道路レポート 東京都道236号青ヶ島循環線 青宝トンネル旧道 第7回

所在地 東京都青ヶ島村
探索日 2016.03.05
公開日 2017.12.21


今回は、前回の最後「道がない!」の衝撃的な撤退シーンから、約20時間後よりスタートする。
この空白の20時間も寝る間を惜しんで(寝たけどね)島の道を探索したので、後日また別のレポートで紹介する。
2016年3月5日(土)10:57現在の私は、三宝港(青ヶ島港)へ初めて戻ってきた。

八丈島への帰りの船の出航時刻は本日13:30なので、私に残された滞島時間はあと2時間半、ただし乗船手続きが12:00〜12:15なので、自由に動き回れるのは実質あと1時間!
今回、当初の計画では島には丸2日間滞在の予定であったが、船の欠航による計画の変更で1日だけになってしまった。そのためまだやり残しもあり大変名残惜しいのだが、今日の便を逃すといつ帰れるか分からないので、今回は潔く帰る。(結果的には、もしこの便を逃していたら、翌日以降は運休日や欠航日が続き、3月9日まで滞在することになったのだ…ひえぇぇ…)

人生初“青ヶ島”でのラスト1時間は、島内で最大の威容を誇る人造物、この三宝港の周辺を探索して過ごすことにしよう。
もちろん、テーマは最後まで道!


これから向うのは、昨日の上陸直前(導入2回)に展望され、船上の私に大量の鼻血を吹かせた道だ。

船で島を訪れた島外の人間が、それぞれの見慣れた道を思わず比較して、「青ヶ島やべぇ!」と思うに違いないこの道は、

青ヶ島を象徴する道

――と、言えると思う。凄い道がひっそりとあるのではなく、こいつは非常に目立っている。



現在地は、青宝トンネル南口前の都道分岐地点だ。

昨日(第1回)は三宝港に上陸してから直ちに青宝トンネルへ向ったが、今日は他方(右)の道を行く。
どちらの道も都道236号青ヶ島循環線であるけれど、こちらは険しい外輪山の「上手」地区を経由して村落へ通じている。
ただこの道は、平成19(2007)年に三宝港上部の斜面で【大崩壊】が発生し、現在も復旧工事中のため通り抜けは出来ない。

そしてまたこの道は、本レポートの主題である青宝トンネル旧道「残所越(のこじょごえ)」の一部でもあり、
青宝トンネルが昭和60(1985)年に供用開始されるまでは、三宝港へ出入りする唯一の道だった。
現在でこそ島への移動手段としてヘリコミューターもあるが、これは平成5年に定期運行をはじめたものなので、
青宝トンネル開通以前までこの道は、島へ出入りする全員が必ず通る道だった!

…そのことを念頭に、ご覧戴きたい。



かつて、青ヶ島へ出入りする誰しもが通った道


10:58 《現在地》 

青宝トンネル前の分岐から、これから進む道を覗くと、このような眺めである。
入った直後は少し下るが、その後は一転して上り坂が始まっていることが見える。
しかも、その上りが非常な急坂であることが、もうこの時点で隠せていない。

道の背景は一面の水平線で、路肩もガードレールではなく頑丈なコンクリートの側壁なので、いかにも海べりの防波堤を兼ねた道に見えるが、その印象は半分正しく半分間違っている。
この道は海べりではあるけれど、海面からは25mから30mも高さがあるので、防波堤ではない。
しかし、この海が最も荒れたときの波高は島外人の想像を絶するものであり(参考:【港の待合所に貼られていた写真】、この高さのすぐ下まで波が上がることがあるという意味で、防波堤的な作りになっているのは理に適っているらしかった。




一瞬の下りの後の上りの開始地点から、先を見る。

馬鹿である。

失礼。言葉が乱れた。

私も一応はそれなりに各地の道を見てきているから、こういうことを軽々しく言うのは自らの株を下げかねない行為だというのは心得ているつもりだが、それでも口をつく言葉がある。

自動車で通れる一般道としては、日本一急な坂道ではないか。

断言できる根拠はないので「ではないか」と書いたが、内心はそう信じている。
これが法的には旧道でも何でもない、現役の東京都道236号青ヶ島循環線である。島外者であっても島内でレンタカーを借りれば自分で運転できる道である。



あははははは、

アハハハハハハハハッ…

笑いしか出てこないぜ(笑)。

あまりのことで、この画像を見せても素直には信じて貰えないのではないかと思ってしまう。
でも、これが現実。画像を加工はしていない。

たぶん一番勾配が急に見えるアングルで撮影はしたけれど、デジカメの水準計はレベルを指しており、カメラや写真を傾けたりズームしたりはしていない。
これが、肉眼で見た印象に近いガチの道路勾配である。
しかも、都道である。

……凄すぎだろ。



ここで振り返ると、道はまるでジェットコースター!

ここまで露骨で急な“突っ込み勾配”の道は珍しいし、狭い道の周囲に逃れる場所がないことから、まるでレールの上から離れられないジェットコースターのようである。もちろん、見晴らしの良すぎる背景も、その印象に大きく加担している。
ここは勾配とカーブが複合した、普通は許されそうにない壊滅的なブラインドカーブである。せめてカーブミラーを…!

しかし、この一目して不合理な線形には、やはり不自然を生じさせるだけの特異な理由があったようだ。
その答えは、坂道の底部分の路肩にある側壁の切れた部分から所を覗いてみると分かる。
この切れた部分は、単に路上に水が溜らないよう空けてあるだけではないのだ。先がある。



“隙間”の先には、普段いろいろな港で目にするものとは高さの規模が10倍は違うと思える、バケモノじみた船揚場が!

現在は使われていない模様だが、なぜか真っ二つになった漁船が一艘だけ係留されていた。船体に「青宝丸」と船名が書かれている。青宝トンネルの守り神?!

背後の海を見れば分かるが、島で唯一の漁港でもあるこの港には、海面上に係留されている漁船の姿が全くない。
外海の波を遮る防波堤が存在しないため、港内に安全に係留しておくことが出来ないのだそうだ。
そのため現在は、第1回で見たように、驚くべき索道を用いて陸上の船溜まりに船を保管している。
そしてその施設が出来る以前は、このとんでもなく高い船溜まりへウィンチで船を上げていたらしい。先ほどから路外に見えていた廃墟然とした建物は、そのための施設だったのである。



『青ヶ島の生活と文化』より転載。


そしてこの長大な船揚場は、青宝トンネルが出来るまで、都道と埠頭を結ぶ道路を兼ねていたのである!

この驚くべき事実は、三宝港の古い写真が物語っている。
右の写真は青宝トンネル開通の4年前、昭和56(1981)年当時の三宝港を写したものだ。
これを見ると明らかだが、山の上から下ってきたとんでもない勾配の道は、そのまま長い長い船揚場となって、港の埠頭へ降り立っている。
チェンジ後の拡大した画像には、おおよその「現在地」と青宝トンネルの坑口位置を書き足している。


『黒潮に生きる東京・伊豆諸島』より転載。

左は昭和57年に撮影された別アングルの写真だが、なんと驚いたことに、自動車が(牛も)船揚場の道路を通って埠頭まで入り込んでいる。
こういう写真を見ると、現代人の大半は自動車が持つ本来の斜面走破性能を活かすことなく暮らしていることを痛感する。
…もっとも、道の勾配が緩やかなのは安全上はよろしいことだから、痛感というのはおかしいかも知れないが…。ともかく青ヶ島は車にとってもハードワークの地であったといえるだろう。

港の背後の執拗に段々となっている斜面も、現在は例の索道用の船溜まりや青翔大橋などのいろいろな施設が完成していて、まるで面影がない。
変わらないのは、遙か頭上にある都道くらいなものである。
全体に変化が非常に激しく、半世紀も前の写真のように思えるが、実際は30年そこらの古写真である。
島の玄関口である三宝港に投じられてきた、土木的投資の凄まじさを感じる。
人をして要塞のようだと言わしめる港には、貧弱の港から育ってきた連綿の歴史があることを見逃すことは出来ないだろう。

…少し話が脱線したが、青宝トンネルと接続するためにこの都道上の奇妙な“突っ込み勾配”が生じたのであり、青宝トンネル開通以前の道は、この勾配の“底”から先において、現在の都道と重なっているのである。



さて、道の続きだ。

マジで半端ない勾配区間である。
昨日、撤退する直前に遭遇した【勾配】も凄まじく、日本一ではないかと疑ったりしたが、今日のここも本当に勝るとも劣らないのである。

でもこれは何も不思議なことはないのだろう。
昨日のあそこと今日のここは、本来は一連の道なのだから。
もし途中で切れていなければ、500mと離れていないのである。
同じ道なら、この状況も納得されるだろう。

暴力。

そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
車も、人も、地形も、関わる誰もがにこにこ笑ってはいない。
これは坂道という名の暴力ではないかと思った。
首を上げて前を見ると、この先には九十九折りがあるらしい……、
城壁かよッ!
見え方の高度感がヤバかった。まだまだこの登りは、手を緩める気がないようだ。



勾配区間の路上に立つ、謎の金属製ポール。

一応“謎”とは書いたが、この状況である。だいたい分かるぞ正体は(笑)。

車か船かは分からないが、何かこの勾配区間に“停止”させておくために、ロープを懸けるための柱だったのだろう。
狭い路上で目立たない金属柱は邪魔だという“道理”など、この島の常識の前ではまるで歯が立たないようだ。
しかも過去にはよく働いたのか、よほどの力が加わったらしく、周囲のコンクリートの路面のひびが激しく、補修された痕後もあった。




こんな絶壁の途中であっても、せめて神様の座するところは平坦にしようという、粋な計らいである。
急坂の途中に、名も分からぬ小さな神社があった。
いや、もしかしたら神社ではないのかも知れない。木の小さな鳥居が海の方を向いて沢山安置されているのを見て、そう思っただけだから。
本殿のようなものはなかったような気がするが、小さな祠があったかも知れない。記憶が曖昧だ。

いずれにせよ、赤茶けた火山岩が敷かれた平坦な場所は、この坂道の途中では貴重な足休めの場であった。
ここにはわずかに草も生えているが、そういえば分岐からここまで、未だ1本も木を見ていない。
見たのはコンクリートや石垣といった灰色をした人工の壁ばかり。あとは海か。
こんなだから、ますます要塞に似てくる。

青ヶ島、そこは自然豊かな島と思いきや、港の周囲に限って言えば都心とさほど変わらない灰色さ。こんなギャップも魅力的だ。



慣れてなどいないぞ、この急坂!
これは一日や二日で慣れられるような代物ではない!

この写真は、道路の勾配を測る上での究極的な一枚だ。
余計なものが何も写っていないし(ビルの屋上みたいな無機質感)、背後には水平線だけがあるという、まさに勾配測定専門用の写真(笑)。

スマホのアプリで勾配を測れる便利なものもあるのだが、当時はそれを知らず実測しなかったことが悔やまれるが、写真上での計測だと、20度の傾斜である。
かなり信憑性のある数字だと思っている。

…ん、いまいちピンとこない?

20度は、勾配表示でお馴染みのパーセントに直すと、36.4%となる。
そんな数字の勾配標識のある“車道”を、見たことがあるか? 私は残念ながらまだない。
東京都にはここに是非とも正確な数字を記した勾配標識の設置を検討して貰いたいものだ。
奇をてらわず、ただ普通に標識を設置してくれるだけでいい。道路名所になること請け合いだ。

なお、写真には私の愛車のハンドルが写っているが、自転車に乗られる方なら、果たしてこの勾配を乗車して登れるのかどうか気になるかと思う。
これはMTBのような勾配向けの変速がある前提だが(なければまず無理だろう)、限界まで前傾姿勢をとって重心を下げ、かつ慎重に漕げば、ぎりぎり可能だった。
漕ぎ足に勢いを付けようなどとは考えないこと。それをすると反動で後ろにひっくり返る。ハンドルよりも頭を下げる(前は見えない)くらいのつもりで漕ぐことに専念すれば、ぎりぎり可能である。
脚力よりは姿勢制御力がものを言う。これはそういう大半の自転車乗りにとっても未曾有の世界を体験させる勾配だ。
ちなみに未舗装だと車輪が空転するので絶対無理だ。




11:04 《現在地》

分岐から約100m(うち80mは30%を越えるだろう激坂!)で、九十九折りの最初のカーブに到達するが、
いま見えて来たのはその20mほど手前だ。ここには待避所としては少々不自然なコの字型の路肩の膨らみがあり、
ちょっとだけ道から離れて、その全体像を俯瞰してみるにはうってつけな場であった。
路肩の転落防止柵がコンクリの壁からガードレールに変わる地点でもあった。

…というか、ちょっと足を休ませてけろ…。

もう探索4日目なので、結構来てるよ俺の足…。ねじ切れそう…。


そして次の写真は、そこから撮影した行く手の景色だ。

↓↓↓



見えたッ! 昨日の断念地点!

あの割れた板チョコのようだった【末端】を、こちら側から初めて目視した!

私が立っていた路肩の擁壁も、案の定、その下は空洞に近い状況であったようだ。
体重程度でどうこうなる可能性は低かったとは思うが、次行ったときはもう立たないぞ俺は(苦笑)。

それにしても、凄まじい道の姿である。

昨日探索した廃道区間と同様だ。本当に一連の道だったことがヒシヒシと感じられる。
昨日の区間よりも海に近いせいで草木が少なく、荒涼とした度合いはより濃い。
それだけに、折り重なるように登っていく道の姿があまりにも鮮明だ。
道を愛する者で、この眺めに興奮しない者はいない。



道が押し被さってくる!

拒絶と絶望の支配するこの外壁を乗り越えて、包蔵された肥沃と平穏の池之沢や村落へ。

そんな人々の必死な願いが、岩場をえぐり石を積み上げ、辛うじてここまでの道を生み出した。

島を訪れる人も利用はするが、本来的には島民が自らのために作ってきた道である。

島外の道と比較することに意味はないと感じるほどの圧倒的破壊力。外国の道を比較するようなものだ。



九十九折りの最初のカーブに到達したが、吹いた。

九十九折りは、道の勾配を緩和するために人類が編み出した必殺技だと思うが、それを使ってこの勾配とか…。

青ヶ島でレンタカーを借りて運転する人は、よほど運転やその車に慣れていない限り、このルートは選ばない方が無難だ。
あと数年でこの先の崩壊箇所が復旧し通り抜けられるようになると思うが、この道はジモピー専用レベルのヤバさだ。
ここで対向車とか来たら、どうするよ…。



Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

360°道馬鹿ばかり!

陸の上には、道と道の付属物である擁壁や法面しか見えない。


楽しい、ニャン♥



狭い土地に無理矢理押し込められた切り返しのカーブの酷さよ。
カーブの内側部分にはゴムタイヤが空転したことによって描かれただろう黒っぽいタイヤパターンが幾筋も刻まれていたし、白く擦れたような痕も多い。
これは車が上げた道への不平不満の隠せざる声である。

それにしても、青宝トンネルが開通する以前は、この坂道やカーブを物理的に通行できない車は、空輸や分解輸送でもしない限り決して島内には入り込めなかったはずだが、昭和40年から58年までの年次別車両台数推移(『青ヶ島の生活と文化』より)を見ると、青宝トンネル開通以前から島内にはかなりの台数の貨物トラックが入っていたのである。




この島の自動車は、昭和40年にバイクと耕運機が1台ずつ導入されたことに始まり、42年に最初の軽自動車、44年に最初の貨物トラック、47年に最初の乗用車という風に種類を増やし、台数も昭和56年時点で乗用車15台、貨物トラック52台、軽自動車20台、バイク43台のように、狭い島内にひしめくほど増えたのである。
『黒潮に生きる東京・伊豆諸島』に掲載されている、昭和57年に村落中心部で撮影された写真にも、そんな貨物トラックの姿が写っている。

(←)…ガードレールって、こんな角度でも取り付けられたんだな。
この島の道は、道に関わるいろいろなアイテム(車もそうだ)の新たな可能性というか能力の範囲を気付かせてくれる気がする。

そのガードレールの下を覗き込めば、少し前に腰を下ろして休んだ神社(?)の敷地が、もう15mは下に見下ろされるという。
そこからまだ30mくらいしか道を辿ってないはずですけど!(笑)



11:07 《現在地》

二つ目の切り返しカーブは、すぐにやってきた。
あまりにすぐなもんだから、無節操という印象になる。
普通、九十九折りには運転上のテンポを保つような暗黙の了解があって、あまり極端にカーブとカーブが連続しないものだと思っていたが、そんなものはここには通じないのである。

今度の切り返しも、先ほどと全く同じような無茶なものだ。
違いは路肩にあるのが高い石垣の壁ではなく、高い石垣の崖であること。
二つを足せば凸と凹で合致して、プラスマイナスゼロになりそう。

カーブを上から振り返ると、立体駐車場のスロープかと思うほどに自然味皆無!
到底地に足を付けた道のようには見えない。
あと、地球は丸かったです。



道よ! お前はなおも挑むのか!

お前の進路にはとびきりでかい大岩が、人を拒む島の総意であるかのように覆い被さっているじゃないか。

お前はそれでもそこへ向うのか。そこがお前の道なのか。


この壁を越えないといけないとか、なんて無茶なことを青ヶ島は要求してくるのだろう…。
そう問い詰めても、不満なら出て行けとか言うんだろうけど。過去には噴火して島民を全て追い出していたこともあるくらいだしな。
でも、この険しい顔が全てではないんだよな。外輪山に囲まれた池之沢の平穏は、ここからは想像できない。



二度目の切り返しが終わってから、登りにブーストが掛かった。
坂道にへばり付いた私が悲鳴を上げても、激しい海風に乾かされた世界があるばかり。
九十九折りの最中は、こまめに止るので、自転車にはまだ楽だ。
しかし、カーブとカーブの間の登り方が、本当に常軌を逸してしまっている。

車だと、どんな音を立てて登るのだろう。
それが見てみたいと思った。
この道が再び通り抜けられるようになった頃が、再訪のタイミングかと思っている。何年後か分からないが、さほど未来ではないだろう。




ここも強烈なる“道路.zip”の光景だ。

ほとんど垂直の崖のように思えてくるが、そんなところでも一応は車が上り下り出来る道を入れ込めることに、九十九折りというシステムの凄みを感じる。橋やトンネルに匹敵する、人類の交通史上における偉大な発明かも知れない。

…それにしても、この下のカーブはすんなり曲がれない車も結構いると思う。
軽トラより大きな貨物自動車などは、まず切り返しが必要だろう。
それも無理ならバックを駆使したスイッチバック走行となるが、そんな技法まで駆使されていたとしても驚かない。




おおっ! 勾配が緩くなった!

つっても、まだ15%くらいはあると思うけど。

しかし、勾配と引き換えになるようなものとも思えないが、途端にガードレールが死んでる。死にすぎだろこれは!
廃道だぜ、まるで。
普通だったら利用者の目もあって道路管理者的に許されなさそうだが、多分青ヶ島では誰もガードレールなんか頼ってないんだよね、きっと。
こんな道なのに、ここ以外も全然ガードレールに車が接触したような痕跡はないし、皆さん運転に熟練しているのでしょう。
そりゃそうだよな。この島でガードレールに頼りかねない運転していたら、毎日死ぬ。毎日!




やっべえ!→

今の道がやべぇワケじゃないけど、過去にここでなにが起きたのか分かってしまい、やべぇ!

この前後より道が微妙に狭く、ガードレールが死にまくっている部分は、過去に一度は全幅を欠壊させている模様である。
路肩にある見慣れた石垣が崩れていて、その崩れた部分を補うように、錆び付いた鉄骨の桟橋が架かっていた。
道はこのどう見ても、この錆びきっている鉄骨によって支えられているのだが、今後これは大丈夫なんだろうか…。



渡り終え、反対側から振り返って撮影。

なんというか……雑じゃない?(苦笑)
ドライバーから見えない場所とはいえ、路肩に埋め込まれた鉄骨やら鉄筋やらがコンクリートと雑に混ざり合ってる外見の印象が…、とっても、継ぎ接ぎチックである。

うん、継ぎ接ぎというのは、この島の道路の姿をなかなか言い得た表現だと思う。
昔から、大なり小なりこんなことが繰り返されてきたのである。
あるときは、この場所のように継ぎ足して復旧させ、またあるときは復旧を諦めてトンネルを掘り、旧道は廃道に。そしてまたあるときは、10年以上もかけて延々と復旧工事を進める。
しかし、何をどうしても徐々に徐々に島は削られ、険しく狭くなり続けているという現実。
直しては崩され、崩されては直すという、賽の河原の物語。
結果、継ぎ接ぎのバケモノと化していく、島の道。



そして、そんな私を無言で見下ろす…


崩壊予備軍の巨大岩盤!

しかし、今度ばかりは人が先手を打って、懸命にその崩壊を防ごうとしていた。

港の直上ではないけれど、万が一これが崩れるようなことがあれば、今度こそ「上手」の都道は絶滅しかねない。

高さ100mはあろうかというオーバーハングした岩盤の全体に、見慣れた落石防止ネットが張り巡らされているのは、

子供の頃に読んだ「ガリヴァー旅行記」の中で、小人に縛られている巨人のようだ。人とはあまりにもスケールが違いすぎる。

だが、本気を出した人の英知を侮るなよ! お前は崩れさせないぜ!!



11:12 《現在地》

青宝トンネル前の分岐から約300m地点にある次なる分岐。大岩の直下。
上手経由のオタセ越(復旧中)と、廃道と化した残所越の分岐地点へと辿り着いた。

ここの海抜は約80mで、300mの区間で約50m登ったことになる。
計算上の平均勾配は17%である。これもやばい数字だが、実際はもっと激しく感じた。
とりあえず、登り着いたという気分。何はなくとも、まず一休み…… ぐったり…。



(乗船手続き開始まで 0:48)