隧道レポート 昆布森海岸の割れ岩隧道 机上調査編

所在地 北海道釧路町
探索日 2023.10.25
公開日 2024.01.06

 机上調査編 〜道徳の教材になったトンネル〜



Morigen氏撮影

帰宅した私は、すぐに割れ岩隧道攻略成功の報を、情報提供者であるMorigen氏に伝えた。
それと同時に、追加の質問を送った。
その質問とは、Morigen氏がこの隧道の存在や、割れ岩トンネルという名前を把握された経緯である。

私はこれまで釧路地方との関わりが全くなく、当地方の交通史についても知識をほとんど持ち合わせていなかった。
机上調査のとっかかりとして、彼が持つ情報を欲したのである。
なんと彼からの返事は、その日のうちに送られてきた。大略、以下のような内容だった。

いまから数年前、彼が大学生であった当時、学内の図書館では北海道新聞の平成初期以降のバックナンバーが閲覧できた。当時からトンネルや土木に興味を持っていたので、関係する記事を読み漁った。そうして、このトンネルに言及した1本の記事を見つけた。
すぐに現地を見たいと思ったが、当時はネット上に情報がなく、場所もよく分からなかったので見つけることが出来なかった。ようやく発見したのは2023年6月のことだったが、その時は波と潮位に味方されず、辿り着くことができなかった。

発見のきっかけとなった北海道新聞の記事タイトルと内容も添えられていた。
その記事は現在も「どうしんDB」に登録すれば閲覧できる。
掲載号は平成14(2002)年9月5日号全道版夕刊で、記事タイトルは「<色の道景色 列島フォトリレー>4*釧路町・割れ岩トンネル*光るコンブが往来」というもの。
以下に内容を引用する。

太平洋を北上する台風がもたらすうねりが、沿岸で高い波となって岩礁にぶつかる。釧路管内釧路町昆布森海岸の通称「割れ岩」は、波で削られた岩がさまざまな造形美を織りなす。大人が通れるほどの高さで、長さ約10メートルの小さなトンネルがある。40年ほど前に地元の児童、生徒の通学用に掘られたが、浸食と落石の危険から、いま使うのはコンブを拾う漁業者だけ。昆布森漁協によると、今年のコンブは実入りはいいものの、7月からの停滞前線の影響で、操業できたのは解禁から50日間でわずか7日。船を出せないいら立ちを抑えて、黙々と海岸線のコンブを拾う。昆布森西城山の日下広さん(67)は「秋になると風が変わる。西風が強くなると向こうにコンブがたまるんだ」と、年齢を感じさせない足取りでトンネルの中に消えた。

『北海道新聞(全道版)2002年9月5日夕刊』より

この記事が、Morigen氏を導いたのである。
記事タイトルに早速「割れ岩トンネル」の名称があり、本文の内容は明らかに今回探索の隧道であろう。ただ全長については、記事にある「約10m」よりは幾分長いように私は思う。竣工年や建設の目的についても言及があり、「(2002年から数えて)40年ほど前」に「地元の児童、生徒の通学用に掘られた」という。年号に直せば昭和37(1962)年頃ということか。
またこの記事の当時、浜で昆布を拾う漁業関係者がトンネルを日常的に利用していたことも出ている。

なお、今回現地でお話を伺った地元住民は、「戦前からあると思う」と語っていたのだが、記事では戦後の竣功となっている。また、ご自身が昆布森小学校への通学に用いたと語っていたが、むしろそれこそがトンネル建設の目的だったらしいのである。

当サイトでこれまで扱った人道サイズの隧道の中には、通学路としての利用を主目的に建設されたとされるものがいくつもあった()。
今より遙かに暮らしと土木作業の距離が近かった時代には、守るべき子供たちのために、地域の大人が手を携えて、危険な通学路にトンネルを掘ろうとすることは、それほど特別な行為ではなかったのかもしれない。


こうして北海道新聞というとっかかりを得た私は、さらに「どうしんDB」の検索を続け、このトンネルに言及した記事をもう1本見つけることが出来た。
平成6(1994)年7月28日の釧路・根室版朝刊の記事、「<昆布森界わい>3*トンネル*昔通学いま生活用」である。
この記事ではもう少し詳しくトンネル建設の経緯が紹介されていた。以下、引用する。

大人が背をかがめてやっと通れるくらい。直径約1.5メートル、長さは約10メートル。岩をくりぬいただけの洞くつのようなそれを人々は割れ岩のトンネルと呼ぶ。昆布森の城山と市街は山ひとつ隔てて隣りあった湾に面している。歩いて町道を上り、道道から昆布森市街へ下ると一時間弱はかかるが、海岸づたいの近道を歩き、割れ岩のトンネルを通れば十数分。トンネルができたのは1964年だった。「子供たちの通学用にぜひ」と陳情を繰り返した住民の願いを受け止め、釧路村(現在の釧路町)が造った。城山青年団など地元の人々も掘るのを手伝った。

それまで城山、宿徳内、又飯時の子供たちは海岸の砂浜を歩いて昆布森小へ通学していた。海に突き出た割れ岩の先は波をかぶりやすかった。「子供たちは『三回大きな波が来たら、四回目は小さな波』と指折り数えて割れ岩の先を渡ったもんだ」と語るのは昆布森小卒の小西恒彦さん(63)=釧路水産協会専務=。小西さん自身、割れ岩の先を通りぬけようとして波にさらわれかけたことがある。「死ぬところだったよ。あそこは危ない場所だった」。親たちもヒヤリとした経験がある。親心が、村を動かし、トンネルはできた。又飯時で育った小泉信子さん(35)=釧路市在住=は小学校入学から中学校卒業までトンネルを利用した。「山を越えるよりずいぶん楽だったけれど、雨が降ると水はたまるし、少し気味悪い場所でした」と懐かしむ。

現在は、切り立った岩壁が海に落ちるようにつながる昆布森沿岸だが、かつては広い砂浜があり、海岸づたいに歩いて行くことができた。ところが年とともに海岸の浸食が激しくなり砂浜は消え、城山から海岸づたいに昆布森に行くのは危険になった。トンネル出入り口の砂が削り取られた分だけ出入り口までの段差が大きくなり、昆布森側の出口はロープがなくては下りられなくなった。スクールバスが通るようになった1974年、ついにトンネルは通学用としてのお役ご免に。現在は、コンブ拾いの漁師や釣り人の通路として使われている。トンネルの中はごみが目立ち、きれいとはいえない。地元の漁師は「今でもトンネルはなくてはならない住民の大切な生活道路。釣り客もマナーを守って大事に使ってほしいね」と話す。

『北海道新聞(釧路・根室版)1994年7月28日朝刊』より


先の記事の8年前に掲載された本記事は詳細である。
まず、トンネルが建設された年が昭和39(1964)年と明記されており、建設の経緯としては、子供たちの通学路にぜひという地元住民の陳情を受けた当時の釧路村の事業によるもので、地元の城山青年団などが工事を手伝ったという。城山青年団といえば、今回先達からお話を聞いたあの集落の青年団だ。

トンネル建設以前の危険な通学事情も詳細に述べられている。トンネルを通って昆布森小へ通学していたのは、城山のほか、隣接する宿徳内(しゅくとくない)と又飯時(またいとき)の子供たちで、各集落の位置は右図に記したが、いずれも城山同様の立地だ。

通学路としてのトンネルの利用が終わった時期も昭和49(1974)年と明示されており、スクールバスが通うようになったことによるという。
さらに、平成6(1994)年の時点で既に砂浜の後退が進み、トンネルが高所に取り残された状態だったことも分かる。

昆布森海岸での険しい海岸伝いの通学風景を撮影した貴重な映像がある。
以前の須築トンネルのレポートでも引用したことがあるが、「昭和33年 あの道、この道」という記録映画で、youtubeに公開されている動画の1:15付近から、十町瀬(とまちせ)から跡永賀(あとえが・あとえか)の小学校に通う子供たちの通学風景が写っている。
ここは現地未調査だが、地形図を見る限り昆布森と近い地形条件であり、トンネル建設以前の通学風景をイメージする役に立つだろう。


さらに北海道新聞の調査を続けたところ、トンネル完成当時のものとみられる写真を発見するに至った。
紹介するのは、令和5(2023)年8月16日に同社サイトに掲載された「子供たちのまなざし 開拓地、コンブ番屋、イモ掘り学級… 戦中から昭和40年代<記憶の光景>」という長編記事だ。
戦中から昭和40年代の記事に使われた道内各地の子供が写った取材写真をテーマ毎に紹介しているこの記事の中に、「■小学生が掘った通学トンネル」というインパクト抜群の見出しに始まる次の一節が見つかった。


同記事より

1958年(昭和33年)1月1日付夕刊は、安心して通学できるようにと釧路管内釧路村(現釧路町)昆布森の小学生らが中心になって掘ったトンネルを紹介しています。
昆布森から西の集落の子供たちは海岸伝いに歩き、昆布森小まで通っていました、その途中に巨大な断崖の「割れ岩」があります。割れ岩への波がサーッとひいた時、わずかに姿を見せる砂地を通らなければなりませんでした。
波にさらわれる子供も出ました。「安心して通学したい」と子供たちは休日の午後や夏休みに集まり、ハンマーとツルハシを持って、通学路を切り開き始めました。しかしそこに立ちはだかったのが「割れ岩」。子供たちの頑張りに青年団の青年や地域の人も加わって岩を掘り続けて1年半、トンネルが貫通しました。

北海道新聞サイト2023年8月16日発信の記事「子供たちのまなざし」より

本文の内容も衝撃的なのだが、まず写真について言及したい。
この右の写真が、昭和33年1月1日の記事に掲載されたもので、元記事では写真について、「ズボンのすそをまくり、スカートをたくし上げて波打ちぎわを死にもの狂いに走ったのも昔のこと。喜々として子供たちはトンネルをくぐる」と紹介しているとのこと。

ここに写っているトンネルは、【今回撮った写真】と比較すると、坑口上の尾根の形や、左手前の岩場の形が酷似しており、同一箇所と判断できる。
だが一方で、坑門や坑門付近の外観は大きな違いがある。
まず、坑門には坑道の入口を思わせるような三つ枠の支保工が設けられている。その周囲は石積みで、落石から坑口を守っているように見える。
また、坑口前には土っぽい平場があり、急なスロープ状で手前の砂浜へ下りている。坑口は砂浜から2mくらいの高さにあるように見えるが、現在ここにはもう砂地はなく、海底と同じ基盤岩が露出しているので、そのぶん高さが増している。

次に本文の内容だが、小学生たちが中心になって掘ったトンネルとされていることが、これまでの記事にはなかった内容だ。

前掲した1994年の記事では、通学路の安全のために大人たちが釧路村へ陳情し、村が建設、その工事を地元青年団も手伝ったという経緯だが、この1958年の記事では、通学路の安全のために子供たちが自ら休日や夏休みに集まってトンネルを掘り、これを青年団や地元の人も手伝ったという経緯であり、大きく異なっている。
さらに、竣工時期にも差があって、1994年の記事では昭和39(1964)年完成1958年の記事では昭和33年1月1日時点で完成済(何年完成か記載なし。ただし工事期間は1年半)である。少なくとも6年は違うことに。

うう〜〜〜ん?!

古い出来事については、その出来事に近い時期に編まれた記事、即ち古い記事こそ信頼すべきという感じはあるので、少なくとも竣工年については、写真もあるし、昭和33年時点でそれが存在したことは間違いないと思う。もしかしたら、後年それを釧路村が村道に組み入れるなどして改修を行い、その完成が昭和39(1964)年だったので、この年が竣工年として記録され、記事にも引用されたというのは可能性の高い説になるかと思う。

ただ、小学生が堀り始ったというのは、どうなんだろう?
小学生だよ。
掘れるかな?
私という人間は、どちらかといえばリアリストよりもロマンチスト寄りだと思うが、トンネル堀りの困難さは沢山見聞きしてきただけに、この技術的な部分については、易々とそうでしたかとは思えないのである。

そして、この“小学生掘削説”を記録した記事が、なんと他にも発見された。
見つけたのは当サイトの机上調査に貢献が大きい協力者の一人である"るくす氏"で、奇しくも先の記事と同じ昭和33(1958)年に講談社が刊行した、大日本雄弁会講談社教育図書出版部編の『心のかがり火 道徳教材説話集』である。


『心のかがり火 道徳教材説話集』より

この道徳の教材書に、「小学生が掘った通学トンネル」という章題で採り上げられており、ドキュメンタリー風にまとめられている。
少し要約してまとめると、“割岩”の難所が通学路である現状を憂えた昆布森小学校が、教育委員会釧路事務局にトンネル建設の陳情をくり返したが、なかなか実行されなかった。そうしているうちに、昭和29年の冬、同小3年の男子児童が登校中にこの場所で波に呑まれた。幸い通りかかった地元民に救出されて事なきを得たが、学友の事故にショックを受けた子供たちは、自分たちの手で安全な通学路を作りたいと考えるようになった。子ども自治体で工事の方法を取り決め、西側から工事を始めることにした。割岩のトンネルの前に、トンネル前後の道も整える必要があり、子供たちは毎日放課後に小さな腕にハンマーとツルハシを振った。土曜日と日曜日の午後も工事に当てたし、夏休みも勉強の時間を除いて日が暮れるまで通学路を切り開いた。そうして同年秋までに200mの道を整えることが出来た。いよいよ割岩のトンネル堀りに挑もうかという矢先、その年入学したばかりの1年女児がまたしても波に呑まれ、今度も部落民に助けられたが、いよいよ子供たちは危機感を募らせ、「やっぱりぼくたちの手で、ぼくたちをまもろう。」と一層奮起。そのうち、子ども自治会を指導していた教諭も工事の手助けをするようになり、さらに青年団員や部落民たちも暇を見ては奉仕するようになった。

翌年10月、切り立ったガケに、40メートルのトンネルが、ポッカリと口をあけた。子供たちの手によって、“割岩”が貫かれたのである。

『心のかがり火 道徳教材説話集』より

こうしてトンネルが完成したことで、それまで海が荒れた日には半数近くが欠席していた学校の出席率はほぼ100%になり、トンネルは子供たちだけでなく、自転車を押した郵便配達員や、買い物かご片手のおかあさんも、気軽に昆布森に出かけられるようになった。

……というお話しだ。
この説話だと、トンネル前後の通学路の工事が子供たちの手で始まったのが昭和29(1954)年の春以降で、同年秋にトンネル工事に着手、翌昭和30(1955)年10月に全長40mのトンネルが完成したということになる。
また、トンネル工事を子供たちが行っている部分の具体的描写はなく、この時期には教諭や地元民が工事の主力になっていたようにも読めるので、それなら現実的かなという気がする。
あと地味に、各新聞記事は(トンネル内へは立ち入らなかったのか)全長を約10mとしていたが、この説話では全長40mとしており、これが実際に近いので信憑性がある。


さらに、学習雑誌である『中学一年コース1958年4月号』にも、「岩にいどんだ一年半」の章題で、同様の話が収録されているという。
るくす氏より同記事も譲り受けたが、内容は説話集のものに登場人物のセリフなどの肉付けを多くしたもので、細部に違いはあるが、昭和30年10月という完成時期やトンネルの長さ、登場人物名などは一致していた。説話集になかった内容としては、完成したトンネルの利用者数に言及した部分で、毎日50人ほどの子供たちが通学で通るほか、地元住民など約400人が利用しているとあった。
そして、最後の今後の見通しとして、次のようなことも書かれていた。

この通学トンネルの開通に刺激された村では、近く昆布森の山腹から、西部落へまっすぐにつながる、200メートルほどのトンネル工事を始めるといっている。西部落の人たちが、沖に出てとるコンブを、いそ舟で昆布村へ運んでいた、いままでの不便を解決し、りっぱな産業道路にしようというプランである。

『中学一年コース 1958年4月号』より

果たしてこのトンネルに近いものは、記事から半世紀近く後の平成17(2005)年に完成し、【昆布森トンネル】となっているようだ。(記事の時代には建設に至らなかったのだろう)


昭和33(1958)年の元旦の新聞記事が、この話の解禁を報せでもしたかのように、同年内に様々な媒体で発信された「小学生が通学路に掘ったトンネル」の美談。
だが、その美談的要素を否定しかねない、より古くに編まれた記事もるくす氏は見つけて教えてくれた。
週刊読売1956年9月9日号』に掲載された、「ニューズを追って 昆布森村の通学トンネル」という記事だ。これまでよりさらに2年早い昭和31(1956)年の記事である。

(前略)子供たちが波にさらわれかけたこともしばしばあった。一番よい方法は山すそにトンネルを掘って、近道を安全に通れるようにすることだ。 「よーし、おれたちの力でやろう!」衆議もなにもない。みんながやる気になっていた。
ことしの5月上旬、村人たちのトンネル工事がはじめられた。
岩石をけずり、人が通り抜けられるほどの穴をあけるのは容易なことではない。みんなしろうとばかりの集りだ。なれないながらも、トンチン、カンチンと小穴を掘り、ハッパをかけ、子供たちの声援に励まされて掘り進んだ。そして3ヵ月、8月はじめに、ついに貫通した。
幅一間、おとながやっと立って歩けるほどの、名ばかりのトンネルだが、その数十メートルのトンネルは、安全に子供たちを送り迎えてくれる。もう波にさらわれる心配はない。親たちも安心して働いていられる。

『週刊読売1956年9月9日号』より

この記事では、トンネル工事を計画し、実行したのは、地元の大人たちである。
また、工事期間も異なっており、着工は(取材が掲載と同年であれば)昭和31年5月上旬で、完成は同年8月はじめである。わずか3ヶ月で掘り抜かれたことになっている。あるいは取材年が昭和30年だったら、同年8月はじめの完成となるだろうが、ちょっとここははっきりしない。

道徳教材とニュースは目的が異なっている。前者の内容には、フィクションが含まれているのが普通だろう。
現在見つかっている中で最も古い、昭和31(1956)年の『週刊読売』の記事にあるトンネル建設の経緯が、真実により近いと思う。
通学路の安全を目的に据えて、地元の人々が手を取り合って建設した小さなトンネルというローカルな美談が、世の規範たる道徳を知らしめる教材として何者かの注目に挙がり、そこでいくらかの脚色を受けて、より広く人口に膾炙されんとした時期があった。
だが、脚色の部分は当然地元の記憶に残ることはなく、それゆえ、現地取材による90年代以降の新聞記事や、私が聞き取りをした古老の口から語られることはなかったのだ。
そのように理解している。


等身大の人間が作り上げた隧道が、荒波に口をあけている。
土木を愛する者にとって、その眺めだけで、先人への敬愛という道徳に満たされる思いがする。



 机上調査編(第2部) 〜砂浜の名もなき道の記録〜



この砂浜に刻まれた長い交通の記録を探った

隧道については概ね調べが付いたが、その調べをする中で、隧道が掘られる以前から昆布森海岸の砂浜は“道”として利用され、通学だけでなく日常的に頻繁に往来されていたことを知った。
道ならぬ道の存在に興味を感じた私は、1本の隧道の歴史を包含するもう少し広い視点から、地域の交通路の変遷を調べてみることにした。

まずは定番、歴代の地形図チェックから。



@
地理院地図(現在)
A
昭和30(1955)年
B
大正11(1922)年

@は最新の地理院地図だ。中央右寄りの家屋が多く集まって赤っぽく見えるところが昆布森の市街地だ。そこから海岸伝いに西に目を向けると城山、宿徳内といった地名が見える。これらの集落も浜沿いの低地にあり、かつては昆布森との間で浜伝いの往来が行われた。中でも城山と昆布森の間の割れ岩の難所には昭和30年代に隧道が建設され、人々の往来を助けたのであった。
しかしそれらの古い道は、この時代の地図には全く描かれていない。

Aは昭和30(1955)年の地形図である。
この時代は今より海岸の砂浜が広く、それは地形図からも読み取れる。それゆえ浜伝いの往来が盛んで、特に子供たちの通学路として重視された。しかし地図上の道としては表現されていない。
一方で、この地図には既に現在の道道142号の旧道にあたる車道が山伝いに描かれている。
浜を歩いた時代から、道路を車で行き交う時代へと移り変わりつつあることが分かる。大人がいち早く車を活用するようになり、浜には子供たちの通学路としての役割が残されたのだ。それは昭和49(1974)年にスクールバスの運行が始まるまで続いたという。

Bは大正11(1922)年の地形図で、当地を描いた最古の5万図となる。
この地図だと、「宿徳内」から「鸚寄別」を経て「昆布森村」まで、浜辺に道が描かれている。二重破線のこの記号は、当時の図式では「里道(間路)」を示すもので、里道の中で最も下級の道路を意味していた。
この地図の時代には、大人も子供も分け隔てなく浜辺を往来していたのである。



次に新旧の航空写真も確認してみた。

平成23(2011)年版と昭和42年版を比較すると、明らかに砂浜が縮小していることが分かる。
干満差の影響も考えて、これら以外にも様々な年代の写真をチェックしたが、全体として砂浜の縮小は明確に見て取れた。

今回の探索で報告したとおり、現在では干潮のタイミングを選んだとしても割れ岩の迂回が難しい。だが、昭和42年の航空写真では、割れ岩の部分にもかなり広い砂浜が見えている。当時の隧道は、満潮や波が荒れている時に役立ったのだと思う。

また、先ほどのAとBの地形図には、割れ岩がある浜を迂回して山を越える歩道も描かれていたが、その道は昭和42年の航空写真によく写っている。写真に「山道」と注記したのがそれだ。これも歴史の深い道だと思われる。



次は一気に時代を遡り、当地の往来の記録としては最も初期に属するものを紹介したい。
当サイトではこれまでも何度も引用している、松浦武四郎の記録である。
江戸時代の探検家松浦武四郎は、安政3年(1856)年に幕府の命を受けて蝦夷地探検を行い、「東西蝦夷山川地理取調図」をまとめた。
その中に釧路から厚岸へ向かって陸路と海路を旅した記事があり、今回探索した城山から昆布森に至る部分の記述を採り上げる。
引用元は、時事通信社刊『蝦夷日記(上)』で、( )は全て原書からある注記である。

チヤシコツ(城跡)、沙濱まゝ(一丁廿間)マツチヨロベツ(小川)、此處大立岩三ツ有、皆崩岸。廻りてエトルンペ(岬)、奇岩怪石の下を過て(十三丁四十間)川有。越てチヨロベツ(通行や、板蔵、弁天社、土人一軒、従クスリ四里)、此番屋近年迄川向なるコンブムイに在しを、爰に引来りしなり。

松浦武四郎『蝦夷日記(上)』より

下線を引いたところが、今回私が目にした奇岩怪石の並ぶ海岸風景の描写だ。
160年以上も昔の記録だが、現地との符号を感じられる。「大立岩三つ有り」は、どの三つを指しているかは分からないが、【そんな景色】が今もあるし、明治時代に入って漢字へ改められる前のアイヌ語の地名にも、今日のそれに通じるものをいくつも見ることが出来る。
この少し前に昆布森(コンブムイ)の集落が現在地へ移転してきたことも書いてあり、そこにある「通行や」とは、幕府が主要街道沿いに整備した公的な休憩施設のことである。

寛政11(1799)年に東蝦夷地の広範囲が幕府の直轄地となってから、昆布森は、内地より釧路(クスリ)を経て厚岸、根室、千島方面へ向かう(多くは北方警備の任務を負った)役人たちが通う道として、幕府の指示によって最低限の整備がされていた。後に子供たちがきゃあきゃあ行き交ったあの砂浜を、帯刀した侍たちが任務に向かって黙々と歩いていた。そんなことを想像するのは、なかなか愉快ではないか。



江戸時代にまで思いを馳せたところから、再び現代へ向かって話を進める。

まずはこの地図を見て欲しい。これは釧路から厚岸にかけての最近の道路地図(SMD24)だ。
松浦武四郎の時代と変わらず、いまも釧路、厚岸、根室を繋ぐルートは、道東の太平洋岸における幹線として、国道44号がその役割を果たしている。
国道44号は、釧路市から釧路町を経て厚岸町の尾幌(おぼろ)までの区間は、やや内陸を通る。
これに対し、昆布森海岸の沿岸部を通る道路として、本編と関わりの深い道道142号根室浜中釧路線が存在する。

この2本のルートを調べてみると、昔から国道と県道の関係だったわけではなく、かなり複雑な変遷があって興味深い。
そしてそこには、今回探索した浜辺の道も深く関わってくるのである。
以下の内容は、主として『北海道道路史』(平成2年)を参考にしてまとめた。



@
江戸時代
A
明治初期
B
明治中期
C
明治後期
D
大正〜昭和前期
E
昭和後期〜現在

釧路と厚岸(現在の国道経由で約45km離れている)を結ぶ道路の変遷について、簡略な図を書いてみた。@からEまで順に説明する。

@は江戸時代のルートである(地名は現在のものを使用)。
先ほども述べたとおり、寛政11(1799)年に幕府直轄地となって以来、釧路から厚岸を経て根室国後方面へ至る公道が、幕府の指示で次第に整備された。釧路〜厚岸間には昆布森と仙鳳趾(せんぽうし)に通行屋が置かれた。釧路〜昆布森は浜伝いに道があったが、より条件が厳しい昆布森〜仙鳳趾には馬の通れる山道が整備された。

Aは明治初期、蝦夷地より北海道へ名を変えた大地が開拓使の手で開発され始めた時期である。明治2(1869)年に早くも道内の主要道路の一つとして、東海岸根室道が指定されている。そのルートは前時代のものを踏襲した。

Bは明治中期の短い期間、北海道が札幌県、函館県、根室県に分割されていた時期だ。この時期には全国統一の道路制度が誕生し、従来の東海岸根室道は明治15(1882)年に国道三等となった。さらに変遷する制度に合わせ、明治18年には国道43号線に改められた。

現在と制度は根本的に異なるものの、初期の国道(いわゆる“明治国道”)の一路線(明治18年に指定された44本のうちの1本)として、東京府と根室県を結ぶ(現存するあらゆる国道より)長大な国道43号が、昆布森の砂浜に誕生した!……とみられるのだ。


国立公文書館デジタルアーカイブ「国道図」より

当時の国道は、今日のように詳細な図面上に定まったルートはなかった。だから、砂浜が国道であったとしても、それを証明する記録は見当らない。当時の公図が見られれば参考になるかも知れないが未見である。国立公文書館デジタルアーカイブが公開する「国道図」には、小縮尺だがこの道が描かれており、釧路、昆布森、仙鳳趾、厚岸を繋ぐ国道が海岸沿いにあったことが分かる。

@〜Bは、ほとんど同じ場所を通っていた。まだ車道化はされず、人や馬が行き交うだけの原始的な道だった。
だが着実に道東の開発は進み、Cからは大きく変遷していく。

Cは明治後期、三県分立の反省から、強力な力を与えられた北海道庁の牽引によって、道内全土の開発が急速に進められた時期である。
まずは札幌と道東の主要都市(北見、網走、釧路、根室)を最短で結ぶ中央道路の整備が、明治20年代に大々的に進められた。これにより苫小牧から釧路を経て根室へ向かう従来の国道43号は全体の交通量を減じたが、さらに釧路〜厚岸に馬車が通る道を建設するには、従来の海岸ルートでは不適切と判断され、明治33(1900)年までに内陸へ大きく迂回する遠矢と太田を結ぶ新道が整備され、これが新たに仮定県道南海岸線となった。格付けとしては国道より下だが、実質的にその代替となったのであり、根室県消失以来も根室を終点としていた国道43号についても、明治40年に旭川の第七師団を終点とする路線へ変更されたことで当地から消えた。

明治40年が、名実ともに、昆布森から「国道」と呼ばれた道が消えた年なのである。

Dは大正時代から昭和前期、概ね旧道路法の時代である。
この時代にルートは再び大きく変化し、迂回の大きかった遠矢〜太田の道に代わり、最短距離で釧路と厚岸を結ぶ上別保〜尾幌間の新道が明治40(1907)年に植民道路として開発され、これが大正9(1920)年の旧道路法施行を期に、現在の主要地方道に相当する地方費道札幌根室線に指定された。このルートが、Eの昭和後期、現行道路法の時代に入って、まず二級国道242号釧路根室線に昇格し、さらに昇格して一級国道44号、次いで現行の一般国道44号となったのである。

その一方で、釧路から昆布森、仙鳳趾を経て厚岸に至る古の国道である海岸ルートだが、釧路〜昆布森の区間が大正9年に現在の一般道道に相当する準地方費道釧路昆布森線となった以外は町村道に甘んじた。
新道路法公布後の昭和35年にようやく一般道道尾幌昆布森釧路線として、現在の道道142号の一部である尾幌〜釧路間が1本の道道になった。以後、何度か路線名を変えながら、平成5年に主要地方道へ昇格し、同時に現行の路線名となった。

なお、割れ岩の隧道が、ここで名前が出た準地方費道や一般道道であった時期は、おそらくないと思う。町村道であったことも多分ない。
なぜなら、Morigen氏が収集されている昭和34年以降歴代の北海道および開発局の「道路現況調書」に含まれるトンネルの一覧に、それらしいものがないのである。
隧道の建設には当時の釧路村が関わっていたとの話もあるが、最後まで公道には認定されなかったようだ。(リストにならない林道や農道の可能性もある)

最後に、大正12(1923)年に編纂された『釧路発達史』という文献より、大正当時の昆布森村の交通事情の記述を紹介する。

本村の交通関係は鉄道沿線に遠かり目下不便の状態に存り、釧路市大字桂恋村より来る村道は昆布森村の西部シユクトツ、ウシユナイより海岸に沿ふて昆布森市街に至り、夫より海岸を離れて丘陵を超へ迂回してアトイオカケに至り、跡永賀村より再び山間を過ぎ、仙鳳趾村より厚岸湾に沿ひ厚岸町大字苦多村に達す、本村道路は多く丘陵の間を上下し断崖の下を通過するを以て、部内の交通は極めて不便なり。故に冬期間に於ては各部落間の交通杜絶することあり、日用物資は多く海上に依り小廻船を以て釧路及び厚岸に供給を仰げり、本村の交通は右の状態にあるを以て秋冬の季に当り天候不良に際会せば時々糧食欠乏を来すことあり、

『釧路発達史』(大正12年)より

ここにもシユクトツ(宿徳内)から昆布森までの道は海岸にあったと明示されている。
そして、何度も、不便な状態だと書いている。
このような状況に耐え忍んだ百年後のいま、快走路となった道道が各地区を結んでいる。耐えて、勝ち取った。




道なき道の砂浜の いにしえ想う昆布の堤   (ヨッキれん作)





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