2007/10/7 13:30
2連続で橋の痕跡さえ無い沢を強引に横断し、辿り着いた痩せ尾根の上の掘り割り。
地図でこの場所を確認してみると、どうやら檜倉沢の本沢までもう一度小さな枝沢を渡らねばならないようだ。
前の沢を渡るのに20分も掛かっている状況を考えれば、この檜倉沢の源頭部はまだまだ予断を許さない。
前進を再開した我々は、すぐに深い藪に取り囲まれた。
はー。 またか。
また始まったのか。
本当に、クソだな清水国道は。
遺構クソねい(無い)しよ。
なんぼつれーんじや! (なんぼ辛いんだよ)
あーーあ。
あーーあー
ひでー… ブッシュ大統領…
橋台だ…。
橋台が残っていたよ……。
…清水国道でないどこかでこれを見つけとしても、「キター」くらいだったろうけれど、このときばかりは…
キタワァ!
感動した。
幅が広い橋台だ。
石垣の橋台で幅5m以上もあるのは、きっと珍しい。私は初めて見る。
ここは、檜倉沢の三本目の枝沢だった。
そこに… 他の荒廃を思えば奇跡的といってもいいだろう。
この沢に限って120年の間、大きな出水に見舞われることがなかったらしい。
高さ1mほどの橋台が、2mほどの沢を挟んで向かい合って形を留めていた。
これは石垣に次ぐ、清水国道で二つめの道路工作物の発見であった。
そこ、ショボイとか言うな! 俺が泣くぞ…
よく見ると前の石垣とは違って、丸石を乱積みにしている。
おそらくはこの沢の石を加工もせずそのまま使ったのではないか。
あたりにゴロゴロしている石の中にも、同じような形のものが沢山ある。
なお、橋桁は当然のように消滅していたが、石垣の天辺に丸太が一本だけ残っていた。
この上に橋桁となる丸太を固定していたのではないだろうか。
もしそうだとすれば、これは明治時代の丸太と言うことになる。
敢えて掘り返して現状を変えることはせず、そっとしておいた。
橋台の遺跡を越えて進むと、天使の舞い降りたような清々しいブッシュが始まった。
…まあ、ブッシュには変わりないんだけど。
でも、ここは気持ちが良かったなぁ。
フンドシの職人たちがモッコを担いで道普請をした、その当時の道形がまんま残っているような感じであった。
それに、芝生っぽい浅い草地となった道の方々に顔を出す白い岩が、ナイスアクセントを添えていた。(雪崩が連れてくるんだろうな…)
13:49
快調に200mほど進むことが出来たが、音もなく本谷が接近していた。
そのことに気付いたのは、またしても道が路肩から狭まり、そのまま姿を消したからだった。
そして当然のように、三度目の崖下りとなる。
相変わらず草付きの危うい斜面であり、もう勘弁して欲しいというのが本音だが(毎度毎度神経をすり減らす)、ともかくこれを下れば檜倉沢本谷。
そこは、全線12kmの廃道区間のちょうど中間と目される地点である。
半分攻略達成を目前としたこの下りは、過去二度の時より幾分前向きな気持ちで望むことは出来た。
13:53 檜倉沢本谷徒渉
「 くじさん、疲れたなー 」
「 きついっスな 」
追分(下分岐)より、6km地点。
廃道区間のちょうど中間である。
廃道界の未踏峰、その五合目にようやく到達。
6kmに要した時間はなんとなんとの、7時間。
過去経験した全ての廃道の中でも、最悪に近いペース。
身軽であればもう少し違った結果になったかも知れないが、ともかく折り返し地点。
我々のチカラを ここに… 一応は示した …か?
全体の中で見る現在地は、左図の通り。
◆追分(海抜730m)>6km>
◆檜倉沢[現在地](1140m)>6km>
◆上分岐(1400m)>1.2km>◆清水峠(1448m)
廃道区間の中間地点であるが、高度上においてはその7割を攻略済である。
道はこれ以降登攀することは二の次で、険しい「ナル水沢」「本谷沢」の横断に集中するようだ。
それにしても、こんな奇抜なルートを思いついた明治の土木技師たちの発想は飛び抜けている。
峠と相対する山脈をこれだけ大胆に利用して、そこに緩やかな勾配を実現させようというのは、江戸時代までの道づくりにはなかった発想だろう。
まして、万古斧の入らぬ道無き山々を人の足だけで踏査し、そこにルートを見出した困難など、想像するに余りある。
その偉業を成し遂げた人物の名は、宮之原誠蔵。
…まさに世紀の徒花の種を植えた男である。
その名は、次の資料に現れている。
依テ明治十一年始テ實地測量二着手シ引續當省御用掛宮之原誠藏ヲ派遣シ路脈為取調侯處其地タル所在深山幽谷ノミニシテ最初ハ容易二良好ノ路線ヲ撰定スルヲ得サリシモ尚百方探求シ三年ノ久ヲ積ミ其測量モ再三再四二及ヒ遂二群馬縣下利根郡湯檜曾村ヨリ新潟縣下南魚沼郡清水村トノ間二於テ尤モ開鑿二適ス可キ良線路ヲ得ルニ至レリ 乃此線路二依リ新道ヲ開通スルニ於テハ路上勾配モ僅カ三二十二分ノ一ニ止マルガ故二車馬ノ往來等爲メニ自由ナルヲ得旦別二鑿隧等ヲ要スル所モ無之ヲ以テ幾許カエ費二省減ヲ與へ侯塲合モ有之
(「群馬新潟兩縣境清水越新道開鑿之儀伺(明治14年4月30日上梓)」より引用
※カーソルを合わせて少し待っていると読み下し文を表示しますが、正確さには自信がない上、原文の味わいがすこぶる深いので、出来るだけ原文で読んでみてください。難しい言い回しはないようですので。)
文中に宮之原誠蔵の名が出ている。
おそらく彼一人ではないだろうが、3年ものあいだ現地の山々を踏査し、ルートを見出したというのである。
それは、勾配32分の一以下(現在言われているのは30分の一であるから、工事の段階で何らかの計画変更があったのかも知れない)で、途中に隧道工事を必要としない(これを読んだときには軽くショックだった(笑))ルートだったことが分かる。
文中では、工事の実現を目指すため敢えてそうしたのか、さほど困難な工事でもないような口ぶりだが、それは4年を要する難工事となった。
檜倉沢の谷底で、我々は少しだけ放心してしまった。
半日の死闘でボロボロになった心を慰める、とても美しいところである。
左・右・右・左と谷に裾野を落とす稜線が累々と重なって、自然と視線は遠く高くへ誘われる。
その視線は首尾良く大源太山の印象的な山影に至って、空に放たれる。
純粋な山歩きをする人の気持ちを余り理解しない私でも、この景色には、
もっと粋な言葉で表現してみたいと思わせる魅力があった。
そして、右岸の険しい斜面の中に僅かなラインを見つけては、
もう二度と通ることもないだろう地獄のブッシュに思いを馳せ、ささやかな達成感に酔った。
よくもまあここまで来たなという、そんな景色であった。
この檜倉沢を1.5km下れば、この地点で正規登山道である居坪坂ルートに出会う。
我々にとって、ここは「鉄塔上」以来の、“第二のセーブポイント”となった。
ここに檜倉沢橋が架かっていたことは地図上からも疑いないが、全くその痕跡を残していない。
これまでで最大の橋であったろう。
全長20mは下らないと思われる。
当然中央には橋脚もあったのだろうが、橋台橋脚ともに押し流されたか、或いは瓦礫の山に埋め立てられたようだ。
悲しいけれどもこれが現実。
それを含めて、その目で確かめられたことが成果なのである。
…そう、自分らを納得させるより無い。
おそらく未来永劫、二度と橋の架かることの無いだろう檜倉沢を、我々は後にした。
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14:02
さあ行くぞ!
…そう意気込んでみても、まずは出だしが最初の難関。
重い荷物を背負っての、道無き斜面の登攀。
まずはそれから始めなければならなかった。
せっかく顔を洗って流した汗が、ふくらはぎの鈍痛が、あっという間に引き返してくる。
14:05 清水国道に復帰。
復帰して、そこに相変わらず幅5mの道跡を確認した途端、私は密かに落胆した。
安堵ではなく、落胆。
なぜか。
私には期待があった。
檜倉沢は下界と清水国道との稀な連絡路であると、そういう思考があった。
それゆえに、ここからは踏み跡か、刈り払いの名残か… 何かそういう人跡が我々を導くのではないか。
奇跡が起きるのではないか …と、そういう期待があった。
だが、相も変わらず藪と倒木、斜行木が行く手を阻む、孤独な廃道。
地形図上に描かれている点線なのに、ここまで見向きされていない道は稀だ…。
だが、道路状況にある変化があったのも事実だ。
この路上の不自然な窪地。
なんだか分かるだろうか。
約3時間ぶりに遭遇した、炭焼窯の跡である。
天井が抜け落ち、火室が露わとなっている。
そしてこれ以降、同様の窯跡を頻繁に目撃するようになる。
つまり私の目論見通り、檜倉沢は入山ルートになっていた。
炭焼きの人たちにとっての。
…我々のこの訪問。
最後の炭焼き人が山を下りてから、余りに時間をおきすぎてしまったようだ。
せっかく彼らの踏み固めた仕事道も、いまや所々に苔生した窯跡を残すだけとなっていた。
法面の岩場から、沢山の水がわき出していた。
あたりの路面は湿地のようになり、水辺の植物が多く生えていた。
きっと見る人が見れば山菜の宝庫だと思う。
そういえばこの近くで、新芽が山菜の王様のように持てはやされるタラの木が、背丈の何倍もあるような木に育っていた。
もう何十年も摘まれていないのだろう。
獰猛な山菜採りにさえ、清水国道は見捨てられていた。
大きな窯の跡が路面を完全に塞いでしまっている場所を幾つか越えて進むと、縦横20m×20mほどの広い平場に辿り着いた。
どこが道というわけでもなく、一面が一様に灌木の林になっているのだが、これまでこれだけ大きな平場は見なかった。
建物の礎石があるわけでもなく、ただの空き地である。
清水国道の中間地点に近いので、もしかしたらかつて茶店の一つでもあったのか。
幻の道というだけあって、その辺は全く謎に包まれている。
この道の現役を体験した人など、もう一人も生きていないと思われるのだ。
“明治は遠くなりにけり” だ。
くっ またも道がないッ?!
またか…。
藪漕ぎ以上に清水国道で苦しかったのは、この沢渡りの度に急な崖を降り登りさせられることだった。
藪はいくら突破が辛くても、とりあえず立ち止まっていれば回復もできるが、重い荷物を背負って崖にへばり付いているときは、全く生きた心地がしないのである。
何度も言うが、足を捻挫でもしたら本当に自力で脱出できなくなる=遭難騒ぎ=オワタ。それが怖かった。
ここは、檜倉沢の最後の枝沢である。
これを越えたときようやく、柄沢尾根以来我々を苦しめ続けた檜倉沢と、完全におさらば出来るのである。
地図上でも、いくらか山の傾斜は穏やかになるのである。
14:25
き
ち
|
!!!
普段は水の流れていない、いかにも浸食活動の初期といった沢。
崩壊の巣窟であろう。
そして、ここから路盤に復帰するのが、本当にきちかった。
荷物を全部投げ捨てたくなった。
グオーと闇雲に登っていったら、まず足元がこんな一枚岩に塞がれて…
頭上がこの「鼠返し」みたいな崖となったときには、万事窮すと思った。
足も小刻みに“プル”り始めた。
でも頑張った。
木の根やら何やらを束にして掴んで、がむしゃらによじ登った。
くじ氏もどうにかして登ってきた。
ちなみに、難所を攻略するとき私とくじ氏はそれぞれ自分の思うとおりに動くことが多い。それが互いに性に合っているし、楽しい。だから、くじ氏が何をしているのかは見ていなかった。どちらかが策に窮したときに、初めてSOSを叫ぶのである笑。(この日ではないが、過去にはそういう場所が何度もあった)
これをちょっと格好付けて言えば、私とくじ氏の探索はスタンドプレーの集合体であると言ってみたり?
14:33
登る場所が悪かったために、いっとき道を見失ったのだが、くじ氏と声を掛け合ってそれを発見。
再開した道は、巨木のアーチの下に始まった。
よくもまあこんな形で墜落せずに生き存えているものだと、感心した。
この辺りから少しの間、幸せだった覚えがある。
久々に高木の森であったから、ここまでに較べて歩きやすかったのだと思う。
疲労と、変化のない景色のために、印象にないエリアだ(笑)。
互いの命を懸けた数十年の死闘。
敗者は死に絶え、その骸さえ残さなかった。
しかし、勝者の体には、それが死ぬまで消えぬ傷を残した。
14:52
第四の九十九折りに到達した。
まず現れたのは、奇妙な位置にある石垣だった。
道に面しているが接してはおらず、路面より3mほど上部の斜面に、道と平行になるように、数十メートルの長さで築かれていた。
別に上段の道の路肩というわけでもない。
もはや登って確かめる気力もなかったのだろう。
申し訳ないが写真もこれっきりである。
…ほんと、申し訳ない…。
とりあえず、山腹の改良工事跡だということにしておこう。
奇妙な石垣を見上げながら進むと、間もなく九十九折りが始まったことを実感できる景色が現れた。
十数メートル上方に、上段の平場が見えてしまったのである。
…くじさん。 …やらないか?
ちょ ちょっとだけ…、ショートカットします。
初めのころ、あれだけ手を差し伸べてきた鉄塔巡視路を完全無視して、「完全踏破するぞ」とイキがっていた坊や達が、見たまえ… この牙の抜けた姿…。
オオカミとして入山した廃道兄弟なのに、今や二人は羊にゃんこ…。
現在地は左の図中の「1176」という数字の左のヘアピンカーブ。
ここにある「1176」の数字は標高を示しているのだが、よく見るとヘアピンカーブ上に小さな「・」が描かれている。
この「・」と数字で「標高点」という地図記号である。
重要なことはこの標高点。現地には何らかの標柱が設置されていることになっている。
しかし、我々はそのようなモノに気付かなかった。藪を掻き分けて探したわけではないので、本当はあったのかも知れないが…。
ともかく地図から言えることは、この場所に標高点があって、その標高はちゃんと実測されたものだろうということ。
いつからこの標高点が存在するのかは分からないが、測定班がここまで来た事があるのだろう。
もちろん、我々が来れたのだから、その気になれば可能なわけだが…、大変なお仕事である。
あと余計なお世話だろうが、地形図ではこの一帯は「しの地」ということになっているものの、実際には笹藪はほとんど見られなかった。
何度も同じ様な場所を繰り返し歩いているような感じがする。
森を豪快になぎ払ったのは、雪崩のしわざだろう。痛々しい。
くじ氏は身軽に倒木の一本橋に乗っかって上手に藪を越えていったが、足がモタつき始めている私には、これもなかなかしんどかった。
だが、下手に降りる(落ちる)と、倒木の隙間に嵌り込んで脱出困難となりかねない。
とにかく、焦らず急がず、慎重に進んでいった。
口も利かずに。
現実問題として、夜営をするには水場が欲しい。
だから、明るいうちになんとしても次のナル水沢まで、辿り着きたかった。
なお、これを書くと興醒めしそうだが、事実だから書かざるを得ないだろう。
この期に及んで未だ、林道が足元の斜面の下に、隠れ隠れ見えていた。
檜倉沢と本谷沢出合いの林道終点が見えているのだ。
13日前あっという間に通り過ぎた道を、半日以上も見続けた徒労感は、ぬぐえない。
さらには、秘境だと自分たちを奮い立たせたいのに、実際には砂防ダム工事の音が、山に響き渡っていた。
これは柄沢尾根付近でも聞こえていた。
このあとは離れる一方なので、やがて聞こえなくはなったが。
真新しいコンクリート舗装の白んだ道や、工事機械の排気音ほどに秘境の風情を壊すものは、そうない。
私はある事実に気付いてしまった。
この写真の炭焼き窯だが、石積なのである。
この辺りには、同様の石積みの窯跡がかなりの頻度で現れる。
なぜこんなに必要なのか不思議であるのだが、
この膨大な数の石積の窯…
清水国道の石垣を壊して使ったんだろ。白状しろ。
前に見た石垣天国エリアには、ただの一つも窯が無かったぞ。
… なんて事しやがるんだ… オレタチの唯一の楽しみをこんな… 使い捨てにしやがって ……シクシクシクシク
この辺りは歩きやすかった。
おそらく、もう間もなく檜倉尾根だろう。
間近な尾根が空を見せ始めたから。
…いい感じの道なんだけど、注目するような遺構は特にない。
あるのは、窯の形に形成された石垣跡だけだ。
黄昏て、 きたなぁ。
15:29
第4攻略区を、踏破。
この2.9kmに要した時間は…12:04〜15:29だから…
3時間25分!
後半はいくらかペースアップしたとはいえ、とにかく「時速1km」の壁を越えられない過酷な道途。
我々が攻略進展の目安としていた“攻略区”はここで区切りであるが、生存上はこんな尾根の上こそ不毛な場所だ。
水もなければ、夜風を防ぐものもない。
ただあるのは… 眺望だけ。
萎れ始めたススキの向こうに見晴らすものは、 …清水峠の最終景。
景色は、前回見たときに較べ大きく様変わりしていた。
光の色が違ってきたのはさておき、
自分自身が尾根の突端にいることがよく分かる眺めだった。
この景色の変化には、少し慰められた気がした。
標高1200mの現在地から見る眺めは、色々な山の首から上だけを並べたものだった。
難攻不落の上越国境。
その一翼を成す、いずれも名のある山々の姿である。
道路の歴史、鉄道の歴史、送電の歴史、通信の歴史、
それらが「日本一」の名声をもってようやく乗り越えてきた、日本の交通・通信上の一大要衝地。
上越国境線と我々は、いまようやく肩を並べたのだ。
明治道だけを使て、一世紀の隔たりを、半分までうち越えた。
半分まで…。
峠は、我々の正面に見えていた。
阻むものは 何もない。
こんな峠道が、他にあるのだろうか。
これだけ登ってきたのに、いまだ峠は別の山にあるかに見える。
清水国道から見る清水峠とは、一度も見上げることのない、常に見晴らしの中の存在なのだ。
翼でもあれば辿り着けそうなこの距離だが、
地図で計ると約2kmの隔たりである。
しかし、清水国道の前途には、暗澹たる谷がなおも二つも横たわる。
その道程は6.2kmに及ぶ(廃道区間はうち5km)。
実際の峠は、まだまだ霞むように遠かった。
こんなに遠いと感じた2kmは、かつてない。
本レポートの導入で紹介した、峠からのこの眺めを覚えているだろうか。
現在地は、おそらくこの赤い●のあたりだ。
微かだが、ひっかき傷のようなラインが見えている。
時間的に、もう60分〜90分しか移動できない。
完全に暗くなる前に水場を確保して、夜営に準備に入らねば命も危ない。
「明日の天気予報は雨。」
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
もし、明日が晴れていたら、朝一で峠へ向けて再前進の夢もある。
もし晴れていたら……。
15:31
ススキの中から前進を再開する。
そして、地獄の扉は再び開かれる。
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