今回私に痺れるような冒険の舞台を提供してくれたのは、島々谷川の上流部に建設された砂防ダム群だった。
現地調査により、今回の主たる探索目標であった二俣、鈴小屋、ワサビ沢という3本のトンネルは、いずれも砂防工事用道路として建設されたものらしいことが窺い知れたし、最上流に計画された「第6号砂防ダム」の建設中断が、この一連の工事用道路の荒廃と密接に関わっているだろうことも理解された。
しかし、現地探索では大きな疑問も残った。
最大の疑問は、 なぜ第6号砂防ダムは建設が中断しているのか である。
本稿は、主にこの疑問に答えるための机上調査の報告である。
現地探索を振り返ると、相当に工事が進んだ状態で中断されていることが、とりわけ印象的だった。
砂防ダムが計画段階で中断中止されることはそう珍しいことではないと思うが、明らかに着工後の中断だった。なにせ、アプローチ用に全長480mもあるワサビ沢トンネルを完成させ、さらに仮排水トンネルまでも完成させていた。これは、いよいよ川を堰き止めてダム本体の建設に取り掛かる直前段階まで進んでいたように思われる。
現地は険しい地形であったし、二俣トンネル以奥の工事用道路は多数の落石によって荒廃した状態であった。しかし、壊滅的というほどではないように見えた。
工事用道路やダム建設予定地付近で大規模な災害が発生し、そのために工事の続行が困難になっているとは思われなかった。
それではいったいなぜ、工事は中断されたままになっているのか。
疑問の答えは、「島々谷川第6号砂防ダム」という、現地で手に入れたキーワードで一発ググっただけで、あっという間に判明してしまった。
“机上調査編”なんて大層な名前を付けた自分が恥ずかしいレベルの一発回答。
答えはズバリ――(既に読者さんも予測していたかも知れないが……) 環境問題 だった。
『信濃毎日新聞』(平成11(1999)年1月29日号)より
右は長野県の地元紙『信濃毎日新聞』の平成11(1999)年1月29日号に掲載された記事で、見出しを読むだけでも大まかな内容は分かると思う。
記事が出た平成11年といえば、【ワサビ沢トンネルの銘板】に刻まれていた同トンネルの竣工年の2年後であり、仮排水トンネル脇の【借地標】に示されていた年でもある。順調に工事が進められていた頃だろう。
見出しから記事の内容が分かると書いたが、全文を紹介すると次の通りである。
このグループが問題視している砂防ダムは、島々谷川支流の北沢で計画されている「島々谷川第6号砂防ダム」。高さ約40mのダムにより上流約1kmにわたって土砂を貯留する計画で、2003年の完成を目指している――
引用の途中だが、欲しかった新情報キター!
なんと計画されていた第6号ダムの高さは、【3号ダム】の堤高31mを大幅に上回る40m級だったらしい!
ワサビ沢トンネル北口の尋常ではない高さは、やはり第6号ダムの規模を物語っていたのだ。
そして、平成15(2003)年に竣工する計画で工事が進められていたというから、現状すでに15年以上も遅延していることになる。
また、上流へ上流へとダム新設を続ける現在の砂防事業は、環境破壊と財政圧迫も招くと指摘し、既設の砂防ダムのしゅんせつ利用を提言。島々谷川でも「下流にある既設のダムをしゅんせつすれば、ダムの新設は必要ない」と主張している。
意見書を受け取った同工事事務所は「意見として伺っておく」とだけ話した。
田口代表は「土砂の流出は永久的。砂防事業の在り方を見直さなければ、日本の渓流は壊滅状態になる」と訴えていた。
同ネットワークは、国や県の砂防事業が進む松本地方の渓流で、ダムの下流に流された天然イワナを産卵場所の上流へ移す保護活動や、渓流の生態系調査などをしている。
「砂防ダムいらない渓流保護ネットワーク」の代表田口康夫氏のサイト「渓流保護ネットワーク・砂防ダムを考える」(以下「渓流保護ネットワーク」)が見つかった。「島々谷川第6号砂防ダム」のキーワードでググると、事業主体である国土交通省(旧建設省)松本砂防工事事務所のサイトよりも上に出てきた。
そして、上記サイト内の「北アルプス 島々谷の渓流保護 6号砂防ダム建設への疑問」のページには、同会による第6号砂防ダム建設反対運動の経過が、時系列順かつ詳細に説明されていた。
その最初の記事は、「1.島々谷川特集1999年2月」と銘打たれたもので、「山行が」誕生前年における二俣、鈴小屋、ワサビ沢各トンネルの姿や、第3号・第4号・第5号砂防ダムの姿、さらに第6号砂防ダム建設予定地の風景などの貴重な写真を見ることが出来た。
画像は引用しないので各自リンク先で見ていただきたいが、当時は工事の真っ只中であるから、廃道化のために自然と緑化が進んでいる現状からは想像しがたいほど、ワサビ沢トンネル周辺の谷は人工の色で満ちていた。
また、この時点で既に仮排水トンネルも完成していたようである。
この記事の中では、第1号から第6号までの砂防ダムの緒元や、工事用道路の3本のトンネルの緒元もまとめられており、それらを右図にまとめた。
各トンネルや各砂防ダムの竣工年を見較べることで、どのような順序で建設が進められたかが想像できる。具体的には、第4号砂防ダム→二俣トンネル→鈴小屋トンネル→第5号砂防ダム→ワサビ沢トンネル→第6号砂防ダム(未成)という順序で、工事用道路の上流延伸に伴って、新たな砂防ダムが増設されていったことが窺える。
この記事とは別の調査(平成27年版の国有林施業実施計画図や、松本市公式サイト内の地図など)から、砂防工事道路と島々谷林道の区分は、右図の通りと判明した。第3号砂防ダムのすぐ上流にある【封鎖ゲート】より下流が、国有林林道である島々谷併用林道(併用林道とは道路法上の道路と共同管理される道路)で、松本市道島々5号線を兼ねている。ゲートより上流は、登山道として使われている二俣以南、登山者の通行が禁じられている二俣以北北沢沿いの全区間とも、松本砂防工事事務所が管理する砂防工事道路であるらしい。
前記記事の中で著者田口康夫氏は、私が今回探索に先駆けて訪れた源流部にある行き止まりの【島々谷林道】の存在にも触れて、次のように書いていることが、私には印象的だった。
当時から、三郷スカイラインに繋がる上流側の島々谷林道と、北沢沿いの砂防工事用道路とが、将来的に一続きの道路となるのではないかと考えている(危惧している)人物がいたことが分かる。
地図を見ればそのように考えるのは自然なことであろうが、果たして事業主体側(建設省&林野庁)にもその構想があったのかどうかは、とても気になるところだ。
唐突に終わっているワサビ沢トンネル北口の先は、砂防ダムの完成後、どういう形に処理される予定だったのか……。
だが残念ながら、このこと(砂防工事道路と上流側林道の連結)について事業者側が言及した文面は見つけることが出来なかった。(仮にそのような意図があったとしても、自然保護活動と対峙する状況下では公表したくない内容であろう)
渓流保護ネットワークのページの内容を時系列に見ていくと、前述した新聞記事にある松本砂防工事事務所への工事中止の意見書提出(99年1月)に続いて、同年5月の現地見学会で稀少動物であるイヌワシが第6号砂防ダム建設予定地で確認されたとして、再び松本工事事務所に対し計画見直しの要望書を提出している。
この要望書の中で、「第6号砂防ダム建設予定地での、右岸、左岸の大岩壁の地上42m前後への横穴試掘抗工事と同左岸トンネル開口工事は、イヌワシの営巣環境に多大なる影響を与えた可能性があります。本来ならこれらの工事に入る前に、適正な調査を行い、速やかに工事の中止をすべき場所であったと思われます
」と述べており、私が苦労して踏み込んだ横穴が、「地上42m前後への横穴試掘抗工事」として登場していた。
(ん? ちょっとまて、左岸にも試掘坑があったような書き方だな… まさか……)
さらに渓流保護ネットワークは、99年6月に発生した豪雨によって鈴小屋トンネルとワサビ沢トンネルの間の河原に積まれていたワサビ沢トンネルの残土が流出し、そのため下流にある第5号や第4号砂防ダムへの堆砂が著しく進行したことは「本末転倒」であり、残土の処分が適切ではなかったとして、既に行われた工事の不備を突く姿勢も見せた。
この指摘は、現地で私が目にしたガレ場(右図)の土砂の大部分が、実は斜面崩壊によるものではなくワサビ沢トンネルの残土だったということになる。これが事実なら、素人目にも砂防工事として少なからず瑕疵があったようにも思われるが、この点について03年6月の話し合いで砂防工事事務所側も工法の不備を一部認めている。
渓流保護ネットワークは攻勢をさらに強める形となり、国土交通省へ質問書が提出(02年11月)されると、ときの内閣総理大臣小泉純一郎氏が答弁書を出す(03年2月)ところまで事態は拡大した。
またこの頃、会の活動の強い追い風となったのが、2000年に長野県知事に就任した田中康夫氏(知事在任期間00年10月〜06年8月)の存在であった。彼は知事として、01年2月にメディアでも大きく取り上げられた「脱ダム」宣言を発表し、ゼネコン主導の公共事業乱発を否定するスタンスは、当時多くの県民から大好評をもって迎えられていた。
03年7月には田中知事の現地視察も実現し、知事は「(砂防ダム建設とは)別の選択肢を提示する必要がある」と述べたという。
守勢に立つ松本砂防工事事務所側はどういった対応を取ったのか。
公式サイト内を検索すると、当時の資料がいくつも見つかった。
平成15(2003)年に信州大学名誉教授桜井善雄氏を委員長とする生物学や砂防の研究者よりなる島々谷川環境調査委員会を事務所内に立ち上げ、そこで同工事が及ぼす環境への影響や工法の見直しなどを議論していった。(渓流保護ネットワークは参加が認められず、委員会は建設の是否そのものは議論しない規約だったようだ)
第1回環境調査委員会は03年12月、第2回は04年6月、第3回は05年2月、第4回は06年1月、最後となる第5回が07年2月にそれぞれ開催されたが、第2回以降の委員会資料は公開されており、その内容からどのような議論が行われたかをおおよそ窺い知ることができる。
「第2回島々谷川環境調査委員会資料」より
第2回では、堰堤の構造を従来の不透過型から透過型(スリット形式)へ変更することが最大のテーマになったようだ。
透過型砂防ダムとは、右図のような型式のもので、平水時は土石を堆積させないものをいう。洪水時にはスリット部に土石や流木が詰まることで、非透過型砂防ダムと同じように機能し、一度に大量の土砂が下流へ流出することを防ぐが、平水に戻ると徐々にスリットが開通し(あるいは人為的に浚渫することで)再び最初の状態に戻るという。
透過型にすることによって、常に湛水や堆砂に埋められる範囲が狭まり、かつ流水の連続性を保てることから、生態系を含む環境への負荷が非透過型に較べて小さくなると考えられている。
「第3回島々谷川環境調査委員会資料」より
翌平成17(2005)年2月に行われた第3回の委員会資料を見ると、さらに具体的かつ詳細に非透過型への設計変更が議論されたようである。
この資料(左図)により、当初の計画では高さ42mの不透過型アーチ式ダムであったことが分かった。これは高さ31mの第3号ダムと同一の型式だ。私が目にしたワサビ沢トンネルは、この形のダムを念頭に置いて建設されていたわけである。
対して、新たに提示された型式は、同じ42mの高さを有する透過型重力式ダムで、中央部に巨大なスリットが開いている。
「第3回島々谷川環境調査委員会資料」より
右図は完成後の再現写真で、ダム下流とワサビ沢トンネル北口の2地点からの風景をCGで再現している。
透過型ダムの高さは42mと22mの2パターンが描かれており、非透過型から透過型への型式変更だけでなく、低いダムへの規模縮小についても既に検討が進められていたようだ。
さらに翌年、平成18(2006)年1月の第4回の委員会資料では、第3回以降進められてきた現地の生態系に関する各種モニタリング調査の結果が報告されている。
調査対象は、イワナなどの魚類、イヌワシなどの鳥類、カワネズミやコウモリなどの哺乳類、さらに両生類や昆虫類まで多岐にわたり、渓流保護ネットワークが指摘していたクマタカについては複数ペアの生息が確認されたほか、両生類について重要種1種、コウモリ類について重要種4種、昆虫類について重要種17種をダムの影響圏内で確認したことなどが報告された。
最後の回となる平成19(2007)年2月の第5回の委員会資料では、モニタリング調査の補足調査の結果が報告されると共に、提言がとりまとめられた。
また、06年7月に起きた集中豪雨によって島々谷流域各所で土砂流出や林道の流出が起きたことも報告されている。
この豪雨は、梓川流域では昭和58年以来のものといわれ、二俣トンネル以奥の工事用道路が著しく荒廃した大きな原因になったようだ。
渓流保護ネットワークのサイトには、豪雨による影響を調査した内容があり、次第に工事用道路が荒廃している状況が見て取れた。
また、この頃までは松本砂防工事事務所側も校外学習会などを現地で主催しており、見学コースの最後にはワサビ沢トンネルを通り抜け、私が見た景色を地元の子どもたちも堪能していたようだが、工事用道路の荒廃によって人の足も遠のいたのだろう。
「第5回島々谷川環境調査委員会資料」より
コウモリ類の補足調査は、私にとっても興味深い内容だった。
この調査の目的は、「6号堰堤建設予定地右岸にある「右岸横坑の利用状況」の把握
」だそうで、これはつまり、私が苦労して辿り着いた崖上の穴にコウモリが生息しているかどうかの調査だった。
調査方法の欄には、小さな文字でこう書いてある。「横坑は北沢右岸の崖地に位置し、アプローチが困難であること、また、横坑入口が崩れていることなど、安全上の理由から内部への立ち入りは行わず、目視確認を行った
」。代わりに、バッドティテクターという装置を使って、ワサビ沢トンネルの北口から目視確認を行ったという。
「第5回島々谷川環境調査委員会資料」より
しかしここで驚くべき記述に遭遇した!
右岸横坑は、私が立ち入ったものの他に、少なくとももう1本あったのだ。
私が入ったのは、「崖地上部」にあった30mの長さのものであったが、「崖地下部」にも20mの長さのものがあったらしい。
調査対象となったこれら2本の右岸横坑の写真(右図)を見ると、1本は明らかに見覚えがあるが、もう1本の方は気付かなかった…。
……まあ、負け惜しみじゃないけど、“試掘坑如き”をもう一度探しには行きませんけど。
ちなみに、この補足調査の結果、コウモリ類は北沢上空で複数種類が確認されたものの、右岸横坑の利用確認はなかったという。
……はい。 確かに、中に誰もいませんでしたよ。
「第5回島々谷川環境調査委員会資料」より
以上5回の会議をとりまとめた「島々谷川環境調査委員会からの提言」(07年2月21日)では、委員会が示す保全方針に従い確実に保全対策を行うことや、適宜モニタリング調査を継続するように努めることなどが松本砂防工事事務所長に宛てて提言され、委員会の目的を果たしたが、設立時の規約からしても当然、建設の是否が言及されることはなく、ダムの構造変更についても具体的な提言はなかった。
右図は第5回委員会資料に掲載されている環境及び景観に配慮した堰堤のイメージ(CG再現画像)で、高さ42mと22mの2パターンの浸透型重力式砂防堰堤が描かれている。堤体表面には自然石を擬した装飾が行われ、景観に配慮されている。
さて、この提言を受けた松本砂防工事事務所は、工事の継続や工法の変更について、いかなる決定を下したのか。
「令和2年度版松本砂防事務所事業概要」より
結論から言うと、令和2(2020)年現在も、島々谷第6号砂防ダムの建設計画は中止されていない。
令和2年度版松本砂防事務所事業概要にも、左図のようにしっかり「事業実施箇所」として掲載されている。
ただ、毎年このように事業実施箇所にはなっているが、実際は工事が行われていない状況であるようだ。
また、渓流保護ネットワークからの度重なる要望書の提出や、環境調査委員会の提言を受けて、建設の中断や工法の変更を公表したという記事も見つけられなかった。
渓流保護ネットワークのサイトにある時系列順の活動報告は、06年8月の現地報告からしばらく更新が空き、5年後の平成23(2011)年に久しぶりに現場視察報告という報告が追加され、これが現在のところ最終更新になっている。
この期間の空き方は、とりもなおさず、会が目的としていた工事中断を事実上に勝ち取ったことを意味していたのだろう。
私の探索から見て3年前の報告である2011年6月の現場視察報告(←onedriveにアクセスします)において、終始活動の中心にあった田口康夫氏が、既に私が見たものとあまり変わらないほど荒廃した……いや、自然に還りつつある工事用道路を歩いていくと、こんな景色が広がっていく――
そこには彼が守りたかった自然が戻りつつあった。
だが――
このように述べて、ときに人の寿命より遙かに長く続いていく国の事業のやり方を憂いている。
事業中断から長い間維持費だけが費やされたといえば……、塩那道路の顛末を彷彿としたのは私だけではあるまい。
今回はどうしても公開されている情報量の多寡からして、反対派の活動の方に多く目に行ったし、結果、少なからず反対派を支持するような机上調査になった。
今回の机上調査では、事業主体側が、反対派に対し、この砂防ダムの必要性を真っ向から反論する内容の文書が見つからなかったこともあり、仮に論破されても事業を中止させる権限を市民が持たないことに胡座をかいてほとぼりが冷めるのを待っている……という、田口氏が指摘するような、国の態度に不誠実さを感じた人もいることだろう。
だが、平成20(2008)年2月に北陸地方整備局がまとめた砂防事業の再評価説明資料では、口数があまり多くない彼らが、半世紀を遙かに超える長い時間を行ってきた砂防事業へのいくつかの自己評価が語られている。
「砂防事業の再評価説明資料」より
曰く、島々谷川で国による大規模な砂防事業が始まったのは、昭和21(1946)年からである。昭和20(1945)年10月に台風19号と20号が連続して襲い、梓川流域は奈川村大水害と呼ばれる水害となった。このとき島々谷で大規模な土石流が発生し、下流の島々集落は流失家屋23戸、浸水家屋39戸、倒壊家屋3戸など、集落の半数以上が被害を受ける大災害となった。
すぐに直轄工事が始まり、集落に近い第1号砂防ダムは昭和21年に完成。以後、2号ダム、3号ダムと次第に上流へ砂防工事は進展していったのだ。本編でちょっとだけ登場した林鉄も、このとき壊滅的な被害を受けて規模を大幅に縮小することになった。
そして昭和58(1983)年の台風10号は、昭和20年に次ぐ豪雨をもたらし、梓川流域では多くの土砂災害があったが、既に大規模な第3号砂防ダムを完成させていた島々集落は、大きな被害を受けなかったという。さらに最近では、前述にも登場した平成18(2006)年7月の水害においても、既設の1〜5号砂防ダムが機能して島々集落は守られたと書いている。
そもそも、島々という地名からして、この集落が島々谷川と梓川の合流地点にあって昔から洪水が多いところだったために、洪水後に残る砂地(洲)を「しま」と読んだことに由来するといわれる(『角川日本地名大辞典』より)ほどで、全く無施設で放置していれば、おそらくこの土地に人が文明的に住み続けることは難しい現実があるのだろう。
チェンジ後の画像は、砂防工事を一切行わない状況で、100年に1度規模の洪水が発生した際、島々周辺がどの程度の深さで水没するかをシミュレートしたものだが、集落がある低地の大部分が3m以上も水没するとしていて、まさに壊滅的といえる。
もっとも、渓流保護ネットワークも既にある砂防ダムが無駄だとは言っておらず、現状で既に十分「無施設ではない」という主張であるから、現状でもこのシミュレートよりは良い結果が得られるだろう。
しかしともかく国は、島々谷第6号砂防ダムを含むこの一連の砂防事業再評価について「事業継続」を決定しており、この決定に基づいて令和2年現在も工事再開の機会を窺っているという状況だ。
昨今、大規模な水害のニュースが良く耳にされることもあり、「コンクリートから人へ」からのよりもどしのような風潮もいくらか感じられるが、島々谷第6号砂防ダムがどちらへ進むべきなのかは、誰にとっても判断は難しいことだろう。
建設したことで、無駄だったと断罪される可能性もあるし、建設しなかったことで、無能だったと断罪される可能性もあるのだから、未来予知でもできない限り確実な対応もできない。だからこそ、建設を批判することもまた、なかなかに勇気の要ることだろう。自らが信じる理想のために敢えて批判の矢面に立とうとする行動に等しいといえる。
ひとつだけ私の傍観者の立場から言えることがあるとしたら、物見遊山のオブローダーは住む人の命を守ることも奪うこともないが、土木事業はそれをするということだ。
流域に住む人なら、決して無関心ではいられないはずだ。
おおよそ忘れられかけた景色が展開している北沢で、これからなにが起こるかを、注視するべき人は決して少なくないはずなのである。
(そりゃ、「立入禁止」なんだから忘れられもするだろうよ……イテッ)