14:12 《現在地》
突然だが、現在私が到達している地点は、上陸直前に海上から見た“驚異の風景”の中にあっては、左図に示した辺りだと思われる。
肉眼で見る限り、とうてい道があるようには思えない領域に、確かに私は踏み込んでいる。
そのことはGPSの小さな画面の中でも示されていたが、こうして改めて見ても、本当に道のありそうもない領域だ。
…そしてこの先、この下は、さらに地形が険しいように見える…。
現在海抜160m付近にいる私の前に現れたのは、ジグザグの電光型に下っていく道の姿だった。
この足元に広がる坂道は、青ヶ島でこれまで体験した中では最も急だが、ここから見える一個下の段が、さらに急に見える。
というか、この下の段の急さは、本当に過去一度も見たことがないと思えるほどだった。
オブローダーとして、こんな凄まじい風景を持った“廃道”と出会えたことは、まさに至福の出来事であったが、こういう見晴らしの良すぎる状況が大きな危険と隣り合わせであることも、よく知っている。
探索の完遂が、おぼつかない状況だ。そのため気持ちに余裕がなかった。
(島での滞在時間に厳しい縛りがあることが、再トライの出来ないプレッシャーに繋がり、気持ちを強く縛り付けていたのだった。これは、青ヶ島でのあらゆる探索に共通する、かなりの心理的不利だった)
この場所の路肩に立って海を眺めると、
絶海をゆく“青ヶ島丸”の舳先に立つ、孤独な船長の気分である。
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眼下には、これから進む道が、カーブ一つ分だけ見えていた。
しかしその下は窺い知れない。あとは海が見えるだけ。
…恐い。
なんなんだろう、これは…。
これは断じて、ガードロープの残骸ではないぞ。
普段目にするガードロープよりも明らかにケーブルが太いし、1本しかない。
そもそも、ここの柵はガードレールだ。ガードロープではない。風で吹き飛んでしまったのか、それも支柱しか残っていないが。
そんな“謎のケーブル”が、急坂の路肩に沿って、どこか先の方へと伸びていた。
しかもケーブルの途中には、ケーブル以上に腐食しまくった大きな金属の物体がくっついていた…。
……このような姿をしたものといえば…、私には、たった一つしか思いつかない……。
これは、索道と搬器なのでは…?
しかし、直前までこんなケーブルはなかったはずだ。
いったいどこから始まっているのかと、来た方を振り返ってみると――
ケーブルの一端は、私のすぐ背後の路肩に埋め込まれたアンカーに、しっかりと固定されていた。
小さな滑車の残骸のようなものも、隣に落ちていた。
しかし、このケーブルが索道装置の一部だとしたら、そんなものが路肩に固定されているのが、道路として既に尋常ではない。
それが路肩よりも高い位置に固定されているならまだ分かるが、路面と同じ高さにケーブルがあるのでは、いくら路肩であっても通行の妨げになりはしないか?
そんな道を、未だかつて見たことがあるかという話になる。
が、これはもう単純に、ここはそんな“今まで見たことのないような道”だったと言うよりなさそうだ。
さっきから前方で異質な存在感を放っていた、この海岸の斜面にはとても自生しそうにない大きな倒木だが、よく見ると、やはりあれは自然の倒木などではなく、高い木造支柱の倒れた姿だった。
搬器の残骸らしき物体が取り付けられた足元のケーブルの行き先を観察すると、その倒れた支柱の上の方に絡んでから、さらにカーブの外(三宝港のある方向)へと伸びているようだった。また、支柱からは右の上手方向にも1本のケーブルが伸びていて、法面である石垣擁壁上に消えていた。
支柱が倒れているから路上にケーブルがのたうっているが、支柱さえしっかり立っていたら、あとは道の方が猛烈な下り坂で勝手にケーブルとの空頭高を稼ぎ出して潜っていく。そんな滅多に見ないような道路と索道の位置関係があったようだ。
もっとも、より根本的な疑問として、なぜここに索道があるのかという問題はあるのだが…。上陸と同時に、港に漁船を下ろすための現役索道などを見せられている以上、なんとなく「あっても不思議ではない」と思った。
しかも、以前やった神津島や新島での探索でも、索道を目にしているしな。
はなから考察を諦めるわけではないが、この島に私のこれまでの常識は、あまり歯が立ちそうにない。
立ち止まっているとふくらはぎに嫌な圧迫を感じるほどの急な下り坂で、次なる切り返しへ。
峠を下り始めてから2回目の切り返しである。峠から最初の切り返しまでは100m以上離れていたが、今度はあっという間だ。
路面すれすれの位置を横断している怪しげなケーブルを、普段より少しだけ高く足を上げた1歩で踏み越える。
そのとき、境界を越えるイメージを連想した。
もう一度、振り返る。
この場所は、なんとなくそう見えるのではなく、実際に道幅が広かった。
前後が見通し皆無の切り返しカーブであるから、すれ違いのために広げられているのだろう。
この急坂で車を後退させるというのは、本当に死ねそうなので、優しさというより、道の実用上で最低限必要な構造かと思う。
また、索道の荷扱いがここで行われていたとしたら、そのためにもある程度の広さが必要だったと思うが、それをするには狭いし、平らな場所が少しもないのは、実際に仕事をするには大変だっただろう。
その索道のものと思われる1本のケーブルが垂れている左の石垣上には、溢れんばかりに植物が茂っているが、直前に通った上段の道があるはずだ。
ちょうどそこにはエンジンらしき“謎の装置”が置かれていたのであり、あれが索道の原動機として使われていた可能性は小さくない。ほかにそれらしいものもないのだし。
勾配やべぇ!!!
テンション馬鹿上がり!
自転車を持ってこなかったことを、本気で“悔いた”。 ここを自転車で走ってみたかった。
あまりにこの先の勾配が酷いもんだから、今下ってきた部分が緩やかに見えているかと思うが、
そこも15%くらいは平気である。周囲に水平を取れるものが何もなく、測ってみせられないのが惜しい。
(スマホのジャイロセンサーで手軽に勾配を測れるアプリがあるのだが、当時は知らなかった)
とにかく、向って右側の勾配は段違いすぎる。今までの倍は急だろう。
そんな勾配標識を見たことがないが、おそらく30%に達していると思う。
なあに、勾配30%(300‰)と聞くと破天荒だが、角度としては17度くらいなもんだから、
周囲の崖みたいな山の傾斜を考えれば、これでも緩やかすぎて感謝したくなるレベルなのだろう。
しかし、こんなところに島の拠点間を結ぶ一般道が通じていたとは……
…青ヶ島は、やっぱりスゴイ。
いや、 本当にここ大丈夫だったの?(笑)
カタログスペック的には、戦後の我が国の自動車なら大体ここを上り下り出来たと思うが、
雨、風、夜、重積載、すれ違い、そんなリアルな交通条件下では、なかなかに泣けそうだ。
この手の道に熟練した特定のマニアだけが通う道でもなかったと思われるわけで…。
むしろ、かつての渡島の難しさを思えば、島外の人間でここを“運転”して通ったことのある人は、多くないだろう。
当時の島の自動車とか、ブレーキの消耗が半端なかったんだろうな…。毎年故障しそう。
急坂の話をすると、急さで有名な“暗峠”と比較してどっちがと思う人もいると思うが、どっちもどっちだ(苦笑)。
周囲の環境も景色も雰囲気も全てが違いすぎるが、良いライバルだと思うぞ。ともに一般道として、
生活のために往来する人が存在する(した)点は共通するだろうし。
“暗峠”を南国の島に持ってきて数十年放置したのが、この道って感じだ。
この第2の切り返しの路肩に立つと、三宝港が正面下方によく見通せた。
直線距離で約500mだが、まだかなりの高低差を保っている。もっと近づかないと全然安心できない。
なお、この目の前の草藪の中には、港方向へ伸びる索道のケーブルが落ちているが、行く先は未確認だ。
特に支柱のような構造物も見当たらないが、シンプルに考えれば港まで通じていたのだろうか。
そして次の写真は、上の写真の中央付近、ちょうど現在の目的地辺りを望遠で撮影したもの。
↓↓↓
“道路.zip”かってくらい、道が滅茶苦茶に圧縮されてる。
あっちの勾配も、今いる場所に負けず劣らず凄まじい!
あそこに見えるのは、【青宝トンネル前】で分岐した都道の片割れだ。
途中が【大崩壊】しているために、平成19年以来ずっと通行止めになっていて、
現在も復旧工事が黙々と続けられている、“上手(わて)回り”で港と村落を結ぶルートである。
(船上からは【こんな風】に見えた場所だ。)
私がいる旧道は、あの上手回りの都道の途中から分岐しているものであり、
地図上に分岐が書かれている地点も、ここからよく見えるのだが、
実際に分岐がありそうには見えないのが恐い。
ともかくも、見えているあそこまで行ければ、探索は完遂。
直線距離で、あと200m。ただし、高低差は80mだ。
第2の切り返しを越えて、マジで立ち止まっていられないほどの急坂へと踏み込んだ。
写真は、切り返しを振り返って撮影した。
大袈裟でなく、立ち姿勢でもすぐ目の前に路面が迫って見える。まるで階段を上るかのような急坂だ。
昔から我が国には急坂の表現として“胸突き八丁”というのがある。それを私は長い間、立っている状態で胸が地面に付きそうなほど急(=ほとんど垂直)なことだと思っていた(実際の語源は、呼吸が苦しいことを胸突きといった)。しかし、こうして胸のすぐ前に路面が見えるような印象の坂は、やはり私にとっては“胸付き”だ。
この頭上すれすれを横断しているのは、倒れた索道の木造支柱である。かなり古びて痩せており、いったい何年くらい前まで使われていたのか想像が難しい。
ただ、木造支柱であることを考えると、半永久的な索道ではなく、工事用とか、一時的な目的のものだったかも知れない。
また、青ヶ島は東京都心の2倍くらい年間の降水量が多いとされる。
全国的に見ても雨の多い土地に分類されると思うが、そんな島の外輪山より外に降る雨は、川を作らずそのまま海へと流れ去る。
この舗装された路面などは、その際に格好の集水路と化していそうである。そんなことがあるから路上に植物がほとんど進入せず、このように綺麗な状態が保たれているのではないかと思う。
未舗装区間の藪の濃さと比較して、舗装区間の綺麗さが異様なのである。路肩も含めて、急坂には土も枯れ葉もまるでない。
流水だけでなく、遮るもののない強烈な海風も路上を常に清浄に保つ働きをしているのだろう。
人や道だけでなく、野生の植物にとっても、この環境は相当に厳しいというということだ。ひとことで言えば、荒涼の世界だ。
凄い!
1分前に私が立っていた路肩が、もうあんな上になってしまったッ!!
さっき路肩で見たボロッボロの搬器らしいものが、ここからだとよく見える。あれはやはり索道の搬器だと思う。
それにしても、あんなに頑丈そうな鉄の機械があそこまで腐食するとは、本当にここは鉄にとっては死の世界なのだろう。
そして、あの赤茶けた無残な死骸と対比して、堅牢さをまるで失わない現役さながらな石垣の心強さよ。
このような木も育たぬような急崖に数十年も形を留め、未だに道を支え続ける頑丈さは、かつて島の人々の生を支えるまでの重大な使命を帯びていたのかもしれない。
この道は一見無茶な作りになってはいても、決して手を抜いたものではなかった気がする。
現代土木に根ざした道路としての力強さも、ちゃんと持っている気配がある。
この道ならば、この島の中でも、私を目的地へと運んでくれるかも知れないッ!
上陸直前にはほとんど不安で埋め固められてしまっていた踏破への希望が、徐々に明るい期待と楽しさによって上書きされていく、そんな健全で心地の良い感覚を、私は感じはじめていた。
写真内に勾配を示せるような対照物が全くないと、これが水平のように見えるかもしれない。
それならば、私が精一杯、文章で伝えるしかないであろう。
下り坂がきつすぎて、摺り足じゃないと歩きづらいこと。
デジカメのファインダーを覗いていると、背中を押されるような気分がして、全く落ち着けなかったこと。
ここから見える遠くの斜面の急さは、今私がいる場所を反対に見たときも、だいたい同じように見えるのだろうと思ったこと。
今この瞬間だけは、私が廃道探索者のナンバーワンである。私は真に誇らしい廃道を体験している。うらやましかろう。そんな風に遠い南の空から日本中に自慢して回りたいと思ったこと。 など、など。
14:18 《現在地》
私は、最高にハイテンションになりながら、時間としてはあっという間に、今度は第3の切り返しへ突入した。
再び藪に覆われたこの切り返しは、これまでに見えた道の先端だ。
この先は、未知。
次なる道路風景は、いかなるものか。かつてない期待に胸をときめかせながら、ジャングルのような緑の壁を、突き破った!
さあ、来い!
!!!
今すぐ足元を、見ろ!!
↓↓↓
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道が無い。
お前、あと一歩で死ぬとこだったぞ。
藪を突き抜けた勢いで、うっかりあと1歩踏み出していたら終わりだった。
また、私がいる場所のすぐ右側には、1メートル以上先まで路面が存在するように見える。
だが、藪を突破した私がそこではなく、今いるこの場所を先に踏んだのは、非常に幸運だったかもしれない。
なぜなら、右に見える路面には、それを支える地面がまるで存在しなかったから。宙ぶらりんなのだ。
足を踏み込んだら突然板チョコのようにポッキリ割れて、あと100m残っている海岸までの落差を身に刻みつけながら、
とても呆気なく人生の締め括りを迎えていたかも知れないのだ。 ……こういうことがあるから廃道は恐い。恐くない?
(しかしよく考えると、今立っている下もどうなっているか知らんのだけどな…)
そして、誠に残念ではございますが、
私の旧道踏破の夢も、ここで諦めでございます。
まあ見て分かる通り、これは無理です。
もう完全に、この道は終わってしまっていた。
廃道自体が、地上からほとんど消えてしまっていた。
地上から消えてしまった廃道がどこへ行ったかと言えば、
もう本当はここに立っていること自体が恐くて恐くてたまらないんだけど…
この足元の100m下にさんざめく海の藻屑になってしまったようでございます。
振り返って、というか見上げてみると、
残所越のピークからここまで、計3度切り返しながら下り続けた約180mの道のりが、微かに見えた。
道がここでこれほど壊滅的に崩壊しているのは、廃止された事情と関係があるのだろうか。
もしそうならば、例の索道はその応急的な対処とか復旧工事とか、そうした事情によって生まれたものかも知れない。
おそらく崩壊区間を回避するように架設されていたような気がする。
最後に、この崩壊がこの道にとってどれほど絶望的であったかということを、知らしめよう。
このことに気付いたとき、私は心の底から恐ろしいと思った。
そして、手に負えないと思い知らされたのである。
↓↓
巨大な地割れのように抉り取られた崩壊の断面に、
上下2段の“板チョコ”のような路面が突き出していた。
私が辿り得たのは峠からマイナス50mくらいまでだが、奥に見える都道合流地点まで、さらにマイナス60mの高度差があり、
そこにはさらに2回の切り返しが存在していたということ。これはその証拠となる極限の“道路断片”であった。
否、破壊された切り返しは、
もっと多い可能性が大!
はっきり見える手前2箇所の道路断片のさらに下方にも、さらに2箇所、あるいは3箇所、
切断された路面や、法面および路肩の擁壁の断片と思われるコンクリート片らしきものが、視認されたのである。
これら全てを結びつけると、上図のような線形が浮かび上がってくる。
地形図よりも遙かにカーブの数が多いが、これならば距離は稼げるから、
計算上の平均勾配20%にはしなくても、下っていけたのではないだろうか。
それでも急勾配に違いはないだろうが。
……しかし、これはなんという、絶望的な状況だろうかと思う……。
この地割れの如き一連の大崩壊は、旧道を完膚なきまでに叩きのめした。
1度ならず2度、いや3度までも、道を寸断してしまった。
そして崩壊の先端は、防ぐ者のいなくなった世界で、今も外輪山の頂を虎視眈々と狙い続けているのだろう。
遠くない将来、今回は探索できた領域も、あの堅牢そうに見えた石垣もろども地上から消え去る定めであろう。
ここからは辿り着けなかった奥に見える都道の上部では、この瞬間も落石を防ぐ工事が、黙々と続けられているのが見えた。
そこは今のところ、守ることを人が諦めていない領域だ。
対して私がいる“こちら側”の全ては、もう諦められてしまった。
こうして、上陸の段階で強く予感した通り、私の敗退によって、青ヶ島の緒戦は始まった。
翌日の離島直前にも残りの旧道区間を探索したのだが、これ以上廃道区間へと踏み込む余裕はなかった。
(島への残り滞在時間 23:10)
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