起点:柄沢尾根(←現在地)
終点:檜倉尾根
全長:2.9km 高低差:150m
ようやく、清水国道における全長12km、前人未踏の廃道区間も、その中間地点へと迫りつつあった。
この第4攻略区の中間地点である檜倉沢がそれである。
右の概要図を見ていただきたい。
迂遠・迂回を生業とするような清水国道の道筋にあって、その“三大迂回”と呼べるものは、まずこの第4攻略区である檜倉沢、そして次なるナル水沢、最後にして最大の本谷沢である。
いずれも相対する尾根と尾根の間に2〜3kmの長途を有する“V字”であり、それぞれ高度を100〜150mほどずつ稼いでいく事になる。
現在地以降の道筋は、ほとんど全てこれら3つの“V字”に含まれてしまう。
よって、その第1である檜倉沢が、今後の行程を占う試金石であるとも言える。
この攻略区を地形図から概略してみる。
まず檜倉沢の右岸を水線の切れるまで巻き続ける区間であるが、これは全線でも最大級に等高線の密な部分を横断しているから、路盤崩壊による道の喪失という最悪の事態が危険視された。また、中間地点である檜倉沢渡りも、橋を喪失しているなど、進路の困難が予想される。
左岸側については比較的単調な地形と見込まれるが、藪の状況次第ではやはり困難なエリアとなるだろう。
2007/10/7 12:04
石垣の出現に気をよくした我々であったが、その先に待ち受けていたのは逃げ出したくなるほど辛いエリアだった。
柄沢尾根で進路を反転させると、間もなく道は猛烈なブッシュ帯に差し掛かる。
写真は、その始まりのカーブ。
ここから先、檜倉沢までは東向きの明るい斜面が続き、かつ急傾斜のため高木はほとんど生えていない。
まさに灌木天国、ブッシュ祭りの始まりである。
実は、このエリアが非常に困難であろう事は予想が付いていた。
尾根を離れて本格的に沢筋へ入ると、完全に清水峠を背にして北へ向かうこととなる。
そして、路肩の木々の隙間から見えるのは、これまでの登川ではなく、支流の檜倉沢になる。
檜倉沢も本流同様に、水量に較べ極端に谷幅が広く、今日の架橋技術でもこの大迂回を克服するのは不可能ではないか。
そんな風に思われるほど、広い谷である。
合計3kmにも及ぶ大迂回は、まずこの谷を1.4km上流まで詰めることになる。
密林となった森の表面に行く手の道影を見ることは出来ないが、地形図を信じるならば、これまで同様に馬車の通る緩やかな勾配を是として、谷が道の高さに登り来るまで淡々と等高線をなぞるルートである。
地図中にその概念ルートを記した。
始まった。
さすがの清水国道も、灌木しか生えず裸岩を露出させる一歩手前の急傾斜地にあって、伝統的なその幅員を減じることとなった。
さらに、度重なる雪崩や落石によるものか、道はその少ない平場の大半を瓦礫に隠してしまい、随所で切断されている。
それでも、こういった“埋もれ”のうちは進みようもあるが、もし“削れ”が現れ路盤を消し去っていたとしたら、そこで前進は不可能となる。
このエリアは、先行きに常に大きな不安を抱えながらの前進となった。
先を行くくじ氏の、力の入ったポーズを見て欲しい。
道が斜面と一体化してしまい、平らな部分は全くない。
ゆえに、逆放物線を描くように生えた灌木の幹を足掛かり手掛かりとして、慎重に横断していかねばならない。
万が一滑落の事態となっても、普段であればこの密林である。
灌木がクッション替わりになって100mも下の谷まで落ちたりはしないであろうが、この日は荷物が重く、背中から落ちでもしたらどうなるか分からない。
それこそ雪だるまのようになって転げていく可能性だってある。
そんな危険をひしひしと感じつつ、腕の力だけで上半身を支えてよじ歩くのは、想像を超える重労働であった。
あっという間に汗で目の前が滲んだ。
それが10mどころではなく、ずっと続く。
この日、初めての命の危機を感じた。
転落することばかりではなく、体力の大量消費によるダウンさえ、このまま行けば無視できない事案となりつつあった。
この光景。
そこに道があったといわれても信じがたい。
間違いなく道はあったのだが、辿った我々でさえ容易に信じられる状況ではなかった。
この東向き斜面の道は、8割方消失している。
それでも引き返さなかったのは、灌木が猛烈に茂っているためだ。岩場だったら終わっていた。
これで現役の国道だというのだから、笑える。
つーか…、もうその話は聞き飽きたな。
12:27
あれ(上の写真)から16分の間、一枚も写真を撮っていなかった。景色にてんで変化が無かった。
次にカメラを向けたのは、だいぶ近づいてきた檜倉沢の谷底の姿だった。
この谷が近づいてくることだけが、地獄のような灌木帯から抜け出せるきっかけとなりそうだった。心の支えだったといってもいい。
この16分間。
重い木の枝を力一杯掻き払い、それが出来なきゃ根元を這って、失敗してバランスを崩して背中から転がり、密な木と木の隙間に足が突っ込んで抜けなくなって情けなく舞い踊り、荷物が枝に引っかかったら振り返って荷物を降ろし、また背負い、首のタオルで汗を拭い、顔をしごいては目のかすみをって、ポシェットからぬるいドリンクを引っ張り出して喉を潤し、飴玉を口に含んで糖分を補給し、傍らの生木に額を当てて熱を冷まして、互いに声を掛けて励まし合って……
そうして進んだ距離は300mか、或いは200か。
…辛いよ。
…最近は、あまりレポの中でこういう事書かなくなったと思うけど、この清水峠は辛いよー。
酷く疲れて来た。
藪漕ぎ以外、この峠にはほとんど何もないぞ。
くじ氏はオレより体力あるけれど、それでも疲れてきた。これはもう、相手が悪かった。
なんなんだこの道はー。 どこまで藪が続くんだよー!
振り返ると、早速どこを通ったのかも分からないような深い緑のずっと向こうに、雄大なスカイラインが広がっていた。
その形はゆったりとしたカテナリーに近く、まさに鞍部と言うに相応しいものだが、その一番低い場所の少し右寄りに不自然な小突起が見て取れた。
よく目をこらしてみると、それは赤い三角屋根の山小屋風の建物である。
見覚えがある。
13日前、その傍らで長く休憩した。
…まさに、あそこが清水峠なのだ。
今回の挑戦で、はっきり峠の姿を捉えたのは、これが初めてである。
直線距離では一時期より離れているはずだが、むしろそのことにより前衛の山並みの頭を越えて見えるようになったのだ。
しかし峠が見えて嬉しいどころか、むしろその遠さを再確認させられてうんざりした。
12:43
ようやく、大きな木の生えた場所に脱した。
とりあえず、最悪の斜面は突破できたのか……。
柄沢尾根からの、せいぜい500〜600mの道に50分も要した。
もう時計を見るのも嫌になってきた。
峠までの踏破は不可能だという、その屈辱的な事実を、時計を見るたびに確認させられる。
時間が無限でないのと同じで、体力だってやがて尽きる。
そして、もしこんな山の中で無計画に尽きてしまったら、大変なことになる。
ここでは、ちょっとした捻挫一つでも命取りになりかねない。
…私は、シーチキンの手巻寿司を食べた。
目下の難場を突破したと思ったのに…。
遂に来てしまった。この展開。
アーー。 道がないよ。
すっぽり、谷に消えていた。
足元の谷は深さ5mほど。
対岸はごく小さな痩せ尾根であるが、道は本来ここに橋を架けるなどして対岸へ行っていたようだ。
橋の跡が無いどころではなくて、どこからどこまでが橋だったのかも分からない。
ただ、ごっそりと沢の両岸が崖となって切れ落ちていた。
強引に渡るしかない。
草付きの斜面を、慎重に下る。
大した高さではないが、さっきも言ったように捻挫一つでも遭難しうる。
ほとんど水の流れていない、小さな沢。
地形的にこれが檜倉沢の本谷で無いことは明らかで、その小さな支流に過ぎない。
沢に下った後は、当然のことながら下った分をよじ登らねばならなかった。
リュックの中身は鉛か鉄か。無駄に重い気がする。
13:02 枝沢を突破。
やはり対岸に微かな平場の跡があって、これを我々は道だと判断したが、油断すれば見逃しかねないほど痕跡は薄い。
そして、再びのブッシュ祭。
逃げだそうにも、道の周りは全てブッシュと急な崖。
疲労もあって、細々とした遺構は見逃しているのかも知れない。
もう、それどころでなくなってきた。
13:07
その5分後。
先を行くくじ氏が立ち止まっていた。
しかも、なにやら路肩から下を覗き込んでいる。
何か遺構でも発見したのかと、私は期待して声をかける。
「どうしたの? くじさん」
「道無いッスな」
「え うそ?」
あのくじ氏をして「道がない」とは、これ如何に…。
……嫌な予感。
根っからの高所恐怖症のくじ氏が、自ら進んで路肩を覗き込むわけなど無いことを予想するべきだった。
……嫌な予感的中。
マジで、道が無い。
ついさっきの枝沢を、その十倍くらい大きくした規模で、道がごっそり逝ってる。
橋が落ちているというレベルではなく、道自体が消失している。
俺の背中の荷物が、 この谷を見て泣き始めた。
道が切断された先端に立って対岸を見ると、対岸は先ほど同様の痩せ尾根である。
そして、何とこの谷でさえ、檜倉沢の本流では無かったのだ… ゴクリ…。
アワワワワってなりながらもその痩せ尾根をよく観察すると、目線と同じくらいの高さに小さな凹みが発見された。
藪が深くて地表は全く見えないのだが、足元から忽然と姿を消してしまった道の行く先は、あの凹みなのではないだろうか。
手掛かりはそれ以外全くないので、行くしかないだろう…。
…行けるのかよー。
くっ くじ氏が崖の途中で固まっているッ?!
先に途中まで下りていったくじ氏だが、とても無装備で下まで降りられないと判断した。
上から覗く私から見ても、確かにこれは無理だろうと思う。
道端から3mほど下方より、谷底である10mまでは、僅かに浅く草が生えるだけの土斜面となっていた。
灌木帯でないことは、崩壊が比較的最近であることを匂わせた。
ともかく、直接谷底に下りられないと言うことで、付近で別の降りられそうな場所を探すことにした。
(ちなみに、クライミングの技術を持つくじ氏だが、私との山歩きでは余程のことがない限り道具を使うことはない。というか、私はいままで一度も彼が道具を使って崖を登り降りする姿を見たことはない。)
10mほど下流の斜面を突いて下ることとした。
砂っぽい土の中に丸石が多数浮く、不安定な斜面だった。
しかも、しっかり根を張った植物が少ないので、慢性的に手掛かり足掛かりが不足となって、思いのほか恐怖を感じた。
ここは我々の力が勝り、土や石を沢山落としながらも無事に谷底まで下ることが出来た。
そしてこの下降劇によって、この行程は初めて一方通行を余儀なくされた。
もう、ここは登り直すことは出来ないだろう。
もちろん考えはあった。
この先の檜倉沢は、道中最良の“エスケープポイント”になると考えていたのだ。
もちろん確信まではないわけだが、この檜倉沢は一次探索で目撃した下流の様子や、地形図の読み、そして今回これまでの探索で得た情報などから、清水国道よりも下流全体は緩やかなゴーロであると想像された。すなわち、下界へのエスケープルートであると考えていた。
13:15
檜倉沢に近い枝沢へ下った。
左の写真は、我々が騙し騙し下った斜面。
もう戻れない。
右の写真は、上流方向の眺めである。
かつてこの視界の範囲内に橋が存在していた。
もし谷幅が今と変わらないならば、そこには全長20mもあるような橋を想像しなければならない。
だが、実際には昔はもっと谷幅も狭かったと思う。それに、両側には石造の橋台を張り出していて、せいぜい橋自体は7〜8m程度の長さだったのではないか。
当時の写真が一枚も残っていないので、もうその答えを知る術は無いし、苦労して現地へたどり着いたとしても、橋の痕跡はゼロである。
13:28
場面は移り変わって、例の“凹み”へと辿り着いた。
当然血の滲む苦労があったが、特に写真を撮っていないので、ただ“苦労した”と伝えるに留める。
この10mほどの登攀に約10分を要し、谷を一つ越えるのに掛かった時間は20分である。
それにしても、この凹みの部分だけ余りに綺麗に道が残っていたから、なにか神懸かり的なものを感じてしまった。
幅5mほどの全く平坦な土の路面は美しく、両側は塚の表面を思わせるようなあまり急ではない斜面で、全体はまさに現役さながらの掘り割り道の形であった。
そこに、120年の時が緑を遠慮がちに和えていった感じである。
それは有り得ないことだが、馬車の轍でも残っていそうなほどに綺麗だった。
しかし振り返れば、そこで道はすっぱりと切れ落ちている。
やはり対岸から見立てたとおり、道はこの痩せ尾根上の掘り割りだけを残し、あとは全て谷に持っていかれたのだった。
自然の力だけで道が地形ごと無くなってしまう情景は、いかにも明治道と言えるものである。
果たして次にここを人が訪れるのはいつだろうかと、ふとそう考える。
ここまで来る苦労を思えば、我々を最後にもう二度とこの小さな掘り割りは人目に触れない可能性もある。
そう考えると、大したことのない掘り割り一つでも愛おしく思えた。
地獄のブッシュを突破し、ささやかな褒美を受け取った我々。
そして、ようやくにして清水国道廃道区間の総中間地点へ近づく。
体力、気力、時間。
そのいずれかが、 …次回あたり… 尽きるかも…。
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