追分から3.4km地点が現在地。
ここまで巡視路という手先をつかって、一応は清水国道をフォローしてきた鉄塔ともこれでお別れ。
この先は、峠1km手前にある居坪坂の登山道と再会地点「上分岐」まで、推定9kmの路程にはただ一つも交差する道がない。
現実にはまだ不明だが、少なくとも地図中にはそのような道は一切描かれていない。
本当の意味で手つかずの清水国道を体験するという意味では、「ようやくここからが本番」とも、言えるだろう。
2007/10/7 10:40
鉄塔を出発! …したい…
出発したいのはヤマヤマなのだが、
せっかくの「これからが本番」という気合いを、盛大に削ぐ始まりなのである。
鉄塔前からの第一歩目は、当然のように藪漕ぎから始まるのであるが、進路を埋め尽くすこの藪は…
ウルシの林だ〜。
確認したところ、幸いくじ氏も私と同じで、ウルシにまけない体質だそうで、仲良くウルシ林へ突撃と相成った。
いくらまけないとはいえ、あまり派手に樹液を食らえば爛れるに決まっているので、テンション劇下がりの出だしであった。
あーー。
もーー、この後ずっとこうなんですかね…。
まだ鉄塔から20mくらいしか前進してないと思うが、早くもテンションダダ下がり。
今まで敢えて書かなかったけど、清水国道って新潟側も群馬側もこれだけ長いくせにトンネル一つ無ければ、大きな橋が架かっていそうな場所もないという“凡才”ぶりで、途中にこれといって「期待される」ものがないのである。
だから自然と、「全線踏破」というゴールに神経を集中させることになるわけである。
これって、モチベーションを維持するのには結構キツイ条件だ。
あんまりにも遠いゴールの他に、何もご褒美が予想できない。
ずっとこんな藪道が続くのかと思うと、余計に疲れるのであった。
そんなローなテンションをさらに下げるのに一役をかったのが、未だ谷底に平行し続ける林道の存在である。
深い藪のため国道の進路は見えないが、一方で急な崖下の林道の姿はよく見えた。
清水国道と林道との高低差は約100m、さらに林道から登川の谷底まで100m、合わせて200m近い高さを、清水国道はこれまで3度の九十九折り等で稼ぎ出してきた訳だが、そんな“アリ”の備えを得るのに要した時間と汗も、並大抵ではなかった。
私はこの挑戦の13日前に、意気揚々とあの林道を自転車で駆け下ったのであるが、それはそれは快適な完全舗装の下り坂で、あっという間だった覚えがある。
それだけに、清水国道から思いのほか近くに見える林道は、一種の徒労感をもたらす存在だった。
この攻略区の終点としていた「柄沢尾根」まではあと1kmほど。
1kmとは言っても、廃道の1kmは最低でも2割り増し以上の距離になる。
なぜならば、路上を中心線に沿って真っ直ぐ歩くなどと言うことは有り得ないからだ。
路上を完全に制圧した植物の群れの少しでも浅いところを、路幅の中から常に選んで進む必要がある。
倒木を跨いだり潜ったりも、100mに一度どころではない。
それこそ、10m進むのに1分を要する様な展開も珍しくなかった。
そして徐々に、時間あたりの撮影枚数は減ってくる。また、ある程度道が鮮明なところ以外では写真を撮ることも止めてしまった。
徐々に左は岩場に変わってきた。
山腹の傾斜が緩やかなうちは法面も土面であったが、ある程度を越えると人工的に削られた岩場となる。
そして、それは我々にとって都合が良かった。
岩場の根元は日陰がちであるために藪も浅く、そこに一条の良道をもたらすことが多かった。
苔生したような岩場には、頭上に落石の危険を感じることも殆ど無かった。
この岩場で我々は、思いがけない“掘削痕”を見ることとなった。
画像にカーソルを合わせてみて欲しいが、削岩機の先端(ロッド)が彫った円筒形の掘削痕が岩面にはっきりと見て取れたのだ。
削岩機の利用は昭和に入ってからである筈だが、なぜここにその痕跡があるのか。
この疑問は、未だ解けない。正史に残されなかった何らかの道路改良が、ひっそりと行われたのだろうか。
昭和という時代を考えると、特に戦中であれば、もしかしたらそんなことがあったとしても不思議はない…ような気もする。(軍部は上越国境に三国峠新道の開削を企てたが、結局戦争の激化で中断された史実がある)
柄沢尾根の前には、我々が「柄沢ガリー」と名付けた非常に急な谷筋がある。
道はこれを横断して、くの字形に進路を変えて尾根を目指す。
この間、道は高度をほとんど上げることもなく、ただ等高線に対して従順である。
谷筋に近づいてくると、連続して二本の水流が道を横断しているのに出会った。
1本目は岩場に近く、道の上手は赤茶けた岩場に落ちる小さな滝になっていた。
そして2本目は、草地の中から躍り出るようにせせらぎを作っていた。
いずれも路盤を完全に寸断していたが、横断に労するほどではない。むしろ、火照った顔面や喉を潤すのに最適だった。
急な山腹にあって水場の存在が期待されないような場所に、これほど豊富な水量を連続して観察する事になるとは、これぞまさしく“森の本来の力”(水源涵養力)だと思わせるものだった。
言うまでもなく、清水国道の上部には登山道一つ無く、おそらく万古斧の入らぬ森に覆われている。
しかし、思わぬ水場との遭遇は、その都度我々に無駄な期待感を抱かせる事となった。
それぞれが、柄沢ガリーなのではないかという期待である。
しかし、横断してもなお進路が変わらぬ事で、誤解であったと気付くのだ。
進撃のペースは鉄塔を過ぎてから最悪レベルのままであった。
左の写真は2度目の水場を過ぎて、ガリーを目前とした路面状況である。
これが道だと気付けるのは、ここまで辿ってきたという前提があるからで、いきなりこの光景を前にしたらきっとそうはいかない。
草藪は、谷(ガリー)に近づくとさらに深さを増していった。
気付けば、あたりは強烈な日向の山腹であった。谷筋の隠然としたイメージは、ここに当てはまらなかった。
11:11 柄沢ガリー
ガリーとは日本語で「雨裂」といって、急傾斜にあって沢と言うほど水量が安定しない、主に雨天時のみ流れ落ちるような場所のことである。
雨裂が浸食を受け続けて成長すれば、徐々に水線の勾配は緩み、同時に谷は深まって、すなわち“沢”へと成長していく。
それはともかく、この柄沢ガリーは見るからに雪崩の通路だ。
谷に沿って、ほとんど高木の生えないエリアが続いている。
清水国道もその径路を漫然と山腹に設定したのではなく、出来るだけ雪崩の多発地帯を避けるように九十九折りの位置を調整してきたのだと思うが、ここは初めて本格的な雪崩地形の横断地と思われた。
谷の対岸には、次の道が見えるが…
背丈を超える草むらが、谷を全て覆っていた。
我々はそこに、自分たちだけの道を切りひらいていった。
そうしなければ、全く前進が出来なかった。
足元の草の底から水の音も僅かに聞こえたが、その姿を見ることはなく、
やがて、汗と草の汁にまみれた我々は、対岸に到着していた。
このたった10mの前進に10分を要し、
鉄塔からの500mで計40分を要した。
もう遠からず、正午になる。
時間的には、もうそろそろ折り返し地点にいなければならなかったが、
ここは追分から3.9km地点で、ようやく全体の3分の1だった。
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11:22
章題は間違いではなくて、確かに「悪夢の後」ではなく「前」である。
難所をひとつ越えて、未知なるエリアのさらに奥へ進むこととなる。
ご覧のような、岩肌に面した道は結構歩きやすかった。
そして、美しかった。
だが、楽な場所は全く続かないのである。
すぐにこのようないやらしい藪が現れてくる。
道の姿はよく見えるのだが、それでも決して楽に進めはしなかった。
雪に押しつぶされて斜めに生えた木は、全て我々の進路を妨害していたからだ。
しかも、細くても生きた木は強い。
基本的には腕で押し下げて乗り越えるか、逆に持ち上げて下を潜るのだが、どちらにしても意外な重労働。
それが、藪を脱するまで絶え間なく続くことになる。
清水峠という名前に何かとんでもない大発見を期待してしまった読者さんであれば、この“超藪”展開に、少し落胆を感じているかも知れない。
その気持ちは、我々も全く同じだった。
これまでの清水峠は、ただただ辛い藪漕ぎばかりで、ときおり見える山並みの景色は素晴らしいけれど、廃道としての面白みは…60点。
あまりにも人気がないというか…、
かつての通行者の“想い”のようなものが感じられないというか…、まあそもそもそんな歴史も無いわけで…。
一種の未成道路を歩いているような…、そんな雰囲気がある。
正直、半日に及ぶ藪漕ぎには疲れてきた。
心も体もだ。
雪崩が運んできたものか。
急斜面の中にあって唯一の平坦地である清水国道には、居場所を追われて転げて来た土砂や岩、膨大な量の倒木たちが屍をさらすのだった。
そして、それらは新しい緑の礎となっていた。
道は自然破壊だと言われるが、面ではなく線での破壊など、たかが知れているのかも。
畑に刻んだ畝と、何ら変わらない感じもする。
小刻みなカーブが連続して現れ、景色もコロコロと変わった。
そして、道というアイデンティティを喪失した清水国道は、周囲の景色の変化がそのまま道路状況の変化となって現れた。
まさに猫の目のように変化する路面。
歩きやすいと定評の岩陰道が現れるのを期待するも、なかなかそれは貴重であるらしく、滅多に現れなかった。
時間が経つにつれて、次第に我々は言葉と表情を失っていった。
11:45
変化はあるのに変化はない。
そんな状況の中で、ようやく脳に覚醒信号が発令されるような変化が現れた。
それは、現状の閉塞感と対極にある“空気感”のようなものを感じたことだった。
上手く言い表せないが、写真が端的に語っている。
この変化を地形の変化として表現すれば単純で、道が今まで以上に急傾斜な山肌に突き当たったということだ。
結果として、路肩からの展望に “鋭さ” が表れてきたのだ。
この今までになく切れ落ちた路肩の雰囲気にある予感を得た私は、路肩に立つくじ氏の足元を注視した。
!!!
ちょっ!
足元全部石垣だー!
大規模な石垣を発見!
これぞ清水国道だー!
半日歩いてようやく……
ようやくにして、具体的かつ壮大、しかも見目麗しい… 道路遺構を発見。
隧道も橋も期待できない清水国道上で、唯一その遭遇を大いに期待していた存在。
この石垣は、そんな私の期待に応えるものだった。
まさしく、明治国道の象徴的真景!
約100mほどにわたり、路肩に石垣が設けられていた。
しかし、気軽にどこからでも路肩に近寄れるわけではない。
左の写真の、せいぜいこの位置が、路肩を安全に観察できると思われるギリギリのラインだ。
これでは石垣自体を観察することは出来ないが、しかし直角に切れ落ちた路肩の姿と霞んだ崖下の森の対比だけで、十分にその偉容を感じることは出来る。
ちなみに、なぜ路肩に近づけないかと言えば、「ガードレールが無くて怖いから」などではない。
石垣が崩れるのではないかという恐怖が払拭できないからだ。
もしそうなったら、百パーセント助かる見込みはない。
なにせ、この高さだ。
我々が路肩に近づけたのは数ヶ所だけだった。
一つは、石垣から大きな木が生えている様な部分の、路肩が木の根によって支持されていそうな場所。
もう一つは、路肩が石垣ではなくて直接岩盤になっている場所(右の写真の箇所もそうだった)である。
例外として、路上の藪を避けるためにやむなく路肩に寄った場所も一度だけあるが、基本的にこの石垣に体重を預けるのは怖い。
これは思い過ごしかも知れないが、この石垣はこれまで、まともな“荷重”を受けたことが無いと思われるのだ。
だから怖いというのがある。
もともと道の幅は非常に広いのだから、敢えてこの路肩に寄って通行する人も馬車も無かったと思われるし、そもそもがまともに使われなかった道だ。
はっきり言って、石垣がちゃんと路肩として機能するのか、分からないじゃないか。
いつになく臆病だと思われるかも知れないが、実際に我々はこのご褒美を前にして、かじり付くことはしなかった。
自制した。
この石垣は美しいけれども、道としては信用できない。
所々、石垣を安全に観察できそうな場所を見つけては、立ち止まった。
さっきまで黙々と歩いていたくじ氏も、もちろん私も、はしゃいでいた。
苦労が報われたという思いがした。
そしてこの石垣、単に見つけて嬉しいと言うだけではなく、学術的にも貴重な発見である。
というのも、清水国道の石垣自体は群馬県側にも存在しているのだが、その群馬側の石垣はなんと、「日本の近代土木遺産」で最高位に次ぐ“Bランク”遺産として、権威ある指定を受けているのだ。
全国に明治道といわれるような道は多くあるし、私も色々歩いてきた。
そして、石垣を見ることもままあったが、それらが全て土木遺産の指定を受けているわけではない。
むしろ明治道の石垣として“Bランク”の指定を受けている他例を知らない。
このことは、「石垣築造」という技術自体は特別珍しいものではないにせよ、清水国道の数奇な運命を背景に、唯一現存する具体的な遺構である石垣が“記念物”と見なされ、それ故に指定されたと言うことを匂わせる。
(例えば「万世大路」の場合は、明らかに象徴的存在である「栗子隧道」が指定を受けている。清水国道には他に象徴となるような橋や隧道が確認されなかったため、敢えて石垣が指定されたのではないか)
群馬側で見ることが出来るものと、規模、形式とも酷似した、自然石を乱積みした石垣である。石垣としてはおそらく平凡なものであるが、「近代土木遺産Bランク」の指定遺構と等価な価値を有していると言えなくもない。
もっとも土木遺産の選定基準は、どちらかというと現在も本来の機能を全うしている(つまり現道)ことを良とするから、廃道になってしまった新潟側のそれは、敢えて指定を外されている可能性もある。(九分九厘、未発見だったのだと思うが)
我々廃道マニアにとっては、廃止された後のものの方がどちらかといえば高価値に見えるが(笑)。
ともかく、群馬側だけに存在を知られていた石垣が、新潟側にもちゃんと存在していたことを確認!!
道路における石垣は、もとは江戸時代の築城技術から育ってきたものだと思うが、江戸時代の道(いわゆる街道)に石垣があまり見られないのは、当時の山道にさしたる路幅が必要とされなかったということなのだろう。
それが、明治に入って世の中が変わり、少なくとも政府は旧制を一新しようと躍起になって、藩政時代には山岳道路としては考えられなかったような幅の広い道を、馬車の通行を根拠として建造するようになった。
鉱山技術を元にした削岩や、築城技術を元にした石垣築造などが、古来からの道というものに新しいカタチを与えたのだ。
それは、歴史家や土木研究者、それに廃道マニアの間で知られる、「明治道」の姿である。
そんな明治道の中でも、おそらくこの清水国道ほどに豪壮(広幅員×長大)で、かつ荒廃した道も無いだろう。
なんといっても、120年。
120年の、廃道としての歴史を有するのだ。
それこそ、開通式以後にこの道を通った人なんて、合わせても1000人くらいしか居ないのかも知れないのだ。
あ、
もしかしてこれって… オレタチ
三島通庸(+北白川宮親王、山縣有朋、他)から数えても、
僅か何百人、何千人目の通行人であるという可能性が高い訳だ…。
この道を通行した人間に占める“要人率”は、もの凄い高いような気がする。
これはもう、まさしく“VIPロード”なのでは。
国道291号の、唯一“国”道らしい特徴だったりして…。
…どうでも良いことかも知れないが…。
路肩に近づくときは、しっかり立木に捕まって…
もし崩れでもしたら、しゃれにならない。
背景の谷は、登川の本流である。
ここから数えて200mの深さがある。
路肩があんなに高い崖なのだから、当然山側も岩場になっている。
こちらに石垣はなく、素のままだ。
驚くのは、こんな難場であってもちゃんと路幅5m以上が確保されているこで、妥協がない(何という無駄…)。
とにかく、この道の建造にかけた執念、覚悟の凄まじさを感じる。
しかし、残念ながら現在は、この法面の岩場と路肩の石垣とを同時に眺めることは出来ない。
幅広い路面がすっかり森になってしまい、視界を遮っているためだ。
楽しい時間はすぐに終わった。
かわりに、予期されていた試練…、第4攻略区が始まる。
前方がひときわ明るくなって、尾根に近づいていることを知る。
そして、道が山肌をなぞって左にカーブを始めたら、柄沢尾根(標高1050m)に到着だ。
11:57
今までのどの尾根よりも明るい、つまりは痩せた感じのする尾根だった。
ここで道の進行方向は、150度くらい左に転じる。
これ以降しばらく、清水峠を背にして逆の方向へ進むことを強いられる。
全ては、登川の支流である檜倉沢を穏便に迂回するためだ。
第3攻略区の2kmを、きっかし2時間で攻略。(ダメだ…計画から遅れる一方だ…)
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