Morigen氏撮影
帰宅した私は、すぐに割れ岩隧道攻略成功の報を、情報提供者であるMorigen氏に伝えた。
それと同時に、追加の質問を送った。
その質問とは、Morigen氏がこの隧道の存在や、割れ岩トンネルという名前を把握された経緯である。
私はこれまで釧路地方との関わりが全くなく、当地方の交通史についても知識をほとんど持ち合わせていなかった。
机上調査のとっかかりとして、彼が持つ情報を欲したのである。
なんと彼からの返事は、その日のうちに送られてきた。大略、以下のような内容だった。
いまから数年前、彼が大学生であった当時、学内の図書館では北海道新聞の平成初期以降のバックナンバーが閲覧できた。当時からトンネルや土木に興味を持っていたので、関係する記事を読み漁った。そうして、このトンネルに言及した1本の記事を見つけた。
すぐに現地を見たいと思ったが、当時はネット上に情報がなく、場所もよく分からなかったので見つけることが出来なかった。ようやく発見したのは2023年6月のことだったが、その時は波と潮位に味方されず、辿り着くことができなかった。
発見のきっかけとなった北海道新聞の記事タイトルと内容も添えられていた。
その記事は現在も「どうしんDB」に登録すれば閲覧できる。
掲載号は平成14(2002)年9月5日号全道版夕刊で、記事タイトルは「<色の道景色 列島フォトリレー>4*釧路町・割れ岩トンネル*光るコンブが往来」というもの。
以下に内容を引用する。
太平洋を北上する台風がもたらすうねりが、沿岸で高い波となって岩礁にぶつかる。釧路管内釧路町昆布森海岸の通称「割れ岩」は、波で削られた岩がさまざまな造形美を織りなす。大人が通れるほどの高さで、長さ約10メートルの小さなトンネルがある。40年ほど前に地元の児童、生徒の通学用に掘られたが、浸食と落石の危険から、いま使うのはコンブを拾う漁業者だけ。昆布森漁協によると、今年のコンブは実入りはいいものの、7月からの停滞前線の影響で、操業できたのは解禁から50日間でわずか7日。船を出せないいら立ちを抑えて、黙々と海岸線のコンブを拾う。昆布森西城山の日下広さん(67)は「秋になると風が変わる。西風が強くなると向こうにコンブがたまるんだ」と、年齢を感じさせない足取りでトンネルの中に消えた。
この記事が、Morigen氏を導いたのである。
記事タイトルに早速「割れ岩トンネル」の名称があり、本文の内容は明らかに今回探索の隧道であろう。ただ全長については、記事にある「約10m」よりは幾分長いように私は思う。竣工年や建設の目的についても言及があり、「(2002年から数えて)40年ほど前」に「地元の児童、生徒の通学用に掘られた」という。年号に直せば昭和37(1962)年頃ということか。
またこの記事の当時、浜で昆布を拾う漁業関係者がトンネルを日常的に利用していたことも出ている。
なお、今回現地でお話を伺った地元住民は、「戦前からあると思う」と語っていたのだが、記事では戦後の竣功となっている。また、ご自身が昆布森小学校への通学に用いたと語っていたが、むしろそれこそがトンネル建設の目的だったらしいのである。
当サイトでこれまで扱った人道サイズの隧道の中には、通学路としての利用を主目的に建設されたとされるものがいくつもあった(例、例、例)。
今より遙かに暮らしと土木作業の距離が近かった時代には、守るべき子供たちのために、地域の大人が手を携えて、危険な通学路にトンネルを掘ろうとすることは、それほど特別な行為ではなかったのかもしれない。
こうして北海道新聞というとっかかりを得た私は、さらに「どうしんDB」の検索を続け、このトンネルに言及した記事をもう1本見つけることが出来た。
平成6(1994)年7月28日の釧路・根室版朝刊の記事、「<昆布森界わい>3*トンネル*昔通学いま生活用」である。
この記事ではもう少し詳しくトンネル建設の経緯が紹介されていた。以下、引用する。
大人が背をかがめてやっと通れるくらい。直径約1.5メートル、長さは約10メートル。岩をくりぬいただけの洞くつのようなそれを人々は割れ岩のトンネルと呼ぶ。昆布森の城山と市街は山ひとつ隔てて隣りあった湾に面している。歩いて町道を上り、道道から昆布森市街へ下ると一時間弱はかかるが、海岸づたいの近道を歩き、割れ岩のトンネルを通れば十数分。トンネルができたのは1964年だった。「子供たちの通学用にぜひ」と陳情を繰り返した住民の願いを受け止め、釧路村(現在の釧路町)が造った。城山青年団など地元の人々も掘るのを手伝った。
それまで城山、宿徳内、又飯時の子供たちは海岸の砂浜を歩いて昆布森小へ通学していた。海に突き出た割れ岩の先は波をかぶりやすかった。「子供たちは『三回大きな波が来たら、四回目は小さな波』と指折り数えて割れ岩の先を渡ったもんだ」と語るのは昆布森小卒の小西恒彦さん(63)=釧路水産協会専務=。小西さん自身、割れ岩の先を通りぬけようとして波にさらわれかけたことがある。「死ぬところだったよ。あそこは危ない場所だった」。親たちもヒヤリとした経験がある。親心が、村を動かし、トンネルはできた。又飯時で育った小泉信子さん(35)=釧路市在住=は小学校入学から中学校卒業までトンネルを利用した。「山を越えるよりずいぶん楽だったけれど、雨が降ると水はたまるし、少し気味悪い場所でした」と懐かしむ。
現在は、切り立った岩壁が海に落ちるようにつながる昆布森沿岸だが、かつては広い砂浜があり、海岸づたいに歩いて行くことができた。ところが年とともに海岸の浸食が激しくなり砂浜は消え、城山から海岸づたいに昆布森に行くのは危険になった。トンネル出入り口の砂が削り取られた分だけ出入り口までの段差が大きくなり、昆布森側の出口はロープがなくては下りられなくなった。スクールバスが通るようになった1974年、ついにトンネルは通学用としてのお役ご免に。現在は、コンブ拾いの漁師や釣り人の通路として使われている。トンネルの中はごみが目立ち、きれいとはいえない。地元の漁師は「今でもトンネルはなくてはならない住民の大切な生活道路。釣り客もマナーを守って大事に使ってほしいね」と話す。
先の記事の8年前に掲載された本記事は詳細である。
まず、トンネルが建設された年が昭和39(1964)年と明記されており、建設の経緯としては、子供たちの通学路にぜひという地元住民の陳情を受けた当時の釧路村の事業によるもので、地元の城山青年団などが工事を手伝ったという。城山青年団といえば、今回先達からお話を聞いたあの集落の青年団だ。
トンネル建設以前の危険な通学事情も詳細に述べられている。トンネルを通って昆布森小へ通学していたのは、城山のほか、隣接する宿徳内(しゅくとくない)と又飯時(またいとき)の子供たちで、各集落の位置は右図に記したが、いずれも城山同様の立地だ。
通学路としてのトンネルの利用が終わった時期も昭和49(1974)年と明示されており、スクールバスが通うようになったことによるという。
さらに、平成6(1994)年の時点で既に砂浜の後退が進み、トンネルが高所に取り残された状態だったことも分かる。
昆布森海岸での険しい海岸伝いの通学風景を撮影した貴重な映像がある。
以前の須築トンネルのレポートでも引用したことがあるが、「昭和33年 あの道、この道」という記録映画で、youtubeに公開されている動画の1:15付近から、十町瀬(とまちせ)から跡永賀(あとえが・あとえか)の小学校に通う子供たちの通学風景が写っている。
ここは現地未調査だが、地形図を見る限り昆布森と近い地形条件であり、トンネル建設以前の通学風景をイメージする役に立つだろう。
さらに北海道新聞の調査を続けたところ、トンネル完成当時のものとみられる写真を発見するに至った。
紹介するのは、令和5(2023)年8月16日に同社サイトに掲載された「子供たちのまなざし 開拓地、コンブ番屋、イモ掘り学級… 戦中から昭和40年代<記憶の光景>」という長編記事だ。
戦中から昭和40年代の記事に使われた道内各地の子供が写った取材写真をテーマ毎に紹介しているこの記事の中に、「■小学生が掘った通学トンネル」というインパクト抜群の見出しに始まる次の一節が見つかった。
同記事より
1958年(昭和33年)1月1日付夕刊は、安心して通学できるようにと釧路管内釧路村(現釧路町)昆布森の小学生らが中心になって掘ったトンネルを紹介しています。
昆布森から西の集落の子供たちは海岸伝いに歩き、昆布森小まで通っていました、その途中に巨大な断崖の「割れ岩」があります。割れ岩への波がサーッとひいた時、わずかに姿を見せる砂地を通らなければなりませんでした。
波にさらわれる子供も出ました。「安心して通学したい」と子供たちは休日の午後や夏休みに集まり、ハンマーとツルハシを持って、通学路を切り開き始めました。しかしそこに立ちはだかったのが「割れ岩」。子供たちの頑張りに青年団の青年や地域の人も加わって岩を掘り続けて1年半、トンネルが貫通しました。
本文の内容も衝撃的なのだが、まず写真について言及したい。
この右の写真が、昭和33年1月1日の記事に掲載されたもので、元記事では写真について、「ズボンのすそをまくり、スカートをたくし上げて波打ちぎわを死にもの狂いに走ったのも昔のこと。喜々として子供たちはトンネルをくぐる
」と紹介しているとのこと。
ここに写っているトンネルは、【今回撮った写真】と比較すると、坑口上の尾根の形や、左手前の岩場の形が酷似しており、同一箇所と判断できる。
だが一方で、坑門や坑門付近の外観は大きな違いがある。
まず、坑門には坑道の入口を思わせるような三つ枠の支保工が設けられている。その周囲は石積みで、落石から坑口を守っているように見える。
また、坑口前には土っぽい平場があり、急なスロープ状で手前の砂浜へ下りている。坑口は砂浜から2mくらいの高さにあるように見えるが、現在ここにはもう砂地はなく、海底と同じ基盤岩が露出しているので、そのぶん高さが増している。
次に本文の内容だが、小学生たちが中心になって掘ったトンネルとされていることが、これまでの記事にはなかった内容だ。
前掲した1994年の記事では、通学路の安全のために大人たちが釧路村へ陳情し、村が建設、その工事を地元青年団も手伝ったという経緯だが、この1958年の記事では、通学路の安全のために子供たちが自ら休日や夏休みに集まってトンネルを掘り、これを青年団や地元の人も手伝ったという経緯であり、大きく異なっている。
さらに、竣工時期にも差があって、1994年の記事では昭和39(1964)年完成、1958年の記事では昭和33年1月1日時点で完成済(何年完成か記載なし。ただし工事期間は1年半)である。少なくとも6年は違うことに。
うう〜〜〜ん?!
古い出来事については、その出来事に近い時期に編まれた記事、即ち古い記事こそ信頼すべきという感じはあるので、少なくとも竣工年については、写真もあるし、昭和33年時点でそれが存在したことは間違いないと思う。もしかしたら、後年それを釧路村が村道に組み入れるなどして改修を行い、その完成が昭和39(1964)年だったので、この年が竣工年として記録され、記事にも引用されたというのは可能性の高い説になるかと思う。
ただ、小学生が堀り始ったというのは、どうなんだろう?
小学生だよ。
掘れるかな?
私という人間は、どちらかといえばリアリストよりもロマンチスト寄りだと思うが、トンネル堀りの困難さは沢山見聞きしてきただけに、この技術的な部分については、易々とそうでしたかとは思えないのである。
そして、この“小学生掘削説”を記録した記事が、なんと他にも発見された。
見つけたのは当サイトの机上調査に貢献が大きい協力者の一人である"るくす氏"で、奇しくも先の記事と同じ昭和33(1958)年に講談社が刊行した、大日本雄弁会講談社教育図書出版部編の『心のかがり火 道徳教材説話集』である。
『心のかがり火 道徳教材説話集』より
この道徳の教材書に、「小学生が掘った通学トンネル」という章題で採り上げられており、ドキュメンタリー風にまとめられている。
少し要約してまとめると、“割岩”の難所が通学路である現状を憂えた昆布森小学校が、教育委員会釧路事務局にトンネル建設の陳情をくり返したが、なかなか実行されなかった。そうしているうちに、昭和29年の冬、同小3年の男子児童が登校中にこの場所で波に呑まれた。幸い通りかかった地元民に救出されて事なきを得たが、学友の事故にショックを受けた子供たちは、自分たちの手で安全な通学路を作りたいと考えるようになった。子ども自治体で工事の方法を取り決め、西側から工事を始めることにした。割岩のトンネルの前に、トンネル前後の道も整える必要があり、子供たちは毎日放課後に小さな腕にハンマーとツルハシを振った。土曜日と日曜日の午後も工事に当てたし、夏休みも勉強の時間を除いて日が暮れるまで通学路を切り開いた。そうして同年秋までに200mの道を整えることが出来た。いよいよ割岩のトンネル堀りに挑もうかという矢先、その年入学したばかりの1年女児がまたしても波に呑まれ、今度も部落民に助けられたが、いよいよ子供たちは危機感を募らせ、「やっぱりぼくたちの手で、ぼくたちをまもろう。」と一層奮起。そのうち、子ども自治会を指導していた教諭も工事の手助けをするようになり、さらに青年団員や部落民たちも暇を見ては奉仕するようになった。
翌年10月、切り立ったガケに、40メートルのトンネルが、ポッカリと口をあけた。子供たちの手によって、“割岩”が貫かれたのである。
こうしてトンネルが完成したことで、それまで海が荒れた日には半数近くが欠席していた学校の出席率はほぼ100%になり、トンネルは子供たちだけでなく、自転車を押した郵便配達員や、買い物かご片手のおかあさんも、気軽に昆布森に出かけられるようになった。
……というお話しだ。
この説話だと、トンネル前後の通学路の工事が子供たちの手で始まったのが昭和29(1954)年の春以降で、同年秋にトンネル工事に着手、翌昭和30(1955)年10月に全長40mのトンネルが完成したということになる。
また、トンネル工事を子供たちが行っている部分の具体的描写はなく、この時期には教諭や地元民が工事の主力になっていたようにも読めるので、それなら現実的かなという気がする。
あと地味に、各新聞記事は(トンネル内へは立ち入らなかったのか)全長を約10mとしていたが、この説話では全長40mとしており、これが実際に近いので信憑性がある。
さらに、学習雑誌である『中学一年コース1958年4月号』にも、「岩にいどんだ一年半」の章題で、同様の話が収録されているという。
るくす氏より同記事も譲り受けたが、内容は説話集のものに登場人物のセリフなどの肉付けを多くしたもので、細部に違いはあるが、昭和30年10月という完成時期やトンネルの長さ、登場人物名などは一致していた。説話集になかった内容としては、完成したトンネルの利用者数に言及した部分で、毎日50人ほどの子供たちが通学で通るほか、地元住民など約400人が利用しているとあった。
そして、最後の今後の見通しとして、次のようなことも書かれていた。
この通学トンネルの開通に刺激された村では、近く昆布森の山腹から、西部落へまっすぐにつながる、200メートルほどのトンネル工事を始めるといっている。西部落の人たちが、沖に出てとるコンブを、いそ舟で昆布村へ運んでいた、いままでの不便を解決し、りっぱな産業道路にしようというプランである。
果たしてこのトンネルに近いものは、記事から半世紀近く後の平成17(2005)年に完成し、【昆布森トンネル】となっているようだ。(記事の時代には建設に至らなかったのだろう)
昭和33(1958)年の元旦の新聞記事が、この話の解禁を報せでもしたかのように、同年内に様々な媒体で発信された「小学生が通学路に掘ったトンネル」の美談。
だが、その美談的要素を否定しかねない、より古くに編まれた記事もるくす氏は見つけて教えてくれた。
『週刊読売1956年9月9日号』に掲載された、「ニューズを追って 昆布森村の通学トンネル」という記事だ。これまでよりさらに2年早い昭和31(1956)年の記事である。
(前略)子供たちが波にさらわれかけたこともしばしばあった。一番よい方法は山すそにトンネルを掘って、近道を安全に通れるようにすることだ。
「よーし、おれたちの力でやろう!」衆議もなにもない。みんながやる気になっていた。
ことしの5月上旬、村人たちのトンネル工事がはじめられた。
岩石をけずり、人が通り抜けられるほどの穴をあけるのは容易なことではない。みんなしろうとばかりの集りだ。なれないながらも、トンチン、カンチンと小穴を掘り、ハッパをかけ、子供たちの声援に励まされて掘り進んだ。そして3ヵ月、8月はじめに、ついに貫通した。
幅一間、おとながやっと立って歩けるほどの、名ばかりのトンネルだが、その数十メートルのトンネルは、安全に子供たちを送り迎えてくれる。もう波にさらわれる心配はない。親たちも安心して働いていられる。
この記事では、トンネル工事を計画し、実行したのは、地元の大人たちである。
また、工事期間も異なっており、着工は(取材が掲載と同年であれば)昭和31年5月上旬で、完成は同年8月はじめである。わずか3ヶ月で掘り抜かれたことになっている。あるいは取材年が昭和30年だったら、同年8月はじめの完成となるだろうが、ちょっとここははっきりしない。
道徳教材とニュースは目的が異なっている。前者の内容には、フィクションが含まれているのが普通だろう。
現在見つかっている中で最も古い、昭和31(1956)年の『週刊読売』の記事にあるトンネル建設の経緯が、真実により近いと思う。
通学路の安全を目的に据えて、地元の人々が手を取り合って建設した小さなトンネルというローカルな美談が、世の規範たる道徳を知らしめる教材として何者かの注目に挙がり、そこでいくらかの脚色を受けて、より広く人口に膾炙されんとした時期があった。
だが、脚色の部分は当然地元の記憶に残ることはなく、それゆえ、現地取材による90年代以降の新聞記事や、私が聞き取りをした古老の口から語られることはなかったのだ。
そのように理解している。
等身大の人間が作り上げた隧道が、荒波に口をあけている。
土木を愛する者にとって、その眺めだけで、先人への敬愛という道徳に満たされる思いがする。