道路レポート 広島県道25号三原東城線 神龍湖旧道 第6回

所在地 広島県神石高原町〜庄原市
探索日 2020.12.23
公開日 2021.01.25

オブローダー中間考査


2020/12/23 15:42 《現在地》

目の前に旧道世代の3本目の隧道が口を開けているが、旧々道世代のものとみられる3本目の隧道を発見してしまったので、そちらを優先したい。
犬瀬集落内の旧々道は、おそらくダムの嵩上げに伴って行われただろう集落全体の嵩上げにより跡形もなかったが、集落を出外れると同時に復活する。それも、隧道という刺激的な形で。

旧々道復活地点へのアプローチは、図中の水色の位置にある道だ。
現役の道だが、地理院地図には書かれていない。




そしてこれがその入口だが、広島県が設置した「この先、通り抜け出来ません。」の看板が控えめに主張していた。
地図にもない道だけに、始めから通り抜けを期待はしていなかったが、やはり、すんなりは行かないか。
でも、塞がれていないので、気兼ねなく入っていける。私も自転車に跨がったまま進んでいる。今回始めて、旧々道に自転車で辿り着けそうである。

ここが短い下り坂なのも、印象的だ。
旧々道は常に旧道の数メートル下にあることを崩していないのである。
このことは、世代交代がダム湖の嵩上げを理由としていたということの最大の傍証であろう。地味だが、物を語る下り坂だと思った。



わずか50mほどの短い下り坂だが、途中の山側にこんな看板を見つけた。

いま向かっている道の先に、貸しボート乗り場があった(いまもある?)らしい。
この先の3本目の旧々隧道が、これまでの2本と異なり健在でいられた理由は、こういう余生の役目を持てたことが大きいだろう。

しかしこの看板、まるで女性はボートの初心者だろうと言わんばかりの書き方をしているが、いまや男性でもボートなど漕いだことない人が大半だろう。公園でのボート・デートが一般的だった時代の看板だと分かる。

あっという間に坂道を下りきって……




ズーン!

目の前の隧道はもちろん気になるが、その隣に鎮座する油屋のような木造家屋(「千と●尋の神隠し」に登場する湯屋)のインパクトが大きすぎる。

他人さまのお住まいをじろじろ見るのもどうかと思ったけれど、こんなに私の迫りたい対象物と密着してしまっていては、見ないわけに行かないではないか!
いやこれマジで、切り分けがたいくらい接着している。癒着といって良いかもしれない。建物の右端は隧道のある岩山に乗っかかっているようで、ぱっと見、隧道が建物を潜っているみたいに見える。
あるいは、建物を迂回するために隧道を掘ったようでさえある。



間違いない!お前は確かに旧々道世代だ!
そう断言したくなる姿をしていた、旧々3号隧道(仮称)

旧々2号隧道で見た特徴的な"食パン型断面”との再開。
この形状は、旧道の隧道と異なっており、近接して存在する旧々道と旧道の隧道を見分ける特徴として機能していた。

そしてこの展開、私を有頂天にさせるくらい楽しかった…。
発見自体が誇らしく嬉しかった2号隧道と較べ、今度の3号隧道の発見自体は極めて容易である。地図に書かれていないとはいえ現役で、犬瀬集落をくまなく見て回れば自然と発見される。
だが、発見したこの隧道を旧々道の一部と断言するには、2号隧道を先に見つけている必要があったと思う。そしてその2号隧道の発見には、1号隧道発見というきっかけが不可欠だった。

ここまでの旧々道の現存状態は極めて断続的であり、単純に道を辿っていって自然と見つけられた隧道群ではなかった。
オブローダーの観察と考察があって初めて、これらの隧道が1本の「旧々道」という線を結んだ感があった。
この隧道を見つけたときに何を知るかで、探索「前半戦」の出来を測る。そんな中間考査のような隧道だと思った。

自己採点……、 ここまでは上出来だと思う。




小さき門を潜って…

いざ、「後半戦」へ!




15:44 《現在地》

うわぁああ!

なんだアレ?!


神龍湖の対岸に、少なくとも一つの接近困難そうな廃隧道の坑口が見えたが、

その下に見えるアーチ状の構造物は、橋台か?! なんか異常にデカくないか?



この段階で、正体はまだよく分からんが、

一つだけはっきり分かることは――

難しい地形だということ。

この後半戦……、前半戦のような和やか展開では済ませられそうにない!!

それに、なんて威圧的な姿勢だ。隧道を出る前から、こんな対岸を見せつけてくるとは……!




幸い(?)、対岸は今すぐ相手にしなければならない対象ではない。
まだ、此岸での探索は終わっていない。
順序立てて行こう。
まずは、東口から振り返った旧々3号隧道をチェック。

旧々2号隧道とそっくりな断面を持つ隧道だが、全長は極めて短く、15m程度だ。
そして、坑門にはスパンドレルがなく、ただ地山から内壁が突き出して断ち切られたような形状をしている。もちろん笠石もないし、扁額も何もない。
また、コンクリートの老朽ぶりも2号以上で、大正時代生まれ相応の印象を受けた。目立つひび割れなどはないが、とにかく年季を帯びた風合いだ。
よく清掃された路面には小砂利が敷かれ、遊歩道みたいな足触りだった。

状況としては現役の隧道だが、道路としての地位は、公道ではなく私道の可能性が高い。
なぜなら、『平成16年度道路施設現況調査』という全国の道路法上の道路にあるトンネルをまとめたリストに掲載されていないのだ。
もし記載があれば、一連の旧々隧道の名称や各種データ(竣功年も)を把握する手掛かりとなったであろうに、残念である。



そして、これまた驚いたことに(さっきから驚いてばかりだ)、

同じ建物が、こちら側にもあった。

厳密に同一の建物である。
要するに、この一軒家は、隧道がある岩山というか岬をすっかり抱きかかえていた。
玄関口はこちらにあって(さっきみたのは勝手口)、廊下を2階の窓縁に巡らせた造りは、明らかに巨大化した日本旅館だった。

残念ながら営業はしていないようだが、神龍湖という景勝地を少しでも前席で味わって貰おうという、主のサービス精神の塊のような立地である。
もし建物がなければ、道は隧道なしで岬を回り込めそうだが、おそらく隧道が先に存在し、後から岬の突端を崩して建物を作ったのだと思う。
まるで城壁のような石垣が、険しい湖岸を巡っていた。




この写真は、建物と地山の隙間を覗いたものだ。
そこは植え込みで軽くカモフラージュされていたのだが……

度肝を抜かれる密着ぶり!!!

あまりに密着しているから、外光がまるで届かない洞窟の暗さになっていた。
本当なら、隧道がある岩山自体を破壊して、その空間を建物で埋め尽くしたかったかも知れない。
いやはや、全盛期の帝釈峡観光シーンの過熱ぶりを窺わせるような、立錐の余地を持たない徹底的な土地利用ぶりだった。
(この旅館、机上調査段階でも重要な役割を果たしたのだが、それはまた後で…)




危険な湖面ダイブ直角コーナー!!

ついつい赤文字で前世紀のドライバーに注意喚起したくなる、とんでもない危険カーブだった。

隧道を出た瞬間にこれは、アカンやつだ……。

大正時代の道路、こわっ…。



魔の直角コーナーの下の湖面には、ボートがたくさん集まる浮桟橋が。

先ほど目にした古い看板の貸しボートは、過去の遺物ではないようだ。
ひとつ前の写真には、浮桟橋前の湖岸へ降りていく階段の入口が写っているが、
いい時期に来れば、隧道の真っ当に活躍している姿が見られそうである。



改めて、坑口前から見た魔の直角コーナー。

対岸は山水画のような秀景だがが、それを純粋に愛でる気分にはとてもなれなかった。
私の命を危うくさせかねないという予感がそこにはあって、
緊張以外の気分では、到底眺められなかった。

さて、我らが旧々道はここで直角に右へ折れ、なおも湖岸を辿るのであるが――



ここから廃道だ…。



非常識隧道と非常識橋梁


2020/12/23 15:45 《現在地》

道は貸しボート乗り場のすぐ先で唐突に封鎖されていた。
まあ、入口の段階で「通り抜けは出来ない」旨の表示があったので、意外な展開とは思わなかったが、正直なところ嬉しくない。
その理由は、時間だ。
日没まであと1時間15分しかない状況で、しかも対岸にはどう見ても一筋縄では行かなさそうな廃隧道が見えている状況で、ここで徒に時間を費やしたくない。

目の前のフェンスの奥には、いかにも藪が濃そうな廃道が見える。そしてその終わりも既に見えている。
奥の大きな赤い橋は紅葉橋という現県道の橋で、その袂の狭い斜面に観光地風の建物が所狭しと並んでいるのが見えるだろう。
建物は、明らかにこの廃道の行く手を塞ぐ位置に見えており、最悪の場合、奥まで行っても建物に阻まれて、現道へ脱出できない可能性がある。
その場合もまるっきり時間のロスとは言わないが、ここよりも対岸に時間を使いたいという気持ちは、正直あった。



ということで、珍しく廃道への立ち入りに一瞬の逡巡を見せた私だったが、足を止めて悩む時間は惜しかろうという結論に咄嗟に達し、結局突入した。
ただ、自転車を置いていくという、これもやや苦渋の決断をしている。

この先の展開のベストは、自転車を持ち込み、そのまますんなり廃道区間を突破して次へ進むことであるが、自転車を持ち込んだため廃道に余計苦戦し、そのうえ最終的には突破出来ず自転車ごと戻ってくることを最も恐れた。これをやらかすと致命的タイムロスになりそう。
なので、ミドルリスク・ミドルリターンの選択である、自転車を持ち込まずに廃道に挑戦し、首尾良く突破出来たら、楽なルートで速やかに自転車を回収し次へ進むことを目指した。

写真は、フェンス突破直後の模様。
案の定、枯れ草まみれの完全廃道である。探索時期としてはベストだろうが、廃道の状態としては全然ベストじゃない。
チェンジ後の画像は、振り返っての撮影。




ぬわーーっっ!!


……いや、ちょっとネタっぽい絶叫コメントをしたけど、これは結構マジだぞ、実際。

初めて来たので予期しないのも当然だが、予想外に凄く険しい! ここから紅葉橋までの僅かな距離が。



道の上部の崖が険しいだけなら別にいいが、旧々道はそこからの相当大規模な落石を食らってしまったらしく、
路上がすっかり斜面化してしまっているうえに、路肩から下は現役当時のままに切り立っている状況だ。
目の前の急斜面を慎重にトラバースしていくしかないが、万が一すべったら湖へ直落してしまうのが分かるから、恐ろしい。

……もう少し低かったら、こんなに怖くないんだけどなぁ。



足を止めたくないのに、止まる。
理性が、足にブレーキをかける。

これはそこまでして突破する“甲斐”がある区間なのか?
見えてるんだぞ。ゴールがもう。頑張って成功しても、“読者”くらいしか歓迎しないだろう?
もし、向こうに見える建物(ゴール)の主が気むずかしい人でないとしても、歓迎するか私を? しないよな。



ろくでもねぇな、ここ……。


……つうか、相変わらず紅葉橋の前後が気になりすぎて、足元の探索がおろそかになりそうで怖いです。



いい景色、なんだけど…。

なんか不安にならない?

落ち着いて立てそうな場所が、風景の中にあまりにも乏しいからだろうか。

森閑過ぎる水面が、墜落者を待ちかねるように思えるからだろうか。

私は、この風景をとても心穏やかには眺めていられない。



不安を感じる理由はもっと明確だ!

とんでもないものが見えている。

さっき、「旧道の橋台にしては異常にデカくないか?」と嘯いた物体の内部に――



橋台内に隧道が!!!

マジかよ!(笑)


それもそうだし、

新旧隧道が上下二段に積まれているのも前代未聞では?

なんでそんなに綺麗に重ねたんだよー(乾いた笑)。


で、橋台が重なっているということは――



橋も綺麗に重なっていた模様!

わけがわからないよ。

なんでこういうワケの分からない作り方を…!



二世代の橋が空中で交差していたくらいなら驚かないよ。

だが、対岸だけでなく、此岸の橋台も綺麗に上下二段に積み重なっているのを見てしまえば、もう断定するしかない!

旧橋と旧々橋(←これ早口言葉してみ)も、首都高みたいな二階建てだったのだ!

(少し横に逸れて架けられた現在の紅葉橋が特別に真っ当な物に思えるが、それが普通だからね)




……なんていう、驚くべき対岸の観察を、

脚下の湖面に波紋を散らしながら、岩に齧り付きつつするわたし。

(不穏すぎて鼻血もでない)




しかも、完全に足を止めていた時間は僅かで、一歩一歩着実に前進を続けていた。
困難な斜面ではあるが、崩壊から時間が経過し、しっかり灌木が根付いていることが、信頼できる手掛かり足掛かりとなった。
もし木が生えていなければ、ここへは踏み込まなかったと思う。

で、崩壊地内を20mほど進んでいくと、急に法面にコンクリートの低い垂壁が現われた。
その下に守るべき平らな路面は既になく、私にとっては逆に手掛かりが皆無の嫌な岩盤となったがあっ!







15:51 《現在地》

察し。

ここ、4本目の旧々隧道の跡地だろ。

この中途半端な垂壁の正体は、落石というか、山体崩壊レベルの災害で、
道ごと消滅してしまった旧々4号隧道(仮称)の特徴的な食パン断面の側壁と思われた。

いくら何でも、たった壁一枚で隧道を仮定するのは想像の飛躍と思われるだろうか。
私自身も、半信半疑よりは自信があったものの、現地では七信三疑くらいだった。
しかし、後日の机上調査により、ここに隧道があったことが判明した。


……、この岩場の難関は、これでどうにか突破が出来た。
次は盛大に紅葉橋と行きたいが、その前にもう一つ、建物群の突破という問題が……。


ミニ机上調査編 〜消えた旧々4号隧道?〜

おそらく皆様の心は既に、一刻も早い対岸廃隧道への雄飛を望んでおられるであろうが、地味な存在を掘り下げたいのが私の性分、当サイトの本分であるから、短い停滞をお許し願いたい。
今回のテーマは、前回の最後のシーンで見つけたというか“察し”た、通算4本目となる旧々道の隧道、すなわち旧々4号隧道(仮称)についてだ。

ここの路盤はほとんど崩落土砂で埋め立てられてしまい、道路自体なくなってしまっているのだが、その山側の擁壁にあたる位置に、例の見慣れた高さのコンクリートの垂直壁が存在しているのを見つけたことから、それを隧道の側壁跡だと“察し”たのであった。

そして当然、帰宅後の机上調査段階で事実関係を確かめようとしたのであるが、解決はすぐだった。
前のミニ机上調査編でも活躍して貰った広島県立文書館が公開している古い絵葉書より、今回も2枚の貴重な写真を見ていただこう。




絵葉書(広島県立文書館公開)より

ドーン!

素晴らしい写真である。
私の知りたいことに、雄弁に答えまくってくれている。
一つのみならず、いくつもの答えを示してくれている。

まずこの絵葉書、下にタイトルが書かれているが、「大日本五名峡の一 帝釈峡犬瀬神石ホテル」と銘打たれたもので、発行者として「糸井発行」と書かれている。

ありがたいことに、この絵葉書には消印が捺されており、そこから発行時期を推測可能である。すなわち、「15.8.22」という数字がそれで、昭和15年8月22日の消印だと判断したくなるところだが、後述する理由から、九分九厘これは大正15年8月22日の消印であると考える。
つまりこれは大正時代、一連の旧々道が現役であった時代の極めて貴重な写真である。

ここからいよいよ写真の中味に入っていくが、写真には旧旧道上に存在する2本の隧道が写っている。
右に見えるのが、現存している旧々3号隧道であり、その坑口の右隣に洋風の印象を与える平屋の建物が写っているが、それが神石ホテルで、この絵葉書の主役だ。
神石ホテルという名前は、帝釈峡を描いた古い絵葉書にしばしば登場する。時に被写体として、時に発行者として。

この帝釈峡きっての著名旅館のあった位置に、現在は別の【旅館】(休館中)が存在しているわけだが、当時から貸しボート乗り場があったようで、湖畔へ降りていくジグザグの道が写っている。
私がいま探索を進めている辺りは、かつての神龍湖畔における賑わいの中心だったのではなかろうか。

おっと! 話の主役はホテルではなく、写真の左側に小さく見えている坑門だった。
これこそが、現存しない旧々4号隧道であったに違いないのである。
さすがにこの写真からは、どういう隧道だったかの詳細は明らかにしがたいが、旧々2号および旧々3号と同形状の食パン型断面を持った、それほど長くない隧道だったと思われる。




絵葉書(広島県立文書館公開)より

続いてもう一枚ご覧いただきたい。(→)

こちらのタイトルは、「犬瀬帝釈峡 神石ホテル」であり、前と同じ被写体が主役だが、発行者は「神石ホテル」と異なっており、消印は捺されていないが、明らかに湖面が上昇している。
湖面が狭い山峡に横溢して周囲の岸を圧しており、ホテルの建物の形も位置も変わってはいないが、旧々道と共に、今にも喫水してしまいそうに見える。

これが、昭和6(1931)年の帝釈川ダムの嵩上げ工事後の絵葉書であるのは間違いない。
この湖面上昇により湖畔の道路は付け替えられ、旧々世代の大部分が廃道になったようであるが、神石ホテルの唯一のアクセス道路として、犬瀬地区の旧々道(旧々3号〜4号隧道)は封鎖されずに残されたものとみられる。
この写真だと旧々4号隧道の辺りは樹木に隠れていてよく見えないが、引き続き存在していたはずだ。

これらの2枚の絵葉書により、嵩上げ工事による湖位の変化をダイナミックに視覚できたと思う。
しかし、考えようによっては、ここにあった旧々道は幸運であった。
神石ホテルがあったおかげで、たの区間のような極端な短命に終わることなく、隧道なども構造物としての寿命を全うできたのだろうから。(旧々3号はまだ現役だ!)




犬瀬集落で目にした古いポスターより

それでは、旧々4号隧道は、いつ頃まで健在だったのだろう。

これは私もうっかりだったが、なんと、探索中に犬瀬集落で何気なく目にしていた古めのポスター(→)にも、この隧道が写っていたのである。

この色褪せたポスターが正確にいつもののかは分からないが、ヒントはあって、それは上部に写っている旧紅葉橋だ。
この橋は、現在ある同名の橋ではない、旧橋だ。
実はある日本記録を持っていた凄い旧橋なのだが、その話の機会を後にして、今の紅葉橋へ代替わりしたのが昭和60(1985)年ということが判明しており、そこから撮影時期はある程度絞られる。

隧道の辺りを拡大して見てもらおう。(↓)



犬瀬集落で目にした古いポスターより


このように、初めて正面方向のアングルから旧々4号隧道を見ることが出来た!

この写真でも隧道はちゃんと健在で、トンネル内にも車両か何かがいるように見えるが、湖畔の建物を巡る道として使われていたのではないだろうか。
もっとも、紅葉橋の袂に多数の建物が建っているのは今と変わらず、車両の通り抜けは既に不可能だったと思うが。

意外に最近まで、この隧道は存在していたことが分かったので、観光地でもあるし、当時の姿を撮影している人が必ず居ると思う。
お心当たりの方は、ぜひご一報を!




こうして昭和50年代までは一応の健在を追跡できた隧道の“驚くべき最期”については、同業である先行探索者のサイトより得ることが出来た。
かつて当サイトにもリンクページがあった頃、長らく相互リンクを張らしていただいていた「廃線隧道のホームページ」の著者であるしろ氏のブログ「廃線隧道【BLOG版】」のこちらのエントリをご覧いただきたい。

氏によれば、平成16年から平成22年までの間に大きな崩壊があり、旧々4号隧道は消滅してしまったというのである。
平成16年に撮影された写真には確かに隧道は写っているが、平成22年に撮影された写真だと崖ごと崩壊して隧道は姿を消していた。
思いのほか最近の出来事であり、しかも劇的な消滅であったので、とても驚いてしまった。

なお、崩落が起きるまで、湖面遊覧船の乗り場が旧々4号隧道と紅葉橋の間にあり、そのアクセスルートとして隧道が使われていたという。それが突然消滅したのだから、衝撃的な出来事だったはずだ。


旧々4号隧道の正確な崩壊時期が、複数の読者さんからの情報提供により判明した。

平成17(2005)年10月17日の読売新聞の地域版(備後版?)に、「帝釈峡の山腹崩落 観光シーズンを前に神龍湖の遊覧船や桟橋を損壊」という見出しの記事があることが、記事検索から判明した。
本文の内容は不明だが、遊覧船の破損について述べられていることは、旧々道の下に旧遊覧船乗り場があったというしろ氏の情報に符合するし、時期的にも該当する可能性が高いと思われた。
さらに、神石高原町町議会の議事録を見ると、平成17年12月の定例会で議員の一人が次のような質問をされていた。

10月15日の夜に突如として停電が起こりました。範囲は、神石地域の広範囲にわたったようであります。この日は、昼に帝釈峡スコラの10周年式典が行われて、夕方帰りましたけれども、夕食を済ませたやさき、たしか8時半過ぎだったろうと思いますが、停電になったわけでございます。雨は少し降っておりましたけれども、停電するほどの豪雨ではなく、どうしたんだろうと思いながらも、すぐ電気は来るだろうと待っておりましたけれども、1時間たっても通じず、その後10時半過ぎ、やっと電気が通じました。(中略)原因は、次の日、帝釈峡での岩盤崩落事故だとわかりました(中略)
次に、先ほどの帝釈峡岩盤崩落事故の復旧見通しについてお伺いをいたします。この崩落によりまして、帝釈峡の遊覧船が一部破損するなど物的被害が出ましたけれども、しかし昼間に起きれば大変なことでありまして、今回人身事故がなかったのが不幸中の幸いであったと思います。二次災害も想定されておりますけれども、しかし一刻も早い復旧が待ち望まれております。この復旧見通しについてお伺いをいたします。

この発言により、10月17日に新聞報道された岩盤崩落事故は、実際には10月15日の夜8時半頃に、小雨の中、突然発生したことが判明した。
夜であったこともあり、人的被害がなかったのは幸いだったが、発言にもあるとおり、日中であれば大変な事故になっていた可能性がある。(誰かが探索中だったかも)
しかし、遊覧船の破損についてはこちらでも言及されているが、道路や隧道について触れていないのは、特に深い意味はないだろうが、長く生きた一つの道の最期と思えば、やや不憫である。

なお、この議員の質問に対する町長の回答は――

崩壊事故の復旧でございますが、今これは中電の土地でありまして、中電の意向にもあるわけですが、復旧のために準備いろいろと観光協会あるいは町といろいろと県の方にも要請をしております。なかなか工事は難航するということでございますので、中電の方としても工事は復旧はするというように聞いております(以下略)

――とのことだったが、現状を見る限り復旧はされず、遊覧船乗り場を(この後のレポートで登場するが)紅葉橋の下へ移動することで解決を図ったようだ。
また、その後の町議会でこの件が議論された形跡もない。

旧々道敷がダムを管理する中国電力の所有地だったというのも初耳の情報であり、町道ではない私道的な物だった可能性が大となる。道理で旧々3号隧道も『平成16年度道路施設現況調査』に記載されていないわけだ。
この部分の旧々道は、大正末にダムによって生み出され、昭和初期にダムによって死を宣告されるも、地元の観光目的の助命嘆願によって辛うじて命脈を繋ぎ、それから長く生きたものの、しかし生殺与奪は常にダム側が握っていたという、たいへんシビアな道だったようだ。