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道路レポート 鳥取県道・兵庫県道103号若桜湯村温泉線 諸鹿不通区 机上調査編

所在地 鳥取県若桜町
探索日 2021.04.23
公開日 2026.09.11

 机上調査編 第1章 〜県道若桜湯村温泉線 前史〜


今回の探索では、鳥取県道・兵庫県道103号若桜湯村温泉線に3ヶ所ある不通区間のうち、若桜町諸鹿地区にある短い1ヶ所を攻略した。
探索の結果、地理院地図の表記通り、車道が完成していない区間は僅か1km程度であり、過去に両側から工事が進められたが、現在は未成道となって半ば放置されている状況が見て取れた。

今回探索した不通区間には、大きく2つのベクトルがあると思う。
1つ目は、高原上の開拓地である広留野と、麓の本村である諸鹿を結ぶ、ローカルな生活道路としてのベクトル。
2つ目は、扇ノ山の県境を越えて鳥取県の若桜町と兵庫県の新温泉町を結ぶ、広域交通路としてのベクトルだ。

この2つの方向性から道は整備されてきた(そして未だ成し遂げられていない)のだと思うが、文献調査によってその具体的なストーリーを探求することとしよう。
皆さまは、この道にどんな物語を想像されたかな?




文献調査の報告前に紹介したいのが、本編の探索終了直後、クルマで諸鹿集落を通りかかった際に声を掛けさせていただいた住民の方に伺った“聞き取り調査”の成果である。
アポも何もない飛び込みだったのだが、さすがは本県道の行き止まりにある諸鹿の住人である。
短いながらも核心的と思われる証言だったので紹介しよう。

諸鹿での聞き取り

  • 広留野へ登る県道の工事は、随分長い間中断されている。
  • 中断されている理由は、野鳥保護の団体が反対したからだ。
  • 県道の元となった道は相当に古くからあるが、車が通れる道ではなかった。

どうやらこの方は県道の開通を心待ちにしていたようで、建設中断の原因を作ったという野鳥保護団体のことを何度も、「あの団体」と吐き捨てるように口にしていたのが印象的だった。
具体的な団体名は分からなかったが……。

この情報を胸に留めつつ、机上調査の旅へ出発するとしよう。





まずは、私が調べた中で最も古い文献情報を紹介する。
江戸中期に編纂された『因幡志』という地誌史料である。寛政7(1795)年に成立し、その後も加筆があったとされる。
同書の「諸鹿村」の項目から、交通に関する部分を中心に抜粋してみよう。なお、冒頭の村名に付いている括弧書きは、その村に属する枝村である。

○諸鹿村 (広富)
戸数七十(中略)
来見野より二十五町奥にあり民家は川を挟て両側にあり若桜より七十五町なり当所民家多し(中略)北の山をジンジヤク坂と云ふ細見谷と当村の堺、村より十八町登れば山上平原にて其広さ凡そ五十町四方なり是を広富野と云ふ(中略)北は同国(但馬国)二方郡海上村へ百五十町是を二方越或は波太越とも云ふ(中略)皆難所にて牛馬の通ひなし

『因幡誌 巻三』(大正時代に出版された因伯叢書版)より

この諸鹿村は同書が「若桜郷」としてまとめた27ヶ村の中にあるが、別に「丹比郷」としてまとめられた9ヶ村の中に妻鹿野村の項目があり、そこには次のようにある。

○妻鹿野村 (柞原、瀧谷)
戸数三十五(中略)
本村妻鹿野より東南梨木坂三十八町登りて諸鹿の境広富野に至て(中略)二方郡海上村へも通す、広富野よりジンジヤク坂を下れは諸鹿へ至

『因幡誌 巻三』(大正時代に出版された因伯叢書版)より

このように、諸鹿から広留(富)野へ登る長さ18町(約2km)の「ジンジヤク坂」(ジンジャク坂)と呼ばれる道があり、広留野からはさらに北へ但馬国海上村へ通じる「二方越或は波太越」と呼ばれる峠道が通じていたという。

ようするに、江戸時代中期には既に若桜から諸鹿、広留野を経て、現在の兵庫県北部へ通じる道、現在の県道の原型といえる経路が存在していたのである。
また、広留野へは細見川沿いの妻鹿野村からも「梨木坂」という道で登ることが出来たということも分かる。

右図は明治31(1898)年版の地形図であるが、諸鹿から広留野へ登る道が二重破線で描かれている。これは里道の一種である「間路」の記号で、里道の中で最も重要度が低いとされたものだが、それでも公道の一種として行政に認識された道であったことが分かる。

そして言うまでもなく、この「ジンジャク坂」が、今は「中国自然歩道」となっている道である。
実際に歩いた感覚にも合致することだが、やはりあれが広留野と諸鹿を結ぶ一番古い道だったと思う。

明治31年地形図には、私が勝手に「古道」と呼んだ未成県道と絡み合うように存在する“近代車道らしい道”は、まだ描かれていない。


右の地図は明治35(1902)年版の地勢図「鳥取」の一部である。

この地図にも、里道を示す細い実線で、若桜から諸鹿、広留野、菅原、岸田、千谷を結ぶ長い県境越えの道が描かれている。峠の頂上に注記はないが、ここが「二方越或は波太越」と呼ばれていたのだろう。現在の地図も県境に名前を付けていないが、もとはこんな名前があったのだ。

ちなみに、若桜は近世以前から因幡国と但馬国ならびに播磨国を結ぶ若桜往来(播州往来)の宿場として栄えたところで、東西南北の交通の要衝であったとされる。一方、但馬北部の湯村や千谷を通る道は、歴史に名高い山陰道であり、こちらも重要な街道である。どちらも鳥取城下へ通じるが、二方越はこの2本の主要な道を山越えに繋ぐ抜け道だった。

ただし、この道は幕府や藩が認めた公道ではなかったようで、藩境でもあった国境の周辺に関所が置かれていた記録はない。だから本当に抜け道的なものであったと思う。

明治の地形図を使っているので明治の話も補足するが、明治18(1885)年に制定された国道表において、鳥取県庁を終点とする2本の国道が指定された。22号と23号の2本で、細かい推移は省略するが、概ね若桜往来が22号に、山陰道が23号になっている。なので二方越の里道は明治期に早くも2本の国道を結ぶ道となっていた。今でこそ国道を結ぶ道など珍しくもないが、当時は全国に40本少々しか国道がなかったので、なかなかに重いポジションだった。

と、このように明治以前から、広留野を通る道は県境越えの広域交通路としての“片鱗”を覗かせていたようではあるが、その利用の実態についてはほとんど情報がなく、『因幡史』の言うとおり「難所にて牛馬の通ひなし」であって、主要な道路ではなかったのだろうと思う。

そのような状況だから、この時期(明治大正)にいかなる道路整備が行われたか否かについても、今回探索した諸鹿〜広留野間について文献的な情報は全く得られなかった。

しかし、古くから県境越えの里道として一定の存在感を示していたお陰なのか、利用や整備の実態は不明ながらも、県道への昇格は私が思っていたより早くに行われていた。

兵庫県北部の鳥取県境に接する海沿いに、かつて浜坂町があった。平成の合併で新温泉町の一部となったこの町が、昭和29(1954)年に発行した古い『浜坂町誌』に、次の記述を見つけた。

県道若桜浜坂線
昭和24年12月27日県道編入となり浜坂町を終点としているが、本町内にあっては湯村浜坂停車場線と重用線である。

『浜坂町誌』(昭和29年)より

さらに、『鳥取県議会年報 昭和22-32年度』という文献にも、鳥取県議会昭和24年度2月定例会の請願議題に「県道若桜浜坂線修理方について」が見え、さらに翌25年度7月定例会にも同じく「若桜浜坂線及赤松橋改修方の件」という請願議題が上がっていて、いずれも採択されている。赤松橋とは、本編探索の冒頭にクルマで渡った、県道103号に現在もある橋である(地図)。

ようするにまとめると、旧道路法時代末期の昭和24(1949)年12月27日に、旧若桜町から旧赤松村諸鹿を通って県境を越え、兵庫県の旧温泉町から旧浜坂町まで伸びる、一連の県道若桜浜坂線が認定されていたことが分かった。
これが現在ある県道若桜湯村温泉線の県道としての始まりといえるだろう。
しかし、この道路についても情報はとても少なく、路線名以外はほとんど何も分からないのが実情である。

そして、昭和27年に道路法が全面改正され、それを受けた県道の改廃が進められることになる。
ちゅうごくDrive Guide」に公開されている鳥取県道異動総覧によると、昭和34年10月6日に県道194号若桜浜坂線が廃止され、同日に県道10号浜坂若桜線を認定している。これは番号からして主要地方道である。
驚くべきことに、一般県道よりも格上の主要地方道に指定されていた時期があった!

ただこれは長く続かず、昭和41(1966)年2月15日に県道10号浜坂若桜線を廃止して、県道185号若桜温泉線が認定されている。ここで現在と同じ一般県道へ“降格”しているのである。
その後さらに昭和57(1982)年に185→121へ路線番号を変更、平成6(1994)年に121→103へ路線番号を変更し、初めて兵庫県道の路線と番号が統一されている。
そして最後は平成18(2006)年で、本編中でも少し触れたとおり、前年の町村合併で温泉町が新温泉町へ改名されたことを受けた路線名の変更が行われ、現在の路線名「鳥取県道・兵庫県道103号若桜湯村温泉線」となった。

このようにやや複雑な路線名の変化が記録されていた。



右図は、昭和39(1964)年版と昭和48(1973)年版の地形図の比較である。

歴代の地形図を見較べていくと、先ほど紹介した明治31年版以降、昭和28年版まで、諸鹿や広留野の道に大きな変化は見られない。新しい道が全然登場しないのである。
だが、その次の昭和39年版で突如、従来あった「ジンジャク坂」の道が消えて、代わりに初めて今回探索した県道に近い道が、やはり徒歩道として描かれていた。

これが昭和48年版になると、今度は「ジンジャク坂」と県道のルートの両方が描かれるようになった。しかし依然として表記は歩道である。
そしてここにもう一つ、注目すべき道が登場する。

“赤矢印”の位置に、それまでなかった「軽車道」表記の九十九折りの道が現れ、これが妻鹿野から広留野の台地上まで伸びて、同地の家数が倍増しているのである。

ここは本編で辿らなかった道だが、この地形図の表記通りであるならば、広留野の歴史において“最初の車道”という重要な意義を持つ道だったように見える。

続いては広留野の開拓史に焦点を当てることで、道の歴史を探ってみよう。



広留野という中国地方では珍しい海抜800m近い高所にある開拓地は、郷土研究において重要視されたテーマであるらしく、文献が豊富にある。
ここでは平成8年に八頭郡町村会が発行した『新編八頭郡誌10巻 (八頭の郷土読本)』に「第2節 広留野の開拓」としてまとめられている内容から抜粋して、開拓のあらましを紹介しよう。

若桜町最北端に広留野という10世帯の小さな集落がある。国定公園に指定されている扇ノ山に近く、標高が大体700〜800mとかなり高地にある。また、兵庫県との県境、八東町との町境にあり、古くは豊臣政権の頃から、「裏道」として人々の出入りがあったと言われる。
(中略)
この地域の開拓は古く、しかも三度にわたって行われている。
最初の開拓は江戸時代末期に行われた。江戸時代初期から中期にかけて、隣の諸鹿村の人々の出作が行われていたらしく、特に嘉永2(1849)年には同村から開地願いも出されている。……

『新編八頭郡誌10巻 (八頭の郷土読本)』より

読み進めると、この江戸時代末期の最初の開拓は、郡家(現在の八東町中心部)の篤志家安藤伊平が進めた水田の開墾計画であったが、水路の測量に失敗して水を得られず、大失敗に終わったという。ただ、その後も諸鹿などから5戸ほどが移住し、炭焼きなどをして生活をしていた。

次に2度目の開拓計画が大正10年頃に、若桜の元陸軍中尉高橋文市によって行われようとしたが、これも政治的な事情で挫折。昭和5年に森下与之藏という人物が牧場経営を行うなどしたが、大規模な開拓にはならなかった。

そして、三度目の開拓作業で、ようやく現在の形が出来上がるのである。
昭和23(1948)年、佐治村加瀬木の小谷次郎、久雄兄弟によってそれは成された。小谷は、終戦後の食料不足を体験し、就けるような職業もなかったことから開拓に目覚めたという。そして、「100人の食糧を供給するような百姓に」という思いを持ち、鳥取県内のあらゆる土地の調査にはいった。(中略)小谷は、森下を頼ってこの地を訪れた。

(中略)
道路の発達によって、その周辺に集落が開けていくことが多いが、その道路さえ整備されたのは事業が導入された昭和23年から17年も経った昭和40(1965)年以後のことである。従って、それまでの道路は小谷が自らの手で切り拓いた「私道」であり、これを通すだけでも大変な労力を要したわけである。現在広留野へは八東町の「ふるさとの森」へ向かう町道から右手の山へ向かって入っていくのだが、実際車で行ってみると、勾配はきつく、急カーブも多く、当時の作業が大変であったことが想像できる。

(本文・画像とも)『新編八頭郡誌10巻 (八頭の郷土読本)』より

現在の広留野の礎を造ったのは、昭和23年に入植した佐治村の小谷次郎と久雄の兄弟で、昭和40年以前に彼らが“私道”を切り拓いたことが出ている。
右写真がその私道のもので、私が通った道ではないことが写真からも分かる。

結論から言うと、これが昭和48年の地形図に描かれていた広留野“最初の車道”である。
朝日新聞サイト掲載されている「(関西食百景)荒れ地に根をおろして」という記事にも、広留野大根の生産を中心とした開拓のあらましがまとめられているが、そこでは「転機は63年。自動車が通れる道が開設され、関西の市場へ出荷できるようになった。」とある。この昭和38(1963)年に開削された「自動車が通れる道」というのも、同じ道(私道)を指している。


このことは、歴代の航空写真から検証出来た。

右図は昭和36(1961)年と昭和39(1964)年に撮影された航空写真の比較であるが、このわずか3年の間に妻鹿野から登ってくる新たな道が登場しているのである。
従来からある諸鹿から登る道より遙かに広く見え、まさに「自動車が通れる道」であったことを裏付けているし、時期も記事の数字と合致する。

しかしそうなると、今回私が登った県道沿いにある“近代車道めいた道”(私が古道と呼んだそれ)の来歴は依然として不明ということになる。

私の道は、いつ誰が造ったものだったのだろう。

今回の机上調査における“最大の謎”が、ここにある。
そして残念ながら、これに対する確実な回答は用意できていない。

諸鹿の住人が、古くから利用している出作り地の広留野へ行くために用意したという考えは自然だが、しかし自然発生的と思えるような規模の道ではなかった。【あれだけの石垣】を建造し、または岩場を削り取り、さらに非常な急傾斜地への九十九折り作設を行うなど、農間に出来る仕事の域を超えているように見えた。

となるとやはりやはり、県道として整備されたのか。
その可能性の方が遙かに高いと私は思う。
記録を見つけられていないだけで、昭和30年代より前に県道若桜浜坂線として整備されたというのは十分に考えられる。

だがもう一つ、ここまでに述べていない“可能性”もあると思っている。
それは、国有林林道説だ。



『鳥取営林署鳥取経営区経営図(昭和28年度編成)』

右図は、大阪営林局鳥取営林署が昭和28年度に作成した経営図という見取図の一部であるが、基本的に緑の網掛けのある場所が国有林である。
左下の諸鹿の集落から、来見野川に沿って沢川林道が伸びている。途中からそれは森林鉄道であることを示す記号に変わって、沢川国有林の奥地へ達している。
今回探索したエリアにも、細長く国有林が広がっている。チェンジ後の画像がそこを拡大したものだ。

チェンジ後の画像を見ると、まさに今回探索した九十九折りの道が、細い赤い実線で描かれている。
凡例が不十分なので、この赤実線が何を意味しているのかはっきりしないが、自動車道と森林鉄道に次ぐ規格の道路、つまり牛馬道や車道といったいわゆる軽車道を描いているものと考えられる。それが現場の実態にも合致している。

昭和28年の国有林経営図にこうして道が掲載されていることは、それが国有林林道として整備された道であった可能性を示唆している。

沢川国有林の林道開発について、平成8(1996)年に伊藤誠一氏が書かれた『林鉄の軌跡』という文献に、次のような記述がある。

営林署が沢川国有林開発を始めたのは昭和26年で、民間軌道が道路になってからの話である。

『林鉄の軌跡』より

同書によると、戦前に諸鹿から奥へ伸びる民間業者の手押し軌道があり、それが戦後間もなく廃止撤去されてから、昭和26年より営林署が沢川林道の開発を始めたという。
沢川林道の起点側は自動車道として整備された。

ここで私はしばらく忘れていたあの橋(→)のことを思い出す。

石南花橋。

昭和27年竣工の銘板を有する、行き止まりの道らしからぬ、威風堂々たるRCアーチ。

記録こそ見つからないが、あの橋は営林署が沢川林道の一部として大型の運材トラックが通れるように整備したものなのでは。
ただの山奥の県道にしては、時代にそぐわぬ高規格さだと思った。

さらに、同じ年代の登山ガイドに次のような記述があるのを発見した。
昭和37(1962)年に朋文堂が発行した『大阪周辺の山々』より……


若桜から諸鹿までバスがあり、諸鹿のはずれで左に登る急な小道がある。切り立った崖を見上げるようにしながら、この「八丁坂」とよばれる坂を登りきると広留野の下端に出る。諸鹿から本流沿いに奥へ入ると沢川国有林への林道と分かれて広留野へ入る林道はらくであるが、たいへんな遠まわりになる。

(文・写真とも)『大阪周辺の山々』(昭和37年)より

完全にキタ。

一緒に掲載されている地図にはなぜか描かれていないが、「沢川国有林への林道と分かれて広留野へ入る林道はらくであるが、たいへんな遠まわりになる」と評されているこの“林道”こそ、私が探索した道に他ならない!

なおも、建設された細かい年次や路線名については不明のままであるが、あの立派な石垣を要する緩やかな近代車道は、鳥取営林署が昭和26年以降に開設した軽車道規格の林道だった可能性が高いと思う。

その当時の県道はおそらく、古式ゆかしい「ジンジャク坂」=「八丁坂」を使い続けていたと思う。
県道というのはそういうもんだ。古い道から簡単に新しい道へ移りはしない。まして、林道を県道に認定するのは省庁の垣根を越えた仕事であり、一手間がある。それはすぐには成されなかったと思う。

たとえば……、『鳥取県議会年報 昭和42年』に掲載されている若桜町長の陳情事項――「県道若桜温泉線のうち、諸鹿地内の一部を路線変更方について。」とかは、怪しい。この林道を県道にしようという動きの可能性が大である。ただしこれは「留保」となっていて、すぐに実現はしなかったようであるが。




まとめるとだな。

私が今回の探索中、未成県道の間隙や、県道の道路っぱたで何度か出会った、私が勝手に「古道」と呼んだ道の正体は、鳥取営林署が昭和26年頃に整備した林道だと思います。

しかし、あの道は歩くには十分でも、広留野の開拓者達が苦労して育んだ作物をクルマで市場へ運ぶには無理があり、それで昭和38年に妻鹿野側へ下る九十九折りの私道を整備した。
そんな流れだったようだ。

ここまでについてはそのように解釈し、今度は、未成のまま放置されている県道の改良事業について、第二章を調べていくぞ!







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