくない。
かつて炭焼きをした人たちは、こういった山奥に何日も籠もって薪炭をあつめ、そして山中の窯で自ら炭に変えてから運び出していた。
ともかく、この発見によって二つの事実が明らかとなった。
この窯が作られる以前に、既に道は本来の清水越えとしての機能が失っていただろうということ。
もうひとつは、廃道となった清水国道でも、少なくとも炭焼きをする人の通路にはなっていたということ。
本当の意味でこの道から人の姿が消えたのは、やはり明治をずっと下った、昭和の戦前辺りなのでは無かろうか?
本来の用途ではないにせよ、この道が生活のために利用されていた痕跡を見つけた我々は、幾分だが、行く手の荒廃度に関して希望的観測を膨らませることとなった。
事実、この後も路上に設置された窯の跡は、繰り返し繰り返し現れることとなった。
だが、希望的観測は無意味であった。
さらに進んでいくと、初めて法面に岩場の露出した箇所が現れた。
白っぽい岩場は素のままで、特に土留めなどが設置されていた痕跡はない。
もっとも、時代を考えればそれが普通であろう。
岩場の影は藪が浅く、通行上は好印象だった。
アーーーッ?!
また現れたぞ。
地図にないヘアピンカーブが!
転進して30mも行かないうちに、すぐにまたヘアピンカーブで進行方向は元に戻った。。
これは、地図にも描けないくらい小さなカーブだったのかも知れないが…
…不安だなぁ。 地図を信じちゃイケナイの??
またも大きな不安を感じつつ進んでいくと、あばばばば
雪崩か土砂崩れで根こそぎヤラレタ後らしく、一帯にはアジサイみたいな灌木が一面、まるで栽培しているかのように生えるブッシュであった。
荷物がなければスイスイなのだろうが、とにかく細かい枝が肩幅や背丈をはみ出した荷物に引っかかり、無駄な疲労とストレスを溜め込む展開となった。
次は、なにやら水辺らしい感じになった。
水流はなかったが、ごく小さな沢なのだろう。
そして、この沢を中心に雪崩なり地辷りが起きたのだと思う。
舌状に高木のないエリアがあって、これを横断する道が、猛烈なブッシュと格闘しているのだ。
いや… 格闘しているのは我々だけか。
道はもうとっくに覇気をなくし、道としての本分も忘れ、あくまで自然に従順な存在となっていた。
国道なのに…。
背中を中心に汗だくとなった我々を癒す、谷川山系北端の山々たち。
名前は男らしい大源太山も、その先鋭的なフォルム故か、高貴な女神のような印象だ。
中央左に大きく開けた谷が「丸の沢」で、その左にフレーム外まで傾斜を延ばしているのが、謙信尾根だ。
もうしばらく進めば、いまは謙信尾根の裏側になっている清水峠も見えてくるのだろうか。
再び、法面として大きな岩場が現れた。
不思議なこと…と言って良いのかどうか分からないが、この清水越え新道(清水国道)に関する工事記録誌のようなものは、刊行されていないようだ。
公文書としては存在するのかも知れないが、少なくともそれを気軽に読む機会はなく、存在するかを検索することも困難だ。
だから、これだけ歴史的に有名な峠道でありながら、その具体的な工事の内容はよく分からない。
明治時代の土木工事といえば、三島通庸がやったように村人を徴用したのかもしれないし、或いはそうでなかったのかも知れない。
六日町などでは多額の寄附をしたような記録もあるが、これだけの遠大な工事にどれだけの人員がつぎ込まれたのか、また殉職者がどのくらいあったのかなどは、はっきりしない。
ここ数年でロッククライマーに華麗な転身を遂げたくじ氏は、私の要望に応え、この垂直に近い法面を事も無げにフリークライムして“魅”せた。
「 …ふーーん すごいじゃん…… 」 (スッゲー!)
でも、未だに高所恐怖症を克服していないらしく、この高さでも「高いのは怖い」を連呼していた。
くじ氏のそこは、全然変わっていなかった。 少し安心。
そんな場所を過ぎてやや行くと、またしても藪…
というか、道自体が斜面化し、なんだか危うい雰囲気になってきたところで……
9:42
第二攻略区終了。
頭上を、道と直交する方向に高圧電線が走っている。それが、第二攻略区終点の合図だ。
3条の電線の先を目で追っていくと、谷の向こうの謙信尾根に着地している。これも地形図通り。
当初2.4kmと踏んでいた区間が、九十九折りが二つ追加されたことで、2.6kmほどに微増した。
その影響はさしたるものではなかったが、それよりも、序盤の九十九折りで予想外の時間を食ってしまった。
それ以降は、なんとか想定範囲内のペースで前進できたようだ。
しかし、この攻略区では早くも、我々の時間計画はかなり実現困難な、ハイペース過ぎるものであったことを実感した。
失敗の原因は第一に、通常以上の大荷重と、特に荷物の大きさから来る藪漕ぎの遅滞を、十分に勘案出来ていなかったことにあった。
(計画時速2km程度だったが、実際にはここまで時速0.9kmで、半分以下となっていた。)
とはいえ、計画続行を断念するにはまだ早過ぎる。
このペースでは避けられそうも無いが、峠以前でのビバークも想定の範囲内だ。
もしそれを考慮しないなら、荷物はもう少し軽減できただろう。
ともかく。
前に進める道があるうちは、そして明るいうちは、ひたすら前進しよう。 まだ、寝床を考える時間にはない。
これが、この時点での我々二人の共通した意見であった。
第二攻略区では、最新の地形図に裏切られるという意外な展開があったが、帰宅後に歴代の地形図を比べてみたところ、面白い事実が明らかとなった。
上の4枚の地形図を見比べてみて欲しいのだが、4枚の地図全てで九十九折りの回数に違いが見られたのだ。
(図中の赤い点は、レポート上の現在地を示している。)
清水国道を描いた5万図としては最古である「大正元年」の図では、まだ明治18年以来の国道8号指定が生きており、道は異常なほど太い二重線で描かれている。ただし、既に車両の往来は不可能だったと見えて、“荷車を通ぜざる部”の記号も併記されている。
ともかく、この段階での九十九折りの組み合わせは第1九十九折りA、第2九十九折りA、第3九十九折り@の、合計5セット。
(数え方は対になるヘアピン一つで九十九折り一つと計算した)
次は昭和6年の版であるが、清水国道は哀れ国道から転落し、大正9年以降は県道「前橋新潟線」となっていた。
地図上での描かれ方は“小径”で、これは当時の図式中最も程度の低い道路の表記であるから、既に廃道だったのだろう。
そして、このときの九十九折りの数はA−A−0で、合計4セット。
なぜか、第3九十九折りが消滅している。
更に次の版でも表記は揺らいだ。
昭和44年版での本道は、昭和34年から一般県道「六日町水上線」に指定されていた時分で、昭和45年に国道291号へ昇格する直前だ。
道路記号は最下層を免れ、下から二番目である「荷車道(幅1.0m以上)」にて表記されている。確かに路幅だけは立派だから、この表記になったのか。
それはさておき、九十九折りを含む道の形は(等高線などと共に)大幅に変化しており、A−@−@となった。合計数は変わらないが、組み合わせが違う。
最後に、現在の地形図(これのみ縮尺が2万5000分の1である点に注意)を見ると、道路記号は再び最低レベルの“小径”に戻されている。ただし、国道番号を示す記号や、国道の色分けが附加されている。
この図では九十九折りの数が更に減ってしまい、A−0−@の合計3セットとなった。
このうち、九十九折りの数だけで見れば、事実に適合しているのは最も古い大正元年版のみである。
地図は新しくなるほど精密であろうという観念が、見事に裏切られた結果だ。
今回の探索のなかで、路上に一つも見つけられなかったものがある。
「図根点」などの、測量標識・標柱の類である。
ただの一つも見つけなかった。古いものでさえ。
おそらく、この清水峠(新潟側)の未踏エリアは、測量の猛者たちをも阻んでいるのだと思う。
地形図が版を重ねるごとに、清水国道の道は前の版から不正確なコピー&ペーストを受けたり、航空写真にも鮮明に現れなくなって来たのではないだろうか。
そうでなければ、最新の地形図が最も事実から遠い道路形を描き出した、その理屈を説明できないように思う。
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