本稿は県道田方穴吹線の机上調査であるが、はじめる前に、現地調査で判明した2023年2月現在における路線の現状をまとめておこう。
この県道は、終点附近の僅かな区間を除く大半が穴吹川右岸の岸辺にあり、左岸の国道492号と並走している。
道路の状況は全体的に狭隘で、終点附近の僅かな改良済み区間を除くと全て1車線、そのうえ待避所も少なく、地理院地図が大半部を軽車道として表現しているのも肯かれる状況だ。
現状に関する最大の問題点は、中盤に長い通行困難な部分があることだ。最新の地理院地図から道自体が抹消されている部分もそれに含まれる。
現在の道路管理者はとりたてて通行規制を実施していないので、各自が通れると思えば通れる状況ではあるが、路面の荒廃や、そもそもの道路未改良のため、事実上、自動車の通行が困難な区間が全長7kmの路線中に3km強も存在する。
そのため利用の実態としては、田方と知野を結ぶ起点側の路線と、仕出原から拝村や市場を経て穴吹に達する終点側の路線が、それぞれ独立している。
しかし、現状は通行困難な区間も、いわゆる未開通区間のように道路自体が建設されていないわけではなく、かつて県道として車が通れる道路を整備しようとした名残がたくさんあった。具体的には、対岸の国道からもよく見える【頑丈な護岸擁壁】を持つ【改良済みの路盤】が随所にあって、そういう場所には決まって【災害復旧工事の工事標】が建てられていたのが印象的だ。
工事標の時期はいずれも昭和50年代から平成初年代までであり、当時の道路管理者が、自然災害で県道が被災する都度、災害復旧として、護岸を整備したり拡幅したりすることで、結果として県道の整備を進めていたことが窺われる。
逆に、災害復旧による整備が行われていない部分は、基本的には土と石だけで造られた【前時代の車道】(近代車道)らしい未改良道路で、それが通行困難に拍車をかけている。
そしてそのような部分にはしばしば歩き旅の歴史を感じさせる【地蔵】が安置されていて、中でも明治30(1897)年3月24日という同じ日に建立されたものが離れた2ヶ所で発見されたことは、初期の道路整備時期を暗示している可能性がある。
他に、昭和33(1958)年完成の【岩成橋】と、昭和39(1964)年完成の【大内谷橋】は、離れた場所にあるがほぼ同じ外観であることから、これらが架けられた時期にも一連の路線上で木橋をコンクリート橋へ改築する道路整備が行われたことが窺われる。
まとめると、この県道には、整備を受けてきた長い歴史がありそうだ。
現状の荒廃に隠されがちではあるが、明治から昭和にかけての長い期間にわたって、様々に手を加えられていたことは間違いない。
整備された国道の影に隠れて、一般のドライバーからほとんど無視されている悲しい県道にも、きっと輝かしい過去がある! ……気がする。
さあ、田方穴吹線の過去を探る旅をはじめよう。
県道と国道492号の間には、おそらく深い繋がりがある。
ともすればそれは、新旧道のような関係性ではなかったか。
(右図は両者の位置関係。ただし国道492号は単独区間のみを表示し重複区間は省略。また、一部の地名に括弧書きで昭和30年以前の旧自治体名を表示した)
いきなり核心めいたことを発言してしまったが、現地探索にて私には気付きがあった(言及は第3回の17:07頃)。
集落のない所では穴吹川を挟んで間近に並行し続けた両者であるが、ほぼ常に、国道は県道よりも少しだけ高い位置にあった。そこに、洪水対策面の確かな進歩を感じたのだ。
こうしたことから、両者に深い関係性がありそうだと思った私は、机上調査の手始めに、県道と国道が現在の路線名となるまでの経過を探ることにした。
で、現行の道路法下での変遷(昭和27年以降)については、すぐに調べが付いた。以下の表の通りである。
年 | 左岸の道 | 右岸の道 |
---|---|---|
昭和27(1952)年 | 道路法 公布 | |
昭和34(1959)年 | (一)川井穴吹線 認定 | (一)田方穴吹線 認定 |
昭和47(1972)年 | (一)川井穴吹線 番号変更 | (一)田方穴吹線 番号変更 |
昭和51(1976)年 | (主)穴吹木屋平線 昇格 | ↓ |
平成5(1993)年 | (国)492号 昇格 | ↓ |
現在 | ↓ | ↓ |
現行道路法下での路線認定は、両岸の道とも同じ昭和34(1959)年1月31日に行われており、いずれも一般県道としてスタートしていた。
最初から左岸の道が格上だった訳ではなかった。
だが、右岸の道がその後も変化していないのに対し、左岸の道は昭和51(1976)年に主要地方道へ昇格し、さらに平成5(1993)年には国道492号へ昇格したことで、結果、国道と一般県道という大差が付くことになった。
ちなみに、国道492号(香川県高松市〜高知県大豊町、総延長145km)の単独区間は美馬市内の29kmだけで、これは昭和34年の一般県道川井穴吹線の区間そのものである。一般県道から主要地方道、そして一般国道へと矢継ぎ早に上り詰めた路線だが、他の県道を一切交えない国道昇格はかなり珍しい。
@ 令和5(2023)年 ※SMD24 | |
---|---|
A 昭和61(1986)年 ※グランプリエアリアマップ | |
B 昭和9(1934)年 ※地形図 |
ここで例によって、新旧3枚の地図を比較してみよう。
本編中で昭和44(1969)年の2万5千分の1地形図を何度か紹介したが、ここに掲載したのは、@令和5(2023)年版の昭文社SMD24、A昭和61(1986)年版の昭文社グランプリエアリアマップ(10万分の1)、B昭和9(1934)年版の国土地理院地形図(5万分の1)の3枚だ。
ブランドの異なる地図だが、縮尺を合わせて重ねれば(当然だが)綺麗に重なった。
@は本編で何度も見ている地図なので特に新たなコメントはない。
Aはなかなか愉快な地図だ。
両岸に一般県道を示す黄色い道路が並走しており、なんだか迫力がある。そして、どちらがより整備された道なのか読み取れない。当時とはいえ、まともに車が行き交っていたとは思えない右岸県道の通行困難部も普通に描かれているが、この地図を見て右岸県道を通ろうとしたドライバーがいたら、実態に面食らったはずだ。
この地図では両岸ともに一般県道となっているが、実際は昭和51年に左岸県道は主要地方道へ昇格済みで、本当は緑色で描くべきだった。まあ、こうした昇格がなかなか反映されないのは古い道路地図あるあるだった。他にもよく見ると細かなおかしな部分が色々あるが、まあ低縮尺だし、そもそも当時の道路地図に地方にある県道の正確さを期待すべきではない。
で、最後のBだけは、旧道路法時代の地図であり、重要な内容を読み取れる。
まず、左岸の道は全線とも二重線の「県道」として表現されている。旧道路法時代も県道であったことが窺える。
対して右岸の道は、区間によって表現が異なり、穴吹市街地から仕出原までは「県道」で、そこから田方までは単実線の「道幅1m以上2m未満の町村道」という表現がされている。
当時の地形図も県道や町村道の路線認定が正確に反映されているわけではないので、これを絶対正確な表現と見ることは出来ないが、とりあえず、全線にわたって今回辿った県道のもとになる道が既にあったことは明確だろう。
そしてその一部か、あるいは実は全部なのかも知れないが、旧道路法時代から右岸にも県道があったことが読み取れた。
旧道路法時代の状況を調べるべく、いくつかの古い文献にアプローチした。
次の調査ステージへ行こう。
本県道が所在する美馬市の大部分はかつての美馬郡であり、南端の木屋平(こやだいら)の辺りは昭和30年に麻植(おえ)郡から編入した部分だ。
美馬郡の誌史にあたる文献は新旧2冊刊行されており、旧いのは大正4(1915)年に美馬郡教育会が発行した『美馬郡郷土誌』で、新しいのは同会が昭和32(1957)年に発行した『新編美馬郡郷土誌』である。以下、それぞれを『郡誌』『新郡誌』と略すが、この2冊には両岸の道路のいにしえについて色々な記録があった。
まず、『新郡誌』には昭和32年当時の郡内の県道一覧が掲載されており、そこに「剣山穴吹停車場線」という木屋平村川上と穴吹駅を結ぶ県道があり、これは明らかにB昭和9年地形図に描かれていた左岸の県道の路線名だろう。
さらに、「中村山穴吹線」という県道名もあり、こちらは起点が美郷村中村山、終点が穴吹町となっていた。
私は、穴吹町を終点とする点で現在の田方穴吹線と共通するこの路線が、Bに描かれていた右岸県道の正体で、田方穴吹線の前身なのではないかと推測したのであるが、同書にある郡内主要橋梁をまとめた表に「第一市場橋」という穴吹川を渡る橋があり、その路線名も中村山穴吹線であったことから、現在の【新市場橋】の旧橋が当該県道の経路だったことが確定、この測りへの自信を深めた。
一方、同県道の起点とされる中村山だが、これは現在の吉野川市美郷字中村中筋附近の旧名であることを突き止めた。
穴吹からは山を越えた遠方だが、実は田方穴吹線の起点である田方と無関係の地ではない。というのも、中村山は田方から東の山を最短で越えた先にあり、県道ではなく小径(徒歩道)としてではあるが、実際にBには田方と中村山を結ぶ山道(ホトケノタオを越える道)が描かれていた。
中村山穴吹線についてさらに調べを進めたところ、大正12(1923)年4月1日に県道認定を受けた(『新郡誌』)全長5里5町13間(=20.2km)の路線(『徳島県統計書 大正14年 第1編』)であることが判明。この距離で穴吹と中村山を結ぶ経路を旧地形図から探したが、田方からの山越え以外はないと結論づけた。(普通に穴吹川沿い経由すると田方から中村山の間だけで25km近くもあるので、山越えでしかこの距離では結べない)
まとめると、大正12(1923)年に旧道路法の県道認定を受けた中村山穴吹線は、図に点線で示したホトケノタオ越えの山道で起点から田方に出て、そこから穴吹川の右岸を現在の田方穴吹線の経路で穴吹へ至る路線だと判断した。すなわち、中村山穴吹線は田方穴吹線の前身と見て間違いあるまい。
今回探索した田方から穴吹までの右岸道路は、大正12年以降、今日までずっと県道であり続けているわけだ! なのにあの体たらく…
なお、私は田方という中途半端な所にある小集落が県道の起点であることに不思議さを感じていたが、おそらくその原因は、中村山穴吹線をベースにしたからだったろう。小さな謎に答えらしい物を得た。
続いて、『郡誌』の記述であるが、こちらは大正4年刊行であるから、旧道路法の公布以前である。
おそらくこの時期に、右岸と左岸それぞれの道の初期的な整備があったと考えていたが、果たして、そんな記述が確かにあった。
- 郡道
- 明治30年頃以来郡内枢要の路線を郡道として改修せんとの議起り、相栗線、重清線、半田線、脇町線、一宇線、半平線の6路線を選み明治35年においてその実地予測を了し、県費の補助を得て工事の緒につき漸次各線を完成しつつあり。右の内、脇町線、一宇線、半平線は已に竣功し(中略)。半平線は始め42年6月までに古宮まで竣功し、後第2期半平線の計画を立て43年より着手したり。
次に大正3年において何々線と称するを何々街道と改称し、又半平線は木屋平街道と改名したり。
ここに掲載されている、美馬郡が県費を補助を得て郡費で整備した郡道の1本である半平(はんだいら)線こそが、左岸道路(今の国道)の由緒と考えられる。
この道については『新郡誌』にも「美馬郡主要道路改修表」として記録があり、それによると↓
路線名 | 起点 | 終点 | 延長(間) | 巾員(尺) | 起工 | 竣工 |
木屋平街道 第1期 | 穴吹伊予街道 | 半平村山古宮 | 8051 | 10〜12 | 明治36年5月 | 明治42年6月 |
木屋平街道 第2期 | 半平村山古宮 | 美馬麻植郡界 | 2217 | 10〜12 | 明治43年8月 | 明治45年3月 |
↓穴吹から古宮の間を明治36(1903)年から明治42(1909)年までかかって完成し、その先の麻植郡界までの区間も明治45(1912)年に開通し、美馬郡内が開通した。
さらに『徳島県史 第5巻』によると、これに続く麻植郡内の路線は一足早く明治32年に剣山街道の名で起工しており、同39年には既に郡界まで開通していたとのこと。したがって美馬郡内の完成を以て吉野川出合の穴吹から剣山直下の川上まで、穴吹川沿いの一貫した郡道「木屋平街道」が全通したことが分かる。県史に記載されるほどだから、壮大な路線だった。
一方、旧道路法以前の右岸道路については、左岸道路のように郡道として大々的に整備されたようなことはなかったようだ。前述の6路線には含まれていないし、さらに言えば『郡誌』掲載の「美馬郡内町村道表(大正元年調)」にもそれらしい路線はなかった。
中村山から田方経由で右岸沿いに穴吹に通じる古道や、そこを整備するアイデアは当時からあったのかも知れないが、優先順位的に左岸の木屋平街道には到底及ばなかったのだろう。
では、右岸の道は一体、いつ、どのように整備されたのか。
明治30年3月24日建立の地蔵が複数個所にある理由は何なのか。
残念ながら、明確な答えは得られなかったが、
私の予想?予感?した “右岸の道路は旧道説” を裏付ける重要な記述が、『新郡誌』の方に残されていた。 それは、次の通りの内容だ。
- 穴吹谷旧道
- 穴吹から市場橋を右岸に渡り仕出原から知野に行き宮内に渡り、それから古宮までは左岸を通る。
しれっと書いているが、ずばり穴吹川沿いの旧道は右岸沿いにあったのだ!
ここで言う旧道は、左岸に明治32年以降に整備された郡道(現国道)に対する旧道という意味合いで良いと思う。
そしてこれを裏付ける重要な資料が、これを書いている当日、2024年7月12日にやっと届いた。
国会図書館に複写を依頼していたC明治29(1896)年版の(当地を描いた最古の)地形図だ。
先ほどのB昭和9年版地形図と比較しながらご覧いただきたい。(→)
明治29(1896)年版に赤線で描いた経路が、『新郡誌』が「穴吹谷旧道」と表現する「穴吹から市場橋を右岸に渡り仕出原から知野に行き宮内に渡り、それから古宮までは右岸を通る」道で、地図上では「里道」として描かれている。
そして重要なのは、この地図では仕出原から知野の【落久保“潜水”橋】までの区間で、右岸だけに道があることだ。
この地図が書かれた後の明治30年代に、左岸の道路が郡道半平線(改称されて郡道木屋平街道)として大々的に整備されたから、昭和9(1934)年の地形図には左岸に太い県道が描かれることになったわけだ。最初から右岸の道よりも高規格なものが作られていただろう。
補足だが、『郡誌』に掲載されている大正4年当時の「美馬郡略図」(【抜粋】)を見ても、穴吹川沿いの道は全て左岸沿いに描かれており、この頃既に左岸の郡道が完成していて穴吹川のメイン通りとなっていたことが読み取れる。
決まりました!!
現地でなんとなく感じた“右岸旧道説”が、正解でした!
明治30年代の郡道整備の際に、敢えて右岸の道の改修ではなく、左岸に一から新道を整備する判断を行った理由は明かされていないが、少なくとも穴吹川の洪水対策の要素はあっただろう。だからこそ左岸の道は全体的に右岸の道より高い位置に整備されたのだと思う。そしてその時点で、両者の未来までの優劣がほぼ決定してしまったように思う。
そうは言っても、左岸の郡道が整備されるまでの右岸の道は、里道として、穴吹川沿い村々の生命線であった。記録らしいものこそ発見できなかったが、2ヶ所で見かけた明治30年3月24日の地蔵は、その当時この道が盛んに利用されていた証しだろう。近代車道としての最低限の整備も、明治期から地道に行われていた可能性が高い。
また事実上の旧道となった後も、道は廃止されることなく存続している。右岸側にも多くの集落が点在していたので、必要性を失わなかったのだろう。
そして誰の発案かは分からないが、前述の通り、旧道路法下の大正12年には、田方と中村山を結ぶ区間を路線に加えることで単純な左岸道路の旧道ではない新たな存在意義が与えられ、県道への昇格に成功している。そのまま現在まで県道としてあり続けているので、本当に息の長い、言葉は悪いが、しぶとい県道だと思う。
なお、郡道木屋平街道として完成した左岸道路のその後についても、そこで整備が一段落したせいか、あまり情報はない。
調査で分かったのは路線名の変遷で、当郡道は旧道路法施行直後の大正9(1920)年4月になって、右岸道路より一足早く県道木屋平穴吹線へと昇格していること。
さらに、正確な時期は不明だが、昭和3年から10年の間のどこかで県道剣山穴吹停車場線へ改名している。以後はこの路線名のまま旧道路法時代を走りきっている。
現行道路法公布以前も含めた左岸と右岸の路線名の変遷をまとめると、次の表の通りになる。(下半分の薄地部分は先ほども掲載した部分である)
年 | 左岸の道 | 右岸の道 |
---|---|---|
明治30年代以前 | (路線なし) | 里道 |
明治36(1903)年 | 郡道半平線 起工 | ↓ |
明治45(1912)年 | 郡道半平線 竣工 | (事実上の旧道化) |
大正3(1914)年 | 郡道木屋平街道へ改称 | ↓ |
大正8(1919)年 | 旧道路法 公布 | |
大正9(1920)年 | 県道木屋平穴吹線 認定 | 郡道への認定? |
大正12(1923)年 | ↓ | 県道中村山穴吹線 認定 |
昭和初年代 | 県道剣山穴吹停車場線 認定 | ↓ |
昭和27(1952)年 | 道路法 公布 | |
昭和34(1959)年 | (一)川井穴吹線 認定 | (一)田方穴吹線 認定 |
昭和47(1972)年 | (一)川井穴吹線 番号変更 | (一)田方穴吹線 番号変更 |
昭和51(1976)年 | (主)穴吹木屋平線 昇格 | ↓ |
平成5(1993)年 | (国)492号 昇格 | ↓ |
現在 | ↓ | ↓ |
どう? 道に歴史ありってことが、こういう路線名の変遷を見ただけでも感じられるでしょ?
これが、面白いんだよね!!
残念なことに、実際の道路工事の記録というのは路線名の変化よりも残りづらいため、道路そのものの変化はあまり分からないが、各時代に色々な手が加えられて現在に至っているはずだ。
また、路線名が頻繁に変わる道路ほど、各時代の需要や交通の流れの変化に敏感に反応し、その時々の関係者の様々な思惑を反映した、より“重要な路線”であったと考えて良い。
右岸の道と左岸の道、路線名の変化の回数が段違いだった。
以上で、左岸の国道と右岸の県道の変遷からそれぞれの由来を探るという、机上調査の第一部を終了する。
続く第二部では、県道田方穴吹線となってからの整備に関する記録や、今後の整備の見通しについて調べた。
穴吹川の古き景勝地“大ゴミ”と、板碑の行方
“大ゴミ”の風景、左岸国道より | 同、右岸県道より |
本編中、ラッキー橋を過ぎてから間もなく県道沿いにミニ公園があった辺りの穴吹川の風景(第3回の17:07頃)が、とても良かったのを覚えているだろうか。
上の2枚の写真はそこで撮影したもので、三好市の有名な景勝地である大歩危を彷彿とさせるものがあった。
だがそのわりに、現地には看板一つ見当らず(ミニ公園や、廃道同然の散策路はあったが…)、現在では特に“名前のない風景”だと思うが、今回の机上調査中、『郡誌』にこの場所の解説を見つけた。
しかも景勝地の紹介だけでなく、情報がとても少ない左岸の郡道整備に関係したエピソードも載っていて、大変に興味深かった。
それは以下の通りの記述だ。
- 大ゴミ
- 宮内より十町余下流の穴吹川にあり、両岸の巨岩列をなして渓に莅(のぞ)み、数町の間深潭をなす。地層の趣及びその風景など三好郡の大歩危に似、穴吹川中最も佳景をなす。郡道は南岸の岩を削りて通ぜり、その路辺に板碑あり、道路開鑿の際発掘せしものなり、又北岸には伝染病院あり。
このようにあって、「大ゴミ」というネーミングには少しばかり別のものを想像してしまうが、これが古より方言によって継がれた由緒深い名前で、今日まで伝わっていないのは残念に思う。
また、この地の風景が大歩危に似ているというのも、私だけの思い込みでなくて安心した。
ということはさておき、当時の郡道(木屋平街道のこと)が南岸(左岸のことだろう)にあり、その路傍に置かれた板碑は、郡道を開鑿時に土中より発掘した物ということが出ている。
板碑というのは一般に、中世まで由来を遡る古い石板で、石仏の一種であるが、そのようなものが左岸の道路工事中に出土したとしたら、右岸の旧道とは別の(もっと古い?)古道が左岸に存在した時期があることも窺わせる。あるいは単に川の景観の良いところに居着いた豪農や豪族があったのだろうか。
ちなみに、北岸には伝染病院が…という記述もあるが、昭和9年の地形図だと、郡道があるのと同じ左岸の出っ張ったところ(現在の口山中学校跡地)に、「避病院」の記号が描かれている。だがそこは「北岸」と呼べない気がするので、誤記でないなら、この病院の旧施設が大正初年代当時は右岸(もしかしたらブルーヴィラあなぶき附近?)にあったのかもしれない。
大ゴミについては、後の『新郡誌』にも、板碑一覧のページ内に、『郡誌』を一部引用する形で次のような解説がある。
- 口山、宮内下流大ゴミ路辺 一枚
- 郡道改修の際発掘のこと前郷土誌に見ゆ、先年道路拡張し石厨子内に安置、村人は仏岳の梵字石と云う、高さ二尺五寸、巾一尺三寸、三尊
『新郡誌』は昭和32年の刊行で、大ゴミの路辺にあった板碑を、「先年道路拡張し石厨子内に安置」したという。
これは県道剣山穴吹停車場線の時代にも道路の拡幅が行われたことを示しているのだろう。
で、その際に石厨子に安置したとあるが、今回私が左岸の国道を走行した際に、そのような祠には気付かなかった。探し歩いたわけではないので単に見逃した可能性も高いが、昭和30年代以降の再改築で失われた危険もある。←見逃してました。ストビュー:おそらくその石厨子
郡道時代から当地を見てきた数少ない証人であるから、これからも大切にしてほしい。
以上、大ゴミの話でした。
『穴吹町誌』より得られた新情報について 2024/7/25追記
本編執筆時点では未確認だった『穴吹町誌』(昭和62年刊)を新たに取り寄せて確認したところ、県道田方穴吹線や、その前身となった路線に関して、これまでは資料不足のため不明だったり、推測の域を出ていなかった部分のいくつかを解決できたので、追記したい。
まず、従来の調査の集大成ともいうべき右岸と左岸それぞれの道路の変遷をまとめた【自作の表】については、次のように多少の修正と加筆がある。変更した部分は赤字としていて、それ以外は変えていない。
年 | 左岸の道 | 右岸の道 |
---|---|---|
明治7(1874)年 | (路線なし) | 三等道路 |
明治24(1891)年 | (路線なし) | 里道 路線名は穴吹口山線? |
明治34(1901)年 | 郡道半平線 認定 | ↓ |
明治36(1903)年 | 郡道半平線 起工 | ↓ |
明治45(1912)年 | 郡道半平線 竣工 | (事実上の旧道化) |
大正3(1914)年 | 郡道木屋平街道へ改称 | ↓ |
大正4(1915)年 | 県道木屋平街道へ昇格 | ↓ |
大正8(1919)年 | 旧道路法 公布 | |
大正9(1920)年 | 県道木屋平穴吹線 認定 | 郡道大内穴吹線 認定 |
大正12(1923)年 | ↓ | 県道中村山穴吹線 認定 |
昭和初年代 | 県道剣山穴吹停車場線 認定 | ↓ |
昭和27(1952)年 | 道路法 公布 | |
昭和34(1959)年 | (一)川井穴吹線 認定 | (一)田方穴吹線 認定 |
昭和47(1972)年 | (一)川井穴吹線 番号変更 | (一)田方穴吹線 番号変更 |
昭和51(1976)年 | (主)穴吹木屋平線 昇格 | ↓ |
平成5(1993)年 | (国)492号 昇格 | ↓ |
現在 | ↓ | ↓ |
これらの赤文字のうち、これまで謎であった部分を解決する重要なミッシングピースになったのは、大正9(1920)年に、右岸を通る「郡道大内穴吹線」が認定されたという事実である。
従来から、このタイミングで(大正12年に認定される)県道中村山穴吹線の前身が郡道として認定されたのではないかという“予測”はあったが、これが裏付けられると共に、中村山穴吹線が現在の田方穴吹線にはない山越え区間を含んでいた理由や、これまで不明であった山越え区間の経路についても、本書によって判明した。
『町誌』は、大正12(1923)年に美馬郡が発行した『美馬郡政誌』の記述を引用する形で、郡道大内穴吹線を次のように解説している。
いくつかの地名が出てくるが、その位置についてはこの後の地図上に示す。
- 大内穴吹線
- 穴吹村にて県道徳島池田線を分岐し、穴吹川を渡って拝村に行き、それより穴吹川の東岸に沿うて遡り仕出原を通過して口山村宮内の対岸知野に至り、(※1)知野より穴吹川と岐れて数丁大内にて麻植郡界に達するのである、(※2) (中略) 仕出原より知野に至る間は旧三等道路のままで(※3)、知野より大内に至る間は口山村道大内線として改修中で、改修後郡に受領する予定である。(※4)
県道田方穴吹線の先々代にあたる、大正9年に認定された郡道大内穴吹線の経路と整備状況を述べた上記引用文中の※1〜※4を、それぞれ解説する。
※1は、現在の田方穴吹線の概ね全区間に当る。※3は、このうちの仕出原〜知野間が「旧三等道路のまま」と表現しているが、これは明治7(1874)年に徳島県が県内の道路を一等・二等・三等道路に分けた(後の里道にあたるものが三等道路だった)当時のままであるということで、要するに前時代からほぼ整備されない状況だったのだろう。
※2は、現在の田方穴吹線にはない部分で、知野(正確には知野から田方へ向かう途中の現【大内谷橋】附近)から穴吹川を離れて、大内谷沿いを遡り大内を経由して麻植(おえ)郡界に達する区間だ。
右図は昭和9年の地形図で、田方〜大内〜樫山〜郡境〜中村山を結ぶ山越えの小径が描かれている(黄色く着色)。
ここで美馬郡道大内穴吹線の起点となった郡境の峠の位置に注目してみると、そのすぐ東側には麻植郡中枝村の中村山地区がある(そこまでの小径を青く着色)。
この郡道の認定からわずか3年後に県道中村山穴吹線が認定されるのだが、それは峠を挟んで別々に認定されていた両郡の郡道を(郡道廃止のため止むなく)1本化したものだった考えられるのである。
※4によると、大正12年の『郡政誌』発行時点では、田方〜郡境の区間は口山村道大内線として改修中であり、完成してから郡道として受領するように書いているが、実際に完成したのかは記録がなく(またそこを歩いたことがないので)不明だが、おそらく車が通るような道は出来上がらなかっただろう。現在までこの峠を越す車道はないし、郡境近くにあった樫山集落も昭和30年代には無人化して久しいと聞く。
『町誌』はさらに、現行の県道田方穴吹線についても、郡制誌の記述を踏まえつつ次のように総括している。
- 田方・穴吹線 (一般県道第二五四号線)
- 穴吹にて木屋平穴吹線から分岐し穴吹川を渡り拝村へ行き、それより穴吹川の東岸に沿ってさかのぼり仕出原を通過して知野に至り、知野より穴吹川と岐れて大内から樫山にて麻植郡界に達する路線で、奥野々山を経由して美郷村の中枝村と結ぶ道路であった。穴吹口山線、大内穴吹線、中村山穴吹線など路線名の変更があったが(※5)、現在は口山字田方、大内谷橋より穴吹の峯田病院のところまでとなっている。
この道路は穴吹川左岸の穴吹・木屋平線が改修されるまでは穴吹〜口山を結ぶ地域の重要道路の役割を担っていた。(※6)
大正9年1月、郡道として認定せられ(中略)、大正12年4月1日より県道に編入され、その後昭和13年災害を受けて以来たびたび欠損個所を復旧しているが、一部を除いてほとんどの区間が車輌通行不可能となっている。(※7)
※5には、これまでの路線名の変遷が述べられている。私が調べたことの答え合わせみたいだ。
ここに出てくる「穴吹口山線」というのは説明がないのだが、順番的に見て、明治期に里道であった当時の路線名なのかも知れない。
※6は、本編中でも『新郡誌』の記述や、明治期の地形図の表現から“読み取った”事実ではあるが、『町誌』もこれを明言しているということで、“右岸道路は左岸道路に対する旧道だった説”は、完全に確定した事実と見なして良いだろう。
最後の※7も新情報で、「昭和13年災害を受けて以来たびたび欠損個所を復旧しているが、一部を除いてほとんどの区間が車輌通行不可能となっている」とのことで、昭和13年なんていう随分な昔から、直しては崩れ、また直しては崩れることが、昭和60年代の町誌発行時までくり返されていたのか……。
ってことは、始めて県道に認定(昭和12年)されてから、崩れてなくてまともに通れた時期というのは…………。
これは、思いのほかきっついな。 そんな満身創痍だから現状のようになってしまったんだねぇ…。 完全に理解したぞ!