隧道レポート 長野県道142号八幡小諸線旧道 宮沢3号隧道 リベンジ編 第2回

所在地 長野県小諸市
探索日 2015.10.15
公開日 2016.02.12

“モル氏空間”へのファイナル・アタック!!


2015/10/15 15:27 《現在地》

戻って参りましたよ!

わずか9分ぶりの坑門再開となったのであるが、この間に私はヒミツ道具をクルマから持ってきただけでなく、自転車をクルマに納め、さらにクルマをアプローチポイントすぐそばの駐車スペースまで移動させることもしていた。
こうして、純粋に“モル氏空間”へのアタックに注力できる状況を準備し、まさしく“万全の体制”で臨むことにしたのであった。

(そして、私はこの「万全」を、疑っていなかった)




それでは、時間にも限りがある。
次のステージへ踏み出すことにしよう。

ロープを準備したが、ロープだけではどうにもならないのである。
加えて必要なのは、ロープを固定するための立木だ。

そして見たところ、こちら側にはあまりいい立木が無いようである。
そこで、反対側に目を向けることにする。
幸い、南側の坑門上には比較的平坦な部分があり、容易に往復出来そうだ。



良い木、発見!
位置、太さ、アプローチのし易さ、その全てにおいて理想的と思えるお誂え向きの立木を反対側に見つけた!

ちなみに、持参したロープの長さは10mだったと思う。
法面の高さは目測で5mくらいなので、ロープの長さには余裕があるが、上り下りのし易さを考慮し(過去の反省を込めて)、今回は二つ折り&コブを作って使いたいと思う。
ゆえに、結構ぎりぎりの高さになるかも知れない。その辺は、実際に垂らしてみてから確認すればいいだろう。

いよいよ、“前人未踏”かも知れない一歩を踏み出す自分の姿が現実に想像され、自然と緊張と興奮の度合いが高まってくる。
何度も言うように、平成7(1995)年という近年まで現役の県道だったわけだから、“前人未踏”を疑うなどちゃんちゃらおかしいのだが、それでも現状の光景はそんな気分の高揚を少しも冷まさなかった。



南側の坑門直上より眺めた、

“モル氏空間”、その全貌。

前後の隧道が厳重に封鎖されていることを知らなければ、
もっと平穏な気持ちで眺められただろうが、知ってしまってる私にとって、
この“窪地”は人を捕らえる為の怖ろしい罠のように見えてしまった。

現にいま何らかの手違いで、ロープを張らずに入り込んでしまったら、
自力で脱出する術があるのだろうか。 恐らく無い…。

(幸い、au携帯電話の電波は届いていたので、救助は呼べるだろうが…)



15:30 《現在地》

目指す“木”の近くまで来た。
こちら側へ来るのはこれが始めてとなる。
基本的には道路を中心に前後に坑門、左右には擁壁という構成であるから、こちら側から見ても道の眺めはあまり変わらない。
だが、先ほどまでは気付かなかったが、向こう側とこちら側とでは法面の擁壁の作りが違っていたのである。

今いる東側(川側)の擁壁は、表面に岩の凹凸が刻まれた間知石(けんちいし)の谷積みであるが、最初に辿り着いた西側(山側)の擁壁は、より近代的なコンクリートブロックの谷積み擁壁であった。

ロープの補助があるとは言え、より与しやすいのは、凹凸の大きな間知石の擁壁であることは間違いないだろう。
アンカーとなる立木の存在からこちら側を選んだのだったが、擁壁そのものの作りから見ても、こちらを選んだのはベターだったと思う。



次はロープを設営する作業に入ろうかというところだが、ここでちょっと一息。

というのも、これまではずっと坑門が居並ぶ“モル氏空間”の中心部にばかりに気を取られていたが、考えてみれば、まだ私はこの場所がどういう場所なのか、よく分かっていない。
1本と思って疑わなかった隧道が、実は2本になっていた。こんなことは滅多に無い事だ。レアケースである。
そしてここは、地形図からだけでは全く存在に気づくことが出来なかった、秘密の明かり区間。
レポートとして、この隧道の真実を正確に伝える為には、私自身がもう少し客観的に、この場所を知る必要がある。

今、私の背中側には、きっと千曲川へと落ち込んでいるだろう空間の広がりが感じられた。
あの縁まで足を伸ばし、そして周囲の地形を広く眺める事が出来れば、6ヶ月前に千曲川側からこの辺りを遠望して撮影した写真と比較することで、現在地の地形を、より客観視する事が出来るのではないか。



ひとまずロープの詰まった袋を置き去りに、千曲川のある方向へ歩き出す。
川の音は聞こえない。
聞こえるはずも、ないのだが…。

上の写真に見えている地平の端に辿り着くと、案の定、そこから先は急な斜面が落ち込んでいた。
だが、期待したほどの眺望は得られない。鬱蒼と茂る木々が邪魔をしている。

人か、獣か。
おそらく後者のものだろう踏み跡があったので、それに習って、もう少し北側へ斜面伝いに進んでみることにした。




30mほど進む事が出来たが、その先は“命”の危険を冒さなければ辿れない、もはや気軽ではない領域となった。
だが、危険度が増すのに比例し、私が得たいと思っていたものも得られるようになってきた。すなわち、眺望の確保である。

また、この辺りを歩き回ることには一応もう一つ、オブローダーらしい目的があった。
それは、旧道の有無を確かめることだ。
崖の近くに隧道があれば、その隧道を介さない旧道が崖を巡っている可能性を疑う。これがセオリーである。
本隧道に関しても、この辺りに旧道が存在した可能性を疑ったのだが…。

それは無いのだと、結論付けることが出来た。これも収穫である。



そして間もなく、本当にもう進めないという状況になった。

驚くべき高さをもった、本当に垂直な断崖絶壁に進路が断たれた。

だが、ここに至ってようやく、自分がどこにいいるのかを客観的に知る手掛かりを得たのである。
この垂壁の断崖は、見覚えのあるものだった。しかも、他と見紛うはずのない唯一無二の存在感。

すなわち、



現在地は、ここ!↑


こ!こ!↑


これでよりはっきりと理解できた。

これらの隧道が、確かに必要だったという必死さを。


…納得したので、今度はいよいよ、私が必死になる番だな…。


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15:37 《現在地》

戻って来た。

これから、この立木をアンカーとして利用するために、ここにロープを掛ける。




ロープを結わくのは不慣れな作業だが、それをフォローすべく、便利な道具に頼る。ロープに取り付けられたプラスチック製のアイテムがそれで、こいつがロープを非常に強く締め付けてくれるので、固定は安心だ。(画像の状況は仮で、最終的にはこのアイテムが無くても落ちない程度に結んで補強した)

しゃがんで作業をしていると、モル氏を苦しめたヤブ蚊の多さが気になった。
だが、少しばかり蚊に食われても、成果のためにはやむを得ない。
慎重にロープを結わいて、手掛かり足掛かりとなるコブを作成していった。



15:48 準備が出来た!

あとはもう、こいつを頼って降りるのみ。

体重を仮に預けてみた感触も、悪くない。
出来れば、ロープだけに全体重を預けるのではなく、擁壁にも分散させたかったが、思ったより垂直に近い壁で、しかも登山靴を引っ掛けるような大きな凹凸がないので、それは無理だった。
完全にロープを頼って降りる必要があるようだ。

静止。


私は、下ったあとで、上って来られなくなることを恐れていた。
かといって、誰か別の人間に試して貰う事は出来ないし、私自身が“試す”ことも出来ないのだった。
“試せば、即、本番”となる。

意を決す。



垂れたロープの先が、目の前にある。

両腕に、突っ張るような痛みがある。

腰骨に、圧迫されたような痛みがある。



長さが足らず、最後少しだけ飛び降りることになったが、
五体満足で、“モル氏空間の底”、即ち路盤へ降り立った。

成功、である。

ただし、結び目の数が少し足りなかったと感じた。ヤブ蚊のせいで少し急いたかもしれないと反省。
降りるのは問題無かったが、上るのには少し …少しだけ… キツイような予感がある。
まあ、それでもなんとかする「しかない」のだし、今はまず、収穫をしようと思う。


私は今、“楽園”に解き放たれたのだ。




モル氏の楽園。



15:50 《現在地》

あははっ! これは面白い!!

前を見ても、後ろを見ても、金太郎飴みたいに同じ坑門だ!

こんなこと、初めてだぜ。しかも左右は壁で閉じ込められた。ハハハッ!

前と後から強制的に坑門を見せつけられる。しかも自ら勝ち取った坑門!オブローダー冥利に尽きる。
しかも、ただの坑門じゃない。極めて完成された秀麗なる坑門を、厭ほど見せつけられるのだ。
なんでこんな空間があるんだよ?! なんで今までモル氏しか見つけられなかったんだよぉー?!(笑)



やはり、こうでなくてはならない!

坑門とは、こうして前に立って見上げたときが、一番理に適った美しさを持つものである。
観賞とは、こうでなくてはならないのである。
今までの不完全だった坑門観賞(塞がれた壁の向こうに想像をするなどもってのほか)に終止符を打ち、完璧な坑門観賞を堪能した。

この坑門の意匠には、石や煉瓦といった素材を用いた組積構造が、コンクリートによる一体式構造へと移り変わる時代の過渡期的性質が色濃く見て取れた。
素直に判断するならば、この坑門の建造時期は、大正末から昭和初期であるはずだ。

組積造の場合、坑門の全ての面には自然と密な模様が刻まれるが、一体式構造は敢えて模様を作ろうとしない限り、のっぺりとした平面になる。
アーチ環という坑道を支える象徴的構造さえ不要で、坑門の転倒を支える立派な柱壁にしても同様。精々、坑門が水垂れで汚れることを防ぐ目的で笠石を設けるくらいで十分なのだ。
だが、当時の多くの技術者や土木デザイナーは、それで良しとは考えなかったようである。
コンクリートという細やかな造形(特に曲線の表現)に向いた素材をフル活用し、組積造時代の伝統的意匠をベースに、自由な発想でデザインを行ったのである。
今日、全国で意匠的な意味で「名隧道」とされるものの多くは、組積造時代か、その後の過渡期のものである。

この坑門には、ほとんど隙間無く何らかの意匠が施されている。
基本は組積造の伝統的意匠であるから、笠石、帯石、柱壁、迫石、要石などと見分けができるが、スパンドレルに刻まれた三角形の模様や、要石の上に納められた円形の飾りなどは、オリジナルの意匠であろう。
顔も知らない昔人達が、見て欲しいと訴えてくるようだ。

なお、このように手間が掛かっているのは、まだ隧道が珍しい存在で、地域を代表する誇らしい存在だったからだ。建造への苦心惨憺の表れでもある。
やがて珍しいものでなくなると、よほど特別なものを除いて、意匠は必要最低限に簡略化されるようになる。(戦争の影響もあったろう)
近年、またレリーフなどで坑門を飾り付けるようになったのは、ただの壁へと化してしまったデザインへの反省からだと思うが、こうした伝統的意匠からは隔世してしまっているのが残念だ。



説明を入れないと、南北どちらの坑門なのか分からないかも知れない。上の写真も、右の写真も、北側隧道の坑門である。

この隧道の反対側の出口には、「宮澤隧道」と刻まれた扁額(の上半分)が残っていたが、こちら側の入口に、文字は入っていない。
理由は定かでないが、南側隧道のこちら側の坑門も同様なので、恐らくこれら2本の隧道を合わせて1本の「宮澤隧道」だという、意思表示なのだろう。

その意思の堅固であったゆえか、かの「道路トンネル大鑑」さえもすっかり騙され、1本の「宮沢3号隧道」として計上していたのである。恐るべし意志のパワーだ。
どう見ても2本なのに!

なお、この文字が入れられる前の扁額の表面は、凸凹としている。
対して、文字入れが済んだ扁額の表面は、平らで綺麗だった。
ということは、この文字は研磨機のようなもので削り出されたのだと判断して良いのだろう。
扁額は取り外せそうにないので、高所で作業をしたのだろうか?



柱壁下部の僅かな平面であっても、このデザイナーは表現の場として見過ごしていない。
微妙な凹凸で全体を装飾し、同じ時代の橋の親柱に良く見られるような意匠になっている。
ただし正直な感想を言わして貰えば、隣に接しているアーチ環を模した飾りの表面が、伝統的な石材を再現したような凹凸になっているのとは、ちょっとちぐはぐな印象がある。
windows7の立体感のあるUIと、windows8の平面的なUIが同居しているような違和感を受けた)
この隧道の場合、アーチ環の表面に擬石の凸凹は要らなかったかも知れない。

そんな過剰なほどの飾り付けとは無縁に存在する、コンクリートの箱状のもの。
これは、この隧道が交通路としての役目を終えてから手に入れた、おそらくは水道管か何かの施設と見られる。
ここから洞内に向かって、何かを埋めたような膨らみが続いていた。




それではぼちぼち…

本来立ち入れるはずのなかった――



澱んだ闇、閉塞が確定した洞内へ…。




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