おそらく皆様の心は既に、一刻も早い対岸廃隧道への雄飛を望んでおられるであろうが、地味な存在を掘り下げたいのが私の性分、当サイトの本分であるから、短い停滞をお許し願いたい。
今回のテーマは、前回の最後のシーンで見つけたというか“察し”た、通算4本目となる旧々道の隧道、すなわち旧々4号隧道(仮称)についてだ。
ここの路盤はほとんど崩落土砂で埋め立てられてしまい、道路自体なくなってしまっているのだが、その山側の擁壁にあたる位置に、例の見慣れた高さのコンクリートの垂直壁が存在しているのを見つけたことから、それを隧道の側壁跡だと“察し”たのであった。
そして当然、帰宅後の机上調査段階で事実関係を確かめようとしたのであるが、解決はすぐだった。
前のミニ机上調査編でも活躍して貰った広島県立文書館が公開している古い絵葉書より、今回も2枚の貴重な写真を見ていただこう。
絵葉書(広島県立文書館公開)より
ドーン!
素晴らしい写真である。
私の知りたいことに、雄弁に答えまくってくれている。
一つのみならず、いくつもの答えを示してくれている。
まずこの絵葉書、下にタイトルが書かれているが、「大日本五名峡の一 帝釈峡犬瀬神石ホテル」と銘打たれたもので、発行者として「糸井発行」と書かれている。
ありがたいことに、この絵葉書には消印が捺されており、そこから発行時期を推測可能である。すなわち、「15.8.22」という数字がそれで、昭和15年8月22日の消印だと判断したくなるところだが、後述する理由から、九分九厘これは大正15年8月22日の消印であると考える。
つまりこれは大正時代、一連の旧々道が現役であった時代の極めて貴重な写真である。
ここからいよいよ写真の中味に入っていくが、写真には旧旧道上に存在する2本の隧道が写っている。
右に見えるのが、現存している旧々3号隧道であり、その坑口の右隣に洋風の印象を与える平屋の建物が写っているが、それが神石ホテルで、この絵葉書の主役だ。
神石ホテルという名前は、帝釈峡を描いた古い絵葉書にしばしば登場する。時に被写体として、時に発行者として。
この帝釈峡きっての著名旅館のあった位置に、現在は別の【旅館】(休館中)が存在しているわけだが、当時から貸しボート乗り場があったようで、湖畔へ降りていくジグザグの道が写っている。
私がいま探索を進めている辺りは、かつての神龍湖畔における賑わいの中心だったのではなかろうか。
おっと! 話の主役はホテルではなく、写真の左側に小さく見えている坑門だった。
これこそが、現存しない旧々4号隧道であったに違いないのである。
さすがにこの写真からは、どういう隧道だったかの詳細は明らかにしがたいが、旧々2号および旧々3号と同形状の食パン型断面を持った、それほど長くない隧道だったと思われる。
絵葉書(広島県立文書館公開)より
続いてもう一枚ご覧いただきたい。(→)
こちらのタイトルは、「犬瀬帝釈峡 神石ホテル」であり、前と同じ被写体が主役だが、発行者は「神石ホテル」と異なっており、消印は捺されていないが、明らかに湖面が上昇している。
湖面が狭い山峡に横溢して周囲の岸を圧しており、ホテルの建物の形も位置も変わってはいないが、旧々道と共に、今にも喫水してしまいそうに見える。
これが、昭和6(1931)年の帝釈川ダムの嵩上げ工事後の絵葉書であるのは間違いない。
この湖面上昇により湖畔の道路は付け替えられ、旧々世代の大部分が廃道になったようであるが、神石ホテルの唯一のアクセス道路として、犬瀬地区の旧々道(旧々3号〜4号隧道)は封鎖されずに残されたものとみられる。
この写真だと旧々4号隧道の辺りは樹木に隠れていてよく見えないが、引き続き存在していたはずだ。
これらの2枚の絵葉書により、嵩上げ工事による湖位の変化をダイナミックに視覚できたと思う。
しかし、考えようによっては、ここにあった旧々道は幸運であった。
神石ホテルがあったおかげで、たの区間のような極端な短命に終わることなく、隧道なども構造物としての寿命を全うできたのだろうから。(旧々3号はまだ現役だ!)
犬瀬集落で目にした古いポスターより
それでは、旧々4号隧道は、いつ頃まで健在だったのだろう。
これは私もうっかりだったが、なんと、探索中に犬瀬集落で何気なく目にしていた古めのポスター(→)にも、この隧道が写っていたのである。
この色褪せたポスターが正確にいつもののかは分からないが、ヒントはあって、それは上部に写っている旧紅葉橋だ。
この橋は、現在ある同名の橋ではない、旧橋だ。
実はある日本記録を持っていた凄い旧橋なのだが、その話の機会を後にして、今の紅葉橋へ代替わりしたのが昭和60(1985)年ということが判明しており、そこから撮影時期はある程度絞られる。
隧道の辺りを拡大して見てもらおう。(↓)
犬瀬集落で目にした古いポスターより
このように、初めて正面方向のアングルから旧々4号隧道を見ることが出来た!
この写真でも隧道はちゃんと健在で、トンネル内にも車両か何かがいるように見えるが、湖畔の建物を巡る道として使われていたのではないだろうか。
もっとも、紅葉橋の袂に多数の建物が建っているのは今と変わらず、車両の通り抜けは既に不可能だったと思うが。
意外に最近まで、この隧道は存在していたことが分かったので、観光地でもあるし、当時の姿を撮影している人が必ず居ると思う。
お心当たりの方は、ぜひご一報を!
こうして昭和50年代までは一応の健在を追跡できた隧道の“驚くべき最期”については、同業である先行探索者のサイトより得ることが出来た。
かつて当サイトにもリンクページがあった頃、長らく相互リンクを張らしていただいていた「廃線隧道のホームページ」の著者であるしろ氏のブログ「廃線隧道【BLOG版】」のこちらのエントリをご覧いただきたい。
氏によれば、平成16年から平成22年までの間に大きな崩壊があり、旧々4号隧道は消滅してしまったというのである。
平成16年に撮影された写真には確かに隧道は写っているが、平成22年に撮影された写真だと崖ごと崩壊して隧道は姿を消していた。
思いのほか最近の出来事であり、しかも劇的な消滅であったので、とても驚いてしまった。
なお、崩落が起きるまで、湖面遊覧船の乗り場が旧々4号隧道と紅葉橋の間にあり、そのアクセスルートとして隧道が使われていたという。それが突然消滅したのだから、衝撃的な出来事だったはずだ。
旧々4号隧道の正確な崩壊時期が、複数の読者さんからの情報提供により判明した。
平成17(2005)年10月17日の読売新聞の地域版(備後版?)に、「帝釈峡の山腹崩落 観光シーズンを前に神龍湖の遊覧船や桟橋を損壊」という見出しの記事があることが、記事検索から判明した。
本文の内容は不明だが、遊覧船の破損について述べられていることは、旧々道の下に旧遊覧船乗り場があったというしろ氏の情報に符合するし、時期的にも該当する可能性が高いと思われた。
さらに、神石高原町町議会の議事録を見ると、平成17年12月の定例会で議員の一人が次のような質問をされていた。
次に、先ほどの帝釈峡岩盤崩落事故の復旧見通しについてお伺いをいたします。この崩落によりまして、帝釈峡の遊覧船が一部破損するなど物的被害が出ましたけれども、しかし昼間に起きれば大変なことでありまして、今回人身事故がなかったのが不幸中の幸いであったと思います。二次災害も想定されておりますけれども、しかし一刻も早い復旧が待ち望まれております。この復旧見通しについてお伺いをいたします。
この発言により、10月17日に新聞報道された岩盤崩落事故は、実際には10月15日の夜8時半頃に、小雨の中、突然発生したことが判明した。
夜であったこともあり、人的被害がなかったのは幸いだったが、発言にもあるとおり、日中であれば大変な事故になっていた可能性がある。(誰かが探索中だったかも)
しかし、遊覧船の破損についてはこちらでも言及されているが、道路や隧道について触れていないのは、特に深い意味はないだろうが、長く生きた一つの道の最期と思えば、やや不憫である。
なお、この議員の質問に対する町長の回答は――
――とのことだったが、現状を見る限り復旧はされず、遊覧船乗り場を(この後のレポートで登場するが)紅葉橋の下へ移動することで解決を図ったようだ。
また、その後の町議会でこの件が議論された形跡もない。
旧々道敷がダムを管理する中国電力の所有地だったというのも初耳の情報であり、町道ではない私道的な物だった可能性が大となる。道理で旧々3号隧道も『平成16年度道路施設現況調査』に記載されていないわけだ。
この部分の旧々道は、大正末にダムによって生み出され、昭和初期にダムによって死を宣告されるも、地元の観光目的の助命嘆願によって辛うじて命脈を繋ぎ、それから長く生きたものの、しかし生殺与奪は常にダム側が握っていたという、たいへんシビアな道だったようだ。