廃線レポート 奥羽本線旧線 赤岩地区 その2

2005.1.7



 禁断の領域へ 
2004.11.20 8:33


 いよいよ、今回から奥羽本線の古い廃線跡を紹介していくこととなる。
「序」で述べた通り、これら遺構群はこれまでも多くの媒体で紹介されており、すでにその全容を把握されている方も、読者にはいらっしゃることだろう。
退屈かも知れないが、もう少し“既出情報”にご辛抱願いたい。
山行がならではの探索も、じきに現れるので…。

予備知識のない方、右の図をご覧頂きたい。
前回の地図から大幅に追加された内容が、一連の廃線跡である。
図中を東西に横切る河川が松川で、その両岸にはびっしりと崖の記号が詰められている。
現在線の2本のトンネルが断崖地帯を一挙に貫いているのに対し、松川左岸にへばり付きながら、隧道を連続させているのが、初代の路線跡ということになる。
隧道には、正式な番号がふられており、それぞれ西から7号隧道。6号、5号、4号隧道である。

この旧線は、明治32年開業当時の路線である。
そして、旧化廃止は明治44年。

その活躍期間は、驚くべきことに僅か12年足らずである。
この異常と言える短期廃棄には、どのような経緯があったのか。
すべては、人を阻む断崖の奥の、出来事である。


 上の「図2」に現在地も示した。

今は、赤岩駅構内から現在線に沿って、東へ向かっている。
目的は、7号隧道の西側坑口である。
無論、その先に続く一連の旧線遺構も、やはり赤岩駅付近から東へと向かう以外に、辿り着く術はない。
下流側からのアプローチは試していないが、適当な道はなくおそらく容易ではあるまい。

この、7号隧道は曰わく付きの隧道である。
その“曰わく”は後述するが、その西側坑口も、特殊な立地である。
それ故に、いままでその接近レポートを見たことがない。
接近が物理的に難しいというわけではないのだが、そこには、書籍など一般媒体では公開が憚られる行為をせざるを得ない事情がある。
その特殊な立地というのが、現在線の線路敷きに直接、7号隧道の坑口が面しているのである。
その坑口の前に立つということは、すなわち、現在線路上にあると言うことである。

そして、こういうダーティな探索をするために我々がここへ来たことは、紛れもない事実である(笑)
その坑口というのは、赤岩駅方向を見下ろした右写真の、現在線レールが曲がっている場所の、カーブ外側にある。

行ってみる。



 線路脇を歩くことは大変危険です。
くれぐれも、真似をしないで下さい!!


線路へ降りなければ、目的の坑口には対面できないのだが、あと一歩というところで、写真の柵と法面が邪魔をする。
さらに、この柵の山側は、非常に濃いブッシュ(しかも野ばら分多し)で、移動困難。
仕方なく、柵の線路側のギリギリスペースを、降り場所を求め右往左往する我々。

そんなことをしている我々を尻目に、鉄道はおおよそ15分に一回くらい、往来していく。
運転士には、きっと見えているんだろうな、この馬鹿者どもが。
警笛を鳴らすのは良いけど、通報しないでくれよな、たのむから。


 柵に沿って赤岩駅側へいくらか進むと、途中でコンクリの壁が、古びた石垣に切り替わる地点がある。
この隙間が、まさに我々の突破すべき間隙となった。
これ以上時間を浪費できないので、野ばらのツタが茂る凹みを、一人づつ下る。
私は軍手を装備しない主義だが、ここだけはくじ氏から軍手を借りた。
さらに、最初に降りた私が、次に降りようとするくじ氏に軍手を投げ上げた時、私のノーコンぶりが発揮され、上端から1mほどの場所の野ばらに引っかかってしまう。
くじ氏は、不自然な姿勢でその軍手を回収した上で、下ってきた。
すまない、くじ氏。


ところで、この古風な石垣。
現在線の構造物にしては、些か年季が入りすぎている。
それもそのはず、これは、明治時代の建造物である。




 線路上より、福島方を見る。

向かって左側が上り線、右が下り線である。
ちょうど、この地点で複線の線路が二手に分かれ、それぞれ別々の松川橋梁、そして松川隧道へと繋がっている。

これを撮った直後にも、上りの山形新幹線が通過していった。


 そして、上の写真と同じ地点から、米沢方(赤岩駅)を見る。

そしてここで、煉瓦造りの見慣れない構造物が間近に見られる。

これこそが、従来は車窓から一瞬しか眺められなかった7号隧道西側坑門部分と、その付随部分である。

期待に胸を躍らせながらも、ちょっとおどおどしながら線路脇の草むらを、進む。



 法面が石造りから煉瓦に切り替わると、坑口はすぐだ。

もともとは、このカーブに入らず、まっすぐ隧道に突入していた様子が、良く想像できる。
煉瓦部分は、明治32年竣工の初代線のものと考えるのが自然だ。
規則正しい凹凸のある煉瓦の構造物は、大部分がツタに覆われてしまっているが、崩壊はない。
野外にあるものとしては、その保存状態は良い方だろう。


 これが、煉瓦部分から続く、坑口。

そう、事前情報(車窓から見たという情報)の通り、坑口はコンクリの不細工な壁で、埋め戻されている。

残念な結果ではあるが、この7号隧道に起きた災害、ひいては僅か12年という短期間で代替えとなったその原因でもある、を考えれば、やむを得ないだろう。
埋め戻しは、十分想定された状況と言える。

だが、これを間近から見ることに意義があると考えたのである。

それにしても、じっくり見ると、不自然な構造である。
ただ坑口を塞いだのではなく、破壊が伴っている。



 7号隧道 西坑口
2004.11.20 8:50


 これが、明治32年竣工、第7号隧道(第一赤岩隧道)の、西側坑門である。
当時の記録によれば、全長535m。
反対の東側坑門は現在線とは途絶した松川峡谷左岸に口を開けている。

この隧道については、天災によって破棄された経緯がある。
明治43年8月6日、台風に伴う集中豪雨が引き金となり、この隧道が貫いている松川左岸にて、幅200mにも及ぶ極めて大規模な土砂崩れが発生した。
崩落面地下にあった隧道は、全長のうち半分ほども変状する事態となり、列車は不通。
隧道に支保工を設置し復旧回復に努めたものの、変状は進行し続け、幅18cmもの亀裂が生ずるに至る。
そして、隧道の放棄が決定されると共に、新線の建設が急遽決定される。

その後、突貫工事で建設された2代目線は、概ね現在線に近く、松川右岸に線路を置いた。
その開通は明治44年9月。
この路線変更により、初代線にあった隧道のうち、この7号のほか、6号と5号も廃棄されて、現在に至る。



 そして、これは今回初めて知ったことであり、既出ではない情報だと思われる。

さきほどの埋め戻された坑口から赤岩側に30mほどの地点、現在線の石垣法面に埋設された、煉瓦アーチの痕跡。

きっ、キター!!

これぞまさしく、元来の7号隧道坑口に間違いなかろう。
よもや、このような痕跡を留めているとは…。感激である。
存在を知っていれば、車窓から見ることも出来るだろうが、法面と一体化しており分かり難い。

これで、ここまでの一連の発見が一つに繋がったことになる。


 すなわち、我々が線路に降り立った場所から、ツタに覆われた煉瓦部分までの石垣法面。
そして、この煉瓦アーチを内包する石垣部分。
これら二つの石垣は、明治44年の2代目線の構造物なのである。

一方、ツタに覆われた煉瓦部分と、この埋められた煉瓦アーチが、初代線の遺構。
ちょうどこの7号隧道が、山体に対して斜めに入っていく坑口部だったために、長い煉瓦の露出部分を持ち得たのだろう。
上の写真を見ると分かるが、その煉瓦の露出部分は、このアーチから、奥に写る信号機の傍まで、おおよそ40m位はあったと思われる。

現存すれば、さぞ目立つ遺構だったことだろう。

この、7号隧道西側坑門の処理状態の解明は、今回の赤岩探索における、『山行がの収穫 その1』である。




 続 7号隧道 西坑口
2004.11.20 8:51

 だが、まだ終わらない。
この坑口には、もうひとつ、我々の興味をそそる発見があった。

写真は、先に見つけた坑口処理部分のアップである。
煉瓦の露出部分が、現在線(ここにおいては、イコール2代目線である)によって切り取られ、言わば横っ腹に空いた穴を、コンクリ、丸石、モルタルの複合で埋め戻した処理。

かなり、雑である。

そして、雑であるが故か、或いは故意か。

が空いている(笑)。

…。 穴があれば、覗きたい。


 ぎゃはははは!

なんじゃ、この奇妙な絵は。

なんか、変な生き物がいるよ(笑)




 どれどれ… 私も…。


おわおわー!
なんか、奥行きあるぞ…。

って、これ内部だろ!
隧道内部!!



 やばい。
もう心臓バクバク。
カビくさい土臭い空気は、淀んでおり、永く流動していない感じ。

先ほどのくじ氏の姿を見てもらえば分かるだろうが、穴から内部の写真を撮るのも容易ではない。
足で壁にかじりつき、片手で体重を支え、もう片手でカメラを構え、奥へ差し伸べる。
開口部分は、頭が入るかどうかギリギリなほど狭く、撮影中自身の体が外部の光をほぼ完全にシャットアウトしてしまう。
カメラを構えると、ライトは構えられず、その逆も又然り。

うーーん、不自由だ。
もうちょっと、もうちょっと伸びれれば奥が見えそうなのにー!!




 これが限界!

限界まで頭を突っ込み、手を伸ばし、背筋が千切れそうになりながら、撮影。

こうして捉えられた、本邦初公開。

第7号隧道、西側坑口内部の様子。

知っている方もおいでと思うが、本隧道は中央付近にて閉塞していることが、東側坑口からの複数の内部調査報告により明らかにされており、この西側坑口内部は、永遠に辿り着けぬ場所と、思われていた。

だがいま、カメラだけとは言え、遂に進入!!!
そして、撮影。

  
 しかし、奥が気になりすぎる…。

この壁…壊せねーかな…。





無理を承知で、侵入を図るヨッキれん氏の姿。

皆、まさかそれは無理だと、背後で笑っている声が聞こえる。
だが、頭が入ったのだから、体も入るはずだと、私は足掻いた。
1分、2分、足掻きが長くなるにつれ、仲間達の笑いの質が変わった。

嘲笑ではない!

私の足を、支えてくれる細田氏。
背後から声援を送る、くじ氏。

3人が一つとなった(大げさ)

そして、私は、なんと、
本当に内部へと侵入してしまったのである!

人間、やれば出来るのだ。
頭が入れば、胴体も入るのである。

正味もがいた時間、8分。
私の空を掻いた足が穴の上部の岩塊を蹴り落とし、足を支えてくれていた細田氏を、危うく直撃し掛けたのは、スマなかった。




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 始めに装備していたジャンパーやカメラポシェットなどは、閊えたり引っかかったりして邪魔だったので、下着一枚で侵入した。
お陰で、体中擦りむいてしまった。

それにしても、なんという、やり遂げた満足顔!

また一つ、新しい穴を制した達成感である。

自己最狭記録更新!!!




 7号隧道 西坑口 内部
2004.11.20 9:02

 以下は、本邦初公開。
西側坑口内部から撮影した、7号隧道である。

まずは、私が侵入した穴。

この小さな穴一つ以外は、一切明が漏れている場所はなかった。

右に写っているコンクリの壁は、隧道を塞いでいるコンクリの裏面である。
正面の丸石をモルタルで固めただけの場所に、おそらく故意ではないだろうが、穴が空いていたのである。

 そして、肝心の奥なのだが、最初に外から覗いた時の印象通り、すぐに閉塞していた。

しかも、天井が派手に抜けており、間違いなく天然の崩落である。
すでに竣工から105年を経過しており、自然に崩壊してしまってもおかしくはないが、やはりこの崩壊も隧道の死因である変状に起因するものかも知れない。
もっとも、元来の変状箇所は、もっと奥だとされているし、その前後の区間には支保工が設置されていたとされるものの、それらはここには見られない。

いずれにしても、内壁の状況は崩壊を除いて見ても、白化が目立つ良くない状況である。
それに、非常にカビくさい。
もうひとつ、当時は蒸気機関車が往来していたわけだが、たった11年間しか利用されなかったためか、あまり煤で汚れていると言うことがない。



 振り返る坑門方向。

さすがに幹線の鉄道だけあり、現在見ることが出来る一般的な鉄道の隧道と比べても、特に狭いと言うことはない。
電化改修はおろか、竣工以降改築されたこともないであろうから、おそらく明治32年のそのままの姿だ。
当時はまだ、隧道の断面の型式についても、現在のような統一的規格がなかった頃でもある。

恐ろしいほど永い時間を滞ってきた空気に、今触れている。

誰の目にも留まらなかった空洞。




 しかし、入ってすぐの崩落地点は、崩落の右側に僅かな隙間があり、さらに奥が望めた!!

だが、さすがにここまでは気が進まない。

入ってくるのが大変だったのと同様、出るのも容易ではないだろうし、仲間達が待っている場所も、心配だ。
電車が往来する線路の脇なのだから、色々な意味で長居はしたくないだろう。

進むかどうか悩んだが、まだ侵入して1分くらいしか経っていなかったので、もうすこしだけ。





 天井に背中を触れるほどの狭さ。

生きた心地がしない。

2メートルほど進むと、先が見通せた。



 これが、私の最奥風景。


やや広くなっていたが、そのさらに20mほど奥には、天井まで累々と瓦礫が重なっていた。

この瓦礫は、天井が崩れていない部分にも積もっており、この大量の煉瓦混じりの瓦礫がどこで生じたものか分からない。
まさか、地圧の作用で、奥にあると思われる崩落地点からこれほど押し出されて来るという現象は、よほど水気が多くもない限り、ありえないだろうから。
それとも、これも又想像でしかないが、隧道圧壊によってさらに地上部の地滑りが進むことを懸念し、廃止時点内部空洞を埋めるために運び込まれたという、線もありそうだ。

なお、こんな場所でも先客が居た。
それは、無数のコウモリだ。
赤岩地区では、この場所以外では不思議とコウモリを目撃しなかった。
天井を埋め尽くすほどに、大量にいた。
刺激したくなかったので、これ以上進むことはしなかった。
が、見ての通り、奥は完全埋没である。




 赤岩地区における、『山行がの収穫 その2』は、
この7号隧道西側坑口内部の映像確保である。







 この後、私は速やかに外へ脱すると、線路上から身を引いた。
 そして我々の探索は、次なるステージへ移る。

 赤岩探索は、まだ、はじまったばかりである。









その3へ

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