ボウズも覚悟していた七影隧道の捜索だが、奇跡的に発見された南側坑口。
残る捜索対象は、この坑口とは山を挟んで129mという近距離に存在したはずの北側坑口。
その位置は、右の図中のC地点付近であろう。
そして、この坑口こそが、七影隧道がただの廃隧道ではない特異な存在であった、その原因。核心なる地である。
「序章」で述べたとおり、昭和17年に七影隧道はたった一度だけ貫通している。
しかし、開通式の4日前にまさかの崩落。
そのとき土中に帰してしまったのは、この北側坑口付近であったという。
必死の復旧作業は悪戯に負傷者を増やすばかりで実を結ばなかった。
だが、上質な青森ヒバ材の戦時供出という大儀のため、極限的な状況の中で隧道の再掘削工事は進められた。
そして2年後、昭和19年にあって、なお工事は続けられていた。
埋もれた北側坑口を隣地にずらし、新たに70mの隧道を掘り抜いて、崩落を免れていた洞内中央部分へ接続する計画だった。
再貫通まで、残り5m。
起きてしまった、再度の大崩落。
そして全ては水泡へ帰したのだった。
崩壊して埋没したことが記録として残っている北側坑口。
案の定、C地点の付近を歩いてみたところで、口を開けている穴は全くない。
南側の発見に浮かれ、「よもや」と期待していた一同は、次第に現実の厳しさを実感することになる。
おそらく南側坑口と同じように、山側へ少し入ってから坑口に至ったと思われるが、それらしい分岐も、山側へ緩やかに登っていけるような沢も見当たらない。
一箇所だけ水のない小沢が走っていたが、これは傾斜がきつすぎて、軌道を通す余地はない。
写真はC地点のヘアピン上部から峠方向へ続く軌道跡を撮影。
この付近から左側(山側)に坑口があったか、坑口へ続くルートが分岐していたと思われるが…。
山猿のようにすばしっこくシダの生い茂る北側日陰斜面を飛び回るくじ氏を先頭に、5人はその大人数ぶりを利用し、方々を捜索して歩いた。
木々の根元や薮の影にまでライトの光を向けてみたが、結局20分間に及ぶローラー作戦が発見した成果は、以下の物に終始した。
陥没痕らしき、窪地
以上である。
窪地である…。
写真では分かりにくいのは承知の上だが、現地に立ってみるとこの窪地は明らかだ。
周囲は一様な北向き斜面でありながら、この5m四方の一角だけが、クレーターのように窪んでいる。
そこには水が溜まっているでもなく周りと変わらぬ地相だが、不自然なのは確かである。
仮にここを隧道直上の陥没地点であると仮定した場合、先に発見済みの北側坑口との位置関係はどうなっているのだろうか?
それを知ることで、南側坑口の位置も特定できるかも知れない。
現地でのローラー作戦ではこれ以上の成果を上げることは困難と判断した我々は、一度南側坑口へ戻り、そこから峯越しでこちら側へ乗り越えてみることにした。
なお、そう決めたときにはもう、くじ氏の姿はなかった。一人だけ奥地にまで行ってしまったらしく、私以外の3名が必死に彼を呼び戻そうと声を張り上げるのにも応答がなかった。
だが、私にはくじ氏が何所に行こうとしているのか分かっていたので(南側坑口へ峰越で向かったのだろう)、放置して歩き出した。
午後1時46分、再び南側坑口へ接近。
今度は洞内には目もくれず、私が潜った洞穴のある斜面を稜線までよじ登る。
全員が一緒に動くのではなく、何人かが坑口に残って、斜面を登る仲間がちゃんと坑門の延長直線上にいることを確かめた。
この隧道が必ずしも直線で掘られているという保証はないが、技術的な事を考えると直線以外あるまい。
もっとも、ずらして掘られたという2代目の坑口は直線上から外れてくるだろうが。
高低差は30m程度。
滑りやすい落ち葉の斜面だったが、豊富に手掛かりとなる木々が生えており、無事登ることが出来た。
稜線には、どこから通じているのか、一本の細い作業路が通っていた。
登り切ってからくじ氏を呼ぶと、案の定稜線の傍にいた。合流する。
彼の成果を聞くも、めぼしい物は見つかっていないという。
一同は稜線上の小道を無視して、そのまま北側斜面へと下った。
道なき雑然とした斜面だが、出来るだけ真っ直ぐ進むことを心がけた。
……あっけなく、 あっけなくC地点に下ってしまった。
どうやら、南側坑口と直線で結びつけられるのは、間違いなくこのC地点であるらしい。
やはり ここしかないのか…
すなわち、坑口は跡形もなく消失しているという現状…。
この軌道跡はブルが通った跡も残っており、すぐ下には最近まで作業していたような平場もある。
坑口が有るなら、これまでも誰かの目に付いていてもおかしくないような立地なのである。
残念ながら、坑口は現存せず、痕跡もはっきりしない。
それが、結論か。
また、先に見つけた陥没地は南側坑口の直線上にはなく、そこから5mほど西であることも分かった。
しかし、これが即座に陥没地と隧道との関係を否定するにはあたらない。
隧道は内部で分岐する計画で、再掘削されたのだ。
その2代目坑道の崩壊による陥没である可能性は否定できない。
全長129mの隧道の途中から分岐し、70mの隧道で外へ通じるとしたら。
そしてこの隧道にトロッコを通す計画だったことを考えれば、隧道内部分岐はおそらく緩やかな角度付けをされていただろう。
だとすれば、新旧2つの坑口は精々10mくらいの近接地に並んでいたと考えるべきだろう。それ以上離れると分岐の角度が付きすぎるし、洞内でカーブさせるのは技術的に難しかったろう。
このような推論の元で、2代目坑口の跡地と擬定されたのが、左の写真の斜面だ。
この写真は、それを陥没地側から見下ろして撮影している。
陥没地とこの擬定地は近接している。
2代目坑口擬定地を正面から撮影。
ここは、C地点の一角で、軌道跡のヘアピンカーブの始点である。
軌道跡は堀割になっているが、この山側はいかにも崩れやすそうな土の斜面で、いまも崩壊が続いているのか薮化を免れている。
微かだが、軌道跡のカーブの外側に、“つけしろ”のような余剰部分があり、ここから2代目隧道が始まっていたのではないかという推測だ。
写真ではちょうど真っ正面の斜面あたり。
これが精一杯である。
誰しもが、探索の打ち切りを考えはじめていた。
既にこの坑口を探し始めて40分を経過していた。
残る捜索箇所は、ここ一箇所だけだ。
一番最初にも目にしていた、C地点から山側へ伸びる小沢の底である。
狭い沢には水が流れていないが、ご覧の写真の通り、非常な急勾配であり、かつ狭い。
沢に沿う隧道へのルートがあるかと期待されたのも最初だけで、一度足を踏み入れてみれば、ここが人工物を許さない谷であることを知るのだった。
しかし、最後にもう一度だけ、ここを捜索することにした。
どう考えても、この場所が南側坑口の直線上なのだ。
素人とは一線を画すフィールド眼を有する謎の“自衛官”氏が、特にこの地点を推していた。
…どんな小さな痕跡でも良い。
ここに坑口があった証拠が欲しい!
…あれ?
ちょっと予想外だぞ。
これって、雨が降ると水が流れるような雨裂地形(洗削)だと思っていたが、よく見ると、その底にも落ち葉がたくさん積もっている。
…まさか、これって…
私は、思わずこの亀裂に潜った。
わーー!
わーー!
わーー!
ちょちょちょ チョッチョッ直上!!!
直上より圧壊し開腹した隧道へ侵入!!
坑口は無いが、隧道の
中身だけあった!!
……こんな事もあるんですね…。
これには、心底驚いた。
沢に沿って坑口を幾ら探しても見つからないわけだ。
だって、沢自体が隧道の陥没した地形だったのだから。
隧道内部……。
いや、その表現は正確ではないかも知れない。
上を見上げれば、幅1mにも満たない亀裂で森の地面に接している。
いまや、ここも地上の一部なのだ。
ただ、その光景は紛れもなく、隧道。
半世紀以上前、呪われし宿命で人々を翻弄し、遂に地の底へ消えた、七影隧道そのものである。
まだ、現存していたのだ!!!
しかも、こうして記録に残る崩壊の現場を、生々しく地上へ晒していた!
殆ど前進は不可能である。
写真に写っている空洞は、50cm四方にも満たないもので、しかも触れれば次々と天井の土が落ちてくる。
もうこれ以上汚れられないほど汚れていた私でも、埋没して死ぬのは嫌だ。
だが、それでも前進!
もう進めません!
限界である。
まだ、本当に僅かだが、頭一つ入るくらいの空洞は続いていた。
首を捻って上を見ると、もう空は見えない。私の上半身は既に土の中に半ば埋没していた。
これ以上進めば、朽ち果てた支保工は甘い臭気を放ちながら遂に倒壊し、七影隧道最後の犠牲者と共に永遠なる闇の底へ還ることだろう。
この先に、初代隧道の内部空洞が続いている可能性はあるが、それはもはや、決して近づけぬ世界なのだ。
呼吸を忘れるほどの衝撃。
地上で見守る仲間達も、はじめ半信半疑ながら、私の熱狂にやがて隧道の発見を確信した。
再び、北の大地に叫びが谺する。
地上から俯瞰する、隧道跡地。
この点々と連なる陥没地形こそが、隧道の成れの果ての姿だった。
復旧作業の最中、大規模な崩壊が起きて7人が負傷(詳細な安否は不明)した現場が、まさにここだろう。
或いは、崩壊後に隧道の天井を開鑿したのも、その復旧作業の経過だったのかも知れない。
発見された隧道内部からますます正確な坑口位置の特定が可能となった。
その結果、やはり右の写真の場所。
ここが、初代の北側坑口の位置である。
陥没の連なりに続く、細い堀割さえ確認された。
ただ、こちらの坑口は素堀だったのか、それ自体の痕跡は遂に見つからなかった。
我々の発見した各種遺構や擬定物は左図のように配置されている。
おぼろ気ではあるが、かつてここに存在した隧道の、その特異な構造が見えてくるではないか。
午後2時05分、我々はこの発見をもって隧道の捜索を打ち切り、帰途についたのである。
なお、同地点より小泊港までの軌道跡については、『ザ・森林鉄道・軌道in青森』にてシェイキチ氏が踏破されている。
ぜひご覧頂きたい。
車へ戻った我々は、その興奮醒めやらぬまま林道を駆け下り
(幸い私も着替えを持っていたので乗車を許された)、
夜宴を待たずして、磯松林道入口にて祝杯をあげるに至った。
もちろんみんなが飲んでいるのは、『イソビタンD 』!
細田氏の車にロット単位で常備される、「山行が合調隊オフィシャルドリンク」である。
完成式典のわずか4日前に崩壊し、その後も負傷者を出しながら何年間も復活を目指して工事が行われるが、結局完成することなく放置されるという、当サイト史上ワースト級の非業な歴史を秘めた七影隧道だったが、本編紹介の2006年(平成18年)探索によって予想以上に多くの痕跡を発見することに成功した。
確かに隧道は机上のものではなく、建設が進められたことがはっきりしたわけだが、その「完成せずに終わった」という史実ゆえ、建設当時の写真が存在する可能性は絶望的と考えていた。
だが、2014年(平成26年)9月20日、無いと思っていたものに出会ったのである。
この日、青森市森林博物館の企画展「よみがえれ 津軽半島森林鉄道」の展示物に、次の写真があるのを見付けた。
この3枚の写真である。
キャプションが付いているが、上の1枚は「連絡林道 相の股トンネル
」で、下の2枚は「連絡林道 相の股トンネル(現在)
」とある。
他には何も撮影場所や撮影対象に関する情報は無く、撮影者の氏名なども不明である。
また、この3枚の写真が印刷されたA4の紙は、津軽森林鉄道とその支線網に残る遺構の数々を紹介するコーナーに納められて数十枚のうちの1枚だったが、他の展示物に連絡林道や七影隧道についての記述はない。
だが、私はこの3枚のうち、下の2枚の光景に見覚えがありすぎた。
それゆえ、同じ隧道の古写真として取り上げられている上の1枚の素性が、猛烈に気になったのである。
これは初めて目にする、あの七影隧道の昔の姿なのだろうか。
だが、キャプションには「相の股トンネル」とある。七影隧道とは別の隧道なのか?
私たち(同行は細田氏&柴犬氏)は、すぐさまこの写真の素性を調べることに決めたが、なんと当日のうちにスピード解決した。
この日我々が青森を訪れたそもそもの目的が、博物館隣の沖館公民館で行われた企画展と同名のシンポジウムにあったのだが、そこでパネリストとして登壇された草g與雄氏(前青森市森林博物館専門員)が件の展示物の製作者であることが判明。イベント後に直接お話しを伺うという幸運な機会を得たのである。
ずばり草g氏によれば、この写真は私が七影隧道と呼称していたもので間違いがないという。
隧道は小泊と磯松を結ぶ峠にあるが、磯松側からは相の股沢を辿った所で、小泊側からは七影沢の先にあるため、それぞれの地区で別の呼称があるそうだ。そして、正式名は相の股隧道であるのだとも。
余談だが、津軽森林鉄道で相の股隧道といえば、本線が中山峠を越える区間にある隧道が同名でかつ有名である(レポ)ほか、同線の喜良市支線にも同名の隧道が存在しておりややこしい。
また、写真の出所についてだが、最近の調査で地元の方が所有しているのを発見したとのことだ。
やはり、私が以前関係資料を探した当時はまだ世に出回っていない、秘蔵の写真だったのである!(興奮!)
そして最も気になる質問。
この古写真が、七影隧道のどこを、いつ撮したのかについてであるが、完成直前に磯松側の坑口(南口)(訂正:現時点ではどちらの坑口かは不明)を撮したものだという。
現在残されているコンクリート坑門の南口(→)とは異なる姿だが、昭和17年の建設当初、二つの坑口はこんな姿で誕生したのだろうか。
崩壊という結末に終わった隧道ゆえに余計そう感じるのだろうが、木製の支保工はいかにも心許なく見えてしまう。
だが、開通式のわずか4日前に北口が突如落盤閉塞し、そのまま再開通することのなかったとされる隧道が、この竣工時の検測らしき撮影の瞬間においては、全長129mをもって、確かに北口へ通じていたのだと思うと、なんとも感慨深い。
いや、本当にいいものを見る事が出来た。
津軽ではいま北海道新幹線の開業を間近に控え、「日本初の森林鉄道」としての津軽林鉄の記録や遺構を、地域の資源として活用しようという試みが、活発に進められているので、今後も貴重な記録が発見される可能性は高いと思う。
青森営林局局長室(ほんもの!)にて、局長柴犬(シバニャン)氏に
七影隧道工事失敗の厳しい叱責を受ける、担当営林署土木課長細田氏(想像再現)。