隧道レポート 島々谷のワサビ沢トンネル 最終回

所在地 長野県松本市
探索日 2014.10.28
公開日 2020.10.11

谷底での“古い”発見


2014/10/28 9:16 《現在地》

“謎の穴”改め、砂防ダム工事の試掘坑から地上へ戻った私は、それから僅か10分後、もう谷底に居た。
制覇の喜びで穴から飛び出し、転落して10分間気絶していたわけではなく、ちゃんと来た道を戻った10分間だった。
ルートさえ分かれば難しいことではなかった。

約100分間崖の上で過ごした私が久々に谷底へ戻ると、そこにもようやく朝の日差しが入り始めていた。
わざわざ崖上に行かなくてもこんな見事な美があったことを、今さら実感する。
達成の余韻を楽しみながら、ゆるりと帰還の途に就いた。




さっきは、これに気付く余裕もなかったのか…。

位置によっては、この谷底からもワサビ沢トンネルの北口は見ることが出来た。
相変わらず孤高の存在感を醸しており……、既にルートを把握しているとはいえ、もう一度だけ斜面をよじ登らねばならないことには少しだけうんざりした。
だが、もう急ぐ必要はないのだから(前もそんな必要はなかったが気は急いていた)、ゆっくり一歩ずつ戻ればいい。

その前にもう一度、沢の徒渉だ。



無事徒渉を終え、ワサビ沢トンネル直下に戻ってきた。
前に見えるくすんだ色の構造物は、“SD”である。
最短コースでトンネルへ戻るには、ここから“SD”手前を右に登っていけば良い。存置ロープがある斜面だ。

ここで私の足が止まった。
原因は、この谷底に一つやり残した事が思い出されたからで、どうしようかと考えた。だが、考えがまとまる前に、私の目にまた別のものが入ってきた。
それは、ここから左を向いた足元の河原にあった。




さっきはこれにも気付いていなかった…!

レール発見! しかもめっちゃ目立ってた!

島々谷に林鉄があったことは、本編第1回でも触れたとおり、探索当時から既知の情報だったし、その末端が北沢の奥地まで入り込んでいたことも把握していた。
ただ、廃止が極めて早かった(戦前)という情報もあって、具体的な遺構の現存には懐疑的だった。
だから敢えて探すことはしていなかったのだが、目に入ってしまった。

欲張りな私が、敢えて探さなかったというのは不自然なように思うかも知れないが、探索対象を絞りたいときには自然とそうしている。




目に入った以上、無視はできず近寄って確かめると、それは1本まるまるの6kg/mレールだった。
河床に突き刺さっている状況なので、もっと上流から流れてきたものだろう。
とりあえず目に付いたのは1本だけだが、多分探せばもっとあるだろうなぁ。




本編からは脱線するが、この林鉄について少し説明しよう。

島々谷にあった林鉄は、松本営林署の梓川林道島々谷線および、その支線である梓川林道北沢線である。
昭和6(1931)年の地形図には、島々集落付近から島々谷川を延々遡り、二俣から北沢へ入って、さらに上流の冷沢を終点とする長い軌道が描かれている。
このうち、二俣以南が島々谷線、以北が北沢線であり、この図には描かれていないが、島々谷線の末端は南沢の奥地まで入り込んでいた。

探索翌年に刊行された『国有林森林鉄道全データ中部編』によれば、北沢線は昭和4(1929)年に二俣から冷沢まで5235mが敷設され、同19年に全線が廃止されている。廃止が早い。
また、探索当時も把握していた『安曇村誌 第三巻』には、この路線について次のような既述がある。

大正3年には、小林区署が島々谷の牛馬道に軌道の敷設をはじめた。まず大野田貯木場から二俣まで、ついで7年に出シノ沢までが完成し、10年には岩魚留までの路線が完成した。昭和4年には北沢にも軌道の敷設が開始され、六年以降は官行斫伐事業の主力が北沢に移っている。
島々谷の官行斫伐事業は昭和12年をもっておおむね終わったが、島々谷の軌道はその後も利用された。20年の水害で大きな被害を受けたが、しばらくして、木炭生産者と営林署によって一部の区間が補修されて利用された。
『安曇村誌 第三巻』より



『安曇村誌 第三巻』より

そしてこのような見事なキングポストトラス橋が写った写真も掲載されていた。

この写真が撮られたのは昭和30年代とのことで、当時は島々集落付近にわずか1.5kmほどしか軌道は残っていなかったようだが、上高地を目指した多くの登山家の目に留まったために、記録にも残されやすかったようだ。

だが、この路線が本格的に使われていたのは戦前で、しかも昭和20年の水害で徹底的に破壊されたために(そのことを物語るかのように、左の写真でも異常に河床が高い)、北沢支線などはこれまでマイナーな存在であったのだろう。

ここで改めて昭和6年の地形図を眺めると、笑っちゃうほど今の地形図とは地形表現の誤差が大きい。
三角点(図中の桃点)の位置関係はピタリと合うのだが、谷の位置は相当めちゃくちゃだ。こうしたことからも、わが国でも最も急峻な北アルプス山岳地帯の谷の踏破が測量者にとっても容易ではなかったことが窺えるわけだが、無理矢理現在の地図と符合させてみると、おそらく「現在地」付近は、両岸に顕著な崖記号が並んでいる場所とみられ、軌道はこの辺りで連続して2回、北沢を横断していたようだ。




そしてこの“連続橋”の有り様は、現地の地形とも符合する。

まあこれは帰宅後の写真検証の成果ではあるが、おそらく林鉄は、現在地から下流方向を撮影したこの写真(チェンジ後)に書き加えた黄線のようなルートで、北沢の遡行を実現していたものと思う。

ここは左岸が極端に切り立っていて(ワサビ沢トンネルが高度30mで貫いている岩場だ)、右岸にだけ河床林がある。そこは今回の1枚目の写真を撮影した森だ。桃色の矢印のルートで私は“穴”への往復を行ったので、ちょうど軌道の上流側の渡河地点で私も徒渉していたらしい。残念ながら橋の痕跡はなかったが。




9:21 《現在地》

うわっ!

レールだけじゃなかったぜ…。

路盤そのものの遺構も発見された。
川べりに築かれた低い空積みの石垣は、見慣れた軌道跡そのものだ。
場所は“SD”の数十メートル上流で、これまで一度も踏み込まなかった領域である。もし、砂防ダムが計画通り完成していれば間違いなく堆砂の下に消え去っただろう領域に、砂防ダムより遙かに早くこの谷を征服した林鉄の痕跡が眠っていた!




これが石垣のある路盤上の風景。

石垣は山側にも築かれていて、両側を守られた路盤は思いのほか綺麗に残っていた。

さすがに踏み跡はないようだが、どこまでも歩いて行きたくなる姿だ……。



9:25 《現在地》

おう……、崩壊…。

“SD”から100mほど上流へ来たところで、路盤は川の流れに削られて、完全に切断していた。
そこにはびっくりするほどたくさんの存置ロープが朽ちて垂れ下がって、なるほど……
この渓は、徳本峠を征服し終えバリエーションを欲したアルピニスト達の遊び場であったらしい。(想像)
いずれにしても、このロープの多さは尋常ではない。そしてその朽ち方も……。

北沢で連続的な砂防ダム工事が始まり、それはおそらく平成の初め頃からだろうが、
そのためアルピニスト達も遠ざけられ続けて、こういう状況に至ったものと想像する。

ここはロープに頼らずとも、足を濡らせば前進は十分可能な現場と喝破したが



今日は大人しく引き返すことに。

終点は、まだ4kmも先であろうし、これはついでに行く範疇を超えている。
侮れば命など軽く吹き飛ぶ山であることは、冷沢の廃道を先に経験した私には分かること。
本編の内容以上にこの先が気になる方も多いと思うが、ここは大人しく出直すことにしよう。 

それにしてもだ。現代の車道が3本のトンネルを連続させて上るほどに険しい北沢を、
昭和初期の林鉄が谷底伝いに源流まで達していたというのは、道としての規格がまるで違うとはいえ、
毎度驚くべきは林業家のエネルギーだ。ほんと林鉄の野郎は俺の想像を超えてきやがるぜぇ…。


この後、“レール発見” の瞬間に “悩んでいたこと” を思い出し、その現場へと戻った。













どうしようね、これ…。







最終任務 “SD(すべり台)”を解明せよ!


2014/10/28 9:29 《現在地》

あとはもうお前だけだぞ。

“SD(すべり台)

この谷に口を開ける“穴”達の中で、最後まで内部状況も行き先も分からないまま残った。

現地でのこの段階での見立てでは、この穴の正体は、砂防ダムの仮排水トンネル。
ダム工事中に塞がれる河道の代わりに川の水を通す、一種の仮設構造物だ。
だが、ダム工事が途中で中断(放棄?)されているとみられる現状において、水はここを流れていない。
そもそも、平水時の水面より2mは高い位置に開口しているので、それ以上の高さの仮締切工で本流を塞ぐことで初めてここに川が誘導される(これを転流工という)。しかし仮締切工が着工された気配はなく、工事中断の段階がそこにあったことが窺える状況だ。

というわけで、水が乗り越えることのなかった高さ70cmほどの壁を乗り越えると、“SD”と“すべり台”の2つの謎ワードがペイントされた流木避けの鉄柱柵があり、さらに奥に……


(→)
この、おぞましい開口部が待っている。

なんと気持ちの悪い入口なんだろう。
朽ちた廃隧道とは違った方向の気色の悪さだ。
人が通るために掘られたトンネルではないことが根底にある、人の命を呑み込むことなどなんとも思っていなさそうな雰囲気だ。

その象徴が、水の流れを速めるために設けられたであろう急勾配の斜坑から始まっていることだ。鉱山の斜坑でも、ここまで急勾配のものは見たことがない。
最も分かり易い形で、「この穴に入ったら、戻ってこられなくなりそう」という気分を起こさせた。

だが、そんな拒絶のオーラを乗り越えて、生みの親である工事関係者以外の何者かも、この穴へ潜っている。
2本の鉄柱それぞれに、1本ずつ、ロープが垂らされていた。
降りた何者かが、いつか戻ってくるために垂らしたのだ。

このロープの存在が、私に勇気と負けん気を起こさせた。




存置ロープに命を託すのは愚の骨頂。

それは分かっている。
だから私は、ロープがなくても下れ、さらに登ってこられるかどうかを、先に確かめることにした。

斜坑部の傾斜は、水が流れやすいよう曲線的に変化している。いきなり最急勾配になるわけではなく、最初は少し緩やかだ。
私は、あくまでも保険という程度に軽くロープを握った状態で、ゆっくり斜面へ足を踏み出した。
しっかりと足をグリップさせて一歩ずつ進む。結果、握ったロープにはほとんどテンションをかけず下っていけそうだということが分かった。
次に、2本の存置ロープを1本ずつ順に強く引いてみたが、ちぎれる気配はなかった。

それと、洞内を風が抜けていることが感じられた。貫通しているらしい。なので洞内が酸欠状態になっている危険もなさそうである。




一応の安全テストを終えたので、本格的に下降を開始。

踏み出して数歩で勾配は急になり、あとは下端が近づくまで一定だ。
同じ歩き方で、同じグリップ力を維持することを強く心がけた。
斜面に堆積した落葉や苔によるスリップだけが懸念材料だったが、私の登山靴は思いのほかコンクリートを強く噛んでいて、全く滑らなかった。

もし滑ったらその時は2本の存置ロープの出番となるが、いきなり全体重を掛けるわけではないから、千切れることはないはずだ。
さらに万が一下まで滑り落ちることがあったとしても、既に下端は見えており、転落で怪我を負うことはなさそうだし、この靴ならばロープなしでも登れそうだということを先に確かめているので、不安はない。

落ち着いて、ゆっくりゆっくり下っていった。
谷底の……さらに下の……地下へ……。


もう少しで、洞底だ。
しかしここで最後の懸念事項と直面する。

外光が届きにくい状況になったことで、斜面が濡れた状態になっていた。
ここに落葉や苔が重なれば、極めて滑りやすい状況となることは明らかだろう。

無理矢理降りて、戻ってこられなくなる。
そのことが何よりも恐ろしい私は、残り数メートルしかないここでもう一度足を止め、濡れた斜面に対して改めて、ロープなしで登り降りが出来るかを(ロープを保険にした状態で)テストした。

……うん、大丈夫そう。

幸いにして、落葉は濡れた領域まではほとんど入ってきておらず、土や苔もなかった。
ただの真新しいコンクリートの壁が濡れているだけ…というのに近い状況だ。なので探索当時の“すべり台”は、滑りやすいことはなかった。




9:31

オッケイ。 下降成功。

下降作業にはじっくり1分半ほども掛けていた。

おかげで、スリップサインを残すことなく洞底へ軟着陸できた。



さあ、最後の探索だ!

洞底に立って前を向くと、そこには地上からは決して見通せなかった右カーブがあった。

穴の正体が排水トンネルであるならば、ダムを迂回できれば役目は終わりで、あまり長くする必要はないはずだ。
だから、地中でカーブを描いて、比較的短距離で下流のどこかへ脱出する可能性が高いと考えていたが、
この早速の右カーブは、予測を支持するものといえた。カーブの先に出口が見えるか、もう数歩で分かる。

洞床はうっすらと滞水しているが、水溜まりと呼べるほど深くはない。内壁にも冠水の痕跡は見られない。
おそらく完成した日からずっと今まで本来の目的で使用されるのを待っているのだ。
ほぼ直上に存在するワサビ沢トンネルと対をなす、未成ダム工事の空虚な置き土産だった。



よっしゃ! 出口だ!

やはりワサビ沢トンネル似較べれば長いトンネルではなかった。全長100〜150m程度だろう。
最初は斜坑で急激に下るが、あとは出口まで水平(に感じられる)。カーブは右カーブが一つあるだけだ。

出口からは眩い光が差し込んでいる。しかしそんな明るい場所が北沢の峡谷にあるのか?
まさかとは思うが、崖の上のようなところに飛び出るのではあるまいな……。



崖ではなく……、沼…!

……これはこれで……嫌な状況……。

ここまで来たからには、外へ出て場所を確認したい気持ちは強いが、思った以上に下り勾配が付いているのか、出口に向かって急激に水没が深くなっているっぽい。
今さら靴が濡れることを憂いはしないが(もう濡れている)、どのくらい深いんだろう…? (特に外へ出た直後の深さが心配)

そしてここで、内壁にペイントされた沢山の文字が目に留まった。
これらの赤と黒に塗り分けられた文字の意味は、おおよそ次のようなものと推測される。
NO.7測点 EL(標高)976.300m(実測値)976.287m W(幅)2.600m(実測値)2.602m H(高さ)2.600m(実測値)2.575m

この内容から、トンネルの断面が縦横とも約2.6mであることが分かった。
全長は、測点が何メートル刻みなのか分からないので、ここからは解読出来ない。



どこだここは?

せせらぎの音はすれども、川は見えない。
広葉樹の森にまどろむような小さな沼が、トンネルの出口であった。
妖精でも遊んでいそうな長閑で自然な景色だが、これは明らかに人造の景観であるはず。
ここでも仮排水路工事は未完成で、川へ通じる最後の部分の地上部水路を掘削しないままになっている模様。

落葉が沢山沼の底に堆積しているのが見えており、舗装された洞内を出た途端に底なし沼にハマりやしないかが、最大の懸念点。
不安だったが、片足だけ踏み込んでみると……。




9:36 (現在地はGPS測位完了をお待ちください)

足の沈没は水深は30cmほどで止まり、沼の中央部はどうなっているか分からないが、とりあえず最短距離で陸に上がるコースを取ることで、トンネルからの脱出と“上陸”に成功した。

真新しいように見える坑門にも、設計絡みの数字がペイントされていた。
坑口位置標高977m、坑門工の高さ4500mm、幅500cm」というような意味だろう。




GPSによる現在地の取得には少し時間が掛かりそうなので、周辺の探索をしよう。

真っ正面から見る坑口は、サイズ感としては軽トラサイズの激狭道路トンネルの風情があった。
しかしこれはあくまでも水の通り道。
しかも、ダムが完成する前段階では完全に閉塞される、短命を定められたもの。

そんな儚いはずの存在が(外見は儚さとは無縁だが)、思いがけず長命を得ている現場に私は遭遇した。
個人的にも初めての「仮排水路トンネルを通り抜けた」経験だと思う。
果たしてこの穴に、無為に沼を潤すだけの日々の終わりは、やってくるのだろうか?



坑門のすぐ左側に見覚えのある標柱が立っていた。国有林の借地標だ。

島々谷国有林 ○○班
用途 島々谷第6号仮設水路敷 面積三八九平方メートル
始期 平成十一年四月一日

熊に囓られたらしく一部の文字が破損して読み取れなかったが、ここにあるものの正体を暴く決定的な文字情報だった。
最後の最後にこれを見せるとは、なんという筋書きのある探索だろうかと、思わず笑ってしまった。

この標柱により、今くぐった穴が間違いなく、島々谷第6号砂防ダムの仮排水路トンネルであることが確信できた。
2本目の鈴小屋トンネルには、平成5年の期日の書かれた【第6号砂防ダム資材運搬道路工事】の看板が残されていたが、共にワサビ沢トンネル(平成9(1997)年竣工)北口に第6号砂防ダムを建設する工事と関係するものであり、平成11(1999)年頃までは着々と工事が進められていたことが分かった。

ということは、探索当時(平成26(2014)年)では、最長で15年ほど工事が止まっていた訳か…。


9:37 《現在地》

沼と川の間は平坦な森になっていたが、すぐに川の畔へ抜け出した。

そこは万人に美しいと褒め称えられそうな美しい流れであったが、その実、半世紀以上前には林鉄によって源流まで走破され、数年前にも巨大な開発の舞台となった土地だったのだ。
まるで手付かずの自然と、そうではない自然の景色、どうやら私の目で見分けることは出来ないらしい。

GPSによる測位が完了し、現在地が判明した。
予想通りここは、北沢の蛇行する狭窄部(砂防ダム建設予定地)のすぐ下流だった。
ワサビ沢トンネルのちょうど中間付近の地上にあたる場所だ。
周囲には林鉄の痕跡もあっていいはずだが、全く見当たらなかった。



とても大雑把に作った図なのでいっさい数値的な正確性はないが、
今回この谷底で出会った3本のトンネルの上下の位置関係を図示してみた。
図だとワサビ沢トンネルよりも仮排水トンネルが長く見えるが、実際は逆だ。
あくまでも上下の位置関係や勾配の雰囲気を感じて貰うための図である。

ワサビ沢トンネル内部が、道路トンネルとしては異例なほどの勾配を持っていたのは、
おそらく一般の道路にありがちな地形的理由ではなく、、北口に予定されていた砂防ダムの
堤高よりも上に絶対に出なければならないという理由からであったと思われる。
今さらながら、一般的な砂防ダムのイメージより相当大規模なものが計画されていたのだと感じる。
もちろん、試掘坑の高さもそう考える根拠の一つだ。






9:50

十数分後、ワサビ沢トンネル北口に置き去りにしていた自転車の元へ戻った。
帰路については、あらゆる面で復路の経験が活き、苦労を感じることはなかった。強い達成感が疲労を覆い隠していた。




道の終点から、最後にもう一度だけ対岸の黒穴の姿を目に焼き付け……、

我々人間の葛藤が生み出した、本来は固定化されるはずではなかったモノたちが、白日の下で静かに時を刻み続ける、美しの谷に別れを告げた。




藪があろうが下り坂と自転車の組み合わせは最強であり、
特に、いずれも下りに傾斜したトンネルの通過速度は、危険な領域だった。
はじまりの地、「第7号橋」に戻ったのは、ほんの数分後のことである。

そこでは沢山のニホンザルたちが思い思いに過ごしていて、私の目を楽しませた。




島々谷での最大規模を誇る、高さ約30mの第3号砂防ダム。

そこから眺める島々谷は、さながら人が造り出した上高地のようであった。

現地の遺構を見る限り、北沢に計画された第6号砂防ダムは、これに匹敵する規模のものと想定されたが、

机上調査がその幻の姿を暴くのには、現地探索で味わったような苦労はなかった。




机上調査編 〜島々谷川第6号砂防ダム建設史〜

今回私に痺れるような冒険の舞台を提供してくれたのは、島々谷川の上流部に建設された砂防ダム群だった。
現地調査により、今回の主たる探索目標であった二俣、鈴小屋、ワサビ沢という3本のトンネルは、いずれも砂防工事用道路として建設されたものらしいことが窺い知れたし、最上流に計画された「第6号砂防ダム」の建設中断が、この一連の工事用道路の荒廃と密接に関わっているだろうことも理解された。

しかし、現地探索では大きな疑問も残った。
最大の疑問は、 なぜ第6号砂防ダムは建設が中断しているのか である。
本稿は、主にこの疑問に答えるための机上調査の報告である。

現地探索を振り返ると、相当に工事が進んだ状態で中断されていることが、とりわけ印象的だった。
砂防ダムが計画段階で中断中止されることはそう珍しいことではないと思うが、明らかに着工後の中断だった。なにせ、アプローチ用に全長480mもあるワサビ沢トンネルを完成させ、さらに仮排水トンネルまでも完成させていた。これは、いよいよ川を堰き止めてダム本体の建設に取り掛かる直前段階まで進んでいたように思われる。

現地は険しい地形であったし、二俣トンネル以奥の工事用道路は多数の落石によって荒廃した状態であった。しかし、壊滅的というほどではないように見えた。
工事用道路やダム建設予定地付近で大規模な災害が発生し、そのために工事の続行が困難になっているとは思われなかった。
それではいったいなぜ、工事は中断されたままになっているのか。




疑問の答えは、「島々谷川第6号砂防ダム」という、現地で手に入れたキーワードで一発ググっただけで、あっという間に判明してしまった。
“机上調査編”なんて大層な名前を付けた自分が恥ずかしいレベルの一発回答。

答えはズバリ――(既に読者さんも予測していたかも知れないが……) 環境問題 だった。



『信濃毎日新聞』(平成11(1999)年1月29日号)より

右は長野県の地元紙『信濃毎日新聞』の平成11(1999)年1月29日号に掲載された記事で、見出しを読むだけでも大まかな内容は分かると思う。
記事が出た平成11年といえば、【ワサビ沢トンネルの銘板】に刻まれていた同トンネルの竣工年の2年後であり、仮排水トンネル脇の【借地標】に示されていた年でもある。順調に工事が進められていた頃だろう。

見出しから記事の内容が分かると書いたが、全文を紹介すると次の通りである。

松本地方の渓流にすむ天然イワナの保護活動を続けている住民グループ「砂防ダムいらない渓流保護ネットワーク」(田口康夫代表)は28日、南安曇郡安曇村の島々谷川で建設省松本砂防工事事務所が計画している砂防ダム建設について「一帯には渓流固有の貴重な生物が生息している」などとして、建設中止を求める意見書を同工事事務所に提出した。
このグループが問題視している砂防ダムは、島々谷川支流の北沢で計画されている「島々谷川第6号砂防ダム」。高さ約40mのダムにより上流約1kmにわたって土砂を貯留する計画で、2003年の完成を目指している――
『信濃毎日新聞』(平成11(1999)年1月29日号)より

引用の途中だが、欲しかった新情報キター!

なんと計画されていた第6号ダムの高さは、【3号ダム】の堤高31mを大幅に上回る40m級だったらしい!
ワサビ沢トンネル北口の尋常ではない高さは、やはり第6号ダムの規模を物語っていたのだ。
そして、平成15(2003)年に竣工する計画で工事が進められていたというから、現状すでに15年以上も遅延していることになる。

――既に周辺の山林では、工事用トンネルや林道の整備が進んでいる。意見書で同ネットワークは「予定地周辺は、イワナが産卵のため上流へ移動する通路で、カワガラスやカワネズミなど渓流固有生物も生息している。美しい景観もあり、保全する必要がある」とし、建設中止を要請した。
また、上流へ上流へとダム新設を続ける現在の砂防事業は、環境破壊と財政圧迫も招くと指摘し、既設の砂防ダムのしゅんせつ利用を提言。島々谷川でも「下流にある既設のダムをしゅんせつすれば、ダムの新設は必要ない」と主張している。
意見書を受け取った同工事事務所は「意見として伺っておく」とだけ話した。
田口代表は「土砂の流出は永久的。砂防事業の在り方を見直さなければ、日本の渓流は壊滅状態になる」と訴えていた。
同ネットワークは、国や県の砂防事業が進む松本地方の渓流で、ダムの下流に流された天然イワナを産卵場所の上流へ移す保護活動や、渓流の生態系調査などをしている。
『信濃毎日新聞』(平成11(1999)年1月29日号)より

「砂防ダムいらない渓流保護ネットワーク」の代表田口康夫氏のサイト「渓流保護ネットワーク・砂防ダムを考える」(以下「渓流保護ネットワーク」)が見つかった。「島々谷川第6号砂防ダム」のキーワードでググると、事業主体である国土交通省(旧建設省)松本砂防工事事務所のサイトよりも上に出てきた。
そして、上記サイト内の「北アルプス 島々谷の渓流保護 6号砂防ダム建設への疑問」のページには、同会による第6号砂防ダム建設反対運動の経過が、時系列順かつ詳細に説明されていた。

その最初の記事は、「1.島々谷川特集1999年2月」と銘打たれたもので、「山行が」誕生前年における二俣、鈴小屋、ワサビ沢各トンネルの姿や、第3号・第4号・第5号砂防ダムの姿、さらに第6号砂防ダム建設予定地の風景などの貴重な写真を見ることが出来た。
画像は引用しないので各自リンク先で見ていただきたいが、当時は工事の真っ只中であるから、廃道化のために自然と緑化が進んでいる現状からは想像しがたいほど、ワサビ沢トンネル周辺の谷は人工の色で満ちていた。
また、この時点で既に仮排水トンネルも完成していたようである。

この記事の中では、第1号から第6号までの砂防ダムの緒元や、工事用道路の3本のトンネルの緒元もまとめられており、それらを右図にまとめた。
各トンネルや各砂防ダムの竣工年を見較べることで、どのような順序で建設が進められたかが想像できる。具体的には、第4号砂防ダム→二俣トンネル→鈴小屋トンネル→第5号砂防ダム→ワサビ沢トンネル→第6号砂防ダム(未成)という順序で、工事用道路の上流延伸に伴って、新たな砂防ダムが増設されていったことが窺える。

この記事とは別の調査(平成27年版の国有林施業実施計画図や、松本市公式サイト内の地図など)から、砂防工事道路と島々谷林道の区分は、右図の通りと判明した。第3号砂防ダムのすぐ上流にある【封鎖ゲート】より下流が、国有林林道である島々谷併用林道(併用林道とは道路法上の道路と共同管理される道路)で、松本市道島々5号線を兼ねている。ゲートより上流は、登山道として使われている二俣以南、登山者の通行が禁じられている二俣以北北沢沿いの全区間とも、松本砂防工事事務所が管理する砂防工事道路であるらしい。

前記記事の中で著者田口康夫氏は、私が今回探索に先駆けて訪れた源流部にある行き止まりの【島々谷林道】の存在にも触れて、次のように書いていることが、私には印象的だった。

また北沢源流の分水嶺から下流に向かって3キロメートルの林道が造られており、その崩れで川が荒れはじめてもいる。昔は大降りでもないかぎり川の水は濁らなかったが、今では水に色がつくようになっている。だまって見ていると、源流と下流とが一本の道で結ばれてしまうのではと思われてしまう。
サイト「渓流保護ネットワーク・砂防ダムを考える」より

当時から、三郷スカイラインに繋がる上流側の島々谷林道と、北沢沿いの砂防工事用道路とが、将来的に一続きの道路となるのではないかと考えている(危惧している)人物がいたことが分かる。
地図を見ればそのように考えるのは自然なことであろうが、果たして事業主体側(建設省&林野庁)にもその構想があったのかどうかは、とても気になるところだ。
唐突に終わっているワサビ沢トンネル北口の先は、砂防ダムの完成後、どういう形に処理される予定だったのか……。

だが残念ながら、このこと(砂防工事道路と上流側林道の連結)について事業者側が言及した文面は見つけることが出来なかった。(仮にそのような意図があったとしても、自然保護活動と対峙する状況下では公表したくない内容であろう)


渓流保護ネットワークのページの内容を時系列に見ていくと、前述した新聞記事にある松本砂防工事事務所への工事中止の意見書提出(99年1月)に続いて、同年5月の現地見学会で稀少動物であるイヌワシが第6号砂防ダム建設予定地で確認されたとして、再び松本工事事務所に対し計画見直しの要望書を提出している。

この要望書の中で、「第6号砂防ダム建設予定地での、右岸、左岸の大岩壁の地上42m前後への横穴試掘抗工事と同左岸トンネル開口工事は、イヌワシの営巣環境に多大なる影響を与えた可能性があります。本来ならこれらの工事に入る前に、適正な調査を行い、速やかに工事の中止をすべき場所であったと思われます 」と述べており、私が苦労して踏み込んだ横穴が、「地上42m前後への横穴試掘抗工事」として登場していた。
(ん? ちょっとまて、左岸にも試掘坑があったような書き方だな… まさか……)

さらに渓流保護ネットワークは、99年6月に発生した豪雨によって鈴小屋トンネルとワサビ沢トンネルの間の河原に積まれていたワサビ沢トンネルの残土が流出し、そのため下流にある第5号や第4号砂防ダムへの堆砂が著しく進行したことは「本末転倒」であり、残土の処分が適切ではなかったとして、既に行われた工事の不備を突く姿勢も見せた。

この指摘は、現地で私が目にしたガレ場(右図)の土砂の大部分が、実は斜面崩壊によるものではなくワサビ沢トンネルの残土だったということになる。これが事実なら、素人目にも砂防工事として少なからず瑕疵があったようにも思われるが、この点について03年6月の話し合いで砂防工事事務所側も工法の不備を一部認めている。

渓流保護ネットワークは攻勢をさらに強める形となり、国土交通省へ質問書が提出(02年11月)されると、ときの内閣総理大臣小泉純一郎氏が答弁書を出す(03年2月)ところまで事態は拡大した。
またこの頃、会の活動の強い追い風となったのが、2000年に長野県知事に就任した田康夫氏(知事在任期間00年10月〜06年8月)の存在であった。彼は知事として、01年2月にメディアでも大きく取り上げられた「脱ダム」宣言を発表し、ゼネコン主導の公共事業乱発を否定するスタンスは、当時多くの県民から大好評をもって迎えられていた。
03年7月には田中知事の現地視察も実現し、知事は「(砂防ダム建設とは)別の選択肢を提示する必要がある」と述べたという。


守勢に立つ松本砂防工事事務所側はどういった対応を取ったのか。

公式サイト内を検索すると、当時の資料がいくつも見つかった。
平成15(2003)年に信州大学名誉教授桜井善雄氏を委員長とする生物学や砂防の研究者よりなる島々谷川環境調査委員会を事務所内に立ち上げ、そこで同工事が及ぼす環境への影響や工法の見直しなどを議論していった。(渓流保護ネットワークは参加が認められず、委員会は建設の是否そのものは議論しない規約だったようだ)

第1回環境調査委員会は03年12月、第2回は04年6月、第3回は05年2月、第4回は06年1月、最後となる第5回が07年2月にそれぞれ開催されたが、第2回以降の委員会資料は公開されており、その内容からどのような議論が行われたかをおおよそ窺い知ることができる。


「第2回島々谷川環境調査委員会資料」より

第2回では、堰堤の構造を従来の不透過型から透過型(スリット形式)へ変更することが最大のテーマになったようだ。

透過型砂防ダムとは、右図のような型式のもので、平水時は土石を堆積させないものをいう。洪水時にはスリット部に土石や流木が詰まることで、非透過型砂防ダムと同じように機能し、一度に大量の土砂が下流へ流出することを防ぐが、平水に戻ると徐々にスリットが開通し(あるいは人為的に浚渫することで)再び最初の状態に戻るという。
透過型にすることによって、常に湛水や堆砂に埋められる範囲が狭まり、かつ流水の連続性を保てることから、生態系を含む環境への負荷が非透過型に較べて小さくなると考えられている。


「第3回島々谷川環境調査委員会資料」より

翌平成17(2005)年2月に行われた第3回の委員会資料を見ると、さらに具体的かつ詳細に非透過型への設計変更が議論されたようである。

この資料(左図)により、当初の計画では高さ42mの不透過型アーチ式ダムであったことが分かった。これは高さ31mの第3号ダムと同一の型式だ。私が目にしたワサビ沢トンネルは、この形のダムを念頭に置いて建設されていたわけである。
対して、新たに提示された型式は、同じ42mの高さを有する透過型重力式ダムで、中央部に巨大なスリットが開いている。



「第3回島々谷川環境調査委員会資料」より


右図は完成後の再現写真で、ダム下流とワサビ沢トンネル北口の2地点からの風景をCGで再現している。
透過型ダムの高さは42mと22mの2パターンが描かれており、非透過型から透過型への型式変更だけでなく、低いダムへの規模縮小についても既に検討が進められていたようだ。

さらに翌年、平成18(2006)年1月の第4回の委員会資料では、第3回以降進められてきた現地の生態系に関する各種モニタリング調査の結果が報告されている。
調査対象は、イワナなどの魚類、イヌワシなどの鳥類、カワネズミやコウモリなどの哺乳類、さらに両生類や昆虫類まで多岐にわたり、渓流保護ネットワークが指摘していたクマタカについては複数ペアの生息が確認されたほか、両生類について重要種1種、コウモリ類について重要種4種、昆虫類について重要種17種をダムの影響圏内で確認したことなどが報告された。

最後の回となる平成19(2007)年2月の第5回の委員会資料では、モニタリング調査の補足調査の結果が報告されると共に、提言がとりまとめられた。
また、06年7月に起きた集中豪雨によって島々谷流域各所で土砂流出や林道の流出が起きたことも報告されている。

この豪雨は、梓川流域では昭和58年以来のものといわれ、二俣トンネル以奥の工事用道路が著しく荒廃した大きな原因になったようだ。
渓流保護ネットワークのサイトには、豪雨による影響を調査した内容があり、次第に工事用道路が荒廃している状況が見て取れた。
また、この頃までは松本砂防工事事務所側も校外学習会などを現地で主催しており、見学コースの最後にはワサビ沢トンネルを通り抜け、私が見た景色を地元の子どもたちも堪能していたようだが、工事用道路の荒廃によって人の足も遠のいたのだろう。



「第5回島々谷川環境調査委員会資料」より

コウモリ類の補足調査は、私にとっても興味深い内容だった。
この調査の目的は、「6号堰堤建設予定地右岸にある「右岸横坑の利用状況」の把握」だそうで、これはつまり、私が苦労して辿り着いた崖上の穴にコウモリが生息しているかどうかの調査だった。

調査方法の欄には、小さな文字でこう書いてある。「横坑は北沢右岸の崖地に位置し、アプローチが困難であること、また、横坑入口が崩れていることなど、安全上の理由から内部への立ち入りは行わず、目視確認を行った」。代わりに、バッドティテクターという装置を使って、ワサビ沢トンネルの北口から目視確認を行ったという。



「第5回島々谷川環境調査委員会資料」より


しかしここで驚くべき記述に遭遇した!

右岸横坑は、私が立ち入ったものの他に、少なくとももう1本あったのだ。
私が入ったのは、「崖地上部」にあった30mの長さのものであったが、「崖地下部」にも20mの長さのものがあったらしい。
調査対象となったこれら2本の右岸横坑の写真(右図)を見ると、1本は明らかに見覚えがあるが、もう1本の方は気付かなかった…。

……まあ、負け惜しみじゃないけど、“試掘坑如き”をもう一度探しには行きませんけど。

ちなみに、この補足調査の結果、コウモリ類は北沢上空で複数種類が確認されたものの、右岸横坑の利用確認はなかったという。
……はい。 確かに、中に誰もいませんでしたよ。



「第5回島々谷川環境調査委員会資料」より

以上5回の会議をとりまとめた「島々谷川環境調査委員会からの提言」(07年2月21日)では、委員会が示す保全方針に従い確実に保全対策を行うことや、適宜モニタリング調査を継続するように努めることなどが松本砂防工事事務所長に宛てて提言され、委員会の目的を果たしたが、設立時の規約からしても当然、建設の是否が言及されることはなく、ダムの構造変更についても具体的な提言はなかった。

右図は第5回委員会資料に掲載されている環境及び景観に配慮した堰堤のイメージ(CG再現画像)で、高さ42mと22mの2パターンの浸透型重力式砂防堰堤が描かれている。堤体表面には自然石を擬した装飾が行われ、景観に配慮されている。

さて、この提言を受けた松本砂防工事事務所は、工事の継続や工法の変更について、いかなる決定を下したのか。



「令和2年度版松本砂防事務所事業概要」より


結論から言うと、令和2(2020)年現在も、島々谷第6号砂防ダムの建設計画は中止されていない。
令和2年度版松本砂防事務所事業概要にも、左図のようにしっかり「事業実施箇所」として掲載されている。

ただ、毎年このように事業実施箇所にはなっているが、実際は工事が行われていない状況であるようだ。
また、渓流保護ネットワークからの度重なる要望書の提出や、環境調査委員会の提言を受けて、建設の中断や工法の変更を公表したという記事も見つけられなかった。

渓流保護ネットワークのサイトにある時系列順の活動報告は、06年8月の現地報告からしばらく更新が空き、5年後の平成23(2011)年に久しぶりに現場視察報告という報告が追加され、これが現在のところ最終更新になっている。
この期間の空き方は、とりもなおさず、会が目的としていた工事中断を事実上に勝ち取ったことを意味していたのだろう。

私の探索から見て3年前の報告である2011年6月の現場視察報告(←onedriveにアクセスします)において、終始活動の中心にあった田口康夫氏が、既に私が見たものとあまり変わらないほど荒廃した……いや、自然に還りつつある工事用道路を歩いていくと、こんな景色が広がっていく――

――簡単に入れるところの谷風景としては最良地である。今回もヒキガエルのオタマジャクシ、ミヤマカラスアゲハ、オナガアゲハなどの乱舞など春の自然がいっぱいであった。蝶は染み出る水や獣の糞に集まりミネラルを吸っているようだ。ダム予定地で毛鉤を振ってみたると水のぬるんだ流れの中からイワナが飛びついてきた。
「渓流保護ネットワーク」より

そこには彼が守りたかった自然が戻りつつあった。
だが――

――6号砂防ダム建設の反対は1999年ころ始めたのだが今のところ本体着工工事は始まっていない。だが国の予算付け表を見れば毎年数千万〜数億の金は付いている。既に12年くらいは経っているのだが中止にはなっておらず、道路の維持管理・調査費という名目で継続している。今まで国に対して何回も中止のための要望書などを出しているが現状は書いたとおりである。国交省は国民(私たち)が忘れたころ工事再開できるよう事務手続き上のテクニックを使っている。日本中でこんなことをやっているのだからたかが数千万〜円でも積算額は馬鹿にならない。継続の意味は彼等にとっては意味があることなのだ。中止にするには国民がこの本質を理解し世論を盛り上げ政策提言をしていくか、それなりの政治家を選んで対応するしか手はない。
「渓流保護ネットワーク」より

このように述べて、ときに人の寿命より遙かに長く続いていく国の事業のやり方を憂いている。
事業中断から長い間維持費だけが費やされたといえば……、塩那道路の顛末を彷彿としたのは私だけではあるまい。




今回はどうしても公開されている情報量の多寡からして、反対派の活動の方に多く目に行ったし、結果、少なからず反対派を支持するような机上調査になった。
今回の机上調査では、事業主体側が、反対派に対し、この砂防ダムの必要性を真っ向から反論する内容の文書が見つからなかったこともあり、仮に論破されても事業を中止させる権限を市民が持たないことに胡座をかいてほとぼりが冷めるのを待っている……という、田口氏が指摘するような、国の態度に不誠実さを感じた人もいることだろう。

だが、平成20(2008)年2月に北陸地方整備局がまとめた砂防事業の再評価説明資料では、口数があまり多くない彼らが、半世紀を遙かに超える長い時間を行ってきた砂防事業へのいくつかの自己評価が語られている。


「砂防事業の再評価説明資料」より

曰く、島々谷川で国による大規模な砂防事業が始まったのは、昭和21(1946)年からである。昭和20(1945)年10月に台風19号と20号が連続して襲い、梓川流域は奈川村大水害と呼ばれる水害となった。このとき島々谷で大規模な土石流が発生し、下流の島々集落は流失家屋23戸、浸水家屋39戸、倒壊家屋3戸など、集落の半数以上が被害を受ける大災害となった。
すぐに直轄工事が始まり、集落に近い第1号砂防ダムは昭和21年に完成。以後、2号ダム、3号ダムと次第に上流へ砂防工事は進展していったのだ。本編でちょっとだけ登場した林鉄も、このとき壊滅的な被害を受けて規模を大幅に縮小することになった。

そして昭和58(1983)年の台風10号は、昭和20年に次ぐ豪雨をもたらし、梓川流域では多くの土砂災害があったが、既に大規模な第3号砂防ダムを完成させていた島々集落は、大きな被害を受けなかったという。さらに最近では、前述にも登場した平成18(2006)年7月の水害においても、既設の1〜5号砂防ダムが機能して島々集落は守られたと書いている。

そもそも、島々という地名からして、この集落が島々谷川と梓川の合流地点にあって昔から洪水が多いところだったために、洪水後に残る砂地(洲)を「しま」と読んだことに由来するといわれる(『角川日本地名大辞典』より)ほどで、全く無施設で放置していれば、おそらくこの土地に人が文明的に住み続けることは難しい現実があるのだろう。

チェンジ後の画像は、砂防工事を一切行わない状況で、100年に1度規模の洪水が発生した際、島々周辺がどの程度の深さで水没するかをシミュレートしたものだが、集落がある低地の大部分が3m以上も水没するとしていて、まさに壊滅的といえる。

もっとも、渓流保護ネットワークも既にある砂防ダムが無駄だとは言っておらず、現状で既に十分「無施設ではない」という主張であるから、現状でもこのシミュレートよりは良い結果が得られるだろう。

しかしともかく国は、島々谷第6号砂防ダムを含むこの一連の砂防事業再評価について「事業継続」を決定しており、この決定に基づいて令和2年現在も工事再開の機会を窺っているという状況だ。


昨今、大規模な水害のニュースが良く耳にされることもあり、「コンクリートから人へ」からのよりもどしのような風潮もいくらか感じられるが、島々谷第6号砂防ダムがどちらへ進むべきなのかは、誰にとっても判断は難しいことだろう。
建設したことで、無駄だったと断罪される可能性もあるし、建設しなかったことで、無能だったと断罪される可能性もあるのだから、未来予知でもできない限り確実な対応もできない。だからこそ、建設を批判することもまた、なかなかに勇気の要ることだろう。自らが信じる理想のために敢えて批判の矢面に立とうとする行動に等しいといえる。

ひとつだけ私の傍観者の立場から言えることがあるとしたら、物見遊山のオブローダーは住む人の命を守ることも奪うこともないが、土木事業はそれをするということだ。
流域に住む人なら、決して無関心ではいられないはずだ。
おおよそ忘れられかけた景色が展開している北沢で、これからなにが起こるかを、注視するべき人は決して少なくないはずなのである。
(そりゃ、「立入禁止」なんだから忘れられもするだろうよ……イテッ)



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